(つづき)
その1と前後しますが、東海道新幹線豊橋駅からJR飯田線に乗り、4駅目が長岡武士のふるさとの牛久保駅です。
牛久保城は石垣や堀などの城跡は残っておらず、本丸跡の駅のとなりに石碑が残っているだけです。 駅から数分の所に駐車場になっている大林勘左衛門屋敷跡がありますが、ここが武田信玄の軍師として知られた山本勘助が住んでいた所です。長岡藩の家老の山本家を継いだのは山本五十六で、勘助と山本家は同門です。
今回450回忌は光輝院(古地図では光輝庵)と牧野成定公廟で行われましたが、先ずは途中にあります長谷寺(ちょうこくじ)に寄ってみましょう。 山本勘助については「山本勘助系図と長岡」を参照して下さい。
(豊川市) (つづく)/FONT>
その1と前後しますが、東海道新幹線豊橋駅からJR飯田線に乗り、4駅目が長岡武士のふるさとの牛久保駅です。
牛久保城は石垣や堀などの城跡は残っておらず、本丸跡の駅のとなりに石碑が残っているだけです。 駅から数分の所に駐車場になっている大林勘左衛門屋敷跡がありますが、ここが武田信玄の軍師として知られた山本勘助が住んでいた所です。長岡藩の家老の山本家を継いだのは山本五十六で、勘助と山本家は同門です。
今回450回忌は光輝院(古地図では光輝庵)と牧野成定公廟で行われましたが、先ずは途中にあります長谷寺(ちょうこくじ)に寄ってみましょう。 山本勘助については「山本勘助系図と長岡」を参照して下さい。
(豊川市) (つづく)/FONT>
江戸幕府を開いた徳川家康が亡くなったのは元和2年(1616)ですから、今年で400年(400回忌)になります。
各地でさまざまなイベントが開かれています。
「常在戦場」の長岡武士のふるさとの豊川市の牛久保では、牛久保城主の牧野成定(なりさだ)公は徳川家康と激しく戦っていました。永禄9年(1566)5月、家康の武将としての器を認め、今川の家臣を離れ家康の傘下に入ることになります。
その年の秋、徳川家の武将に変わったことを置き土産に、42歳で成定は亡くなりますが、それから数えて今年が450年になります。 (豊川市) (つづく)
各地でさまざまなイベントが開かれています。
「常在戦場」の長岡武士のふるさとの豊川市の牛久保では、牛久保城主の牧野成定(なりさだ)公は徳川家康と激しく戦っていました。永禄9年(1566)5月、家康の武将としての器を認め、今川の家臣を離れ家康の傘下に入ることになります。
その年の秋、徳川家の武将に変わったことを置き土産に、42歳で成定は亡くなりますが、それから数えて今年が450年になります。 (豊川市) (つづく)