【いけばななど】
前日に続いていけばなであるが、ホウズキ(酸漿)もなかなか面白い。これなら萎れることもないので、かなり長持ちもする。シンピジュームは光線のとの関係で、これも面白い。
その次の3枚は、佐野SAで名物のラーメンを食べた時に、テーブルにおいてあったものであるが、各テーブルに生きた花を飾ってある所は珍しいのではないか。売れ筋一番の佐野ラーメンも美味であった。
明日から北の方向へ出かけ、週明けまでお休みとなります。
【いけばななど】
どのオリンピックも同じであるが、最初のメダル獲得までは重苦しい時間が続く。本日のスピードスケート500m男子で、銀と銅メダルとなり、やっと重圧からも開放されることであろう。開会式の聖火台の柱がでなかったことに続き、本日も整氷車のトラブルで、競技は大幅に遅れ、やっとテレビ中継から開放された。
さて、お宝を追った旅では、冬場ということもあるが、ブログに取り上げるような花や樹木には気付かなかった。思い出すのは二荒山神社のイチイ(一位)、ヒメコマツ(姫小松)、中禅寺のカツラ(桂)、いろは坂のクマザサ(隈笹)くらいである。
でも、泊まった中禅寺湖畔のホテルには、花のない季節を彩るように、たくさんのいけばなが飾ってあった。今回はその中から数点を載せることにする。ホテルの入口にあったものは、以前に菱形をバックにしたいけばなで、すでに載せたものである。
リンクを張っていたら、ヒメコマツというのは、ゴヨウマツ(五葉松)の別名であることがわかった。
【東照宮その他2】
今回は陽明門から出て、表門との間にある建物に焦点を当てる。
最初の画像は経蔵で、極彩色の彫刻で飾られた建物で、内部に八角形の回転式大書架があり、約6千巻の経が納められている。きらびやかな東照宮の中でも一際目を引く建物で、輪蔵とも呼ばれている。
次が鳴竜のある本地堂であるが、昭和35年の火災で国宝が焼失し、いまの建物は再建したものである。八王子千人同心は日光火の番とも呼ばれ、江戸年間を日光を火から守り通した。また戊辰の戦争では千人同心頭の石坂弥次右衛門は、戦禍による焼失を恐れ、戦わずに新政府軍に東照宮を引き渡した。八王子に帰った石坂は一人責任を負って自刃した。
陽明門を挟むように一風変わった建物が有るが、向って左が鼓楼、右が鐘楼で、中には鼓と鐘が納められている。
三猿に別れを告げ、東照宮の表門を出た。
【東照宮その他】
日光の中心の東照宮も主要な建物は載せたが、今回と次回で残された建物を中心に説明することにし、今回は陽明門の内側にある建物である。
ここには本殿、奥宮、祈祷殿、神楽殿、神輿殿とそれらを結ぶ唐門、坂下門、廻廊などがある。坂下門の手前にある眠り猫と奥宮は、すでに述べている。
唐門から本殿の回りは平成の大修理中で、彫刻などが一部見ることができない。また本殿の周辺は、建物を含め内部は撮影禁止となっている。
その他としたが、国宝や重要文化財がほとんどである。
【奥宮御宝塔】
眠り猫をくぐると左右は国宝の回廊であるが、真っ直ぐ前に奥宮の入口となる坂下門がある。小さな門だが欄間には見事な鶴の彫刻があり、奥社に通じる坂下門は、江戸時代は将軍しか入れなかったので、「開かずの門」とも呼ばれ、これより先は東照宮で最も聖域とされる部分である。
入口の階段から積み重ねてある石は全て一枚石で、階段を登ると石畳、さらに左折してまた長い石畳が続く。石畳が途切れると、その先からは長い階段がいくつか続き、やっと先方に鳥居が見えてきた。鳥居の「東照大権現」の御神号の勅額は、後水尾天皇の宸筆である。
「人の人生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」 東照宮遺訓
【眠り猫】
日光東照宮で見たいものの上位は、国宝陽明門が一番で、次は国宝眠り猫ではないだろうか。東回廊の奥社の参道入口にあり、左甚五郎の名作と伝わるもので、東照宮の数ある彫刻のなかで最も有名である。
眠っているように見えるが、耳をそばだて周りを警戒し、ネズミ一匹とて奥に通さない体勢である。でも彫刻の裏に回ると、2羽の雀が猫の近くで遊んでいる。弱い雀も安心して暮らせる世を象徴しているとも言われが、左甚五郎の意図は、「争いの無い平和な世界」を彫ったものであろうか。
話は少し横道にそれるが、今月20日から長岡市で第3回「越後長岡ひなものがたり」が開催される。今年の目玉は、信州小諸藩牧野家が所有する、「喜内様阿福様」の木像が展示されることである。眠り猫と同じ左甚五郎作で、喜内(きだい)様は将軍家光で、阿福(おふく)様は春日局である。門外不出の人形であるが、本家長岡牧野家のたっての要請により実現した。前回に続いての明智一族の登場であるが、春日局は明智光秀の重臣斉藤利三の子供で、なぜ家康が家光の乳母に採用し、三代将軍家光の実現では、家康が駿府で、たかが乳母でしかない春日局の意見を採用したのか謎である。
【陽明門】
日本の誇る世界遺産だけあって、ほとんどの建物が国宝か重要文化財である。その中でも国宝の陽明門には圧倒される。陽明門を飾る彫刻の数は508体で、いずれも当時の技術の最高傑作がつぎ込まれている。その中に子供の彫刻が、二階欄干の重要な部分に9体並んでいる。
画像の5段目に、観光客が陽明門を見上げる画像があるが、上部に6体の彫刻が見える。子供たちが遊べる「平和」を表わし、その中でも中央は、水瓶に落ちた友達を救うのに、大切な瓶を割って助け、生命の大切さを教える彫刻である。この画像に写ってないが、書物を読む彫刻は右隅にあり、勉学よりも命がいかに大切かを教えている。
「完成した瞬間から崩壊が始まる」という故事から、わざと未完成の部分として柱の紋を1本だけ逆にし、未完成の部分を残している。
ところで、陽明門の両側に武人がいるが、一般には随身像と呼ぶようである。袴のあたりを見ると、菱形と葵と違う紋に気付くが、これは明智一族の桔梗紋である。しかもおそれ多くも、家康の干支の寅を腰掛けている。今の東照宮を建立した家光の乳母の春日局は、明智一族であるし、日光造営に深く係わる謎の多い南光坊天海も明智一族と伝わる。いろは坂を登る途中に天海が名付けた明智平もあり、こちらも埋蔵金と同じように謎が多い。
(鳥居の先に陽明門が見える) (立派なコウヤマキも一瞥だけ)
【三猿】
表門にあたる仁王門を入りすぐ左てにあるのが、日光東照宮の唯一の素木造で、重要文化財に指定されている神厩である。慶長5年の関が原の陣に、家康が乗った馬の奉納に始まる。
欄間の前面に5つ、右面に3つの神猿彫刻は、猿が馬の健康を守るという信仰にもとずいたもので、なかでも「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は有名である。猿をつかってはいるが、左から人の人生の教えを表わしている。
この時は神厩の画像に余り人が写ってないが、有名な三猿には多くの人が集まっていた。
いよいよ東照宮の境内に入ったので、最後の画像で位置を確認願いたい。
【日光東照宮】
二日間、思わぬ雪で、道草を食っていましたが、ふたたび埋蔵金探しの旅を続けます。
発表者によって若干異なるが、猿橋(大月)や錦帯橋(岩国)とともに、日本三名橋にも数えられる神橋の所から、日光東照宮、輪王寺、二荒山神社の表参道に入る。
日光山内の社寺は「二社一寺」であるが、東照宮は徳川家康を「東照大権現」として祀る神社で、歴史は江戸時代からと浅いが、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので長い歴史を持つ。
参道を進むと最初に現れるのが輪王寺で、明治4年の火災で唯一焼け残ったという立派な黒門が目に入る。輪王寺の中心は三仏堂と呼ばれる大本堂で、その大きさが一際目を引く。
家康は遺言で一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てよと命じたが、3代将軍の家光が、現在のような荘厳な社を建立した。
輪王寺を過ぎると葵の紋が入った巨大な石碑に東照宮とある。鳥居をくぐれば神j社の敷地のなかで、左手に見事な五重塔があり、この先を右折すると仁王門(表門)で、ここで入場券を買い求める。次回はいよいよ門の中で、最初は有名な三猿である。
【華厳の滝】
華厳の滝は中禅寺湖から車なら、わずかな距離にある。滝の見学はエレベーターで100mほど岩盤の中を下がり、そこから50mほど歩くと展望台になっている。滝の中間くらいの高さで、鉄骨で展望台が造られている。
冬季間は水量が少ないので、迫力のある滝には遠いが、氷のツララが垂れ下がり、冬の表現は綺麗な滝であろうか。滝の高さは150mで、水量が少ないので直接滝壷に落下せず、滝が二段になっている。
滝に目が奪われていると気付かないかもしれないが、展望台の右手の柱状節理(ちゅうじょうせつり)の見学を忘れないようにしたい。溶岩がゆっくりと冷却すると、その体積が減少して割れ目ができる。ここの柱状節理は天然記念物である。
次回はいよいよ東照宮に向う。