脳機能からみた認知症

エイジングライフ研究所が蓄積してきた、脳機能という物差しからアルツハイマー型認知症を理解し、予防する!

「ボケって悪くなったりよくなったりするのね」と友が~部分的に正解!

2016年10月29日 | 認知症からの回復

友人が「ボケって治るのね」と話し始めました。
小ボケの症状2で紹介した方の後日談でした。3年前にお茶飲み友達や幼なじみが次々にいなくなり、体調も壊し何もしない日々が続いた結果、脳機能の老化が加速してしまって、小ボケになった90歳のおばあちゃんのその後です。あの時から3年たってます。
浜松市楽器博物館のディスプレイ(実務研修会会場です)

小ボケから3年たつとそろそろ中ボケも終わるころ、大ボケが見え始めるころになることが多いのですが、離れでの人暮らしを 継続されていたとのこと。
ということはまだ十分に中ボケのレベルを保っていたということです。
緩やかな進行の時は、「脳を使う生活がそれなりにある」ということを意味します。体調の回復に従って農作業は続けていらっしゃたことと、週1回のディサービスが始まったことが、脳を使う時間だったということでしょう。デイサービスはスタッフが上手にほめてくれたりして、楽しい時間だったそうです。

目覚ましい改善は難しくても、悪くならない状態は保てていたようです。低空飛行なりに安定していたのに、この夏事件が勃発。
「どうも調子が悪いから、病院に連れて行ってほしい」といわれて娘さんが離れに行きました。
「えっ、そんな恰好で病院に行くの?」と絶句。パジャマのまま!慌てて着替えさせて病院に行ってからまたひと悶着 。いつも入っているはずの保険証がない!、出かけるときに、いつも病院に行くときのバッグを持っていたので保険証の確認もしなかったそうです。ほんとにいつもそのバッグのそのポケットに入っていたのに。
保険証を探すために、離れに行った娘さんは愕然としたそうです。きちんとしたおばあさんだったのですが、部屋も雑然としていつものおばあさんらしくはなかったのですが、「体調が悪かったからかな」と思ったそうです。それよりも引き出しを開けて、そのあまりのぐちゃぐちゃさに声が出るほどだったとか。

診断は「熱も咳もないけど、軽い肺炎でしょう」ということでそのまま入院。
小ボケが終わるころから中ボケに入るくらいの状態で 、入院しても何かとトラブルを起こします。
検査のために飲食不可が守れなかったり、薬がきちんと飲めなかったり、訴えがしつこくて看護スタッフが困ったり。 
ちなみにはっきり中ボケだと、点滴を引き抜いたり、夜中に廊下を歩き回ったりします。となりの人の枕頭台のお菓子などを食べてしまうこともあります。
このおばあちゃんはそんな大きな問題は起こさなかったのですが、「早く退院したい。こんなとこにいたらボケちゃう」 とい言い続け、もちろん経過もよかったのでしょうが5日間でめでたく退院できました。
 
さて、退院した当日。「離れに一人で寝せるわけにはいかない」と 母屋で隣のお部屋に寝かせたそうです。
私はこのようなお話を聞くと「脳の機能が落ちているときには、家族はそのことがわかるのだなあ」と感動するのです。
入院の直前までは一人暮らしができていたわけです。多少気になることはあったでしょうけれど。
入院時のトラブルで、「えっボケが進んでしまったの!?」とびっくりしたことでしょう。でも病院では大きなトラブルは起こさなかったし、とにかく退院許可が下りてめでたく退院。それならば元のように離れに連れて行ってもいいようなものですが、何か気になるのでしょうね。

「脳がうまく働いていない」というとらえ方ではなくて、脳の働きの結果である「生活のやり方」に不安を覚えるのですね。
「夜中、ちゃんと寝てくれるかしら?」「お布団をかけすぎて、熱中症にならないかしら?」「トイレは?」などなど。
体が不自由になっていても脳機能が万全だったら、その人の判断や言われることを聞いてあげるだけで生活を支えることは簡単です。
その逆に、脳が万全に働いてない状態で体が動かせるときは、目が離せなくて家族の介護負担は大きなものになりますね。生活を組み立てていくベースは脳機能です。

明け方に廊下でコツコツと杖の音が。娘さんが慌てて出ていくと「ここじゃあ、寝られない。離れに連れて行ってほしい」と言い張るのです。
「朝になったら、連れて行くから今はここで我慢して」といくら言っても言うことを聞きません。ここがちょっと変ですよね?時間が時間ですから。
そんなことがあって、また前のように離れで一人暮らしが再開されました。
私の友人がびっくりしたように言うのです。
「入院した時のことを考えると、今までよりはるかに悪くなってるわけでしょ。急にそうなったのよね。それが退院して一人暮らしになったら『ボケちゃあいけない。ひとりでなんでもやらなきゃあいけない』と根性丸出しで頑張ってくれたらしいけど、そうしたらよくなったんですって。ボケって悪くなったり、よくなったりするのね」

一部正解。
認知症は一朝一夕に完成するものではありません。
生きがいも趣味も交遊もなく、もちろん運動もしないというナイナイ尽くしの生活に入ってから「小ボケは3年、中ボケ4~5年、6年たったら大ボケになる」とエイジングライフ研究所は言います。
脳を使う状況があれば、脳機能は持ちますからこの期間は長くなります。ナイナイ尽くしの上にさらなる悪条件、例えば心配事が起きるとか家族状況の変化とか聴力低下とか足腰の痛みなどが加味されたら、老化のスピードは緩やかに速くなります。
今回のように急激な体調不良のために、体力と同時に脳の力も急に極端に低下した時には、体力の回復と同時に従前の生活に戻しさえすれば脳の力も入院前レベルまでは割合簡単に戻るものです。
よくあるのが、病後だからといって安静にさせ過ぎてしまうことです。特に高齢の場合はその傾向が強くて、前と同じ生活に戻らないことが多いのです。
特に入院が長期にわたると、本人も家族も退院しても何もしない生活が当たり前のように思うことが多いようですね。
体の安静はそのまま脳の安静も意味しますから、「入院したらボケが進んだ。退院しても元に戻らない。病気したのだから仕方がない」というとらえ方が横行しています。
 
私「『ボケがよくなった』っていうけど、ほんとによくなってもともとのおばあちゃんになったわけじゃないでしょ?たかだか入院前までよくなったってことでしょう。小ボケの時に生活改善がきちんとできていたら、その人がその人らしく生活していたもともとのレベルまで よくなるのよ。
でもまだ世の中は、こんなに簡単なメカニズムで認知症になったり、治ったり、悪くなったりするって思ってないものね。
薬を開発してアミロイドやタウをどうにかしようとしているんですものね。そうじゃなくて、生活のあり方(脳の使い方)そのものが認知症の原因にもなり、改善法でもあることを知っておいてほしいの」 

 


私の中では芸術の秋たけなわ

2016年10月26日 | 私の右脳ライフ

今年の秋は暑い日と寒い日があって、体がびっくりしてますね。
でも、秋ですから芸術に触れることにしました。
大学時代の友人と一緒にダリ展へ。ウーン、予想通りちょっと疲れました。

六本木の国立新美術館が会場。

六本木ミッドタウンの庭園でも作品展が。


FB友だちの切り紙作家三枝文子さんの作品が、伊東市の旅館ロビーに展示されているということでしたから行ってきました。
丘の上のおしゃれな青山やまと。

二階ロビーが会場でした。
 
三枝さんといえば蝶。巨大な蝶のオブジェが天井からディスプレイされていました。

これは蝶のモビール
 
絵走馬灯の展示も幻想的でしたが、うまく撮れなくて残念です。
私の家の近所の「城ケ崎おもしろ博物館」での個展に伺って、初めて三枝ワールドを知りましたが、情報はいったん入ってくると次々に増えていくものですね。

もうひとつ、楽しみに伺ったのが、ボタニカルアート展。
毎回、作品を見るのがほんとに楽しみです。
 
友人の作品。 繊細で正確。植物の持っている生命力ややさしさが伝わってきます。続いてはかなさまでも伝わってくるような気がしました。
 
教室を主宰されている高橋京子先生の作品。
 

展覧会ではありませんが、ダリ展の後、歌舞伎座へ行きました。
「中村芝翫、橋之助、福之助、歌之助襲名披露」は「芸術祭十月大歌舞伎」と銘打たれていました。「フムフム芸術祭ね」
襲名興行は初めてでしたから、口上を楽しみにしていました。坂田藤十郎、坂東玉三郎、尾上菊五郎、中村吉右衛門など歌舞伎界の幹部俳優たちがずらりと並んで壮観でした。
伝統的なというか形式的な挨拶もありましたが、予想よりもっと生々しいことばが飛び出してきて驚きました。
橋之助の襲名直前の浮気報道に触れられた時には、劇場内に笑いが起き、病気療養中の芝翫の兄の現状報告の時にはまた独特のムードが漂いました。
 
玉三郎の藤娘。幕があいたときの息をのむような舞台装置から始まって、玉三郎の美しさは驚異的でした。66歳という年齢を全く感じさせない美しさと所作は、30年以上前に鷺娘を見たときの驚きと同じものでした。もちろん、「女」としか見えません。「女」そのものでした。
どれほどの修行と鍛錬が続けられているのでしょうね。
「使えば持つ」「老化にあらがうためには使い続ける」このことは認知症予防の時の、脳の使い方にも通じます。 


幕田魁心さん―仏政府から勲3等叙勲で記念個展

2016年10月23日 | 右脳の働き

高校同期の書家、幕田魁心さんが、フランス政府から勲3等の叙勲を受けその記念展覧会をフランスで開きます。
そのお知らせの手紙がすてきでした。この頃活字体のお知らせばかりを読んでますから、目に新鮮。

  パリ日本文化会館(11/2~11/12)
  アトリエ ヴィスコンティ(11/15~12/10)
パリにお友達やお知り合いがいらっしゃる方はお知らせしてあげてください。
お手紙にある「和楽器に合わせて書を書く」というのは、おもしろい試みです。以前琴、笛、和太鼓、フルート、ピアノなどを流しながら「響」を、字体をみごとに変えて表現するビデオを見たことがあります。音のイメージと字体のイメージがシンクロするのです。パリの人の感性はどう反応するでしょうね?
Kaishin Gallery フェイスブックのサイトですが、ここに「響」パフォーマンスがあります。作品や、制作過程などもたくさんありますから、見られる方は是非お目通しを!

2~3日前、同じ勲章を北野武監督も受賞という新聞記事が、かなり大きく報道されていました。北野監督は勲4等でしたけど(笑)
ここ訂正します!北野武監督に授与されたのはレジオン・ドヌール勲章。幕田さんへはフランス社会功労奨励勲章でした。申し訳ありません。

書家は、誰かに師事したうえ展覧会に応募しては自分の立場を作り上げていくものだそうです。
幕田さんは大学卒業以来、孤高の立場で自分の書風を確立することに心血を注いできたと聞きました。その姿勢が実って、今回のフランス政府からの叙勲につながったのでしょうし、去年はアメリカでの展覧会も実現しました。
今年の夏には、中尊寺に作品を奉納しました。 中尊寺ともなると作品を受領するか否かは会議で検討されるそうですが、めでたく奉納できることになりその法要が行われました。

ご本尊の前の、中尊寺山田俊文管首さまと幕田さん

夏草や 兵どもが 夢の跡















春雨の 降りのこしてや 光堂







 

 

 




幕田さんは「荘厳な式で感動しました」といっていました。このみずみずしい感性が縦横無尽な作品や繊細優美な作品に昇華していくのでしょうね。
「書」は単に「字を書く」のではなく、白地に黒という素材を使って、「字=意味」をもちろん伝えますが 、それ以上に大切なことは、「濃さ、カスレを含めて、どういう造形、バランス」を表現することではないかと思います。
「字を書く」ことから左脳との関連が強いと思われがちでしょうが、作品としての「書」 は、まさに右脳の領域を羽ばたいています。
一番最初に掲載したお手紙。幕田さんにかかると、実用に徹してよいはずの手紙でさえ、どこか美的です(笑)

 


幕田魁心さん―仏政府から勲3等叙勲で記念個展

2016年10月23日 | 正常から認知症への移り変わり
高校同期の書家、幕田魁心さんが、フランス政府から勲3等の叙勲を受けその記念展覧会をフランスで開きます。
そのお知らせの手紙がすてきでした。この頃活字体のお知らせばかりを読んでますから、目に新鮮。

  パリ日本文化会館(11/2~11/12)
  アトリエ ヴィスコンティ(11/15~12/10)
パリにお友達やお知り合いがいらっしゃる方はお知らせしてあげてください。
お手紙にある「和楽器に合わせて書を書く」というのは、おもしろい試みです。以前琴、笛、和太鼓、フルート、ピアノなどを流しながら「響」を、字体をみごとに変えて表現するビデオを見たことがあります。音のイメージと字体のイメージがシンクロするのです。パリの人の感性はどう反応するでしょうね?
Kaishin Gallery フェイスブックのサイトですが、ここに「響」パフォーマンスがあります。作品や、制作過程などもたくさんありますから、見られる方は是非お目通しを!

2~3日前、同じ勲章を北野武監督も受賞という新聞記事が、かなり大きく報道されていました。北野監督は勲4等でしたけど(笑)
ここ訂正します!北野武監督に授与されたのはレジオン・ドヌール勲章。幕田さんへはフランス社会功労奨励勲章でした。申し訳ありません。

書家は、誰かに師事したうえ展覧会に応募しては自分の立場を作り上げていくものだそうです。
幕田さんは大学卒業以来、孤高の立場で自分の書風を確立することに心血を注いできたと聞きました。その姿勢が実って、今回のフランス政府からの叙勲につながったのでしょうし、去年はアメリカでの展覧会も実現しました。
今年の夏には、中尊寺に作品を奉納しました。 中尊寺ともなると作品を受領するか否かは会議で検討されるそうですが、めでたく奉納できることになりその法要が行われました。

ご本尊の前の、中尊寺山田俊文管首さまと幕田さん

夏草や 兵どもが 夢の跡

春雨の 降りのこしてや 光堂

幕田さんは「荘厳な式で感動しました」といっていました。このみずみずしい感性が縦横無尽な作品や繊細優美な作品に昇華していくのでしょうね。
「書」は単に「字を書く」のではなく、白地に黒という素材を使って、「字=意味」をもちろん伝えますが 、それ以上に大切なことは、「濃さ、カスレを含めて、どういう造形、バランス」を表現することではないかと思います。
「字を書く」ことから左脳との関連が強いと思われがちでしょうが、作品としての「書」 は、まさに右脳の領域を羽ばたいています。
一番最初に掲載したお手紙。幕田さんにかかると、実用に徹してよいはずの手紙でさえ、どこか美的です(笑)

幕田魁心さん―仏政府から勲3等叙勲で記念個展

2016年10月23日 | 正常から認知症への移り変わり
高校同期の書家、幕田魁心さんが、フランス政府から勲3等の叙勲を受けその記念展覧会をフランスで開きます。
そのお知らせの手紙がすてきでした。この頃活字体のお知らせばかりを読んでますから、目に新鮮。

  パリ日本文化会館(11/2~11/12)
  アトリエ ヴィスコンティ(11/15~12/10)
パリにお友達やお知り合いがいらっしゃる方はお知らせしてあげてください。
お手紙にある「和楽器に合わせて書を書く」というのは、おもしろい試みです。以前琴、笛、和太鼓、フルート、ピアノなどを流しながら「響」を、字体をみごとに変えて表現するビデオを見たことがあります。音のイメージと字体のイメージがシンクロするのです。パリの人の感性はどう反応するでしょうね?
Kaishin Gallery フェイスブックのサイトですが、ここに「響」パフォーマンスがあります。作品や、制作過程などもたくさんありますから、見られる方は是非お目通しを!

2~3日前、同じ勲章を北野武監督も受賞という新聞記事が、かなり大きく報道されていました。北野監督は勲4等でしたけど(笑)
ここ訂正します!北野武監督に授与されたのはレジオン・ドヌール勲章。幕田さんへはフランス社会功労奨励勲章でした。申し訳ありません。

書家は、誰かに師事したうえ展覧会に応募しては自分の立場を作り上げていくものだそうです。
幕田さんは大学卒業以来、孤高の立場で自分の書風を確立することに心血を注いできたと聞きました。その姿勢が実って、今回のフランス政府からの叙勲につながったのでしょうし、去年はアメリカでの展覧会も実現しました。
今年の夏には、中尊寺に作品を奉納しました。 中尊寺ともなると作品を受領するか否かは会議で検討されるそうですが、めでたく奉納できることになりその法要が行われました。

ご本尊の前の、中尊寺山田俊文管首さまと幕田さん

夏草や 兵どもが 夢の跡















春雨の 降りのこしてや 光堂







 
 
 





幕田さんは「荘厳な式で感動しました」といっていました。このみずみずしい感性が縦横無尽な作品や繊細優美な作品に昇華していくのでしょうね。
「書」は単に「字を書く」のではなく、白地に黒という素材を使って、「字=意味」をもちろん伝えますが 、それ以上に大切なことは、「濃さ、カスレを含めて、どういう造形、バランス」を表現することではないかと思います。
「字を書く」ことから左脳との関連が強いと思われがちでしょうが、作品としての「書」 は、まさに右脳の領域を羽ばたいています。
一番最初に掲載したお手紙。幕田さんにかかると、実用に徹してよいはずの手紙でさえ、どこか美的です(笑)
 

右脳訓練に努めて感じた前頭葉機能

2016年10月21日 | 前頭葉の働き
最近よく遊んでいます。映画も見たし、展覧会も。実は歌舞伎にも行きました。芝翫襲名興行!
そして思うことがあります。
エイジングライフ研究所は「第二の人生をボケずに生き抜くためのキーは、運動の脳と右脳を使うこと」と主張するのですが、そのさらに基本のところにレベルの違うマスターキーがあるのです。
それは前頭葉。運動の脳や右脳を使い始めるその前、使っている最中、使い終わった時にも前頭葉は大きく関与していることに気づいている人は少ないでしょう。

「君の名は。」を見たいと思う。なぜ見たいと思うのか。そこから、他ならない前頭葉が決めています。
話題作だから、テーマに惹かれて、アニメでの表現に興味があって、音楽に惹かれて。理由は様々、それこそがその人の前頭葉が働いた結果です。
どのような理由にしろ、意欲を出して映画を観ることを決める。
そうすると続いて、その決定を実現させるための行動計画が必要になりますね。
いつ、どんな手段で。上映時刻も調べ、天気も調べ、当日の家事の段取りも考えて映画館に足を運びます。
上映中は、前頭葉の大切な三本柱「意欲」「注意集中力」「注意分配力」が重奏低音のように流れ続けてこそ、鑑賞できるのです。
見終わりました。そこでもまた前頭葉の出番です。
「感動!」「大したことはなかった」「あのシーンは印象的」などなど。自分の行動を評価するのも前頭葉。

「右脳を使って楽しい時間を増やしましょう。仲間と一緒に」とボケ予防の原則を伝えますが、実は右脳以前に、前頭葉の出番を増やすということにこそ大切な意味があることに気づいて欲しいと思います。
脳が正常な老化を超えて、老化を進めていくその先にアルツハイマー型認知症はあります。
何らかのきっかけがあって、そのことに負けてしまってその人らしい生き方ができなくなってしまう。ここが始まりです。きっかけはいろいろで、病気や怪我、退職、親しい人や物との別れ、介護やその他悩みごと。そのことをきっかけにナイナイづくしの生活、生きがいも趣味も交遊もなく運動もしないという、脳を使わない生活に入っていった時に一番に機能が低下してしまうのが前頭葉です。
前頭葉の老化を進めさせないために、前頭葉を使いましょう!
ただ、満足に使ったかどうか決めるのが前頭葉という、おもしろいところがあります。

さてさて、たくさん遊びましたが、私の前頭葉はこの日々をどう評価したでしょうか?
不思議なことに、楽しかったことは確かなのですが 、一抹の不満が!
私の前頭葉は何と「遊ぶばっかりでいいの?」ともう少し別の何かを求めているみたいです。

右脳が壊れるということー緩徐進行性右脳障害

2016年10月18日 | 右脳の働き

以下の記事は2008年頃に書いたものですが、先ほど保健師さんから質問がありました。その回答です。

昨夜(3/20)のTV番組「ある日突然・・・家族が認知症になった 若年性アルツハイマーと戦う~」を見た方はいませんか?
認知症の特集があればなるべく見るようにしているのですが、「これは普通のボケ(アルツハイマー型認知症=高齢者が何らかのきっかけでナイナイ尽くしの生活になってだんだんボケていくタイプ)とは違う」と思うことがしばしばです。特に「若年性」といわれている場合には、多くは失語症(マニュアルC91p ) だったり、側頭葉性健忘(マニュアルC110p)だったりします。

今回の方はほんとに珍しい症例でしたから、TVを見た人は「これは普通のボケじゃないけど、それでは何がおきているんだろう」と思われたはずです。

その方は、当意即妙にまた笑いも交えて、イキイキと会話ができるのです。表情もあります。何より発病が40歳代!
もし、そのうえに衣食住、自分が生活することに関しては何の問題もなく、ただ新しい記憶が入らないためのトラブルが頻発するというのなら側頭葉性健忘です。

ところが今回の方はちょっと違うのです。家事に支障が出ています。
「ご飯も炊けない」からご主人の書いたメモを頼りに、お米を研ぎ始めます。無事に研げました。炊飯器の蓋を閉めてコンセントに差し込めば終わり。
ところが、そこから四苦八苦。蓋が閉められない・・・持ち手を向こうに倒せば閉まるのに・・・
たった今まで取材陣とにこやかに話していたのです。
もう一人の方も、お茶を入れられない、急須の蓋を閉めることができない。
洋服を着るときに「そうじゃないだろ。そこは腕を通すところ」とやはりご主人から言われていました。

今の生活実態を脳機能から見ると「観念失行」や「着衣失行」や「構成失行」がおきているのです。 

ボケが進行した時点(重度の大ボケ)では、このような症状も出てきて不思議はありません。そのときは、ほとんどの脳機能がうまく働かなくなっているのですから。

脳機能に、極端な機能差が見られるということは「脳機能の全般的な低下による社会生活や家庭生活に支障が起きた状態」というボケの定義に反します。
もちろん、発症から数年経ってますので、ボケも加味されてきていると思われます。

   (受診している大学病院でのMMS実施の様子がレポートされていました。
   時の見当識は「8月?9月?10月?分からないわ」ですから生活実態は中ボケでしょ  う。
   図形の模写はもちろん全くだめ「私には描けません」)

「観念失行(左脳障害)」や「着衣失行(右脳障害)」や「構成失行(右脳障害)」は、脳に病気や怪我で障害を受けたときに後遺症として起こるものです。全く普通に生活できていたのに、病気や怪我を契機にして「突然~ができなくなる」。状態は最初が最も重く、リハビリである程度改善していくものです。
この番組で取り上げられた方は、そういう既往がなかったのです。
病気や怪我をしていないのに、脳機能低下が徐々に進行していくのは、変性疾患といわれます。
狭義のアルツハイマー病は、まさに脳機能全体が機能低下を起こすものです。

言語野に限局して機能低下が起きるものを、一昔前は痴呆なき緩徐進行性失語Slowly-Progressive Aphasia  without Demntiaとよび、1例でも学会発表が行われるほど珍しいといわれていました。(今は原発性進行性失語ともいいます)
ところが、エイジングライフ研究所が二段階方式を全国に展開したら、数人の保健師さんがこの緩徐進行性失語の方を見つけて報告してこられました!
私は、医療センターに勤務していた頃に少なくとも二桁の患者さんに出会いました。といっても、年間受診者が2000人を超える中ですから、ごく稀なことは間違いありません。
緩徐進行性失語の方を長く見ていると、「痴呆なき」といわれていましたが、最終的には脳機能の全般的な機能低下が起こり自立生活は無理だと分かりました。ただし、狭義のアルツハイマー病の進行の速さと比べたら、全く別物でした。


Photo_2

左脳に限局した変性疾患があるのなら、右脳中心の変性疾患もあるはずですよね。そう思いながらも、医療センター時代には出会うことはありませんでした。

ところが、ある町で個別指導をしたときに、このタイプの方に出会ったのです。今日紹介する方です。
「右脳が壊れるということ」が、彼女を通して理解してもらえるかと思います。

57歳の女性の方です。テスト結果は前頭葉テスト不合格、
MMS:19/30(時の見当識=3 図形の模写=0)でした。

Photo_3

30項目は1-10 11-20(13除く)23
保健推進委員を務めたり、プールが趣味だったり、きちんとした人という評判だったそうで、もちろん有能な主婦でした。
若いときから着物を縫って収入を得るという仕事を続けていたそうです。54歳で和裁の仕事を止めたのですが、縫えなくなってやめざるを得なかったということが変です。
家族の相談:
 和裁をやってるというが縫えない(54歳まで和裁で収入を得ていた)
 食事の支度ができない
 二層式洗濯機が使えない
 洗濯物の畳み方が雑。整理もできない
 掃除は指示すれば拭き掃除くらいできるが雑
 服が着られない(袖口に頭を通そうとしたりする)
 トイレの失敗はない
 身の回りのことはだいたいできる

保健師さんの家庭訪問時の観察
 部屋は乱雑(でも、それを気にかける風はない)
 縫いかけという着物は、完成した着物を解いてムチャクチャにしている
 たくさん付いている待ち針を、いちいち指示しないとはずせない
 着物を畳もうとするが、全く畳めない
 着物と着物を縫い合わせている

日常的に行われる行為がうまくできなくなる「観念失行」は左脳障害なのですが、この人の場合は物体や空間の認知にゆがみがある(右脳障害)ために、正常な行為ができなくなるのではないかと思われました。Photo
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上図のような検査から、左空間失認がよくわかりますね。
Img_2
左空間がこれだけ認知できないとしたら、きちんと縫うとか畳むとか掃除するとか二層式洗濯機を使うとか、普通に行えるはずの日常生活がすべてが大変難しい作業になってしまいます。
言葉のほうは、発話量は多くはありませんでしたが、意思疎通は十分可能で、夫・独身の長男・次男とその妻・義母という家族の説明はすべてスラスラいえました。

Photo_2

上図は「人の絵を描いてください」という教示にしたがって描いたものです。

説明を求めると
「女の子なんです。
髪の毛もかわいくしてあげて・・・
洋服には前立が付いているんです。
ボタンもあります。
靴はベルトが付いていて、飾りもあってかわいいの」

どうですか?
言葉の能力と右脳ベースの形を描く能力との大きなギャップに驚かれることと思います。

形の問題だということがよくわかりますね。
この人のもうひとつの特徴は、感情的なところが、十分に残っていたところです。
私がテスト結果を用いて説明していくと、家族の方は「なんとかわいそうに。どんなに困っただろう。まさか脳のせいとは思わずに厳しいことばかり言ってしまってほんとにすまなかった」と、涙を流してくれました。
そのとき、本人も一緒に涙を流すのです。

一般的な右脳障害の方は、このようなシーンで全く浮いてしまいますから、この点も印象に残った方でした。

Dsc00657
ところで、この人は2年前に「アルツハイマーで、知能は4歳児程度」といわれたそうです。アルツハイマ病ーなら2年もたつと、病状は非常に悪化してしまい、家族の心情に共感するというようなことは全くできなくなります。
(TVでも真のアルツハイマー病の方の紹介もありましたね。最終的に、家族もわからず言葉もなく歩行もおぼつかない状態になった方。)
脳機能から症状を理解するということがもう少し広まってくれたらいいのにと願うばかりです。

TVを見た皆さんは、このケースとあまりにも似通っていることに気づかれるでしょう。
私は、ほんとに珍しいこのようなタイプを、しかも二人も、よくも探し出したものだと、むしろそのことに驚きました。

 

 
 
 
 

萩へ同級生を訪ねて、ディープな旅その2

2016年10月17日 | 私の右脳ライフ

M子さん
萩を訪問したのは、10月10日。
東京オリンピックといっても1964年のですが、10月10日が晴れの特異日ということで開会式が決まったとききました。ほんとに毎年よく晴れます。もちろん今回の萩の旅も天気でしたよ。
最初に行ったのは、日本で一番低い火山といわれている、笠山。

標高112m。火口底までの深さは30m、歩いてすぐなのですが、我々はパス。降り口で記念撮影しておしまい(前の記事の集合写真)。
展望台に上って、みんな声をあげました!日本海!

実は、Mr.O田が送ってくださった写真がよく撮れていたので「写真を使ってもいいかしら」って尋ねたの。
K美さん「もっと顔が大きい写真がよかったなあ。幸せそうな美人顔を紹介してほしかった!」と笑いながらOK。
男子組「問題ナイナイ。問題という人がおったら、話を付けちゃる」。ちょっと物騒な承諾を戸畑弁で。
同じ場所で、記念写真。

笠山の周辺は、柱状節理や波に洗われた溶岩が複雑な海岸線を見せていて、私の住んでいる城ヶ崎海岸と似てました。萩市内や大小の島々もくっきり見えました。何しろ日本海だから、それだけで興奮してしまう気持ちはわかるでしょ?
椿の原生林もあるんです。「椿の時にも来てほしいなあ」って。
笠山は、火山だけあって興味深い地形がいろいろありました。
ここは厳島神社をお祭りしている明神池というところだけど、池なのに海水!池底の溶岩の間から海水が入り込むのかな?
大瀬崎の神池と真逆です。
7月の右脳訓練ー大瀬崎探訪 

池なのに、海の魚がたくさんいます。

ボラが石段の上まで餌を取りに来てます。Mr.O田 がちゃんとエサ用のパンを持ってきてくださってたのよ。

次は世界遺産の一つ、恵美須が鼻造船場あと。岡山からバイクで来た観光客も見学してました。
 
萩の反射炉。これは結局のところ成功しなかったんだけど、萩の人たちはそのTry and Error(の精神)を評価しているところがすごい。
去年、みんなで一緒に韮山反射炉に行ったことを思い出しました。形は韮山の方が整っているけど、この写真の右下を見て。海が見えてます!

実は同窓会の二次会で席が近くになったSさんが「萩に行ったら、笠山と毛利の菩提寺は行った方がいいよ」と教えてくれていたの。そしてO田家での事前レクチャーでそれは東光寺ということを教えていただいてた。3代~11代の奇数の藩主の墓所。鳥居の向こうに墓があるんだけど、お寺さんで鳥居?この説明はMr.O田に聞かなかったなあ?

みごとな山門

総門

秋を迎えた大雄宝殿。
 
この三つの建物は全部重要文化財!
次は、お寺続きで城下町に町中にある円政寺。高杉晋作が子どものころ肝試しをしたお寺、今年の6月ケネディ大使がお参りに訪れたお寺。明治初期の神仏混交の特徴が残っているお寺。以上が、O田家での事前レクチャーの知識です。

晋作が鍛錬した天狗のお面です。 ご住職の丁寧な説明がつきました。
 
怖かったんでしょうね。真っ暗だし・・・
男子(と、つい言ってしまうけど、変よね?H丁さんとH吉さん)は、去年8月にも萩訪問したんだって。ここの見学も済んでいるので「待ってるから」と見学はカット。
そのことが気になるのに、ご住職がつぎつぎに説明してくださいます。
「技術者として海外勤務が長かったけど、いろんな事情で思いがけずお寺を継いだ。案内放送も自分で流すようにしたし、この椅子も自作。簡単なものですよ、何しろ技術屋だから」という話がすぐに続き、萩に帰ってきた人たちで話がちょっと盛り上がりました。
木工作家の守重シゲ子さんにしても、萩に戻って生活することが予定されていたわけではなさそうですが、萩で、自分らしい活躍の場を自分で作っていらっしゃいます。
O田夫妻も同じ。好きなことを楽しみながら、萩での暮らしがどのように広がっていくのかしらね!私たちは離れて住んでいるけどワクワクしながら期待しましょう。
カギは前頭葉ですから。
自分が何をしたいか、どのように実現するか、そして満足できるかどうか。全部自分の前頭葉が決めて生きていくのだから・・・。

萩といえば松下村塾

続いて松陰神社。さわやかな秋晴れで気持ちよくお参りできました。
29歳で没。なんということでしょうね。

「日本橋七福神まいり」という記事を書いたのです。
いつだろうかと探してみたら2012年。とても印象深かったのでその時のことはよく覚えていたけど、4年以上も前だったとは!
終わりのところに松陰終焉の地、十思公園のことを書いてるので読んでみてね。 

萩の城下町見学も実現。高杉晋作誕生家の前のO田夫妻。
 
小さい規模の武家屋敷でした。 

有名な鍵曲(カマガリ)
道を直角に曲げているのは、敵の侵入を防ぐ意味でしょうけど、不思議な空間ができあがってました。江戸時代の風情そのまま。
 
崩れている魅力

これで、萩の旅報告は終わり。
でも言葉が足りません。萩の魅力もO田さんご夫妻のおもてなしも、どう表現したらいいのか困っています。
「単に観光地を訪れた」のではなく「ふるさとじゃないのに、ふるさとのように親しい、大切な場所ができた」ような気分になってるの。
右脳経由で前頭葉が感動したことは、なかなか言葉では言い表せないもの。その時みんな「行ってみましょう。やってみましょう」っていうのよね。 私も言うしかありません。
「今度一緒に行きましょう!」
明日は、なんだか暑い一日みたい。この気温の乱高下に負けないようにね。
ではさようなら。絹子 


萩へ同級生を訪ねて、ディープな旅その1

2016年10月14日 | 私の右脳ライフ

M子さん
その後お体の調子はどうですか?夏の入院の時には、手術後だというのに点滴台をゴロゴロ引っ張ってレストランで大おしゃべりできたくらいだから、実は心配してないのだけど、ご・あ・い・さ・つ(笑)
小・中・高校と同級生だったあなたとは、今回の高校同窓会総会には一緒に行けるはずだったのに・・・それだけはちょっと残念です。

もう一か所、一緒に行けるはずだったところ、萩。
O田K美さんが萩に引っ越すことが決まった時に、彼女も小・中・高校と同級生なので、三人で東京駅でお別れランチ会したじゃない?その時に、「一緒に行きたいね」って話したこと覚えてるでしょ?一足お先に行っちゃいました。今日はその報告です。

萩に入ったところにある「萩駅」
大正14年に作られた有形登録文化財の建物が魅力的でした。電車は1日に数本しか停まらない無人駅だったけど。
ここから、お城に向かって真っすぐ一本、大きな道が通ってます。(お城へは少し先で曲がります)
これが市内の萩往還のメインロード、その通り沿いが御許町。
萩往還って日本海側の萩から山口を通って山陽道防府までの街道だったの。参勤交代で殿様が、幕末長州藩の志士たちが、そしてもちろん物資が動く道として栄えたみたいよ。
その萩往還沿いには侍屋敷が広がっていたそうですが、そこを町屋敷に変更することを願い出て「許された」ということで「御許町(おもとまち)」という名を付けたんだって。
町印は万年青(おもと)がデザインされていると聞きましたが見てません。こんなひねりが利くなんて、町が元気だった証拠よね。

K美さんの家は、その御許町の通り沿いにありました。つまり萩往還に面してる!

間口は広くないのですが、奥が長い。まるで京都の町家風。どこかの宿場町みたいです。この建物は100年以上たっているそうです。郵便ポストは生きてるし、「TABACCO」の看板と緑色のタイル、2階の漆喰の窓との取り合わせが絶妙だということで観光客が写真を撮っていくんだって。
先代は手広くお商売をされていたようです。奥座敷は10畳間が田の字型になっていて、帰省した時にはK美さんの子供たちの運動場だったとか。このおうちの前に立っただけで、O田夫妻は「ここに」帰らなくてはいけないということがよくわかりましたよ。
通りから20メートルくらい奥に、K美さんたちが今暮らしている近代的な新しい家があります。
さすが萩の中心地だけあって、市役所、消防署、郵便局、文化センター、県の施設、病院、スーパーetcみんなすぐそば。徒歩圏内。大都会でも田舎でも、考えられないとっても便利なところです。さすが歴史ある城下町ということね。
道を隔てた藩校明倫館は修復中でしたが、この南門は見ることができました。

水戸藩弘道館、岡山藩閑谷学校とともに三大学府と言われた長州藩明倫館。全国にある藩校のほとんどは高校になったと聞いているけど、ここは小学校ですよ!Mr.O田の母校です。

結婚して何度も転勤があったK美さん。4月までいた東京時代は、趣味にボランティアに充実した生活を送っていたのは知ってるわよね?そうそう高校同窓会の幹事もやってくれてたし。
東京駅でのランチ会の時に、K美さんが「お友達から『この年齢になって今から萩に帰るなんて!友人やこの文化的環境が全部消えちゃう。よくも決心したものだ』と言われた」と言ってたでしょ?
その時、私が言ったでしょ。
「帰ってみたら、『そういう経験されているんでしたら萩でもどうぞよろしく』って言われるに違いない。変に遠慮せずに積極的に萩でできることを探してね」
大当たりでした!もう始まってた!萩は古い町ですが、新しい人に対してオープンです。
もちろんMr.O田が御許町で育った方だということが大きな理由かもしれないけど、K美さんはノビノビと萩での暮らしを楽しみ始めていました。
この明倫小学校で読み聞かせのボランティア。これも東京でやってたことのひとつだけど、「子供たちが素直でかわいい!」と喜んでましたよ。

それから、Mr.O田が、帰られてすぐ合唱団に入部。彼女もいっしょにね。
そうしたら、萩と姉妹都市の鎌倉から合唱団が来て合同発表会が11月20日に開催されるからと、その日の午後も猛特訓中だったのよ。特訓も見に来てと言われていった文化センターホールの入り口に「萩に生まれたことを幸福に思う」の大きな額が掛けてあったというわけなの。写真ではわからないけど2M×5M位もある大きなものでした!

萩では町のみんながガイドができる町を目指してるって。そのためのガイド試験はなんと750問もあるんだって。
Mr.O田は生粋の萩人なので、ガイドぶりが素晴らしい。伝えたいことがたくさんあることがよくよく伝わってきました。それとこの町に育った誇りも。
「お昼はふじた屋のお蕎麦。ちょっと変わってますから楽しんでください。芸能人も来るようですよ」
小一時間待ってようやく順番が。なんと暖かいざるそば。もちろんとってもおいしかったです!
猛烈な忙しさなのに、どこかおっとりとしたお店の人にも萩人の心を感じました。

芸能人の色紙のほかに、大切に飾られていたのは、岸信介首相の色紙。総理大臣だから花押がありますね!

おしゃれなお店をいくつか案内してくださったのよ。O田家のお寺の住職夫人がやっているギャラリー。童話から生まれた木のおもちゃは優しくて暖かくてかわいい。

私は、この作品を「東京おもちゃ博物館」で買い求めたことがあるという偶然だか、必然だかの出来事も判明。

守重シゲ子さん K美さんはとても親しそうでした。時間が迫る中、この出会いに感動した私たち3人の姿が見えるようでしょ。

萩の光國本店。今年の春、ここのマーマレードが絶品ということを知ったばかりです。缶詰なのよ。

シンプルなたたずまい。マーマレードの在庫は次のシーズンまで全くない!というのも何だか素敵ね。

店先に青いミカンがたくさんコンテナに。ピールを作るためかしらね。

夫から「萩で作られたお酒を買ってきて」というリクエストがあったので、そう話すと「それでは一〇(イチマル)酒造だな」と。

写真が撮れなかったのですが、この奥にレンガでできた煙突が見えました。

店主おすすめのお酒を求めたんだけど、車が出るまでお店で見送ってくださって、その姿が誠実そうでここにも萩人がいる!と思いました。
このおしゃれな店4店が全部歩けるところに、ぎゅっと詰まってるの。
都会にない良さをいろんな場所や人たちから感じさせてもらった・・・萩の旅でした。
明倫小学校の道を隔てたところにあった毛利元就三本の矢の銅像。

北九州から萩まで1時間40分くらい。H丁さんの運転でH吉さんと3人でお邪魔したんだけど、Mr.O田が萩を効率よく一巡できるようなスケジュールを作って待っていてくださってたのよ。パンフレットや地図も一式!
お茶を飲みながら少しレクチャー。
「萩の世界遺産として指定されているのは、萩の反射炉、恵美須が鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町そして松下村塾ですが、萩が指定された一番大きな理由というのがあって。そのことを考えながら見てください」と言われたの。
わかりました!
世界遺産として、萩のほか八幡製鉄など同時に8地区が指定されたのだけど、他の指定された地区は、日本が近代化していくときに必要な学問や技術を実現させたところ。萩はその種々の分野で指導していく人たちを生んだところ。
吉田松陰が松下村塾で指導したのは3年に満たないのに、幕末明治にかけて日本を近代化に導くための逸材を育てました。世界を見据えて「工学教育の重要性」を説いたことを、明倫館横に開設されている「学び舎(まなびーや)」で学びました!
吉田松陰の指導力はその人の長所を伸ばす方向づけだったみたいで、前頭葉の理解ができていたとしか思えないくらい。
人は十人十色。そういえば「みんな違ってみんないい」といった金子みすゞも山口県長門市の人でした。

今回の旅のオールスターキャスト。なつかしいでしょ?次便で観光したところの写真を送りますね。とってもきれいだったのよ。

急に寒くなりました。風邪には十分注意して11月の天籟同窓会関東支部総会でお会いしましょう。
H丁さんもH吉さんも上京してくれるそうですから、お話お楽しみに。ではひとまずさようなら。絹子


 




 


戸畑高校創立80周年記念天籟同窓会総会出席in北九州市

2016年10月13日 | 私の右脳ライフ

去年に引き続き、今年も故郷に帰省することになりました。表記のように高校の同窓会出席のためです。
私が育ったころの北九州市戸畑区は、高度成長期の勢いにあふれた町でした。ただし当時は、ばい煙や公害たっぷりの煙、洞海湾は死の海とまで言われたものです。当時の人口が約10万人、今は約6万人 ・・・それだけに落ち着いたきれいな町になっていました。
駅のホームから見える若戸大橋
 
駅の隣には地域福祉活動の拠点ウエルとばた。外付けエスカレーターは同期生のI田さんが区長時代に設置されたとか。

祇園祭りの幟山笠とちょうちん山笠の展示。ユネスコ無形文化遺産になりそうです。
 
わが母校。配置は大きくは変わっていないようですが、建物は全部違います。半世紀たっているのですから当たり前ですね。
 
会場は体育館 

応援団(現在は全員女子で花の応援団 といわれてます)
 
団旗を持ち続ける・・・考えられません。腰は痛くはないのでしょうか(笑)
 
担当してくださった38回生たち
 
校歌を歌ってお開きでしたが、いいものですね。
半世紀ぶりに会った女子クラスメートは、しばらく 見つめていると面影が立ち上ってきました。
一旦思い出せたら、不思議なほど変わってないことに気づきます。さて私はどう見られたのでしょうか???
FBの友達が増え、私のタイムラインの記事に新しい風がふき始めました。

 


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