「政府の数値目標 70代の認知症割合25年までに「6%」減」のニュースを目にしてブログに書いたのは5月16日でした。いいかえると「70代での発症を10年間で1歳遅らせる」という、従来から提唱されていた「認知症になってもくらしやすい社会を作る『共生』の概念」に「予防」を加えた画期的なものでした。このときの認知症は原因不明といわれているアルツハイマー型認知症であり、全認知症の9割を占めると思われます。
(写真は6/26。満開の下田公園。アジサイ100万株は日本一)
それから、1か月半。前ブログに書いたように、認知症予防は十分可能なのですが、当事者や与党から「偏見を助長する」と批判され、あえなく目標値は参考値に格下げされました。
実は、認知症は脳の生活習慣病。
高齢者になると、もともと加齢による能力低下が前提にあるのです。何かのきっかけで生きる意欲をなくして「生きがいもなく、趣味を楽しむこともなく、もちろん交遊もない。そして運動もしない。家に閉じこもってナイナイ尽くしの生活」をし続けるうちに、脳の老化が加速されてしまうのです。
(仏像イラストレーター田中ひろみさん)
認知症を専門にする研究者が、正常から小ボケ―中ボケ―大ボケと推移していく様を追われたらいいのにと思います。専門家でない世の中の人たちは移り行くさまを知っている場合もありますし、どうも生活ぶりの差が認知症になるかならないかのカギらしいと思っている人たちはごまんといます。
残念ながら、専門家は大ボケが研究対象なのです・・・
(ペリー上陸記念碑)
小ボケというのは、脳機能から言えば前頭葉機能だけが正常老化を超えて老化を進めてしまった状態です。注意集中や分配力、またそれを基礎にした現状判断や決定力などの前頭葉機能こそ、社会生活には必須の機能ですから、家庭生活はできるのですが、社会生活にはトラブル続出でもう無理です。
よく言われるのは、小ボケの老人会会長。会長の名刺はあるのですが、何かのきっかけで(例えば、配偶者との死別や体調不良や心配事など。有能な副会長の登場の場合もあります)それまでのように老人会活動をいきいきと楽しむことができない状態が半年以上も続くと、出番のない前頭葉機能の老化が進んでいくのです。
新年度の企画会の時、いくつか出た案を取捨選択できず、活動計画ができません。ようやく結論が出たかと思ったら、また最初に戻ってしまう。
総会の挨拶文を用意するのにいつもの何倍もかかるし、挨拶が始まると堂々巡りの挨拶になってしまう。この状態を「社会生活にトラブル」というのです。世の中では「年齢のせい」と理解しようとすることが多いと思います。
(ペリーロード)
家庭生活で、前頭葉機能低下はどんな形で起きてくるでしょうか。
前頭葉機能の中では発想力もわかりやすいでしょう。発想がわかなくなる結果、献立が死ぬほど単調になります。
短歌を続けていると(大体はやめてしまいますが)びっくりするほどの月並み短歌。
あれだけおしゃれだったのに、色合わせが彼女らしくない。アクセサリーの取り合わせや場所が変。どことなくだらしない。
何も思いつかないのですから、居眠りしてるか、居眠りしながらテレビを見てるか。
(上原美術館)
本人はあまり自覚していませんが、家族が気になることは「無表情になる」ことでしょう。目に力がなくなるので「魚が腐ったような」と表現されることもよくあります。「目が届かない」小ボケの発見 (解説もありますからお読みください)
(上原美術館休憩室)
(上原美術館入り口にある日枝神社)
(苔むしたつくばい)
脳の生活習慣病としての認知症を理解しましょう。
それは前頭葉を使い続ける覚悟を持つこと。生きる意欲をそいでしまうような生活の大きな変化を見逃さないこと。それに負けないようにすること。
小ボケを見つけることのできる社会を実現させて、小ボケの段階で早期発見を図ること。そして脳をイキイキと使う脳リハビリに取り組むこと。
認知症の予防は可能なんです!