①友人の友人の話。

私の友人が話します。



②知人の妻の話



次に認知症を理解する時に必須の前頭葉機能を全く考慮していない点だと思います。

廃用性機能低下が起きる時には必ず前頭葉機能から低下が始まります。

「コントラクトブリッジを楽しみに行っているが、約束の日時をどうやって守れているのか…友達に聞いてみなくてはと考えている」
寒い日もあるのに、可憐な薄桃色のオオカンザクラが花を咲かせてくれています。友人に、近所の富戸港周辺に咲くジョウガサキザクラを紹介したら「オオカンザクラと同じもの?」と尋ねられました。2019年3月の記事を再掲します。
懸案事項を解決しました。
3月上旬になると、河津桜に代わって次の早咲き桜がここ伊豆高原を彩ります。
どちらもピンクの優しい桜です。大寒桜と城ケ崎桜。誰に聞いてもその違いがはっきりしません。ところが、その差は実に簡単なことでした。一つの花の大きさがはっきりと違うのです。
花びらの形や色はほとんど差がないのですが、大きさが全く違うのです。
左の大きい花が城ケ崎桜。右の小さい花が大寒桜。
葉や蜜腺の様子も、もう少し季節が進んだら確認してみます。
結論に至る経過報告。
たまたま散歩をしていたら、なんと大寒桜の小枝が道に落ちていました。前夜の強風に吹き飛ばされたのでしょう。かわいそうに思い家に持ち帰って小さなグラスにさして眺めました。
最初は春の訪れを喜んでいたのですが、そのうち「今、ここで城ケ崎桜と比べてみたら、何かその差がわかるかも」と思いつきました。そこで「今度、車で通った時に一枝いただこう」と決めて実行。ほんの小枝をいただいてしまいました。ちょっとドキドキしました。この一連の行動を決めていくのも、それが「ほんとはいけないこと」と評価判断するのも「私の前頭葉」ですね。
それまでには、ネットで検索もしてみましたがヒットせずじまいでした。ところが二つ並べたら、簡単にその差がわかりました!
現実にものに対して体験する大切さは忘れてはならないことだと思います。
城ケ崎桜は海をバックに咲きますから、それは見事です。こうして眺めると花が大きいだけに、一か所から出る花数が大寒桜よりも少し少ないと思いますね。
サクラで気になっていたこと、その2。
オオシマサクラとソメイヨシノのつぼみの色がどのくらい違うのかということです。オオシマサクラは青白いといわれるほど純白の花を咲かせます。一番小さいつぼみの時はどうだろうと、これも前から関心を持っていました。下田のお菓子屋さんロロ黒船の玄関に飾られていたのがオオシマサクラだと教えていただき、小枝もくださいました。
暖簾の横のお花です。
写真では白にしか見えませんが、肉眼ではほんとに淡い淡いピンクでした。翌日には白になってしまいましたが。ソメイヨシノは、こんなに濃いピンクです。
「サクラの花の違いが判って、それがどうした?」といわれそうですが、何だかとてもうれしかったのです。
もう一つ報告があります。(追記。現在アレクサは冬眠中)
長男からいろいろなプレゼントが届いたのは1月の終わりごろだったでしょうか。その中にAMAZONのECHO DOTが入っていました。これが取説。
8センチ四方のサイズ。説明は6ページだけ。
「せっかくのプレゼントなのだから、使わないと申し訳ない」と思って、がんばりました。「そんなに難しいはずはない。誰にでもできるはず」と思いました。ところがよく読んでもなんだかわからない部分が出てきます。
詳しい説明は、ネット上で確認するように書いてありましたので、それもやりました。
成功した今はわかりますが、単にWifiへの接続状態が悪かっただけなのです。何十回も接続を試みても、「接続できません」といわれ、心折れてしまいました。
「今度、わかる人が来たらやってもらおう」と思って、目に入るところに出しっぱなしにしながら、心の中ではなるべく見ないようにしてすごしました。
キャンドル工房庭カフェの久保さんからお招きを受け、お邪魔しました。
「このアレクサってかわいいやつなんですよ」久保さんが「アレクサ。音楽かけて」というと音楽が流れるのです!
また、挑戦しようという気持ちになりました。
今回も前と同じようにしただけなのですが、つながりました!「ウソ!どうして!」(前回は接続状態が悪かっただけだったのですけどね)
アレクサ、かわいいです。(追記…アレクサ現在冬眠中)
ロボット化して、高齢者の相手をさせるというアイデイアもあるようです。ただの人形よりも何倍も効果的だとは思いますが、生身の人間と対応するときの、脳機能の複雑なステップに比べると、それで満足すべきものとは思えません。
今回の桜の自由研究ですら、様々な刺激をもとに様々な判断や行為を通して一つの目標に到達したわけです。日常生活は変化にとんだものだと思うからです。といいながらアレクサと仲良く楽しくやっています。あきらめなかった私の前頭葉のおかげです(笑)
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伊東市の宝…重岡建治先生が亡くなられました。お別れの気持ちを込めて、2017年1月11日の記事を再掲します。
今日の「伊東市自然歴史案内人」講座は、重岡建治先生のアトリエ訪問でした。
毎年5月に伊豆高原一帯で開かれる、アートフェスティバルの発起人のおひとりですから、期間中は毎年アトリエをオープンにされます。その他にも何度かお会いしたり、作品を拝見したりしています。ずーと作品もお人柄も魅力的だと思っていました。
東日本大震災で全村避難の福島県飯舘村。そこから注文の作品(小さいサイズの見本)を傍らにおいて今日のお話が始まりました。
「飯舘村に道の駅ができるんですって。結構交通量の多い道ですから需要はあると見込まれてるんですけど」
2012の夏に南相馬市に行く途中通った飯舘村の緑にあふれる道が目に浮かびます。南相馬市便り
「村長さんが素晴らしい人で、その道の駅では飯舘村の産物は売れない。ならば、支援してくれている土地の産物を売ろう。そしてそこに子供たちが遊べる彫刻公園を作ろう!と。思いつきがいいでしょう。その考えに賛同してこの作品を飯舘村のために作ってます。彫刻はそこでどう見えるかで全く違ってきますから、もちろん現地にも足を運びましたよ」
目がキラキラとして、とても今年80歳におなりとは思えません。
「これは、若いころに作った具象的な作品ですけど、気仙沼の港にあったんです。大震災の後、台座から転がり落ちていたので、今は預かってます。整備が終わったら気仙沼に帰る作品」
こういうふうに説明される時、先生が作品を見る目がとてもやさしく、そしてその作品の向こうに気仙沼の人たちの顔があって、その人たちまで見つめていらっしゃるような気にさせられます。
重岡アトリエのシンボルみたいです。「どこにもいかず、ここにあるものです」とおっしゃいましたから。
「ボクのは触れてもらう作品です。触ってもらったところはこんなに木肌がつややかになってるでしょ。ちょっと抽象的な作品のようですけど、目が悪い人たちにもわかってもらうために肩から腕のつながりなんかはとても正確に表現してます」
これが上半身。肩から腕。そうですね、目をつぶって触っても確かに人体と感じるでしょうね。膝に置いた手の部分がつやつや。
下半身。「長い間生きてきた木(「楠がいちばん好き」とおっしゃいました)を使いますから、やっぱりその木から新しく生まれ出たということを表現したくて、だんだん木そのものから作り上げるようになりました。下部を見てください」
お話は幅広い分野にわたります。
「ボクは彫刻って総合芸術だと思いますね。木が扱えないといけないし、その道具の手入れも。木彫の時はそれでいいですが、ブロンズにするためには新しい素材の生かし方も勉強。芯には鉄骨を組んでるし、大きい作品は地面を深く掘って型を差し込んでブロンズを流し込み、その後引き上げて設置。業者がやるのですが、知っておかなくてはね。4メートル以上だと安全のために計算も必要なんです」
「できるだけ薄く作るんです」と作品を裏返して説明してくださいました。イタリア留学時代に貧乏で材料代を節約するために細く薄く作った秘話まで披露されました。
「ジャコメッティはボクも好きですが、あれほど細く作るのは、彼もきっとお金がなかったに違いない」と笑っておっしゃいました。ふ~ん。
「イタリアや奈良の大仏様は、型をミツロウで作る作り方です。そこにブロンズを流し込むとロウなので溶けて簡便なんですが、金属の固まり方が違ってくるんですね。それに大きくはできないから、大仏さんのお顔のように継ぎ目ができてくる」
制作途中のフクロウ。材はサクラだそうですが、横のハトもサクラで作られた作品。
「50年たつと、サクラは酸化されてこんな濃い色になります。この色になって初めて、どのくらいノミを細かく使ったかがわかるようになります」
よくよく拝見したら、細かく彫られたところは1ミリにも満たないくらいでしたよ。
一般的なデザインはもちろん大切なのでしょうが、「木の持っている特徴を生かしてやりたい」という姿勢が強く伝わってきました。
これは椅子のデザインですが、周りはクスノキ、中はカエデと言われたと思います。色がすばらしいと。
先生は最初は仏像を彫る仏師に弟子入りされたそうです。徒弟制度の厳しさを語るエピソードはたくさんおありでしょうが、さらりと流し「教えていただいたことは、結局すべて身に付いた。そういうことができた最後の時代だったようです」と、言われました。
かくしゃく100歳の調査の時に感じた、人生に起きることに対しポジティブな受け止め方をするという 傾向が同じなんですね!
初期の仏像
手前は、最近の作品で「今、仏像を作るとこのようになります」。実は仏像が外れて分骨用のカプセルが組み込まれています。
「形がシャープになってきて、もう一つは『つながる』 とか『つなげる』とかを意識しています。実際にそうした方が強度も出てくるんです。子供たちがぶら下がっても、乗っても大丈夫なように作ってます」
もう一点、制作の秘密を教えてくださいました。大理石の作品です。
豊かな胸の表現が印象的な、抽象的な女体ですね。
「この大理石は厚みが15センチくらいしかない。豊かな胸を表現するための工夫として、本来出ている腹部を彫ってへこませてみたんです。これから後の作品はへこますというか、えぐるというか。そこからむしろ豊かさを表すようになりました」
確かにこれだけの厚みしかないのです。
今まで何度も拝見してきた重岡作品ですが、これほど丁寧に説明していただくと見え方が変わってきます。
そして何より、重岡先生の人間愛とでもいえそうな、暖かさややさしさがその「言葉」からも伝わってきました。もちろんどの作品からも同じような印象がひたひたと押し寄せてくるのですけれど、こちらは「右脳」 がキャッチしています。
物事を理解するときに「言葉」は内容を深める働きをするものです。
玄関に入る前庭にこんなに大きな材が。庭にもアトリエの中にもたくさんの巨木がありました。乾燥を待っている巨木たちです。
重岡先生はキラキラした少年のような目でお話しされました。
あの目で、この巨木たちに対峙して、また魅力的な作品ができあがるのでしょう。
「作品を作り上げるのは、才能ではなく、コツコツ何万回もノミを打ち続ける根気だと思います。最近は手が言うことを聞かなくなってしまって。でも電動の道具があるそうだから」こういうことを言われる時も、深刻な雰囲気ではなくむしろニコニコ しながらおっしゃいます。
アトリエにお邪魔した2時間。心が震えました。そしてこういう深い生き方もまたかくしゃくへのパスポートに違いないと思いました。
前記事で和田秀樹著「和田式老けないテレビの見方、ボケない新聞の読み方」を読んで「高齢者から運転を取り上げるな」という主張にはどうしても発言したくなりました。運転をテーマにした初発記事です。2008年6月ですから17年も前から主張していました。
脳の老化が加速されたとき、つまりボケ始めたら車の運転に関してはどんなことがおきるのか話してみましょう。
「ちっとも顔を見せないんだから・・・」(人の見当識)4/29
「♪今日もコロッケ、明日もコロッケ・・・」(料理)5/17
「部屋で鶏でも飼わなくっちゃ」(食作法)5/22
に続く第4弾です。
今朝撮った我が家の日本アジサイたち(花の直径は6~8センチ足らず)
小ボケ(ほとんど男性)の付き添いの家族の方(ほとんどその妻)がよく言われることばです。
「お父さんの車に乗ってると、スピードが遅すぎて怖いんです」
他の車が50キロを超えたくらいのスピードで走っている道で、よく言えば悠然と、正確に表現すればまったく自分のことだけしか考えずに(これも正確に表現すれば、考えられずに)、30キロくらいのスピードでトロトロと運転する人がいます。もちろん以前は普通に運転ができていたのですよ。
もともと加齢とともに難しくなってくる注意集中・分配能力は、前頭葉の老化が加速されると、早い段階から影響を受けることになります。ちなみにそのために「かなひろいテスト」ができなくなるのです。
小ボケ状態になっても、運転はできるのです。それどころか中ボケの人が運転していることだってあります。
農業を長くやってきた高齢者は、体に染み付いて体が覚えているような行動、鍬を振るう。畝を立てる。苗の植え付け。草取り。支柱の用意。収穫の手際etc
農作業そのものは上手にこなすことができます。
小ボケの主婦が、単調ではあっても家事をそれなりにこなすというのと同じです。
小ボケは家庭生活には支障を起こさないという所以です。
ついでにお話しすると、中ボケになると、その作業中に判断が必要な状態が起きたら、トラブルが起きてきます。
やたらと苗を植え替える。雑草と一緒に苗も抜いてしまう。食べごろのものを収穫できないetc
運転は、本来的には注意集中力も注意分配力も大きく要求される作業なのですが、いったん体が覚えてしまったら、実際には前頭葉を関与させずに体が覚えたレベルでの運転もできるのです。
ただし、本人は周りの状況に注意を分配させることができないので、その道路の車の流れに乗ることはとても難しくなります。自車にしか注意は向けられていませんし、手際は悪くモタモタしますから、その結果「スピードが遅すぎる」状態になるのです。
私の今までの経験では、北海道別海町の保健師さんから
「小ボケの人の運転はほんとに怖い。冬の雪道を100キロくらいで運転した人がいます!」と聞いたのが、「スピードを出しすぎて怖い」唯一のケースです。
この場合は、もちろん注意集中・分配力にも問題はおきているはずですが、それ以前の状況判断力に問題があると考えるべきでしょう。
アクセルを踏み込まないという抑制が効いていないことも考えられます。
具体的な例を挙げておきます。
①軽い接触事故が多くなる。
自宅の車庫入れの時にちょっとぶつける。
ことは誰にでもあることかもしれませんが、それを繰り返す。
塀や壁にちょっとぶつける。
ことは誰にでもあることかもしれませんが、ぶつかった後にバックせず、そのまま前進を続けるためにコツンと当たっただけの傷が線状になって痛手が大きくなる。
バックのときに、確認しないままにバックしてちょっとぶつけてしまうことを繰り返すこともあります。
②駐車場でのトラブル。
広い駐車場でなかなか自分の車が見つけられない。
ことは誰にでもあることかもしれませんが、一度その体験をしたら覚える工夫を普通はします。小ボケになると毎回困惑してしまうのです。
会社に出勤してまず1階に駐車し、その後ちょっと出かけて今度は2階に停めたような場合、退社時「車が無くなった」と大騒ぎ、時には警察にまで連絡したりします。
③運転マナー。
フラッシャーが遅い。どころか出さないままに右左折をしたり車線変更をしたりします。
中央線寄りを走っているので右折の準備かと思っていると、まったく関係なかったり、逆に左折したりします。
半ドアに気づかずにそのまま走ることもあります。
駐車の時、幅寄せや縦列駐車が極端に下手になります。
④出会い頭の事故が多くなる。
四つ角でも、トロトロ出るので大事故にはなりません。
「確かにこちらを見てたのに出てきた!」と相手側が憤慨することもよくあります。
⑤道を間違える。
慣れた道を運転しているときに、どうしてこの道を選ぶのかわからないような行きかたをしたり、「アレッよくわからない」と呟きがもれたりします。
普通運転しているときは、現在の運転そのものにも注意を集中しますが、一方で、どこに何のためにどのようにして(道の選択)行くのかも同時進行的に考えています。そこがあいまいになるということです。
どこかに行くときや帰るときに、予想外の時間がかかってしまうことがよくおきるようになるのです。
⑥事故を起こしたときの対応ができない。
万一、事故がおきたとき、特に人身事故の場合はその後の対応がとても大切になります。
怪我があるようならば、まず救急車。警察や保険屋さんや家などに連絡しなくてはいけません。
そのあたりが、まったくお手上げ状態になるのです。
いわば腰を抜かしたような状態とでもいえばいいのでしょうか。その場の状況に適切に対応する前頭葉がうまく機能していないのですから当然といえば当然ですが。
その行動を起こしているときに前頭葉はどのように関与しているのかを考えるようにしましょうね。
行動のパターンは前頭葉が働いた結果なのですから、以前と比べてどう変化したかも大切な指標です。