脳機能からみた認知症

エイジングライフ研究所が蓄積してきた、脳機能という物差しからアルツハイマー型認知症を理解し、予防する!

横書き文の読点は「、」か「,」か。

2022年02月16日 | 私の右脳ライフ

小冊子改訂作業もほとんど完成!と思ったのもつかの間。現役で大学の先生をしている友人に読んでもらっていると、全く知らない指摘を受けました。
「最近はね、横書き日本語の読点は「,」なのよ。ふつうの読点の「、」を使ったらいけないというのではないみたいだけど」
「え~!知らなかった!どうしてなの?」
「なんだか理由はわからないけど、最近の風潮ではそういうことみたい」

そこで、手近にあった横書きの雑誌のページをめくって見ると指摘通り「,」のオンパレード。びっくりしました。
その後、横書きパンフレットなどにあたってみたら「、」も多く目につき、「今は移行期なのかしら」と思いました。
問題の小冊子はワードで作っていますから、「、」を「,」に変更することは、置換や一括変換で簡単にできるので、作業そのものは大したことではありません。
いよいよ訂正に入ろうとして、ふとグーグル検索はどう教えてくれるだろうかと思いつきました。
「横書き時の読点」といれてみました。

一番上でヒットしたのが、見出しが青字のようなこの記事です。
「2022年1月14日 06:00 横書き時の読点として、かたくなに「、」ではなく「,」を使うユーザーの根拠となっていた、政府の「公用文作成の要領」が改められることが明らかになった。」
またもや「え~」つまり政府主導だったということですか!丁寧に読んでみると「公文書作成の要領」は1951年に国語審議会が答申したとありますから、だいたい70年前から公文書の中では「読点,句点.」だったということがわかりました。
ちょうど私が育つ過程ですが、小学校の先生は「途中で切るときは「、」文の終わりは「。」」と教えてくださったので、私はずっとそのような使い方をしてきました。

2022年1月7日に文化審議会が公用文作成の考え方(建議)
を文部科学大臣に提出したそうです。まだひと月。ということは変更など加わっていない最新ニュース。これは目を通してみなくては。
これが想像するよりはるかに面白く、興味深い内容でした。興味ある方はぜひクリックしてみてください。
ランダムですが、目についたことを列挙しておきましょう。
1.句点「。」読点「、」が原則。横書きの場合は読点「,」も可。ただし統一すること。
中点「・」は並列する語、外来語や人名の区切り、箇条書の冒頭に使用。

2.カッコの中のカッコは、そのまま。私は中に入るカッコは二重にしていました。いつ誰が教えてくださったのかすら覚えていない!

3.「~文章~。」終わりにカッコの前に句点。引用、文以外は句点なし。

4.文末のカッコと句点の関係
 ~文章~(部分的解釈の時)。 
 二つ以上の文または文章全体の注釈の時は最後の文とカッコの間に句点を打つ。
 ~文章~。~文章~  ~文章~。(全体的注釈)

5.項目の細別・階層
 第1-1-(1)-アー(ア)これも知らなかったです。Ⅰ-1-(1)-①のように使っていました。

6.日本人の姓名をローマ字表記にするときは「姓―名」TAKATSUKI Kinuko 知らなかったぁ。

7.動植物の表記
 常用漢字表にあるものは漢字。ないものは仮名。学術的な名称は片仮名。原則片仮名で書いていました。

8.接続詞、連体詞、接頭語・接尾語は仮名書きが原則 これは教わっていました。

9.数字の書き方。横書きでは算用数字。兆・億・万の単位は漢字を使う。概数は漢数字。

この面白情報をここに書き写しながら、二つの感想を持ちました。
その一つは「私」にはとっても興味深く楽しい時間で「ワクワク、へ~そうなんだ」と喜びながら読み進めたのですが、そんな人ばかりではないことはわかってるということです。私にはちょっと興奮して誰かに伝えたくなるような時間でしたから、カテゴリーは「私の右脳ライフ」を選びました。「国文法の勉強」として学んだのだったら「左脳」です。
もちろん何の興味も覚えない人もいますよね?物事の受け止め方は「十人十色」。前頭葉の差です。夫は「そんな決まりより、自分が伝えたいことを正確に伝える方が大切」といいました。

もう一つの感想です。
「痴呆」を「認知症」に言いかえるという発表は2004年でした。

「痴呆」に替わる用語に関する検討会報告書

燎原の火のように、すごいスピードで「痴呆」は「認知症」に変わっていきました。最近は「認知」という言い方も、一般社会ではごく普通に使われるようになりました。意味を考えるとちょっとおかしいですよね。「認知」だけでは病態を表したことになりません…
戦後すぐの「公文書作成の要領」は公文書に限定されてはいますが、少なくとも私の個人的な歴史を紐解くと、教育の現場には大きな影響を及ぼしていないようです。
このことは何を意味してるのでしょうか?皆さんもちょっと考えてみてください。




 


中ボケの人の「悲しい訴え」にどう対応するか

2022年02月10日 | エイジングライフ研究所から

小冊子の改訂もそろそろ終盤。
最後の章「認知症に関するQ&A」を書いていました。ちょうどぴったりの質問が来たのでまとめてみました。

私たちおとなは、ことばの世界に生きていますから、ことばに意味があるとそれを受け取ってしまいます。あまりにも当たり前なことを言っていると思うでしょう?
意味が分からない外国語を話しかけられたらどうでしょうか?
意味が入ってきませんから、まず状況を判断するでしょう。例えばお店の中で話しかけられたのか、路上なのか。もちろん年齢や性別をはじめ服装や持ち物も判断材料になるでしょうね。それから話し手の表情や、声の調子や、声の高低などから、何を言いたいのか一生懸命に推理します(ちなみに前半は前頭葉、後半は右脳が中心的働きをします)。
推理しきれなかったら…あきらめます。ことばの意味が分かるときには、ことばには意味がありますが、意味が分からないときは…「音」でしかありません。
逆に日本語のわからない外国の人にどうしても何か伝えたいとなったら、仕方なく日本語を使いながら「意味が分からないのだから、せめて気持ちを精一杯に込めて伝えてみよう」とがんばるでしょう。
1月半ばの熱海梅園

赤ちゃんを思い浮かべてみてください。おむつを替えるときに「あらあら。たくさんうんちが出てたのね。替えてあげるのが遅くなってごめんね~」とか言いながら替えますよね。黙って黙々と替えたりはしません。じゃあ、その時に自分の話していることばの意味を、当の赤ちゃんが理解してると思いますか?
自分の気持ちを、ことばを使って表現してるのではないでしょうか。「ごめんね」の気持ちが湧きました。その時「ごめんね」といった方が、言わないよりもその気持ちを伝えやすい。伝えたいものを、ことばの力をほとんど信じないままに伝えようとしているのですね。ことばを介してではありますが、伝えたいことは「ことば」よりも実は「気持ち」です。

うえのQ&Aの解説を付け加えます。大ボケのレベルになって、大便を塗りつけたり、食べ物でないものを食べようとしたり、徘徊したり、暴言や粗暴行為などとんでもない事件を起こしたときにも、当然「腹が立つ(または「悲しくなってしまう」)」のですが、「言動におかしなことが多く」というのは中ボケの時に訴えられることが多いのです。
文字どおり「やること」と「いうこと」に大きなギャップがあるからです。
中ボケというのは、前頭葉機能がうまく働かなくなったうえに、脳の後半領域いわゆる認知機能にも能力低下がでてきた状態です。その脳機能で生活しなくてはいけないので、いろいろな不都合が起きてしまうのは当然です。
ちょうど幼稚園の子どもが一人で生活しているような感じです。洋服は自分で着ますが、裏表や前後だったり、なんとなくだらしなかったり、正しい選択はちょっと難しい。下着をなかなか替えません。薬袋を渡されて一人で服薬管理するでしょうか。家事も手伝ってもらう方が手間がかかる…
それなのに、口から出る言葉は、言い訳にしか聞こえません。「慌てて着たから。手が痛かったから。急いだからそこにあったのを着た」「いつもいつも着替えて洗濯すると生地が痛む」「歳をとればわかる」みたいな感じです。確かにそのギャップに心が波立つのは理解できますね。
ことばが、状況にも合わず気持ちも伴わず、勝手に漏れ出る感じとでもいえばいいのかもしれません。そのことばは裏付ける感情や気持ちとはかけ離れているのです。
そのようなとき「ことばの意味」を詮索する必要は、ないと思いますよ。

保健師さんからメールが届きました。中ボケのご家族からの相談に「つらすぎて何も言えなかった。ふつうに中ボケの人の介護をしている人がいうように『やってることはとんでもないことなのに、言うことは立派なのでほんとに腹が立つんです』といわれたなら、『やっていることが脳機能の結果だから、そこが実力』ということができたと思うのですが」以下青字は相談された方のまとめです。
「毎日、毎日、「こんなにバカになってしまって、生きていても仕方ない」「自分でどうしたらいいのかわからなくて困っている」「でも、寿命だからどうしようもない」「迷惑かけて申し訳ない」と嘆いてばかりなのです。もちろん、それなりの言葉をかけたり、聞き流したりしています。
ただ、私もその立場になったら同じことを考えるだろうと思うのです。本人は言っているだけで、それほど深く思ってはいないのかもしれません。でも、毎日毎日言われると、私が悪いのではないかという気持ちになるし、本人は辛いだろうな、と思うと、それも胸が痛くなります。
介護する方も大変ですが、本人もプライドがズタズタで、頭は混乱するし、何もできないしで、相当苦しいと思うのです。どうにかならないものでしょうか・・・」

結論は、いつもの通りです。
「『そこまで深く現状を理解しているはずがない』のです。『理解できない』けど『ことばは漏れ出る』…
もちろん、現状に対して何かネガティブな感情はあると思うのですが、ことば通りに受け取る必要はないと思います。その感情には寄り添う必要はありますが、特に自分で処理できていない分『困っている』はずですから、そのことはよくわかってあげなくてはいけません。
「私もその立場になったら同じことを考えるだろう」現在『私』の持っている脳機能ならその通りです。歳をとっても、脳機能がだれにでもある正常な老化にとどまってさえいれば、100歳になってもそのように思えるでしょう。でも、脳機能が年齢を超えて老化を加速し始めたら、それは無理です。
「本人は言っているだけで、それほど深く思ってはいない」その通りなのですよ。
中ボケになったら幼児に対するようにという指導の時に、赤ちゃんから発達して幼児期に到達した子どもと、いったん大人として何十年も生活してきた高齢者を、同じと考えることは許されません。ただ『ことばの持っている意味の力』を過信することのないようにお話ししてあげてください。『言われたことをまっすぐそのままに受け取る必要がない。正確に返事をするよりも相手の感情に沿った対応をした方がいい』ということです」と保健師さんに返事しました。








追悼 石原慎太郎さん

2022年02月02日 | 右脳の働き

石原さんの記事を2017年3月に書いてありました。
右脳障害で失語症発症という珍しいことが起こっていました。文学でも政治でもない分野の話ですが、読んでみてください。

石原慎太郎さんは、左利きー右脳梗塞で失読症に

Padを使っているのですが、購入した時にドコモショップのサービスで「dマガジン」というアプリがついてきました。

いわゆる週刊誌から月刊誌まで。男女ライフスタイル誌、男女ファッション誌、お出かけグルメ、エンタメ、ビジネス IT、スポーツ等々180誌が読み放題。
一か月後から有料でしたが、400円/月!ウソみたいな安さです。 
dマガジン導入の前は、週刊新潮や週刊文春は新聞の広告欄の見出しで十分と思っていましたが、今はときどき読むことがあります。何しろ無料ですから(笑)
今日は週刊文春3月30日号を読んで、またもや右脳に言語野がある(かもしれない)ケース発見。
週刊誌の見出しはちょっと恥ずかしくて転記しにくいですねえ。でも。
「石原・浜渦『逃げ恥』を許したおバカ都議」3ページにわたる記事でしたが、気になったのは9行のみ。
「石原氏は脳梗塞の後遺症が残る利き手の左手ではなく、右手で宣誓書にサインし、冒頭『(記憶を司る)海馬がうまく働かず、平仮名さえ忘れました。記憶を引き出せないことが多々あります』と断ったうえで質疑に応じた。」
ここでお断り。今回の記事は、書かれていることが正確であるという前提でお話ししています。
3月27日。小雨の庭の花たちです 。貝母

この短い9行の記事から、いろいろなことがわかります。
まずは「利き手が左手」ということですね。 その左手に「署名ができないほどの後遺症としてのマヒがある」ということもわかります。
ということは、脳梗塞は「右脳に起きた」ということになります。
びっくりすることに「平仮名を忘れている」つまり、「平仮名が読めない」とカミングアウトしたのです。
もう一つは「(利き手でない)右手で名前は書けるが、文になるとワープロが必要」なのですね。
ミニ水仙

右脳の働きはアナログ情報の処理、色や形や音楽さらには感情的な処理までも受け持ちます。左脳はデジタル情報の処理をします。つまり言葉は左脳の担当ですから、右脳にダメージを受けたときには「失語症」の心配はしなくていいのが普通です。
ただし大切なことは、このざっくりしたわけ方は、右利きの人の場合だということです。
石原さんの「平仮名が読めない」ということは、言葉の障害?そうであってもおかしくはありません。
石原さんは左利きですから! 

先日のニュースで、石原慎太郎さんが百条委員会での証人喚問に際して、次のように発言したと伝えられました。正確な情報のためにネットで全文記載してありそうなものを見つけましたから、ここに転記します。
「お答えする前に一言、お断りしておきますけど。私ごとになりますが、私、2年ほど前に脳梗塞を患いまして、いまだにその後遺症に悩んでおります。現に、利き腕の左腕が使えず、字も書けませんし、絵も描けません。患部がですね、右側頭頂部だったために、その近くに「海馬」と言う不思議な部分がありまして、記憶を埋蔵している箱のようなものですが、これがうまく開きません。そのため、残念ながら全ての字を忘れました。平仮名さえ忘れました。物書きでありますから、ワードプロセッサーを使ってなんとか書いてますけど、そういう点で記憶を引き出そうとしても思い出せないことが多々ありますので、一つ、ご容赦いただきたいと思います」
うーん、週刊文春の短い記事はけっこう正確に伝えてくれています。
冬アジサイ

一般の読者はびっくりしたでしょう。
こういう場所ですから「まさか嘘は言わないだろうから、脳梗塞の後遺症で海馬がうまく働かなくなると平仮名も忘れてしまうんだ」とそのままに受け取ったのではないでしょうか?
発言内容はさておき「その割には、ちゃんと話すことはできるんだ」と思ったでしょうね。
単に「宣誓書にサインをした」とだけ書かずに「脳梗塞の後遺症の残る利き手の左手でなく、右手で」と「左手が利き手」であることを省略してないことに拍手です。
左利きの人は、言語野が左脳だけでなく右脳にも一部あるといわれています。
そのことは、左脳にダメージを受けても言語野がすべてやられることになりませんから、「左利きの人は失語症が軽くて済む」といわれることにつながります。
今回のように、右脳にダメージを受けたのに、普通なら左脳障害である言葉の障害(軽症ではあります)を起こしてしまうことにもなりますけど。
たまたま、前回の記事「例外ですが、左脳=デジタル・右脳=アナログに当てはまらないこともあります」も同じ例です。
クリスマスローズ
 
実は「また『忘れる』ことが、種々のトラブルの原因にされてしまって・・・困ったこと」と、私は思っていました。
その前に解説が必要だということに、週刊文春の記事は気づかせてくれました。
平仮名を「忘れてしまって」分からなくなったのではなく、平仮名の理解をする脳の機能に、脳梗塞の後遺症が起き「読めなくなって」しまったのです。形のレベルで「わからない」場合も、形はわかっても「意味と関連付けること」ができなくなってしまう場合もあります。
漢字の方がわからないケースと、仮名の方が難しくなるケースがあります。一文字が問題の場合もあるし、文が難しい場合もあります。
「失読」という症状です。細かく調べないと正確なことは言えません。
「失読」には「失書」も伴うことがよくあります。「字が書けない」という症状です。ところが自分で書くことはできなくてもパソコンを使えば書ける場合もありますから、石原さんの発言の後半はうなずけるものだといえます。
脳機能という切り口を持っていると、たった9行の記事からもいろんなことがわかるものです。
ただし海馬の障害で字の記憶がなくなったわけではありません。ここは間違いです!私たちがことばを使う時には、海馬で記憶した文字を繰っているのではなく、言語野が担当しています。こういう基本的なことすら、解説してもらえなかったのかとちょっと驚きました。
コリアンダー
 
認知症も「物忘れ」こそ大切な症状と思われています。何か問題があれば「物忘れ」「記憶力がおかしい」「思い出せない」「覚えられない」と言います。

認知症の最初の症状は「記憶力低下」ではありません。
前頭葉の機能低下こそ、認知症のもっとも初期の症状の原因となります。
例えば小ボケの症状である「鍋を焦がしたり、やかんの空焚き」をしてしまうのは、鍋やヤカンを火にかけているのを「忘れる」のではなく 、他の用事をしていると、前頭葉の中核的な働きである「注意分配力」がうまく働かない状態なので、注意を振り向けることができなくなるから起きる失敗なのです。
いろんなことを思いついたり、企画したりするような「意欲」も前頭葉の役割です。
認知症が始まってすぐ、記憶の障害が目立つ前に「意欲」がわきませんから「何もせず、ボーとして居眠りばかりしている」のですが、そのことを指摘すると「あんたもこの齢になったらわかるわよ」などと妙に納得させられるような反論にあったります。そうすると「『物忘れ』もそんなに目立たないし、やっぱり歳のせいかなぁ」と、折角の認知症を回復させられるゴールデンタイムを見逃してしまうのです。
ホンコンドウダン


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