脳機能からみた認知症

エイジングライフ研究所が蓄積してきた、脳機能という物差しからアルツハイマー型認知症を理解し、予防する!

見事に生き抜かれました

2019年02月18日 | エイジングライフ研究所から

訃報が、また。
伊豆高原に住むようになってすぐにお近づきになった小野先生。1月に89歳におなりでしたから享年90歳。
「僕ほど人生に満足している人はいないと思う。妻をはじめ家族、仕事、交友。そしてここ伊豆高原の生活を満喫しているから」今このお言葉が胸をよぎります。

「先生と呼ばないでください」とおっしゃいましたが、皆さんがそう呼ばれていたことと、それ以上に「先生」の敬称がぴったりだったのです。穏やかな紳士で、博識で、そのうえ新しいことやご存じないことには興味津々。
「僕の職場には、教育部門、生産部門そして宿泊部門もあるんです」
???
「時の総理大臣も泊まられたことがある・・・」
「アッ刑務所ですか?」
今アップした写真のような表情でうなずかれました。
まだまだ戦後といってもいい時代、大学院を卒業された先生が刑務官を志望なさるに当たっては、多分ドラマがあるはずですが残念ながら伺っていません。
福岡―東京―奈良ー佐世保(ここでもう所長!)-東京ー山梨ー仙台―東京。もう少し異動があったかもしれませんが、その時その時の生活ぶりを折に触れてはお話しくださいました。
最高位である東京矯正管区長をお勤めになられて定年退職なさったのですよね。その後委員になられたり教鞭をおとりになったり。生活の場として伊豆高原をチョイスされましたが、いつも「海あり山あり。居間に座していても景色が季節を教えてくれる。温泉もあっていい選択だった」と微笑みながら、悠々自適の生活をなさいました。
私たちは、ちょっと歳は離れてその上男女なのですが、お話しするととどまるところがないような感じで楽しい会話が続きました。
会話の幅はとても広かったと思います。
生きるということに特化して、お話ししたことは何度もあります。「いかに生きるか」ということは「いかに死にゆくか」と同義でもあります。

この書類が用意されていることは、ご家族はご存じなかったそうです。日付は2012年6月11日。
言葉で聞かれたことは何度もあったでしょうが、私もうかがってますから。でも、こうして明文化しておくことは大切なことですね。

前書きの部分です。

そして最後の署名。私は初めて拝見する先生の筆跡を見つめてしまいました。
「本当に先生らしい…」どう見ても男性の字だと思いますが、明るく軽やかで優しい。

一昨年、私たちが書いたリビングウイルや友人が用意したリビングウイルをブログにアップしました。
宣誓記述書
友人が書いた本式のLiving Will

「これをブログにあげさせていただきたいのですが」とためらいがちにお伺いしたら、奥様もご長男も
「まったく構いません!これは真意だったはずですから」と即答してくださいました。

先生とのご縁は、と書き始めると本当に限りがありません。
会話を楽しんだだけでなくハイキング、春も秋も本当にいろいろなところにご一緒させていただきましたねえ…一泊旅行も何度も。K所さんご夫妻と3夫婦での月一度の夕食会も楽しい体験でした。川奈ホテルでのクリスマス会や新年会は、ちょっとお洒落をして。

新しいお店を探してお連れすると、気に入ってくださったときはちゃんとほめてくださり、お気に召さないと優しい口調で「僕には合わない」と伝えてくださいました。
先生は、いつの時もご自分の考えをしっかりお持ちでした。その伝え方が、単刀直入にもかかわらず、耳を傾けたくなるような力を持っていらっしゃったと思います。
話が脱線していますが、思い出が尽きません。
伊豆高原の小野先生を思い浮かべると、IKOI農園(哀悼記事のページにしてあります。ここを読みながらIKOIの皆さんのお気持ちを思って、ともに涙を流しました)を外すわけにはいきません。お宅のすぐ前の畑を、有志の方に開放して皆さんで農作業や収穫祭を楽しまれたのです。IKOI農園のお仲間があってこそ、お仲間と一緒に「農作業にいそしむこと」や「歩こう会や遠足など」という多分想定外の楽しい人生が繰り広げられたのですね。

先生、ほんとによかったですね。
小野先生は私のパソコンの先生でもありました。具体的なご指導もありましたが、パソコンにはどのように対峙すればいいのかというようなことを教えていただきました。
スカイプの初期のころに我が家で実験しましたね。アイフォ―ンの便利さを教えてくださったのも先生。先生に誘われてポケモンにもはまり、私たち競い合う始末。

私の返信です。
「帽子ピカチュウ、孫からうらやましがられました。私もピカチュウを肩に乗せたいのですが10キロ歩かないとだめですってね!道は遥かです。レベルはまだ21です」もしかしたら、遊びながらお互いに脳を刺激しあっていたのでしょうか。

私が今日ここに記しておきたいことは、小野先生との思い出ではないのです。
先生の書かれた「私の終末期及び死についての要望書」の全文を、先生と共にした珠玉の時間を思い浮かべながら転載します。

(1)私が終末の状態であると診断されたとき、または2ヶ月以上植物状態が継続したときは、延命の措置(蘇生術の施術、生命維持装置の新たな装着または装置装着の継続を含む)は一切行わないで下さい。
(2)私の死が不可避であると診断されたときは、その病名・性質などの医学上知りうる情報を隠すことなくありのままに私に告げて下さい。
(3)私の死が不可避であり、なお意識があるときは、肉体的・精神的苦痛を取り除くための出来る限りの措置を実施して下さい。そのために、死ぬ時期が早くなってもなんらかまいません。
(4)家族に特別の負担をかけることなく、また緩和ケアが可能であるならば、自宅で逝くことを希望します。なお、自宅で病状が急変し病院に緊急移送された場合であっても終末期であると診断されているときは、延命のための緊急措置は一切行わないでください。
(5)私が脳死の状態になったと診断されたとき、私の臓器提供は行わないで下さい。また、死後における遺体解剖は法の定める場合を除き拒否します。
(6)私は無宗教ですから、形式的・伝統的な葬儀は執り行わないで下さい。家族など内輪だけの非宗教的な所謂「家族葬」を希望します。
(7)私が所属していた組織及び団体への死亡通知は、先方から問い合わせがあった場合を除き、積極的に行うのは死亡後1月を経過してからにして下さい。


川奈ホテルのレストランから見える今年2月の寒桜です。
先生は「死んだら終わり。灰になるだけ」とおっしゃっていましたが、そしてそう聞かされたときにもモゴモゴと反論したのですが、ここだけは先生が間違っていらっしゃると思います。
こんなに鮮やかに、先生は私の胸の中に居続けていらっしゃいます。またいつの日にか積もる話が楽しめそうな気持です。

小野先生のブログをご紹介しておきます。どんな先生でいらっしゃったのかをよく感じることができます。
「伊豆高原シニア・ライフ日記」(今はもうお別れのお言葉がつづられています・・・)
2018年12月1日の記事「生死の境を彷徨う」最終行には、心打たれます。これは先生の実感でしょうが、ご家族にあてて書かれたもののようでもあります。


 


さようなら A川先生

2019年02月11日 | エイジングライフ研究所から

大切な友人の訃報が届きました。81歳。
(2月1日写す)

24年前、講演に行った北海道美瑛町置杵牛(おききねうし)でA川先生ご夫妻に出会いました。置杵牛小・中学校の校長先生と公民館館長を兼任されていました。奥さまも地域の皆さんを支えていらっしゃる様子がよくわかりました。
「きぬちゃん」と呼んでくださるようになったのはいつの時からだったでしょうか。A川先生ご夫妻のほかは伯父たちだけが私をそう呼んでくれました。そうですね。私にとって、甘えることができる親戚のようなお付き合いが続きました。
ご夫妻で我が家にいらっしゃったこともありますし、一緒に旅をしたこともあります。私は仕事の時に何度もお邪魔しました。夏のBBQもあれば、すしパーティの時も。知らずに伺ったらなんと入院中だったこともありました。
定年退職なさったあとも、教職に就かれたり民生委員をなさったりしていましたが、そのうち病気のお知らせをいただくようになってきました。7歳の時結核に罹られたことが影響していたのかもしれません。A川先生は、どちらかというと華奢な方でした。
(1月28日写す)

心筋梗塞、腹部動脈瘤とちょっと怖い病名が続きました。どの病気の後だったでしょうか・・・いつものように短い時間を利用して訪問しました。
「このままでは、まずい」と思ったような気がします。特別のことがあったというよりも、このように体調に一喜一憂することが主である生活は脳の健康には悪影響があるにきまってます。記憶はあいまいですが、そういうことだったような気がします。
ご夫妻と三人で、ああでもない、こうでもないと脳リハビリのテーマを決めました。
「まじめな教育者」「立派過ぎるくらい立派な人格者」「特別の趣味はない」ととっても困った条件が並びます。
ところがA川先生にはすごく幸いな性格があるのです。それは「人好き」「人懐っこい人柄」「子供が好き」「生徒が大切」というような性格です。

「寺子屋作戦」がチョイスされました。
隣家には息子さんご一家がすんでいます。お孫さんのS太君が3年生だったでしょうか?塾生はS太君とお友達と一緒に。
「勉強を一足先に進めていくような塾はどこにでもあるのだから、そういう塾ではなくて先生が教えてあげたいことを教える」小学校の教室のようにいろんな勉強を、おやつやお茶付きで教える楽しい教室だったそうですね。図工の先生だった奥さまが図工担当になられたこともあったのですよね。
脳リハビリはとにかくやってみなくては、うまくいくかどうかはわからないのです。(3か月は継続してみて、いやならやめる。ただし次にやるものを決めておいてからやめる)
この寺子屋作戦はうまくいきました!
今回のご葬儀に、その時の塾生が参列したそうです。そして今の塾生も。つまり「現職のまま」向こうの世界に移られた。
(1月29日写す)

歩いてすぐのところにショッピングセンターがあるので、「イオンに行きましょう」が散歩の合言葉。コーヒー店や本屋さんの常連だったそうですね。私の次男が文藝春秋「同窓生交換」のページに掲載されたときには、とても喜んでくださって「イオンに本屋さんがあるから、すぐ読むよ」とおっしゃっていましたが、きっと店員さんともお話に花が咲いたことでしょうね。お若い女性スタッフと仲良くお話してる姿はいつも奥さまにみられてましたよ。
大きな手術の後、うまく歩くことができなかった時期がありました。半年間は間歇歩行、少ししか歩けなかったのに、それでも「使わなければ使えなくなる」と努力を続け2年で普通に歩けるようになられたそうです。
でも、だんだんと外を歩く時は杖があった方が楽になられ、最近は家の中でも杖を持たれることが多くなったとか。
多分白内障の影響らしいのですが、寺子屋の時、字がよく見えないと授業に差しさわりが出始めて不安を感じられていたらしいです。体は徐々に限界を訴え始めていたということでしょうか。(手術はできないとの診断が・・・)

A川先生はご家族に恵まれていました。もちろん奥さま。
「病気の後の13年はほんとに一緒でした。一緒に居られてよかったと今思うの。やるだけやってあげられた気もするし…」
私「それは先生が優しい方だったから」
「ほんとに。若いころは正義感に燃えて世の中に怒ってたけど、最近はほんとに穏やかに『7歳で命がなかったはずなのに生かしていただけた。もう十分生きられた』って。そう言うたびに息子が『そんなこと言ったら、そうなっちゃうから言わない!』と叱ってくれて。とにかく穏やかだったわねえ。私が趣味の会に出かけるときにも全く文句はなかったのよ」

お隣の息子さん一家も実に協力的でした。
長男S太君が中学生になると、部活も始まり寺子屋の時間が無くなりました。少しの休みはあったようですが、次男R平君とお友達に英語寺子屋が再開されました。
保護猫を飼い始めました。あくまでもR平君の猫なのだそうです。「ただ食品を扱う家業のため、家では飼えないためおじいちゃん家で飼ってもらう」ことにして飼い始めたそうです。
「猫を飼ってみるとかわいくて、脳が活性化されるかも」「R平君が猫に会うためにたびたびおじいちゃん家に顔を出す」この二つの狙いがあったとか。
どちらの狙いも大当たり。前半の狙いはよく耳にしますが、後半の狙いは今回初めて聞きました。こういう時に家族の力を感じます。そしてその家族を育てたのは当のご本人なのです。

これは去年のクリスマスにお嫁さんが送ってくれました。クリスマスのホームパーティの後オセロ対戦。
添え書きは「結果は、現役中学生に敗れ『参りました』とおじいちゃん!」

A先生 お幸せな人生でしたね・・・
奥さまから「去年11月の道展出品作を一緒に見られたのよ。そのうえ『札幌まで来てるから』と夫が言い出して、お姉さん、妹さんに会ってお話しできたしね。ごく普通に二人で出かけてですよ」と聞きました。こういうことは奥さまの幸せ感につながります。
お孫さんたちにも寺子屋を通じて、さらにたくさんの思い出ができたことでしょう。私にもたくさんの笑顔と優しいお声と様々なシーンを残してくださってます。
A川先生 そんな幸せを残して逝ってしまわれたのですね。

かくしゃくヒント7-寺子屋作戦

かくしゃくヒント20ー寺子屋作戦その後




ブログ村

http://health.blogmura.com/bokeboshi/ranking_out.html