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スイスのInstitute Le Rosey-2(高田万由子~高田家)

2024年04月18日 | 人物

ル・ロゼで学んだしたことがある日本人の一人が、女優でもあり、葉加瀬太郎氏の妻でもある高田万由子氏。

高田万由子 - Wikipedia

彼女は高田商会の創業者高田慎蔵の曾曾孫。


高田慎蔵 - Wikipedia

高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2月21日〉 - 大正10年〈1921年〉12月26日)は、明治大正期の機械貿易商。

(中略)

妻のたみ子(1853年生)は東京の商家の娘(旧姓池田)[2]。七男五女の子があったが[2]、正妻との間に男子がなかったため、次女・雪子(1885年生)の婿に田中平八の三男・釜吉(1876年生)を迎え、慎蔵の事業を継がせた[6][4]。釜吉は井上馨の世話により1892年にドイツに留学、ベルリン工部大学に学び、1902年に帰国し、芝浦製作所、東京電燈を経て、1906年雪子と結婚し、1909年に高田商会に入社した[8][9]。マルチタレントの高田万由子は、釜吉・雪子の曾孫(娘・愛子の孫)で、慎蔵の曾曾孫。

別の女性との間に生まれた三男・高田邦三郞 (1878年生)は、高田商会無限責任社員として父慎蔵を助けた[10]。長女まつの入り婿・高田信次郎も無限責任社員となり高田商会の代表社員を務めたが[11]、大正7年の製鉄所社員に対する同社の収賄事件で収監された[3]。 孫娘にピエール・カルダン専属のファション写真家として知られる高田美(たかたよし、1916-2009)がいる[12][13]。戦後AFP通信社で働いたのち[14]、38歳で渡仏後写真を始め、カルダンと日本を結ぶ窓口として活躍し、日仏交流の功労者としてフランス政府、パリ市から叙勲された[15][16]。 また、ミカエル・ベアと荒井ロクのあいだに生まれた子照子をベア帰国時に養女にした。照子は兵学者原田一道男爵の長男で地質学者の原田豊吉に嫁いだ。

(後略)

参考:

Martin Behr — Wikipédia (wikipedia.org)

原田豊吉 - Wikipedia

原田熊雄 - Wikipedia

有島生馬 - Wikipedia

 

高田商会 - Wikipedia

株式会社高田商会(たかたしょうかい)は、日本の兵器機械商社。日清・日露戦争期に急成長し、総合商社としてはともかく兵器機械商社としては大倉組と並んで三井物産をも凌駕していた[1]。

沿革

高田商会の創業者は高田慎蔵である[2]。高田は1870年から築地居留地ドイツ商館の輸入商であったアーレンス商会に勤務し、同商会からベア商会が独立すると同商会の番頭となった[3]。 明治初期における日本の貿易は外商と称されていた商館による独占状態にあり、こうした状況を改めるべく1880年(明治13年)、三条実美太政大臣により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう内達が出された。

このことによるベアの日本での商売断念により、高田がベア商会の商権を買い取って1881年1月に資本1万5000円で高田商会が設立された[4]。出資は日本人の分は高田は3分の1のみで残りはアーレンスおよびベア商会店員であったジェームズ・スコットであったが、この出資比率は秘密にされ内商として設立された[4]。その後、アーレンスとスコットの死去により高田の個人経営となる[5]。

高田商会は兵器機械などの輸入販売業としては業界トップとなり、1894年の日清戦争では軍需物資を扱って巨額の利益を上げた[6]。1897年ごろにアームストロング社の、1897年にはウェスティングハウス社の日本代理店となった[7]。1897年(明治30年)の八幡製鉄所建設の際には設備を納入、1903年(明治36年)に開催された内国勧業博覧会に自動車部品を出品、その後自動車や自動車部品の輸入・販売を手がけるなど、次第に総合商社として業容を拡大していく。

日露戦争時には戦時禁制品の輸入や明石工作にも関与した[8]。 1907年(明治40年)12月、合資会社へ改組[9]。資本金100万円[9]。 創業者の高田慎蔵は汽車製造や細倉鉱山への資本参加も行い、同鉱山は1911年(明治44年)には高田鉱山と改称、1918年(大正7年)には高田鉱山株式会社を設立している。

1912年(明治45年)、高田慎蔵は社長を退き養子の釜吉が社長となる[10]。 1918年(大正7年)、製鉄所社員への贈賄事件により副社長と理事が収監され、1921年(大正10年)には創設者の高田慎蔵が病死、さらに、1923年(大正12年)の関東大震災により社屋が倒壊し商品を焼失した損害に加え、為替差損などもあいまって1925年(大正14年)2月経営破綻、整理会社となる[11][12][13]。

(中略)

1963年(昭和38年)日綿実業に吸収されたものの、同年高田商会関係者により第3次の株式会社高田商会が設立され、現在も機械専門商社としてその名は存続している。

(中略)

1925年(大正14年)10月20日、麹町区永楽町にあった高田商会の建物(後述)が東京区裁判所で競売に付された。落札したのは債権者でもある日本興業銀行で、落札額は112万1553円。数千万円に及ぶ負債の整理に充当された[17]。

 

高田万由子氏がル・ロゼに1年留学したのは、高田家にこの学校に留学する人が多かったからなのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、高田家の欧州でのネットワークは今も生きているでしょう。


参考:

エミール・ガレとロジェ・マルクス-3(ジャポニスムと武器商人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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