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ナチスドイツとホロコースト-9(ヨアム・フリードマン氏とジョージ・ソロス氏)

2021年04月22日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

最近、ポーランドのユダヤ人少年の映画『二つの名を持つ少年』という映画があることを知りました。

ユダヤ人迫害の中、生き延びた8歳の少年の生涯を描いた実話。《ふたつの名前を持つ少年》【映画あらすじ】 - YouTube

この映画の少年のモデルは、ヨラム・フリードマン氏という14歳からイスラエルにわたったユダヤ人男性です。

イタリア語版ウィキペディア

Yoram Fridman - Wikipedia

をGoogle翻訳すると、まあ大体体験したことは映画の通り。

(映画のなかで、彼が隠れて働いていた彼がナチの将校によって助けられ、農場もそのナチの将校夫妻のものだったことになっていますが、それは書かれていません。)

「スルリック」として知られるヨラム・イスラエル・フリードマンは、1934年にポーランドで生まれました。ユダヤ人の家族から、彼はワルシャワ近くのブウォニエの村のパン屋の息子です。 ドイツがポーランドを占領したことで、スルリックはワルシャワゲットーで家族と一緒に投獄され、そこで2年間、ひどい生活条件、飢餓、病気を乗り越えました。

1942年に、絶滅収容所への差し迫った国外追放に直面して、彼はドイツのパトロールの打撃の下で死んだ彼の父によってゲットーから密輸されました。放っておけば、Srulik(現在はJurek Staniakと呼ばれています)は、森の中に隠れて暮らす孤児の一団に最初に加わります。ドイツのパトロールの絶え間ない恐怖の中で、彼は新しい環境の猛威に素早く適応しなければなりません。

素手で魚を釣ったり、アヒルを狩ったり、出会ったさまざまな農場から食べ物や木を盗んだりするのが上手になります。冬の始まりとともにグループが解散すると、スルリックは自分だけがポーランドの農民のドアをノックして仕事と引き換えに避難所を求め、しばしば拒絶や殴打に遭遇することに気づきます。結局、彼はポーランドの農民、妻、そしてパルチザンの母親によって農場で歓迎されました。女性は彼に非ユダヤ人として振る舞うように指示し、カトリックの祈りを教え、十字架とロザリオを与え、そして何よりも、割礼を隠すためにズボンを脱いだり誰かに見られたりしないように警告した。

1] すべての予防策にもかかわらず、同じ場所に長くとどまるのは危険すぎます。スルリックは、発見されるという絶え間ない脅威の下で、村から村へと放浪者としての生活を再開しなければなりません。何人かの農民は彼が生き残るのを助けます、他の農民は報酬のために彼をナチスに裏切る準備ができています。ある日、農場で仕事を見つけた彼の腕は、穀物粉砕機に閉じ込められました。

病院では、彼がユダヤ人だったため、医師たちは当初彼の治療を拒否しました。彼の腕は最終的に切断されなければなりません。この事件にもかかわらず、ジュレックは放浪生活を再開し、常に捕獲から逃れ、解放されるまで生き残ることができました。彼は再びカトリック教徒として亡くなり、次の3年間はウッチの孤児院で過ごしました。大人の好意をカレーして食べ物を稼ぐために、ジュレックは彼が腕を失った方法について空想的な話をし、最初にドイツの戦車を非難し、最後にヒトラーが個人的に腕を切ったことをリスナーに保証しました。

1948年に、彼はユダヤ人の研究機関によって追跡され、彼の最初の沈黙にもかかわらず、最終的に彼のルーツに戻って彼自身のアイデンティティを取り戻すことにしました。イスラエルに移住したスレクは、言語を学び、勉強を終えます。彼は数学の教師として働いており、1963年に彼はロシア出身の少女と結婚しました。

この映画を観ていてふと思い出したのは、ポーランドではありませんが、戦時中をハンガリーで過ごしたジョージ・ソロス氏のこと。

同じユダヤ人でも、お金持ちのソロス氏は、フリーマン氏のような目にはあいませんでした。

ジョージ・ソロス - Wikipedia

橋本努「ジョージ・ソロス―投資と慈善が世界を開く」 (hokudai.ac.jp)

抜粋:

1930年、ハンガリーの首都ブダペストに生まれたソロスは、幼少の頃からかなり強い「救世主的夢想」に取りつかれてきた。「自分を森羅万象の創造主、つまり神だと考えることは、一種の病気だといえる。でも私は、もうそのことに不安は覚えない。私は、そのように生き始めたのだから」。

   驚くべきことだ。ソロスは「神」のように生きている。このように述べることのできる人間は、そう多くはないだろう。まず最初に、ソロスの人生を追跡してみたい。

   ソロスの父ティヴォドアは、第一次世界大戦に志願して中尉にまで昇進したが、ロシア戦線で捕虜になり、シベリアの収容所に送られた。しかしその死地を脱出し、何週間もかけてサヴァイヴァル生活を生き抜き、近くの町までかろうじてたどり着く。ところが今度は、革命の混乱に巻き込まれてしまい、ハンガリーに戻ってきたときにはすでに野心を失い、思い描く楽隠居生活を望むようになっていた。父の職業は弁護士であったが、本当に必要なときにしか働かず、顧客から借金して、週末にスキーにでかけたりもした。1939年に第二次世界大戦がはじまると、父は危険を察知して、自分の財産を処分しはじめた。そしてドイツがハンガリーに侵攻する頃には、ほとんどの家財を売り払っていた。

   1944年3月、ドイツがハンガリーを占領したのは、ソロス14歳のときであった。その侵攻は銃声のしない平和なやり方であったが、ソロスの父にとって、いよいよ本領発揮のときであった。ナチスの侵攻という危機的な状況では、通常のルールは適用されない。法律に従う習慣は、かえって危険であり、法律を無視することこそ生き残る道であった。父は家族のために偽造の身分証明書を手配し、生活のための隠れ家を全部で11部屋も見つけ、家族だけでなく周囲の多くの人々を助けた。さらに父は、ハンガリー政府の役人を買収して、ソロスをその息子に仕立てあげた。役人の仕事とは、アウシュヴィッツに連行されたユダヤ系の不動産所有者の財産を没収することであったが、ソロスはその役人と共に国内を回った。もし正体がばれていたら、ソロスは生き延びられなかったにちがいない。

   ソロスは後に、この危険な1944年こそ、自分の人生のなかで一番幸せな時期であったと述懐している。生活はエキサイティングで冒険的であり、尊敬する父がいて、人々の命を救っていたのだから。しかし史実によると、1944年から1945年にかけてハンガリーでは、6万人のユダヤ人が虐殺されている。全体では40万人の大虐殺であった。しかもナチス当局は、強制連行の命令書を配布する仕事をブダペストのユダヤ人協会に命じており、その任務は幼いユダヤの子供たちが担っていた。ソロスもその一人であり、ユダヤ人大虐殺に手を貸したという重い経験をもっている。戦争が終わると、ハンガリーはソ連の衛星国となった。そこでソロス家は、再び祖国の将来を悲観する。1947年、ソロスは父から出国の資金を得て一人イギリスに渡り、1956年には両親も移住することにした。

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