新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

6年前の南九州旅行 4日目のこと(後編)

2017-03-27 19:28:51 | 旅行記

せっかくのタイミングですので、「6年前の南九州旅行 4日目のこと(前編)」のつづきを書いてしまいます。

仙厳園・尚古集成館からカゴシマシティービューに乗って市街地に戻った私は、宮崎に向かう電車の時刻まで鹿児島の市街地を散策しました。
ルートマップはこんな具合です。

ルートマップ

まず最初に向かったのは①西郷隆盛終焉の地でした。

観光スポットとしてはかなり地味で、人っ子一人いませんでしたが、場所柄、それも良しとします。
でも、来年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」ですから、来年はかなり賑わうのでしょうねぇ

ここからほど近いところに、西郷隆盛が設立し、西南戦争発火点ともなった②私学校跡がありました。

石垣には、あばたのようにたくさんの凹んだところがありますが、これらは西南戦争のときの弾痕なのだそうな。

傍らに、西郷隆盛の年譜を含む丁寧な説明板が立っていまして、

遣韓使節をめぐる政争に敗れたことで、辞表を出して帰郷した西郷隆盛は、一介の農夫として静かに暮らそうとしました。ところが西郷を慕って続々と帰郷した若者たちはこれを許さず西郷は求められるままに、私学校を設立しました。
1874年(明治7)6月、鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校と村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として城下に12、県下に136もの分校が生まれたのです。(中略)
私学校は年々強大化し、反政府の気運を高まらせ、ついに過激派生徒が暴走。政府火薬庫の襲撃によって西南戦争を引き起こし、私学校はわずか4年でその歴史を閉じたのです。石垣には激戦のあとを物語る銃弾の跡があります。

だとか。
「私学校」という名前は、私立学校のイメージですが、銃隊学校とか砲隊学校とか、何やら物騒です。私学校では普通の教育も行われたようですが、西郷隆盛は何を考えて私立兵学校みたいなものを作ったのでしょうか?
若者のガス抜きのつもりだったのか? もしそうだとしたら、あまりにも危険すぎる… 

そんなことを考えながら歩いていくと、すぐに薩摩藩の本拠地だった③鶴丸城跡に到着。

鶴丸城址北東隅注目

ものの見事に北東隅に切り欠きがつくられていて、これはどう見たって鬼門(艮=丑寅=北東)」消しですな。
それはそれでドキドキものなのですが、この鶴丸城、単純な平城で、起伏はないし、ちょっと石垣が残っているだけで、あまり見物して楽しい城ではありませんでした。

残っていれば見どころだっただろう御楼門(大手門)も、熊本鎮台の分営として使われていた1873(明治6)年12月に焼失してしまったとな。
明治初年に軍隊が使っていた城跡が炎上するケースって、 鶴丸城に限らず、少なくない気がするんですけど、どうしてなんでしょ…

正直、鶴丸城跡面白くなかったのですが、鹿児島市街地には魅力的「近代建築」がいくつも残っていて、凄く面白かった

まず、巨大な④西郷隆盛銅像の斜向かいにある鹿児島市中央公民館(旧鹿児島市公会堂)。

この建物は、

大正13年1月の皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚の記念事業として大正15年8月に起工、昭和2年10月に完成し「鹿児島市公会堂」として発足しました。

だそうで、雰囲気がありますなぁ。

そして、⑤鹿児島県立博物館本館(旧鹿児島県立図書館)。

この建物は、「九州で最初のコンクリート造りの図書館」だそうで、竣工は鹿児島市中央公民館と同じ1927年
曲面の使い方が大変よござんす

また、鹿児島市中央公民館から鹿児島県立博物館本館に向かう途中にある鹿児島県教育会館(1931年竣工)もなかなかの佇まいでした。

新造ビル竣工ラッシュだった昭和初期国道10号線の終点界隈にタイムスリップしてみたいぞ

上に載せたルートマップを見るとおり、ここから私は迷走いたしまして、なぜか目的地の鹿児島中央駅とは逆の方向に足を進めました。
道に迷ったはずはないのですが、どうしてこんなルートをとったのか、記憶にありません…

もう一度④西郷隆盛銅像を観たいと思ったのか、

はたまたこれまた巨大さが目を惹く建物(⑥西本願寺鹿児島別院)を観たかったのか、

う~む です。

それはともかく、このあと、こんな貼り紙っつうか号外を目にしました。

 ビンラディン容疑者殺害

ですって
これを見たとき、これで終わるとは思えない…という気がしたのですが、残念ながらその私の予感は当たっていました 

イスラム過激派の話に続けるのはイマイチの感もありますが、次は、最後の観光スポット⑦ザビエル公園です。

この日朝、鹿児島中央駅からカゴシマシティービューに乗って城山に向かう途中、「ザビエル公園前」というバス停を通過したんですが、バス停のアナウンスがあったとき、乗っていた若い女性2人組「ザビエルぅ~萌え上がっていましたっけ。

それはともかく「ザビエル公園前」バス停の近く、「鹿児島カテドラル ザビエル教会」といういかにもな名前の教会の向かい側に⑦ザビエル公園がありまして、ザビエル滞鹿祈念碑が立っていました。

ザビエル(フランシスコ・ザビエル)のことは、1549年に来日して、日本にキリスト教を伝えた人物として、みんな学校で習ったはず。
もちろん、この肖像画と一緒に…。

ザビエルの肖像画ザビエルといえば、この肖像画のイメージなんですが、ザビエル滞鹿祈念碑に付属するザビエルの胸像は、、、、、

ザビエルの胸像

肖像画と全然違う

肖像画いかにも宗教者っぽいのに対して、胸像江戸時代末期に日本にやって来た外国人っぽい 

こちらのブログとその引用元のWikipediaによれば、ザビエルの肖像画は、日本人絵師がザビエル来日の80年後頃に想像で描いたものらしい。
胸像が何を資料として作られたものか判りませんが、 どちらが真のザビエルに近いか、それは観た人それぞれの想像に委ねるしかないようで…

さて、鹿児島中央駅に近づいてきた⑧高見馬場交差点で、見慣れないものを見てしまいました。

交差点に立つこの建物は何?
給水塔っぽくも見えるけれど、それにしては低すぎるし、こんな場所に給水塔があるはずもない… 

調べると、操車塔あるいは信号塔というものだそうで、この中にが入って、手動で路面電車(鹿児島市電)のポイントの切り替えを行っていたらしい。

今も現役なのでしょうかねぇ
このご時世、自動でポイントを切り替えるようになっていると思われる反面、用済みにしては、しっかりとメンテナンスされている感じです。

と、考えても、私が高見馬場交差点でこの信号塔を観たのは6年前のことで、現在も健在だという保証はありませんのであしからず…

こうして鹿児島市市街地の観光を終えた私は、朝方、鹿児島中央駅のコインロッカーに入れた荷物を回収して、特急きりしまに乗って、宮崎空港へと向かったのでありました。

う~ん、、、、いろいろと鹿児島市の見聞を深めることができた1日でしたな。
ただ、かえすがえすも、桜島を見られなかったことが痛恨の極み

どうか5月末鹿児島遠征黄砂を含む天候に恵まれますように と切に願う私でありますよ。

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