「福岡遠征2025 #3-3」のつづきです。
「#3-3」の最後に、「太宰府に来る途中、バスの車窓から見えた気になる建物」と書いたのは、太宰府界隈の案内マップによれば、戒壇院の建物だったらしい。
私、天平の昔、日本に戒律を伝えるため、苦労に苦労を重ねて渡航してきた鑑真和上が、日本で最初に授戒(753年)したのが観世音寺でだったことは知っていました。
でも、2019年9月に太宰府を歩いたときは、大宰府政庁跡⇒坂本八幡宮⇒観世音寺⇒太宰府天満宮というルートを採ったのですが、そのときの旅行記は、
古寺・観世音寺は、あまりピンと来ませんでした
宝蔵を拝見すれば印象が変わったかも知れませんけど…
となんとも素っ気ない
そして戒壇院に至っては完全無視…
そんなこともあり、今回は観世音寺の宝物殿を拝見し、戒壇院を間近に見てみたい と思いついたのです。
しかも、今年1月、観世音寺の梵鐘と「兄弟鐘」と言われる妙心寺の梵鐘を拝見し、録音とは言え、その鐘の音を聞きましたし…。(記事)
ということで、太宰府天満宮から観世音寺・戒壇院に行き、西鉄五条駅から電車に乗るまでのルート
はこういうものでした。
逆方向に歩いた 5年半前もそうでしたが、今回も、太宰府駅前を通過し、太宰府駐車センター辺りまで歩くと、それまでの雑踏
と喧噪
が夢だったかのように、人通りはほとんど無く、静まりかえっていました。
観世音寺までの道の途中、周りを見渡すと、2人組の観光客が1組歩いているだけ
私としては、こちらの雰囲気の方が好きであります
太宰府駅前から歩くこと20分弱
で、観世音寺裏手の礎石が並ぶエリアに到着しました。
観世音寺の伽藍絵図 (1526年)からすると、この礎石は僧坊のものと思われます。
大宰府政庁の東に接して建てられた観世音寺は大宰府の庇護のもと九州中の寺院の中心となり「府の大寺」と呼ばれた。
百済を援けるため九州に下った斉明天皇が朝倉橘広庭宮で亡くなり(661年)、その子天智天皇が、母の菩提を弔うためにこの地に観世音寺建立を発願したことが「続日本紀」に記されている。
寺は80数年かけて天平18年(746)に完成し、天平宝字5年(761)には僧尼に戒を授ける戒壇を設置、奈良の東大寺・下野(栃木県)の薬師寺と並んで日本三戒壇の一つに数えられている。
かつては方3町(約330m四方)の寺域を占め、講堂・金堂・五重塔などの建物が整った大寺院であったが、その後、火災や大風にあい、創建時の建物は失われている。現在の金堂と講堂は江戸時代に黒田藩主が再建したもので、県指定文化財となっている。
観世音寺の伽藍絵図を見て気づくのは、中門を入ると、正面に講堂、左に金堂、右に五重塔という独特の配置です。
法隆寺の伽藍配置から、金堂と五重塔を、左右入れ替えた感じですな。
でも、観世音寺の独特なところは、金堂の向き。
法隆寺のように中門側(南)ではなく、伽藍の中心線の方(東)を向いているのです。
興福寺の東金堂も中心線の方(西)を向いていますが、中金堂は中門方向(南)を向いています。
太宰府市教育委員会作成のリーフレットによれば、
現在の建物は災害による倒壊後の元禄元年(1688)に再建されたものです。不動明王が安置されています。創建時の建物を支えていた礎石が使われていますが、当初の配置ではありません。創建時の建物と同じく東向きです。
だそうです。
なお、中門に正対する講堂は、
建物は元禄元年(1688)に再建されたもので、木造杵島観音立像(聖観音立像)が安置されています。建物の周辺には古い時期の礎石があり、現在の建物より大規模だったことがわかります。
ですから、講堂と金堂は同時期に再建されたんですな。
また、五重塔は、
文献によるとかつては瓦葺きの五重塔が立っていたようです。塔は康平7年(1064)の火災で焼失し、以降は再建されませんでした。
現在は塔の中心に据えられていた巨大な心礎と一部の礎石をみることができます。
だそうで、この心礎の大きいこと
と、ここでちょっとした疑問が…。
記事のはじめの方に載せた「観世音寺伽藍絵図」は「大永6年(1526)」の作だそうですが、これが描かれたときには五重塔は無かったはずです。
戦国時代、観世音寺関係者が、「府の大寺」だった律令時代の栄華を偲びながら、古文書や伝承をもとに描いたのかもしれません
さて、観世音寺といえば、国宝の梵鐘でしょう。
その鐘楼がこちら。
なかなかワイルドな石積みです
でも、主役の梵鐘は不在。
鐘楼の手前にある、
この梵鐘は京都妙心寺の鐘と兄弟と云われ その古さに於ても亦優秀さに於ても 正に日本一と稱せられ糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられています
菅公の詩に
都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲
とあるのはこの鐘であります
という説明板がなんか寂しいぞ
(菅原道真の詩も、「見えるのは役所の赤瓦だけ。聞こえるのは観世音寺の鐘の音だけ」と寂しい
)
しかも、梵鐘の代わりに大きなコンクリートの塊が吊されているのは、さらに侘しい…
ところで、このコンクリート塊は、なぜ梵鐘の代わりに吊されているのだろうか?
急に重い梵鐘が無くなると、鐘楼の体が鈍るとか(これは無いだろ)、バランスが崩れるからとか、そんな理由で吊されているのでしょうかね…
ここで「#3-5」(恐らく完結編)につづくのもちょい寂しいので、15年前に九博で開催された1300年ぶりの兄弟鐘の共演「『妙心寺鐘・観世音寺鐘』鳴鐘会(めいしょうえ)」の動画を再掲しておきます。
つづき:2025/06/28 福岡遠征2025 #3-5 【完結編】
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