新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

久しぶりに平野政吉コレクションを堪能

2021-02-07 19:21:50 | 美術館・博物館・アート

一昨日、友人との「1 on 1 飲み会まちなかに出たついでに、秋田県立美術館で開催中の「藤田嗣治 布との対話-筒描・藍染を慈しむ-」を観てきました。

この展覧会は、

藤田嗣治は生涯、染織品や衣装を愛し、自ら収集した品を手元に置いていました。それらの布は、絵の重要なモチーフとして藤田の描いた作品のなかにたびたび登場します。藤田が心を寄せた布は、実際に着たり使うなどされたもので、庶民の暮らしの中の布でした。
本展では、フランス・エソンヌ県にあるメゾン=アトリエ・フジタが所蔵する藤田が日本滞在中に収集した布や着物を、布が描かれた1930年代の藤田作品とともに紹介。日本人の生活に根ざし、藤田が愛着をもって接していた衣服や小物を展示し、日本人の営みを描いた藤田の画業に、布という工芸品からアプローチします。

というもの。
メゾン=アトリエ・フジタが所蔵する布や衣類と、秋田県立近代美術館所蔵の「雪國の少女」「秋田川反美人図絵」「秋田おばこ」3点の絵画(どれもお持ち帰りしたい作品)を除くと、他の絵画作品はすべて平野政吉コレクション藤田嗣治作品だというところが、いかにも秋田県立美術館らしい展覧会です。

   

上に載せた展覧会のフライヤーには2つの画像がフィーチャーされていて、下段は、何度も生で拝見したことのある「自画像」(1936)
四谷左門町にあった借家での食後の一服を描いた作品で、画面の右半分を占める藍染めの壁掛けが印象的です。

この壁掛けは、こちらの、共に自分の画室を描いた2点の作品にも描かれています。

上は戸塚のアトリエを描いた「吾が画室」(1936)で、画面の左端に、下は下六番町(現:六番町)の住居兼アトリエを描いた「私の画室」(1938)で、中央奥に、それぞれ藍染めの壁掛けが描かれています。

フライヤー「自画像」の上に載せられているのがこの藍染めで、はるばるフランスから日本に一時帰国して展示されていました。

出品目録から転記しますと、

 茶道具文様筒描布団鏡表
 148cm × 128cm
 木綿

だそうで、もともとはふとん用の生地(鏡表)のだったんですな

ところでこの展覧会のタイトルの副題に、「筒描・藍染を慈しむ」とあるんですが、この「筒描(つつがき)」って何????

こちらのサイトによりますと、

素朴な糊防染法を用いた染の一種。
渋紙でつくった円錐形の筒防染糊を入れ、絞りだしながら糊置きをし、染色するもの。
図柄は変化に富み、大胆で個性豊かな構図が多く、型紙では出ない線や輪郭が表現できる。

だそうで、お菓子を作るときの絞り出しみたいなものっぽい。
そして、

を防染剤に用いた染色には、型紙を用いる型染と糊で手描する筒描染がある。日本における筒描染の起源は、中国から琉球を経て伝わったとする北上説と、中国から朝鮮を経て伝わったとする南下説があるが、明らかではない。いずれにしても、日本では糊置き防染法を用いた加賀染、友禅染が起こったのが元禄時代(1688~1704)であるのに対し、琉球では室町末期にはすでに筒描染が行われていた。
筒描染は、船乗りの独特の風俗として商人たちの手により本土沿岸各地に伝わり、発達してきたといわれている。

だとか。

   

展覧会では、「藤田愛蔵の布たち」として、茶道具文様筒描布団鏡表の他にも、藤田が日本からフランスに持っていった衣裳端布、さらには藤田自身が制作した衣裳が展示されていました。

驚くのは、この「藤田コレクション」には「ハイ・ソサエティ」的なものがなく、すべてが当時の日本で暮らす一般人が着用していたものであること。

この中で「万祝(まいわい)」「晴れ着」に分類されるでしょうけれど、

船主が船子に、水揚げが千両以上の大漁年にボーナスのような形で年の暮れに反物で贈り、おかみさんが主人の身長に合わせて袷仕立で縫い上げ翌年一月二日に新しい万祝を着、信仰している神社へお詣りし、船主の家で三日三晩の酒盛りをしたそうです。
 一人の漁師さんは平均三、四着の万祝を持っていたそうです。これを着る風習が昭和30年代までは、残っていました。
 大漁のいわば儀式の時だけに着る万祝は、漁業の世界的な服飾文化の中ではかなり珍しいものです。

と、これもまた一般労働者(漁師)の晴れ着ですし、「『江戸っ子』文字型染袢纏」(縦長の「王」の字を格子状に白抜きした柄が素晴らしかった)とか「『魚河岸・魚市場』文字文様型染鯉口シャツ」なんてのは、まさに労働着

ところで、「自画像」左下隅に描かれているのは、

和裁用具です。
藤田は、若い頃から服を自作していたそうで、その手になる2着の袢纏が展示されていました。
「片身替袢纏」も良かったのですが、

私としましては「唐草文様袢纏」がお好みです。

基調の色合いも、ペイズリー風の唐草文様もさることながら、裏地縞模様でございました。

   

NHK朝ドラ「おちょやん」で、主人公の千代のセリフに、

うちが捨てられたんやない。うちがあんたらを捨てたんや。

というのがありました。
このセリフと、1949年に日本からアメリカに渡る藤田が発した、

絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい。

とオーバーラップするのは私だけでしょうか?
米国からフランスに移動した藤田は、1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍から離脱。
さらに1959年には洗礼を受けて「レオナール・フジタ」に…。

 俺が捨てられたんじゃない。俺が日本を捨てたんだ。

という感覚だったんじゃなかろうか?

1920年代にはパリ時代の寵児としてもてはやされていた洋画家・藤田嗣治が、実生活は日本趣味・日本嗜好だったなんて、ねぇ…

   

久しぶりに拝見した「客人(糸満)」、やはりイイ
たっぷりと湿気を含んだ熱い風が窓から入ってくる感じ、そして、サラサラの芭蕉布の着物が心地良さげです

この作品の隣に、藤田コレクション紅型(びんがた)の端布が展示されていたのですが、小さな端布でも紅型だと判るとか文様とか、これまたイイです

   

「藤田嗣治 布との対話-筒描・藍染を慈しむ-」を観終わってから、この展覧会が、昨年末福岡市美術館で開催された「藤田嗣治と彼が愛した布たち」small版だと理解しました。
秋田県立美術館のミュージアムショップで販売されていた図録「藤田嗣治と彼が愛した布たち」のものでしたから。

できることなら、「藤田嗣治と彼が愛した布たち」巡回展を観たいところですが、いかんせん、秋田県立美術館の展示スペースが狭い「県立美術館」と名乗るにしては、あまりにも狭い狭すぎる

展示スペースは、確か、旧秋田県立美術館よりも狭いはず。

秋田県立美術館のすぐ近くに秋田市立千秋美術館があって、そちらとの連携をも考えた結果かもしれないけれど、なんとも解せません

いまさら秋田県民ではなくなった私がぼやいても仕方のないことではありますけど…

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