「令和初の福岡遠征記 #2-2」のつづきです。
大宰府政庁の正殿跡の北西側にある四阿(あずまや)で一息
入れたあと(暑かった
)、趣のある、そして、蝶の群れる木道風の通路を渡って、すぐ近くの坂本八幡宮に向かいました。
今年のゴールデンウィーク期間中、もっとも露出度の高かった神社は、この坂本八幡宮でしょう。
これというのも、「#2-2」で書いたように新元号「令和」の典拠となったのは万葉集の「梅花の歌32首の序文」で、その「梅花の歌32首」が詠まれた宴が行われた当時の大宰帥(だざいのそち)=大宰府長官、大伴旅人の邸宅があったのが、坂本八幡宮の辺りだという「説」があるからでした。
14年半前に大宰府政庁跡に来た時は、坂本八幡宮の存在自体知らなかった私 ですが、大宰府政庁跡とは目と鼻の先ですし、流行に乗ってみよう
というわけです。
と、坂本八幡宮が見えてきました、っつうか、紅白の幔幕が「ここですよ」と教えてくれているようです。
そして、巴文が金色に輝く社名碑が真新しい
日本中、どこにでもありそうな小さな社殿ですが、幔幕が真新しいし、記念撮影
用(あなたも菅官房長官に
)らしい額装された「令和」
も用意されています。
ところが、縁起書を読むと、
この坂本八幡宮は土地神=産土神として崇拝されている神社で応神天皇を御祭神としています。「圓満山四王寺縁起」によれば「嵯峨天皇弘仁2年(811)辛卯2月勅宣にて四王院に釈迦仁の像を造立し有智山寺の沙門鳳詮法師及行願具足の僧11輩を移し開眼供養を遂げられ水田50町を寄付し給う。鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。又坂本坊と呼り。」とされ、平安時代にはこの坂本の地に四王寺の座主坊としての善正寺が成立していたとされています。(以下略)
と、大伴旅人の話が出てくるどころか、平安時代以降のことしか書かれていません
何か腑に落ちないまま、「歴史の散歩道」を通って太宰府天満宮を目指した私でした。
そして、自宅に帰ってからWikipediaを読むと、
坂本八幡宮の真下は発掘調査が行われていないため、(大伴旅人邸が)坂本八幡宮にあった可能性が完全に消えたわけではないが、坂本八幡宮付近が邸宅跡であるとする説は長年の通説的地位を喪失した。
とあって、更に西日本新聞のサイトを読むと、
戦後間もなくから通説のようになっていた同説を検証するため、九州歴史資料館(九歴)は1986年、現地付近を発掘調査した。結果、祭祀用とみられる土製馬形「土馬(どば)」が出たものの、屋敷跡などの遺構は検出されなかった。九歴は「ここは違う」と判断した。
だそうな
あれまぁ~ ですな。
それにしても、30年以上も前に「長年の通説的地位を喪失した」はずの「『梅花の宴』が開かれた大伴旅人邸があったのが現在の坂本八幡宮辺り説」なのに、「『令和』発表直後に中央メディアなどが今も有力説のように報じた」(Wikipediaより)というのは、ちょっと、ちゃんと調べろよ です。
産経のサイトは、
旅人邸の地は諸説あり、そのうちの一つが坂本八幡宮だ。
と許容範囲かもしれないけれど、日刊スポーツは、
旅人が宴を開いた邸宅跡とされる坂本八幡宮には参拝客が大挙し、周辺は大渋滞するなどフィーバーが続いた。
と、フェイクニュースの域に達しています
きっと、事情を知る地元の人たちは、苦笑い
してるんだろうな…
でも、降って湧いた「フィーバー」(古いことば
)を拒否することなく受け入れているのがほほえましい
気がします。
で、「歴史の散歩道」の話は「#2-4」で…。
つづき:2020/01/18 令和初の福岡遠征記 #2-4 (完結編)
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