「『最後の忠臣蔵』は海外で受けるのだろうか?(その1)」のつづきです。
映画の公式サイトに登場人物の相関関係やストーリーが載っていますので、その範囲内で書こうと思いますが、「まっさらの状態で映画を観たい」という方は、この記事をすっ飛ばしていただきたいと存じます
「As Time Goes By」のメロディが流れ、ワーナー・ブラザースのロゴが映し出されたときは、また予告編かと思っていました。
が、次にスクリーンに現れたのは、人形浄瑠璃の名作「曽根崎心中」の道行(みちゆき)の場面。
そして、教科書にも載っていた近松門左衛門の名文が映し出されます。
此の世の名残 夜も名残 死に行く身を譬ふれば あだしが原の道の霜
一足づゝに消えて行く 夢の夢こそ あはれなれ
ここに来て、「本編」が始まったことに気づきました。
そして、物語が決して明るく終わることはないであろう予感も…。
作中、何度も挿入される「曽根崎心中」の初演は、題材となったお初・徳兵衛の心中事件からわずか1か月後の元禄16年(1703年)、赤穂浪士の討入り(元禄15年12月=1703年)からほんの半年後のこと。スキャンダラスな心中事件に大騒ぎする一方で、集団で名門旗本家に押し入り、主君の本懐を遂げた赤穂浪士に喝采を送った人々に反応には、太平の世が始まって(元和厭武)から100年近く経った時代の、熱湯と冷水が混じったようなアンビバレントな世情が感じられます。
「最後の忠臣蔵」の主人公は、吉良家討入り直前に逐電(ちくでん)し、「敵前逃亡した卑怯者」との世評を背負いながらも、主君・大石内蔵助(浅野内匠頭ではありません)の命令を受けて16年間生きながらえてきた瀬尾孫左右衛門です。
武士の身分を捨てて古物商として暮らしているだけではなく、墓参りで遭遇した旧浅野家家臣たちから「どの面を下げて生きている」と斬りつけられると(そういうあんたらはどうして生きていると突っ込みたい)、「命だけはご勘弁を 今死ぬわけにはまいらないのでございます」と必死に命乞いする情けない姿をさらけ出す「まござ=孫左右衛門」。
まござが、恥辱に耐えて守ったもの、それは大石内蔵助の遺児・可音(かね)だし、大石内蔵助から授けられた使命だし、武士道そのものだったわけですな。
ですから、可音をしっかりと育て上げ、玉の輿に乗せることで内蔵助の命令を果たした後、まござがとるであろう行動は、、、やはりあれしかないのだと私は納得しました。
レビューを読むと、映画の結末に不満の方も時々いらっしゃるようですが、それは現代人の感覚を江戸時代の武士に求めているからだと思うわけで、まござの最後の台詞をちょいといじくって、
かいしゃく無用
と言いたくなります。
ところで、この記事のタイトル「『最後の忠臣蔵』は海外で受けるのだろうか?」ですが、映画の結末が外国人に受け入れられる=理解されるかが、私にはよく判りません。
日本人だって受け入れられない人がいるというのに、です。
でも、こちらの記事によれば、10月18日にロサンゼルスで行われたプレミア試写会では、
本編上映中は、各役者の演技に笑い声などのリアクションが起きるも、終盤以降は涙を拭ったり、すすり泣く観客が続出。本編が終わった後も、エンドロール終了まで誰一人として席を立たず、上映終了と共にスタンディングオベーションがおこり、喝采は数分間にも及んだ。この様子を見て本社スタッフも「プレミア上映といっても、エンドロールになれば席を立つことはハリウッドでは当たり前。このスタンディングオベーションは、作品が認められた証だと思って間違いないです!」と、熱のこもった意見を聞かせてくれた。
だそうです。
判らないといえば、何度も挿入される「曽根崎心中」と映画のストーリーとの関係を完全に理解できていません。
「同時代性」はあるものの「同期性」は感じられませんでした。可音とまござの関係はお初と徳兵衛との関係とはまるで違います。「恋というものを知りません」と言う可音が「恋というもの」をおぼろげに知るきっかけになり、まござに対して恋心のようなものを抱いた可能性はあるかもしれませんが、まござが可音に対して恋愛感情を抱くような展開にはなっていないと思います。
そんなわけで、繰り返し「曽根崎心中」の場面が映し出されることには?????です。
でも、「最後の忠臣蔵」の話の筋を離れると、「曽根崎心中」の場面場面のなんとステキなこと
語りと三味線一挺だけのシンプルな「音響」と人形で、あれほど見事な舞台が作り上げられるとは、なんとも凄い 特に、人形の所作は、ちょっとした俳優では太刀打ちできない素晴らしさでした。
と思ったら、人形を遣っているのは当代の第一人者の一人、三世 桐竹勘十郎さん
いつか生で人形浄瑠璃を観たいものだと心底思いました。
キャストの皆さんは、まござ役の役所広司、寺坂吉右衛門役の佐藤浩市(16年間の互いの辛労辛苦を思いやって見つめ合うシーンは秀逸)だけでなく、どなたも好演でした(ラスト近くの奥野将監は不要だと思う 監督とか映画会社と縁の深い役者を顔見せで使うのは日本映画の悪いクセ)。
とりわけ印象的だったのは、可音役の桜庭ななみ(私、去年、NHKで放映された連ドラ「ふたつのスピカ」を、ベタだなぁ~なんて思いながら、ほとんど観てました)。気品と清楚さが出ていて、大変によろしかったと思います。竹本座で人形浄瑠璃を見物する可音の姿は、茶屋四郎次郎(笈田ヨシが雰囲気満点)・修一郎親子ならずともハッとするほど光り輝いていました
「その1」で書きましたように、
お薦めします
でして、5つ星満点では★★★★。
★一つの減点は、前述の「奥野将監が登場した」ことと「曽根崎心中」の位置づけが不明瞭だったこと、そして、嫁入り道中に旧浅野家家臣たちが加わるエピソードがくどかったことが理由です。
でも、渋くて素晴らしい作品だと思います。
(恐らく)今年最後の映画鑑賞でも素晴らしい作品に巡り逢えて幸せデス
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