三日坊主日記

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イスラーム(2)池内恵『シーア派とスンニ派』

2020年05月16日 | 

池内恵『シーア派とスンニ派』によると、イスラム世界がシーア派とスンニ派とに単純に二分されているわけではありません。

全世界のイスラーム教徒の約1割か1割5分程度がシーア派と言われている。
中東だけに限れば、シーア派の割合はもっと高くなる。
シーア派の中にも複数の宗派があり、便宜的に「シーア派」と位置づけられているだけで、シーア派の異なる分派の間には宗教的なつながりが乏しく、関係が薄い宗派もある。

シリアのアサド政権の中枢はアラウィー派が多くを占める。
アラウィー派は便宜的にシーア派の一派と認定されているが、イランで支配的な十二イマーム派とは教義や制度はかけ離れている。
キリスト教やその他の宗教と混淆したアラウィー派を、形式上かろうじてイスラーム教の一部と認めるために、政治判断でシーア派と認めるようになった。
シリアの宗主国フランスと結びついて権力に近づいたアラウィー派は、教義の上で大きく異なる十二イマーム派のイランと政治・戦略的な利益で結びついている。

スンニ派だからといって結束するとも言えない。
サウジアラビアやUAEとカタールとの間で争いが繰り広げられている。
スンニ派が多数を占めるトルコはカタールと関係を深めるとともに、イランとも友好関係を保っている。

教義は紛争の原因とは言えず、シーア派とスンニ派で国際的な陣営画然と分けられているわけでもない。
宗派が異なる集団が常に紛争してきたわけではないし、同じ宗派だからといって、常に政治的にまとまっているということでもない。
宗派対立が不可避であるとは言えないし、歴史的に対立が永続してきたとも言えない。
宗派が同じであれば結束できるということではないし、宗派が異なっていても条件次第で共存は可能な場合もあった。

中東では、宗派が人々の社会関係を規定している面がかなりあり、政治が宗派の対立を演出し、宗派への帰属意識の絆を利用し、相互の敵対意識を煽ることがある。
そのゆえに、それを用いて有効に政治的な動員を行うことができるからである。

中東の社会を見れば、イスラーム教徒であれ、キリスト教徒であれ、それぞれの宗派が、それぞれの法と規範と慣習で結ばれたコミュニティ(宗派)の集団を形作っており、結合し結束を固めるコミュニティと別のコミュニティの間で、時に対立・紛争が持ち上がる。
「宗派コミュニティ」の対立が生じているのであり、対立の争点は政治的・戦略的なものであったり、経済的なものだったりする。
だから、政治経済あるいは戦略的環境の変化によって、宗派対立の敵味方はしばしば組み替えられ、連合も組み替えられる。

スンニ派とシーア派の違いを池内恵さんはこのように説明します。
後継者を選ぶ際の基準は「正統性」と「実効性」の2つである。

正統性とは、何らかの理由でその人が後継者になるにふさわしいと多くが認める属性、たとえば高貴な血統や秀でた能力を有していることである。
しかし、ムハンマドは最後の預言者であり、ムハンマドの後には預言者は遣わされないため、ムハンマドと同等の後継者は生まれにくい。

実力とは、教団を実際に支配する実権を掌握している者が後を継ぐという意味である。
血統は、実力を伴っていなくとも、創設者の血を引く人物に権力を継承する根拠があると認められることである。

政治的な主流派のスンニ派は、ムハンマドの死後に行われた実効支配の力を持つ有力者への権力継承を正統と認める。
権力継承の過程の大部分を否定する反主流派の政治的立場が元になっているシーア派は、ムハンマドの直系の血統への権力の継承の正統性を信じている。

シーア派はあるべきだった統治を思い描き、不当な現世の権力を呪い、自らの境遇を嘆く。
しかし、「虐げられた民」としての自己認識は優越感・正統意識に基づいており、「不義の現世の支配者によって不当に虐げられた民」という自己認識は、「神によって選ばれた無謬の指導者に従い来世によって褒賞を受ける民」という自信と確信に裏打ちされている。

イランのイスラーム革命の持つ意味を池内恵さんは3つあげており、3番目が「スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握」ということです。

イラン革命の当初は、中東各地で肯定的に受け止められた。
しかし、権力から疎外された「弱者」「虐げられた民」としてのシーア派の信徒が、統治の実権を掌握し、自らの掲げる理念を実現する政治勢力となり、「強者」の側に転じることで、スンニ派優位が定着していたアラブ諸国を揺さぶることになる。

レバノンやイラクでスンニ派支配層の下で二等市民のような扱いを受けていたシーア派が、イラン革命に勇気づけられ、統治に参与する権利や権力を求めて活性化した。
サウジアラビアやバーレーンなどでもシーア派の権利意識が強まり、結束して政治的要求を支配者に突きつけていく。

アラブ諸国の政権にとって、イラン革命は反体制勢力に革命理念とモデルを与える脅威だけでなく、模倣する動きがアラブ諸国のシーア派の中に現れた時、イラン革命が及ぼす影響を各国の支配勢力が恐れるようになり、宗派間の対立の深まりにつながっていった。

イランが地域大国として台頭し、サウジアラビアとイランは、それぞれの政治的・戦略的な思惑から、中東の様々な国や勢力に介入し、配下に置き、同盟する。

サウジアラビアは、イランとの覇権競争を有利に導くために、シーア派とスンニ派の宗派対立をことさらに強調し、時には煽動した。
宗派のつながりが強調され、利用されることで、国内の分裂と国境を越えた結びつきの両方を引き起こし、内戦と地域紛争の核となった。
反体制運動と統治権力との紛争は宗派対立に転化し、その背後にいるとされるイランとの国際紛争として拡大していった。

もう一つ、中東に宗派対立を解き放ったのはイラク戦争だった。
イラン革命以来、イランがアメリカの中東における主要な敵国だったため、フセイン政権の打倒は棚上げされた。

ところが、湾岸戦争以来、アメリカはイランとイラクを敵にするという苦しい状況に追い込まれた。
アメリカがフセイン政権の打倒へと舵を切り、イラクにシーア派主導の政権の設立を許したことは、中東におけるアメリカの同盟国の目算を狂わせた。

イラクで多数を占めるシーア派がイラクの新体制の権力を握ることで、宗派対立が勃発し、イランの影響が強まった。
イラク政府はスンニ派主体の地域に不利な政策を行い、スンニ派主体の地域はそれへの反発から、反体制組織を養うようになる。
それを政府が弾圧し、住民が中央政府への憎しみを募らせていく。
こうして悪循環のサイクルが回り始めた。

アラブの春も各地で宗派対立に変質した。
人々を結びつけ、かつ分断させるために最も有効だったのが、スンニ派の規範適用を主張するイスラーム主義の組織であり、異なる宗派との対抗意識や脅威認識で結集するコミュニティだった。

アラブの春の影響を受けて反体制運動がペルシア湾岸にも広がると、バーレーンとサウジアラビアは問題を宗派主義化し、問題は民主化でも権利要求でもなく、シーア派の教説に基づく反体制運動であり、イランに内通しているという宣伝を行なった。

中東の紛争や問題について、地域大国や周辺大国、域外の超大国が譲れない問題に関する拒否権を持っているため、競って介入することで、中東の混乱を永続化させている。

サウジアラビアとイランが争うのは、スンニ派とシーア派の教義の違いから生じる対立かと思ってたら、そんな話ではないようです。

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