三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「第3回親鸞フォーラム」2

2011年03月10日 | 仏教

「第3回親鸞フォーラム」での香山リカ氏の発言。
「私の病院に、稀に先天性の障害を持っている人が診察に来られます。けれども、親も面倒が見られず、すぐ施設に入れられます。ほとんど自分で意思を全うしたりもできず、ただ寝たきりで世話をされている人です。そのような人たちが、少しにこっと笑ったりすると、ケアする側の人たちが「ケアしてよかった、喜びが与えられている」と言う人もいるけれども、私にはとてもそうは思えません。
では、そのような人たちは生きている価値はないのかと言えば、私はただ生まれただけで生きている、誰の役にも立っていなくても、人から迷惑だと思われていても、生まれたからには生きていく権利、価値があるのだと思わないと、このような人たちのことを説明できないと思うのです」
率直な意見ではあるが、香山リカ氏はこういうふうに思っているのかと、ちょっとがっかり。
だけども、香山リカ氏の言ってることは、素朴なだけに大切な問題提起である。

以下、知的障害者の施設で働くA氏から聞いた話。
重度の障害者(40代)が透析を受けなければいけないことになったのだが、後見人(両親はすでになくなっている)は「透析しなくていい」と言っている。
いくらなんでもひどいというので、施設の人が透析の付き添いボランティアを募集しているという。
A氏の話だと、認知症や知的障害の人には透析をしない場合がけっこうあるそうだ。
何もできない障害者をわざわざ透析させてまで延命させる必要があるのかと考える人もいるだろうが、それなら、私は透析してまで長生きする意義があるのかということになる。

B氏からエーリッヒ・フリードのこんな詩を教えてもらった。
 対策
なまけ者を殺す     世の中は勤勉になる
醜いものを殺す     世の中は美しくなる
おろか者を殺す     世の中は賢くなる
病人を殺す        世の中は健康になる
悲しんでいる者を殺す 世の中は愉快になる
年寄りを殺す       世の中は若返る
敵を殺す          世の中は友だちばかりになる
悪者を殺す        世の中はよくなる

「敵を殺す」は戦争だし、「悪人を殺す」は死刑。
知的障害者には透析しないのは「おろか者を殺す」だし、尊厳死や延命措置をしないというのは、「病人を殺す」「年寄りを殺す」こと。
「殺す」というのはなんだけど、「私の目の前からいなくなればいい」に置き換えたらどうか。
たとえば、「なまけ者(アル中やホームレス、ニート)がいなくなればいい」とか「犯罪者をどこかに閉じ込めて、私から遠ざけてほしい」とか。
あるいは「障害者が私の目の前にいなければいい」ということ。
以前、C氏がこんなことを言ってた。
日曜日にデパートに行ったら、脳性マヒの人が車椅子に乗って来ていた、日曜日みたいな混む日にわざわざ来なくてもいいのに。
なんてことを言うんだとその時は思ったけど、認知症や寝たきりの老人養護施設へ見舞いに行くのは、正直、気が重いわけで、人のことは言えない。
それとか、死別の悲しみを話したくても、「いつまでもクヨクヨしないで」とか言われて、話をなかなか聞いてもらえない。
「悲しんでいる者を見たくない」である。
いやなことが目の前からなくなると安心できて幸せになれる。

死刑というと自分とは関係ないと思いがちだが、死んでもいい人がいるということでは戦争や障害者や尊厳死と通じるし、自分と無関係な存在にして安心したいということではホームレスや依存症者、そして身近な人をなくして悲しむ人を遠ざけることとつながってくる。

コメント
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