三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ロン・ハワード『ダ・ヴィンチ・コード』

2006年05月25日 | 映画

ロン・ハワード『ダ・ヴィンチ・コード』はカンヌ映画祭で失笑を買ったそうだが、原作を読んでいない人はこの映画を見て、どういう話か理解できるのかと思った。
たとえば、銀行の夜間支配人の行動なんてまるっきり理解できず、この変なオジサン、何者なんだと思うだろう。
あるいは、修道僧シラスの過去(子供のころから司教と出会うまで)がフラッシュバックで描かれるが、これも観客にわかってもらおうなんて少しも考えていない。
だいたい、こういった調子で映画は展開する。

そもそも、原作はミステリーとしては大したものではない。

犯罪の黒幕はすぐわかる。
『ダ・ヴィンチ・コード』は物語よりもウンチクを楽しむ小説である。
それなのに、映画ではフィボナッチ数列の説明はないし、鏡文字もあっさり。
これじゃ、クリームの入っていないクリームパンみたいなもの。

物語の謎とは、黒幕が誰かよりも、イエスがマグダラのマリアと結婚して子供が生まれた、ということである。

そして、聖杯とはマグダラのマリアのことであり、マグダラのマリアの遺体がどこかに隠されている、ということになっている。
イエスに子供がいたら、イエスは神ではなくて人間だということになるので、教会はこのことを隠してきた。
異教徒の私としてはどうでもいい話に思える。

で、イエスの子供の子孫が今も現存していて、DNAを調べたらイエスの子供だとわかる、だから聖杯(=マグダラのマリア)を探している、という説明がなされている。

しかしですな、2千年前の人物となると、1世代30年として、約60世代。
2千年前の遺体からDNA鑑定ができるとして、60世代も経ていたら血縁関係がある確率はかなり低いものになるだろう。
神武天皇の遺伝子が云々と似た話ではあります。

おまけに、マグダラのマリアの子孫だと証明されても、イエスのDNA(神にそんなものがあるとして)は見つかっていないわけだから、イエスの子孫かどうかはわからない。

どうしてそんなに必死になるのかさっぱり理解できない。

そもそもマグダラのマリアは聖人に列せられているから、仮に遺体が見つかったとしたら、教会にとってプラスになるはず。

なにせ明らかにウソっぽい聖遺物(イエスの包皮まである)ですら、崇拝されているのだから。

キリスト教の異端思想のウンチク・ミステリーを読みたいのなら、『ダ・ヴィンチ・コード』よりも笠井潔『サマー・アポカリプス』のほうがお勧めです。

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