三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

平安時代から明治時代までの結婚(3)

2018年05月13日 | 日記

・独身
結婚と同棲はどう違うか、通い婚と夜這いは同じか、これは結婚という制度があるかないかということではないかと思います。

平安時代の摂関期や院政期には、正式な結婚をしなかった、あるいは、できなかった男女が多い。
貴族層の女性は、父母から家屋や財産を相続したから、結婚しなくても生活でき、兄弟の援助を受けられたため、一生独身で暮らした貴族女性は結構いた。
女房勤めをする女性たちも、正式な結婚をしない人が多かった。
独身といっても、まったく男性と交渉がなかったわけではなく、男を通わせたこともあっただろうが、社会的に公認された妻ではない。

京都の庶民層の男女や、地方の在地領主の従者や下人層には、結婚して家庭を持つことができなかった人々が多くいたにちがいない。

江戸時代、結婚しない男は、武士、商人、職人を問わず、非常に多く、結婚しなくても普通くらいだった。
13歳くらいで中小店に丁稚で入り、独立するまで十数年以上かかる。
棒手振り(物売り)ではその日暮らしだから、妻帯は難しい。
商家の奉公人は大店で40歳を過ぎ、中小店だと39歳過ぎて結婚したが、大店のほとんどは京都に本店があり、結婚が許されても、妻は出身地に居住していて、夫が妻に会えるのは数年に1度くらいだった。

独身者の受け皿として妾や遊郭が多かった。
妾にも、二月縛りで金5両から2両くらいまであった。
江戸後期になると、下級武士や小商人までもが妾を囲うようになった。
数人の男が金を出しあって1人の女を共通の妾とすることもあった。

・離婚と再婚
男が女のところに通ったり、一緒に住むことが結婚したことになるかどうか、その時代や階層によって違ってくると思いますが、離婚ということは結婚という制度があってのことなのでしょう。

中世においては、婚姻に婚姻届が必要とされず、離婚も届けを出す慣行も規則もなかった。
戦国期には、「離縁状(去状)」の有無によって、たしかに離婚しているかどうかの判定が戦国大名によってなされる。

鎌倉期・戦国期は武士、百姓どちらの階級においても、離婚権は夫側にあった。
妻側から離婚しようとすれば、妻が家を出て、その後、夫側の承認が必要だった。

離婚、死別による再婚、再々婚は一般的だった。
曾我兄弟の母親は3度結婚している。
毛利興元(元就の兄)の娘は4人の夫をもっていた。
フロイス「ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」

江戸時代も離婚・再婚は多く、武士の離婚率は11.23%、再婚率(夫死亡後、離婚後、婚約破棄後、婚約者死亡後を含む)も58.65%。
男は45歳以前、女は30歳以前に離・死別した場合、8割以上が再婚した。

武家の場合、男子を産んだ女は、夫が若死にしても再婚することはほとんどなかったが、子供が女子だけの場合は、身を引いて再婚するのが一般的。
農村では、女性の多くは実家に戻ったまま再婚しないのがほとんどで、男の再婚率のほうが高い。
また、女性は36歳を過ぎれば再婚はしないが、男は40歳以上でも再婚する場合があった。

結婚の妻に多額の持参金を払い、多くの道具、衣裳を持ってきた。
離婚に際して、夫は持参金を妻に戻し、妻が持ってきた道具や衣裳などは持ち帰ることになった。
慰謝料の支払いや持参金の返還では男女平等だった。

大名の結婚にあって、持参金等の経済的負担を軽減するために、娘は自分の家より若干低い家格の家と縁組する傾向があり、再婚となるとさらに低い家が選ばれる。
妻の多くは夫の家格より高い実家を後ろ盾にして家庭内で夫に優位を保っていた。

江戸時代は男尊女卑の時代といわれているが、庶民の女性は生き生きとしており、夫が勝手気ままに妻を離婚していたわけではない。
他に女ができ、その女と結婚するために妻を離婚することは認められなかった。

妻から離婚したい場合は駆け込み寺があった。
3年間、寺に入る場合は、生活費として5、6両を払った。
夫がすぐに離婚を承知しても、関係者への謝礼金が必要だった。

離婚を請求した者が慰謝料を支払った。
数十両から100両を持っている女性でないと、妻からの離婚請求はできなかった。

庶民、特に農民の妻は重要な働き手であり、糸繰りや機織りによる現金収入によって生活を支える技術と能力を持っていた。
夫からの離婚状の受け取りを拒否する女房や、嫌いな夫のもとを飛び出す女房もいた。

高木侃『三くだり半と縁切り寺』によれば、男尊女卑の傾向は明治中期以降に強められ、作り出されたものだそうです。
「女房と畳は新しいがよい」ということわざは、江戸時代にはあまり口にされず、男尊女卑が強制された明治中期以降に男性にもてはやされた。
「女の一人や二人は男の甲斐性」といった言葉も、明治以降に人口に膾炙されたものである。

昔からの伝統だと言いますが、明治中期以降からの伝統が多いのではないかと思います。

コメント
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