・家の成立
学者によって違いがありますが、家という概念が芽生えるのは10世紀前後か、10世紀以降のようです。
まず中央貴族や地方豪族層から、官職を父から息子へ伝えることが大きな理由となって生まれた。
11世紀(摂関期)になると、父系の家柄や家格が決まってきて、母方の血縁はたいして問題にならなくなる。
女性の出自が問題にならなくなることは、女性の社会的地位の低下の結果である。
そして、父子継承は11世紀末(院政期)に成立した。
家がどの階層にも浸透したのは院政期(11世紀)という説と、武士層の代々継承される家の形成は鎌倉期からであり、庶民層の家意識はそれよりもう少し後のことだという説があります。
もっとも、それは身分、階層がある程度上の話だと思います。
鎌倉時代、領主の家の下人が他の領主の下人の子供を産んだ場合、生まれた子供が男なら父に、女なら母につける。
そして、下人の家庭生活がどちらの領主の屋敷で営まれていたか、子供はどちらの家で養育されていたかが基準となる。
主人が必要となれば、下人の妻が妊娠中であっても、夫の下人は売却された。
産まれた子供の帰属が本主と買主との間で相論の対象とされ、産まれた子供が父に付すとされることもあった。
家といっても、下人の場合はあってないようなわけです。
家が成立すると、家政全般の切り盛りが女性の役割となり、同居する妻がこの役割をはたす。
応仁の乱後、妻の役割の一つが祖先祭祀で、家の祖先の追善仏事が自邸で行われるようになり、妻が自邸の祭祀空間に僧を招き、堂荘厳、斎食の手配をした。
正忌・月忌は父母を中心に、祖父母、曾祖父まで行われた。
・婿取婚と嫁入婚
男が女のもとに嫁す婿取婚が、女が男に嫁す嫁取婚へと次第に変わっていきます。
「嫁入り」は本来、婚姻の後、妻が婿の家に初めてはいることを指し、その意義も、夫の家に対する挨拶以上のものではなく、二人の新居または妻の家に帰ってきた。
したがって、夫婦生活の基礎がまだ夫の家になかった。
ところが、婚姻後、夫の家の仕事を手伝ったりすることが重なるにつれて、嫁はしだいに夫の家の一員と見なされるようになる。
その後、夫婦は夫の家に移り、嫁が夫の母親にかわってその家の家政をとりしきることになる。
夫の家に夫婦ともに同居する習俗が進むと、短期間のうちに夫家に移り住み、やがては嫁が直接、夫家に入るかたちに変化する方向に向かう。
こうして次第に「嫁取婚」へと移行する。
嫁取婚が始まるのは、高群逸枝は室町期、田端泰子氏は鎌倉期から始まったとします。
もっとも、娘が他家へ嫁ぐということは、労働力が移ることを意味したから、江戸時代でも、働き手として重要な存在である娘をすぐに嫁がせるわけではなく、子供が産まれるまで、里方から通わせる形をとったところも多い。
中世のはじめ(平安末期?)には、夫婦別居、母子同居が普通だった。
夫婦は別姓だったが、居住形態が母子同居であっても、子供のうち、女子は母方の、男子は父方の姓を名乗った。
母子同居から夫婦同居へと変化するのは、鎌倉期に入ってからのこと。
鎌倉中期以降、武士階級では嫁取婚が普及しはじめた。
結婚儀式は10世紀ころから娘に婿を取る形態で行われるが、一夫多妻であり、どの妻とも儀式を挙げることが多かった。
11世紀中ごろまでは、結婚当初は夫が婿入りをして妻の両親と同居するが、一定期間たつと、妻の両親が未婚の子供たちを連れて別の邸宅に移住したり、子供の夫婦が別の邸宅に移住する。
貴族層の家が12世紀前半(院政期)に成立すると、婚姻形態は婿取婚であり、一夫多妻であるが、夫と同居した妻が正妻とされる。
妻の両親とは同居しなくなり、結婚当初から子供の夫婦だけの居住となるが、夫の両親と同じ屋敷内に同居することは一般的ではない。
貴族の家では、鎌倉期までは夫方居住婚になっても、息子夫婦が夫の両親と同一屋敷に居住することは一般的になかったが、徐々に婿取婚から嫁取婚の傾向を持ちはじめる。
南北朝期になると、居住形態に変化があらわれ、父夫婦と息子たち夫婦が同一屋敷にそれぞれ別棟で居住するようになる。
息子たちの婚姻形態は嫁取婚である。
兄弟が同一屋敷に居住し、息子たちはそれぞれの住居に妻を迎え、それぞれに膳所があるので食事部分は独立している。
妻が死去すると再婚し、その時々で一夫一妻となっている。
室町期になると、嫡子夫婦だけが父と同一屋敷に別棟居住し、他の息子夫婦は父の屋敷の隣接地に居住するようになる。
つまり、嫡子以外の息子は、結婚すると父の屋敷から出る。
戦国期は、公家は嫡子一人を残して男子は僧侶になるか、他家の養子となり、一子相続が主流になる。
嫡子が妻を迎えるときには嫁娶の儀式を行うようになる。