国際社会に責任があるのだから、日本はお金を出すだけじゃなく、人、つまり自衛隊を出さなければいけない、そうしないとアメリカから非難されると、政治家や評論家が言います。
しかし、伊勢崎賢治氏はそんなことをアメリカ軍を含めた多国籍軍の上層部から言われたことは一度もないと、『本当の戦争の話をしよう』で話しています。
多国籍軍としては、金だけの支援のほうがうれしいときもある。
それぞれの国が、それぞれの長所短所を補って、総合力として戦う。
国連平和維持活動に大きな部隊を出す国は3つのタイプしかない。
・外貨目当ての途上国
国連は、兵員を出した派遣国にお金を払う。
・何かその国に道義的に責任感のようなものがある国
たとえば、ルワンダにおける旧宗主国のベルギー。
・国が民主化をし、開かれた明るい国のイメージを国内外に示したい
インドネシアのように圧政の象徴のような国軍のイメージチェンジのため。
国連ミッションへの軍事要員・警察要員の派遣状況(2014年3月末)
1位 パキスタン 8257人
2位 バングラデシュ 7950人
3位 インド 7923人
4位 エチオピア 6622人
5位 ルワンダ 4786人
アメリカ、イギリス、フランスなどの先進国は国連平和維持活動にはほとんど兵を出さない。
途上国にとって国連平和維持活動は、貴重な外貨稼ぎなのでしょう。
自衛の権利として国連憲章に書かれているのは、個別的自衛権と集団的自衛権。
それとは別に国連的措置(集団安全保障)がある。
伊勢崎賢治氏は、火事と消防署のたとえで説明します。
・個別的自衛権の行使
家が火事になる。自分の家だから消火活動をする。
・集団的自衛権
隣家の家族が火事に気づいて、バケツリレーをしてくれる。このまま放っておいたら、自分の家にも延焼するかもしれない。ちょっと離れた家の人も、普段のつき合いがあるから、バケツリレーをしてくれるかもしれない。
・国連的措置
誰かが消防署に通報したので、消防車が到着する。
こういう説明をされると、日本も憲法9条を改正して日本の自衛隊も集団的自衛権を行使したり、国際社会の一員として国連の活動に参加すべきだと思ってしまいます。
しかし、火事と紛争・戦争とは違います。
たとえば、友達がとおりすがりの人にケンカをふっかけたとしたらどうでしょうか。
アメリカと同盟軍がイラクやリビアなどでしたことは、そういうことだと思います。
友達なら「そんなことはやめろ」ととめるのが普通でしょう。
とはいえ、外交だけでは事態が収束しないこともあります。
カンボジアのポルポト政権はベトナムの侵攻によって逃げました。
1994年、フツ系によって100日間で60万人から100万人が殺されたルワンダの虐殺は、ルワンダ愛国戦線の侵攻によって終結しました。
ルワンダで虐殺が行われているとき、国連平和維持軍は何もしなかった。
というか、平和維持軍には300人しかいおらず、国連に増員を訴えたが、武力介入を尻込みした国連は要請を却下した。
つまり、国連は見捨てたわけです。
では、どうすればよかったのか。
国連平和維持軍の最高司令官だったダレールさんは「保護する責任」という概念を提案しています。
内政不干渉が原則だが、ある国家が責任を負えない、もしくは負わないと判断されるときは、国連が責任を負い、その際には武力介入もありえる。
では、誰がそれを決めるのかということになります。
一般人が山刀で1人当たり1万人も殺したルワンダように、どんどんエスカレートするか、それとも小競り合いで終わるか、誰にもわかりません。
2011年、リビアに対して、「保護する責任」が実行された。
カダフィ政権の崩壊は目的ではなかったというが、結局はカダフィは殺され、政権は崩壊し、リビアは内戦状態になっている。
大国の恣意的な判断によって、介入するかどうかが決まるとしたら、新たな紛争を生じさせることになってしまいます。
伊勢崎賢治氏の「日本は平和ですか」という質問に、ある高校生がこのように答えています。
冷静だと思いました。
伊勢崎賢治氏はノルウェーの学者仲間から、日本みたいに海外進出をどんどんやっている経済大国が、戦争しないと宣言する憲法をもつこと自体、アジア近隣諸国に計りしれない安心感を与えてきた、なんて言われるそうです。
やはり日本は平和主義を大事にすべきだと思います。