三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

帚木蓬生『安楽病棟』

2016年07月30日 | 

帚木蓬生『安楽病棟』(1999年刊)は、病院の痴呆病棟の看護婦が主人公の小説です。
看護婦は先生の「オランダにおける安楽死の現状」という講演を聴きます。
こういう話です。

安楽死には〈積極的安楽死〉〈医師の幇助による自殺〉がある。
患者の意志に基づくのが〈自発的〉で、患者の意志によらないのが〈非自発的〉。
治療を中断して死に至らしめるのが〈受動的〉、医師の手で致死量の薬剤を投与するのが〈積極的〉。

オランダにおける安楽死は、本人の同意があってもなくても医師が決定できる。

患者の意志がないのに医師の判断で致死剤を投与して死に至らしめるのが〈非自発的積極的安楽死〉である。

オランダでは〈安楽死〉という用語をあまり使わず、〈生命終結行為〉という表現をする。

その対象となるのは、重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、重篤な痴呆患者。

痴呆患者に対しては〈生命短縮行為〉という用語をあてている。

なぜなら、積極的に生命を終結させるのではなく、患者の要請にもよらずに生命を縮めるから。

具体的にどういう行為を指すのか。

1 狭い意味での〈生命終結行為〉
致死的な薬を患者に与えて死に至らしめる行為。

これが許されるのは次の二つの状況のとき。

① その患者が重症痴呆になったときは死なせてもらってもいいという了解を書面で書いていたか、あるいはそういう意志をもっていたことを周囲の人たちから確認でき、さらに重症痴呆に別な重篤な病気が加わったとき。


② 書面も周囲の証言もないものの、その患者が人間の尊厳を損なうほどに痴呆が進行している場合。

これこそが〈非自発的積極的安楽死〉。

2 治療の副産物として生命を縮める方法

ある症状に対して強力に治療すれば、その結果として生命を縮めるかもしれないとわかっていながら、そのまま強行してしまう方法。

3 治療中止

治療中止と対極にある行為として、延命のための治療がある。
痴呆患者の場合、延命治療が容認されるのは、患者の意志がそうであり、治療に耐えられ、治療の効果が期待でき、患者にとって利益になる、という4点が条件となる。

〈殺すこと〉と〈死なせること〉は違う。

治療中止は〈殺すこと〉ではなく、〈死なせること〉。

オランダにおける年間死亡数の約4割が、医師の判断によってなされる積極的安楽死と消極的安楽死によるもの。
患者の意志によらず、医師が生命終結させる〈非自発的積極的安楽死〉は年間約6000例で、日本だと年間5万人に相当する。
実際の安楽死の数字はもっと高いものだと思われる。

オランダで安楽死の対象となる病気
各種の癌、心臓病、肺疾患、脳卒中、神経病、精神病、重篤な児童の病気、未熟児、二分脊椎、ダウン症など。
重い病気を背負った新生児は、生まれても食事を与えられず、脱水か餓死で〈安楽死〉させられる。

オランダで実施されている安楽死の具体例
1 ダウン症だとわかった新生児
ミルクを吐くので診てもらうと、十二指腸狭窄という診断がついた。
手術で治る病気だが、両親と小児外科医は手術しないことで意見が一致した。
驚いた家庭医は児童権利保護委員会に申し立てをしたが、委員会が介入する前に赤ん坊は栄養失調で亡くなった。
家庭医は小児外科医の行為が殺人にあたるとして裁判所に訴えたが、裁判所は即座に無罪の判決を下し、逆に家庭医は患者の秘密を第三者に暴露したとして、小児外科医や両親から激しく批判された。

大学病院の麻酔科のなかには、ダウン症の子供が心臓病にかかって手術が必要になったとき、麻酔を拒否するチームが少なからずある。

子供の両親は麻酔をしてくれる病院を探さなければならない。

2 妊娠32週で生まれた未熟児

頭蓋内出血を起こしていたので、貯留した血液をドレナージで抜かなければ死は確実。
しかし、両親はその処置を断り、未熟児は生まれて30日目に小児科医のてでモルヒネを注射されて死んだ。

3 二分脊椎と水頭症をもった3歳の男児

両親がドレナージを認めないので、水頭症は悪化するばかりだった。
子供が腹痛を訴えたので、両親は安楽死を依頼する目的で、総合病院に入院させた。
担当した看護婦は子供の安楽死に反対で、自分がその患者を養子にしても構わないと思い、夫と相談のうえ、その両親に申し出た。
両親はこれも拒絶し、結局は両親の主張と小児科医の意見が一致し、子供は点滴の中に致死剤を入れられて死んだ。
そのあと、病院はその看護婦を呼び、夫に患者の秘密を漏らした、看護婦として失格だと、警告を発した。

4 知的障害をもつ6歳の女児

女児が小児糖尿病を発症し、インスリンの注射が不可欠なので、家庭医は両親に許可を求めた。
ところが両親はインスリン治療を拒否した。
何十年にもわたり、死ぬまでインスリン注射をしながら生きていかせるのは忍びない、というのが理由だった。

5 72歳の未亡人で、心筋梗塞の既往をもつ患者

強心剤と利尿剤、抗血液凝固剤を服用し、薬のおかげでひとり暮らしができていた。ところが、新しい家庭医が、そんなに苦しんでまで生きなくてもいいのでは、と助言をしたので、彼女は薬をやめ、三日後に心不全で亡くなった。

講演の後に質疑応答がなされますが、これは帚木蓬生氏の安楽死に対する疑問でしょう。

・30代半ばの内科医
安楽死に対する患者の意志は本当に信頼に足るものだろうか。「殺してください」「死にたい」と患者はよく口にするが、額面どおりに受け取ると大変な間違いをしでかすのではないか。
答え オランダのように安楽死容認の歴史が長くなれば、理性的な判断がより濃厚に加わるのではないか。

・70代の元新聞記者

ナチスの尊厳死とオランダの安楽死とは考え方が本質的に同じではないか。
答え ナチスの尊厳死では本人の意向はまったく考慮されていなかった。
オランダでは、医師に報告の義務があって、社会の眼にさらされている。
すべてが秘密裡に処理されていたナチスの尊厳死と同列に論じることはできない。

・障害児をもつ中年の女性

日本でも「あんな子供がよく生きているわね」「あんな子、社会のお荷物ね」といった声が浴びせられる。
オランダであれば、障害児を眼にした一般市民が、「あんなの、早いとこ注射で眠らせたらいい」と排斥するに決まっている。
障害をもつ人や病人が健常者からサービスを受けるばかりで、健常者の足を引っ張ると考えるのは間違い。
弱い立場の人たちに優しい眼を向ける長女や次男を眺めて、長男のおかげだと思う。
障害者や病人に対して施しているだけのものを、わたしたちもその人から施されている。

・70歳過ぎの男性

老人に対する安楽死がその国の財政を救うのだという風潮があると、無言の心理的圧力が老人に加わるのではないか。
元気なときに安楽死を希望する旨の書面をきちんと書いておかないと、周囲から暗に非難されるのではないか。
すべての老人が、痴呆や重病になったとき、安楽死を望む書状によって処分されるようになるのではないか。
書状をしたためておかなかった老人は、国家の財政を食いつぶす厄介者として、社会から白眼視されるのではないだろうか。
オランダのようになると、老人は社会に迷惑をかけているのではないかと肩身が狭くなる。
本人の同意がなくても安楽死が行われるようであれば、年寄りはおちおち病院に入院もできない。

・60歳のクリスチャン

80年も90年も生きた年寄りが、いつまでも生き続けるのは、神の意志だろうか。
まして重篤な痴呆や末期癌、植物状態にある患者が、まだ生きさせてくれと神に頼む権利があるのか。

以上です。

長々と引用したのは、障害者施設「津久井やまゆり園」で45人が殺傷された事件が起きたとき、たまたま『安楽病棟』を読んでいて、この事件は、加害者としては一種の「積極的安楽死」のつもりではないかと思ったからです。

『安楽病棟』では、痴呆病棟の患者が8人、死亡します。

痴呆病棟は動ける患者が収容されており、患者は寝たきりや植物状態ではありません。
ネタバレですが、犯人は担当医である先生です。
しかも、同じ行為を終末期医療研究会の会員たちもしているらしいとわかります。
『安楽病棟』を読んだ人は、担当医の行為に複雑な思いを抱くでしょう。

殺傷事件の容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」と供述しているそうですし、容疑者の衆議院議長宛て手紙にはこんな文章があります。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。


小説と実際の事件とを比較すべきではないですが、片や医者による〈非自発的積極的安楽死〉という殺人、片や医者ではない者による〈非自発的積極的安楽死〉という殺人と言えるんじゃないでしょうか。

『安楽病棟』に、「マーシィ・キリング(慈悲ゆえの殺害)」という言葉が『安楽病棟』に出てきます。
馬が骨折したら、その時点で殺すことです。
痴呆患者を殺したのも本人のためなのです。
今回の殺傷事件でも、重複障害者の安楽死を認めるべきだということに限れば、加害者の主張に賛成する人は少なくないと思います。

ただし、先生が主人公の看護婦に「動屍」、すなわち痴呆患者は一種の屍だ、屍が動くから動屍だ、という話をします。

先生は痴呆患者を生きている人間として見ていません。

日本安楽死協会(日本尊厳死協会の前身)理事長だった太田典礼は、老人・難病者・障害者たちは「半人間」であり、生きていても社会の邪魔になるだけだ、と公言しています。
麻生太郎も「高齢者はさっさと死ねるようにしてもらいたい」と発言しています。
この人たちと容疑者は、認知症の人や障害者に対して同じ考えを持っているわけです。

オランダではこの事件はどのように考えられているのでしょうか。

安楽死が法制化されていないために起きた不幸な事件、とみなされるかもしれません。

コメント (2)
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