昨年の秋のことで恐縮ではありますが、落ち葉の季節になりまして、学校の校庭の木の落ち葉が大変気になることがあります。
校庭の中ですと、主事さんたちがきれいに掃除してくださいますが、近隣の路上にも落ち葉が散らかります。主事さんも気にしてはいてはくれますが、木枯らしが吹くと手が回りません。ご近所の方々から苦情が来ないかと、毎年頭を悩まします。
以前いた学校でも、近隣の方から落ち葉の始末が悪いと苦情をいただいたことがあり、私自身トラウマになっていました。
そんなある日、朝、学校に出勤すると校門の近くにお住まいの方が、家の門前で、明らかに学校のものである落ち葉を掃いておられました。
私は申し訳ないという気持ちでいっぱいになり、苦情覚悟で、「申し訳ありません。学校の落ち葉でご迷惑をおかけしています」とお声をかけました。
すると、そのご近所のご婦人は、こうおっしゃいました。
「いえいえ、こちらこそ、毎年楽しませていただいています」と。
私は、その言葉を聞いたとき、驚くとともに、すばらしい方だなと感じました。
どういう意味でそうお答えになったのかはわかりませんが、私は、自然の摂理にしたがって毎年落ちてくる落ち葉を、今年もこうして健康で掃き掃除することができて幸せですとおっしゃったのではないかと受けとめさせていただきました。
モンスターペアレンツだの、言ったもの勝ちだのと、ことさら自分の主張を他者に押しつけるような物言いが多い中、面倒なことも自分の身に引き替えてお答えになったそのお言葉に、仏の心を聞いた思いがいたしました。
私どもは、何かにつけて自分の都合のよい解釈をするものです。自然の摂理にしたがって落ちる木々の葉も、空から降ってくる雨や雪も、時と場合によっては迷惑千万なものに違いはありませんが、こちらの受け止め方一つで「ありがたい」ものにもなるのです。
真宗の教えの言葉に「自然法爾(じねんほうに)」という言葉があります。これは、私たちも含め、あらゆるものは自然の摂理にしたがって、あるがままに存在しているという意味です。
ですが、私たち衆生には煩悩があり、我が身というものを通して、身の回りのものを見て、判断し、行動してしまうのです。「邪見憍慢悪衆生」と正信偈にありますが、まさに邪な見方をし、驕慢な心で判断し、行動してしまう悪衆生なのです。
しかし、この方のものの見方は、真に仏の見方、正見だったのです。
仏教の教えは、難しい経典の中にあるのではありません。身近なところに仏様はいらっしゃるのですね。