三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

インド仏教と日本仏教(2)

2014年12月26日 | 仏教

鈴木隆泰『葬式仏教正当論』にはまずこのように書かれてある。
日本仏教とインド仏教は大きな溝、ギャップがあるとされている。
本来の仏教は高度に哲学的な教義を持ち、理性的で合理的であり、儀礼的要素も呪術的要素もほとんどないと、近代仏教学は描き出した。
それに対して、日本の仏教は漢訳の大乗経典を依りどころとし、阿弥陀仏や久遠実成の釈尊を信仰し、葬儀や祈禱などの儀礼・呪法に携わってきた。
しかし鈴木隆泰氏は、日本仏教はインド仏教と表面的には違って見えても、本質は同じだと言う。

インド仏教と日本仏教との違いの一つが僧侶のあり方、つまり戒律についてだと思う。
日本の僧侶は結婚しているし、酒は飲むし、破戒坊主だということになっている。
しかし、戒律で禁止されていないこと、たとえばタバコを吸ってもいいのか。

正木晃氏によると、戒は出家者として自ら守るべきことで強制ではなく、律は罰則規定で教団の秩序を保つためのものである。
そもそも戒は「シーラ」で、「気立て」という意味だそうで、戒とは気立てのいい人を育てるため。

『葬式仏教正当論』はこう主張する。

仏教における戒律とはそもそも、「その社会が出家者に期待する事項」を反映させたものです。


櫻部建師によると、インドの出家は特殊な事情によって成り立ったのであって、他の地域では無理だそうです。
櫻部建師の説明をまとめてみます。
異性と接触しない、家庭を持たない、職業を持たない、ひたすら道理を追求するという出家を社会が許容しなければ、出家は存在できない。
出家の生活が成立したのは、古代インドの社会に本当の道を求めて修行する人を敬う気風があったからで、一般社会が出家に食事や着るものをあげる習慣があったからこそ出家の生活が保たれた。
インド以外の社会では、出家を助けて修行を完成させようという気風があんまりなかったから、出家社会というものがインドと同じようには成り立たなかった。
もう一つ、気候風土の影響がある。
インドは暑い国だから、着るものもそんなに必要としないし、木の下に寝ることもそんなに困難でないから、家がなくても修行生活を続けることが可能である。
しかし、他の地域ではそういう生活はできない。
今日の日本で、真の意味で出家的な生活をおくっている人がまれなのにはこういう事情が背景にある。

というわけで、鈴木隆泰氏もこう言っている。

このように、「出家」や「出家者」という〈ことば〉は同じでも、それがどのような状態を指しているかという〈概念〉において、日本における出家とインドにおける出家とは大きく異なっているのです。


それともう一つ、僧侶のあり方が違う要因がカースト制だということ。

インドにおける出家とは、インド社会(=カースト社会)から離脱することを意味します。インドにおいて出家者は、社会的存在ではないのです。ですから彼らが社会活動や生産活動に携わることは一切ありません。在家者が社会的義務として執り行う葬式をはじめとする通過儀礼に、インドの出家仏教徒が関与しなかったのも、この「インドの出家者は、社会活動や生産活動に一切携わらない」ことによります。
一方、現代日本の坊さんは社会的存在です。ですから、日本のお坊さんはお葬式に関わることができます。宗教法人である寺院の役員や職員として給与を受け取り、社会的義務として税金を納めています。教誨師や保護司や民生委員などの社会的役割を担う方もあります。

そういえば、インドの出家は農産物を作るなどの生産活動しないから、托鉢でもらったものは肉でも何でも食べるが、寺院で野菜などを作る中国の僧は肉を食べない。

そして鈴木隆泰氏は仏の教えをこのように説明する。
キリスト教では神の言葉は真理そのものだが、釈尊の言葉は真理に至る手段である。
仏は大医王という別号があるように、病に応じて薬を与える。
仏が与えるのは涅槃(健康)そのものではなく、健康に向かわせる教え(治療、処方箋)である。

何であれ善く説かれたものであれば、それは全て釈尊のことばである。(『増支部経典(アングッタラ・ニカーヤ)』)

真理に至る手段であれば、誰が説いたとしてもその言葉は「釈尊の直説、正法」として認定される。
この意味で、葬式仏教も釈尊の直説、正法だと鈴木隆泰氏は言うのである。

コメント (2)
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