三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』(2)

2014年12月17日 | 厳罰化

御手洗恭二さんと次兄は佐世保小6女児同級生殺害事件事件の被害者遺族として、加害者や加害者の家族に対してどういう感情を抱いているでしょうか。

『謝るなら、いつでもおいで』のエピローグで川名壮志氏はこう書いています。

この父子は怜美ちゃんを失った喪失感を、憎しみで埋め合わせようとはしなかった。

孫を殺された男性が「(加害者と)同じ空気を吸いたくないんだ」(『死刑』)と森達也氏に語っていますが、御手洗さん親子の気持ちはそれとは違うようです。

あの子に死んでほしいと思うかって? ひどいこと聞くね。とんでもない。僕と同じように娘を失うという苦しみを、あの子の家族に与えたくはないし。

御手洗恭二さんにどういう質問をしたのかわかりませんが、加害者の死を望んでいません。
厳しく罰すべきだという意見でもないらしいです。

少年法の厳罰化とか言われているけど、それはねぇ、僕にはわかんないんだよね。少なくとも厳罰化が、これから起こりうる事件の抑止力になるかはわかんない。


ちっちゃい子でもオイタをすれば、パチンとたたかれるっていう、一番低レベルの話からあるじゃない。じゃあ、殺人というオイタに見合うものって一体なんだろうか。それは、どういう意味なのか。それが僕にはわからない。
……結局やっぱりそこで、自分のやったことと向きあわせるってことがなきゃいけないのかな。

許しているわけではありません。

向こうの親からは月1回のペースで手紙がきてます。向こうの親も非常に苦しんでいると思う。でも、「だから許します」というほど単純にはならないんです。


では加害者がどうなることを望んでいるのか。

あの子がどういう風に生きていくのかということを、僕は被害者側から求めるべきではないとも思っているんです。本人が考えて、本人が生き方を選ぶしかない。

 

あの子にも、生きていれば楽しいことや嬉しいことがあると思う。それを否定する気はないんです。背負ってほしいけど、でも人生そのものは全うしてほしいというか。あの子への思いを聞かれると、それはいつも僕にとって、自己矛盾なんです。


次兄も加害者に対する憎しみや恨みを語っていません。

あの子を憎んでも仕方がない。何というか、こっちが疲れるだけですから。親父さんも軽々しく復讐とかは言わないですよね。
相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。お互いにひきずりたくないというか。こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。謝るならいつでもおいで、って。それだけ。
結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。

『謝るならいつでもおいで』という題名は次兄の言葉からとられています。

僕は彼女に仕事をして、結婚して、子どもを産んでほしいとも思っている。何の仕事であろうが、きちんと……。何でそう思うかと言われると、いつのまにかそういう結論に流れ着いた。「結局、自分が何事もなく生活を送るためには、それが一番いいんじゃないか」って。


こんなふうに言えるのは妹の死だからで、子供を殺された親の気持ちは違うと思う人がいるかもしれません。
兄弟との死別は軽く思われがちですが、それは誤解です。
悲しみをどのように表現するかは人それぞれですから、心の傷はまわりの者にはわかりません。

事件が起きた時、次兄は中3でした。
福岡に引っ越して高校に入学しますが、6月に退学、翌年、別の高校に入り、ギリギリで卒業します。
事件の後、次兄は父親を見て「余計な負担をかけてはいけない」と思い込み、「感情を殺しちゃった」と話しています。
警察や家庭裁判所も、学校の先生もスクールカウンセラーも、次兄には事件の話はしないし、聞くこともなく、「ああ、僕の話は聞かないんだな」とガッカリしたそうです。

あのころの僕に一番必要だったのは「話をすること」だったんじゃないか。事件の話。怜美の話。そういうのを話した方が、楽だった。自分の中にため込んでいる膿をはき出せるというか。話すことができれば、負担が軽くなる部分があると思うんです。



加害者の家族はどういう気持ちでいるのでしょうか。

要するに、あの子とあの子の家族はやり直しができるんですよね。でも、僕のところはやり直しができない。失ったまま。(略)
あの子の親だって、大変だと思うよ、本当にね。それでもやり直しができるということは、向こうにとっての「救い」だよね。もちろんそれはイバラの道かもしれないけど。

このように御手洗恭二さんは話していますが、加害者の父親はこんなことを語っています。

本当にマスコミの方と同じぐらいたくさん、宗教の方も来ました。仏教でもキリスト教でも、何でもいいから、救ってくれるならそれにすがりたいんですけどね。そうできるなら、のどから手が出るほどそうしたいんですけども、それはできない。ずっと悩んでいくしかないと思います。

 

テレビなんかで、家族そろってご飯を食べる和気あいあいとしたシーンがありますよね。あぁ、うちの娘がいればなってフッと思うんです。
でも、ちょっと待て、御手洗さんはそういうことも考えられないんだって、我に返るんです。そうすると、どうしていのか、わからなくなる。一生そんな風に考え続けるんだろうな、ついて回るんだろうなって思います。自分の子育てが間違っていたんじゃないかと思う。すべてのことに自信をなくしてしまいました。

やり直しができるのだろうかと思いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする