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社会保険労務士としての日々の業務を行う中で、考えたこと、感じたこと、伝えたいことを綴る代表コラム。

開業記⑰BBクラブ10周年

2011-05-03 23:26:42 | 開業記

一昨日の日曜日はブログをお休みしました。多くの方が見に来て頂いていたようでスミマセン。週末八ヶ岳の麓の小淵沢に行ってきました。永い間温めてきたのですが、法人の福利厚生にも使える小さな別荘を購入したいという夢があり、気になる物件があったため見てきました。まだ決めたわけではないのですが、法人のメンバーだけでなく、渋谷の事務所のように色々な人が来てくれるような場所になるとよいなあと夢を膨らませています。

17  BBクラブ10周年

平成5年に開業し平成6年の暮れに講師業を開始し講師を卒業する平成21年の夏まで2つの仕事を並行してやってきました(平成11年からは支部の役員も仕事のようにやってきましたので実際は3本柱と言っても良い感じでした)。私にとっては開業社労士の仕事も講師業も支部の役員の仕事もどれも楽しくて楽しくて仕方がないものでした。

特に講師業は講義の楽しさだけではなく受講生それぞれにいかに合格してもらうかを考えるのが楽しく、毎年合格した受講生と祝賀会で喜びあえる、そういう仕事に就くことができたことに感謝しておりました。平成7年合格目標のクラスから担当クラスを持ち、受講生や合格者と時々飲み会などを行う中で、「合格後も勉強会をしようよ」と合格者に提案していました。しかしなかなか新しいことを立ち上げるというのは大変なことで実現しませんでした。そんな中で平成13年合格の水道橋日曜総合本科の合格者が「やりましょう!」と言ってくれてOB勉強会であるBBクラブが立ち上がりました。当時の幹事は松井さん・鞍橋さん・秋澤さん・原さん・大橋さんで、現在も幹事をしてもらっています。初めての勉強会は平成14年1月で、法改正の勉強やテーマ別に講師を外部・内部にお願いしたり、開業体験談を会員が話してくれたりと、毎年2回ここまでコンスタントに開催してきました。

BBクラブの名前の由来は、「忘却防止クラブ」です。せっかくあれほど悩んだり苦しんだりして頑張って取得した知識が合格後時間とともに風化したらもったいない。年に2回くらいはメンテして欲しいという願いからついた名前なのですが口の悪い受講生は「ボケ防止クラブ」などと言って喜んでいました。しかしこのBBクラブを続けてきて本当によかったと思っています。社労士の受験生時代という一時期苦楽を共にした受験仲間や講師とも、合格後だんだん会うこともなくなるのが通常だと思いますが、この勉強会があるので少なくとも年2回は皆の顔を見て、今の状況を聞いて、また仕事の疑問などの質問を受けたり、進むべき道を相談されたりすることでずっと合格後もつながっているのを感じることができています。やはり人こそ財産と思うので、これからもずっと大切に幹事さんや会員の力を得ながら続けて行こうと思っています。私にとってはもちろんですが会員にとっても共有の財産になってくれればと思っています。

そんなBBクラブも今年で10周年。当初会員が30人程度であったものが300人の大所帯になりましたが、トラブルも一つもなくここまで来ることができました。2年前くらいから10周年はお祝いをしようということになり準備を始め、6月25日(土)に記念講演と記念パーティーを開催することにしました。パーティーの場所は合格祝賀会が一番多く開催された皆にとって思い出深いであろうホテルニューオータニに背伸びしてお願いしました。ここは私が合格者を送り出したという思い出がたくさん詰まっているホテルでもあります。

10周年の記念講演はどうするか、かなり幹事会で検討しましたがなかなか良いアイディアが出ませんでした。弁護士さん、社労士会の偉い方などが候補に挙がっている最中に、私が渋谷成蹊会という出身校の集まりに行ったところ、成蹊高校出身の「連合赤軍浅間山荘事件」の指揮官である初代内閣安全保障室長の佐々淳行先生が出席されており閃きました。短いスピーチなのにそのお話しのおもしろかったこと。BB会員になんとか佐々先生の話を生で聴かせてあげられればと、死ぬほど緊張しながら佐々先生に近付いて名刺交換をして頂きました。そして数日後佐々事務所がoursの事務所に近いということだけで「ご縁があるのだから」と自分に言い聞かせて電話をして10周年の記念講演をお願いしました。本当はそんな予算では無理なところを「そこを何とか・・・」ということでお願いしたところ有難くも受けて頂くことになりました。

いつもの法改正とはまた違う視野を広めるための貴重なお話を聞くことができると思いますし、私も久しぶりに汗をかきながら頑張りましたので、10周年事業には多くの会員が万障お繰り合わせの上ご参加頂ければ本当にうれしいです。よろしくお願いします。

BBクラブは、10周年を1つの通過点としてこれからもずっと続けて行こうと幹事さん達とも話しています。一時仕事が忙しくて参加していなかったという会員も、なんとなくしばらく参加していなかったからちょっと行きにくいなという会員も、いつでも戻れる場所があると考えてもらえる役割を持たせたいと思っています。バックアップが必要な場面はそれぞれだとも思いますので。今回の10周年を機にしばらくご無沙汰していた会員も参加して頂くととても嬉しいです。社労士受験生時代というほんの一時共有した時間が、10年さらに20年と多少ブランクがあってもつながっていくことの素晴らしさを皆で感じていければと思います。


開業記⑯退職金規程の変遷

2011-04-17 23:53:24 | 開業記

16 退職金規程の変遷

退職金規程を作成したのは初めての顧問先の会社さんに対してでした。当時はまだバブルがはじけた直後ということで、退職金規程について各企業それほど切迫していたわけではなかったのですが、初めての顧問先は数年前に中退共に加入しており、しかし何も規程を持っていなかったため、就業規則と併せて退職金規程を作成したいと考えていてご依頼がありました。

退職金規程の作り方はもちろん白紙の状態でしたが、開業当初は時間も十分あり、本を読んだりしながら作り上げました。中退共への積み立てを退職金の保全措置ととらえ、徐々に給与が上がるに従って掛金をあげて行く仕組みを作り、おおむね60歳定年までで1,500万円くらいの退職金(基本給×支給率=退職金額)が出るようにというシミュレーションをしながら、会社都合と自己都合の支給率を決めました。10人未満の会社で1,500万円という目標金額は、今考えると中小企業としては高い水準だと思います。ただ、基本給を算定基礎額にしており、その基本給の定期昇給額が世間一般においてもその会社においてもその後鈍ったため目標額には達しないことになってしまいましたが、今もその退職金規程は立派に現役です。

その後4、5年してから各企業の退職金規程の見直しがとても多い時期がありました。要するにバブルの前あたりに作った退職金の水準が非常に重荷になり、将来の負担が恐ろしいものになっているということに企業が気がついた時期です。この頃は例えば中退共に加入しているので中退共が支給する額を退職金として支払うという規程に改定して欲しいなどの依頼が多くありました。

本当は4,000万円近く支給するべき退職金を1,500万円の支払いで我慢してもらってくれというご依頼もありました。これについては本人をお宅の事務所に行かせるので話をしてくれないかというもので、社長にその相談をされた時は「それは・・・・ムリ・・・」と一瞬思ったのです。しかし、65歳までの雇用が確保され、生涯賃金においては変わらずということであればご本人も納得してくれるかも・・とうことをその場でひらめき、社長に差額保障することを説得しました。65歳まで雇用を保障し、年収の合計で4,000万円と1,500万円の差額2,500万円を確保してもらうということです。社長に了解を得てご本人に説明したところ、当時は65歳までの継続雇用は少なかったということもあり、まだお嬢さんが学生という状況のご本人にとっては悪い話ではなかったようで、途中で辞めさせられたら心配・・などと多少ゴネておられましたが、意外にすんなり同意をしてくれたときはホッとしました。(その頃から顧問先から難しいご相談を受けたときに、いきなり閃くことが増えて行きました。追いつめられないとだめな性格なのかもしれません)

退職金はその数年後、平成24年3月末を期限とする適格退職年金制度の廃止が決まり、適年を持っている各企業は確定給付、確定拠出、中退共等どの企業年金制度に移行するのかまたは退職金制度を廃止するのかという検討に入っていくことになりました。こちらも最初はご相談を受けても暗中模索でしたが、金融機関で確定拠出を担当していた受講生OBのONさんにお願いして一緒に顧問先数社に同行してもらい、各制度の移行についてその会社が抱える問題点の検討を一緒にしてもらいました。企業ごとに状況は異なり、それぞれ検討することによりおおむね各制度の特徴を理解して行きました。あれは本当に貴重な経験で、今も企業年金のご相談についてはその時の経験が生きています。

退職金制度は賃金制度よりは取り組みやすいように思いますが、2つとも時代の流れなど外的要因に影響される部分が多く、ある程度柔軟に対応(変更)できるように作っておくことが重要だと思っています。何十年も同じ賃金制度や退職金制度で大丈夫ということはある面では素晴らしく、しかしある面では問題がある可能性があると考えています。

先週満開だった桜はもうすっかり葉桜になりました。いよいよ春が来たことですし、気持ちを新たに頑張りましょう! 


開業記⑮賃金制度を初めて作ったときのこと

2011-04-10 22:59:47 | 開業記

15賃金制度を初めて作ったときのこと

前回の開業記で書いたかと思いますが、開業したころは人事制度・賃金制度を手掛けられるようになるのが最終的に社労士としてはゴールのように感じていました。自分にとってはそれほどハードルが高いある意味雲の上の存在という感じでありました。人事コンサルの会社出身の社労士の先生はゴールドに輝いているような感じでした。

しかし勉強だけはしておきたいと考えたのか、開業3年目くらいに当時の私としては清水の舞台から飛び降りるくらいの金額を支払い「楠田丘先生の賃金セミナー」に出たりはしていました。きっといつかは賃金制度を作れるような社労士になりたいとひそかにあこがれていたという感じだったのでしょう。

10人に満たない会社の賃金テーブルなどは社長と相談しながら本を見て作ってみたりもしていましたが、とうとう開業して10年目に60人弱の賃金制度を見直したいというご依頼を頂きました。これが賃金制度を本格的に作った初めての経験だったと思います。

頂いた内容は、手書きの年齢給と社長が決める職務給と何種類かの手当があり、年齢給は男女で異なっていました。もちろん労基法の「男女同一賃金の原則」に違反していますし、年齢給の賃金に占める割合が高く、能力や業績が給料に反映されにくくなってしまうため手書きの年齢給の賃金テーブルが目安的に使われているという状態でした。

その後賃金制度は毎年数件ずつ改定させて頂く機会がありますが、だいたい現状の賃金額を大きく変えることなく、考え方を整理することにより新たな制度にスムーズに移行するという方法をとります。初めてのご依頼をいただいたその会社のニーズもそのあたりにあると考えて現状分析をしてみました。誰か指導してくれる人がいるわけではなく、賃金の本をたくさん読んでおり賃金テーブルを作ることのできるソフトを持っている当時は講師仲間であった島中(現人事管理研究所長)と見よう見まねの手探りで取り組んだわけです。

そのソフトが使い勝手がひどく悪くて、まず会社から頂いたエクセルシートを読み込ませるだけで数日かかり、その後その号俸表を作るのにまた数日かかりと、とにかく時間がかかりました。ただひたすら粘り強く試行錯誤しながらやっと現状分析をしてその結果を会社に説明し、年齢給の割合を縮小し職能給の原資とし、その職能給については号俸表を作り、等級と賃金にかい離がある人のピックアップをして1つ1つ会社と検討し、手当を整理して、と独学1本で何とか作り上げました。

特に号俸表を作るのに、何度も何度も条件を入れなおして気が遠くなりそうな場面もありました。根気がいる作業だったと今でも思い出しますが、やはりとにかくやってみることが一番と思います。どんなにセミナーに出ても本を読んでも実際にやってみないことにはわからないことばかりです。かといってセミナーや本を読んで下準備しておくことは重要です。自分一人では無理であれば仲間を作っておき分担することも良いと思います。とにかく所詮人類が作ってきたもの(ちょっと大げさ!)が自分に作れないわけがないくらいに考えて度胸を持って頑張ってみることが大切ですね。


開業記⑭社労士の仕事の方向性

2011-03-27 23:11:52 | 開業記

14社労士の仕事の方向性

開業した時には、社労士の業務自体がどのようなものなのか分からないままにスタートという今考えてみると非常に情けない状態でしたので、もちろんこれから自分がどのようなことを社労士としてやっていきたいかなどの方向性を持っていたわけではありません。

開業当初「女性は年金を仕事にするとよい」というアドバイスを受けましたが、年金がまったくわからないで合格してしまった身としてはそれは気が進まず、また「女性だから」というところも気になるところでした。

自分がどのような方向性で仕事をするかまったくわからないまま、ひたすら頂く仕事をこなしていったという感じでしたので当初10年くらいは手続と就業規則の作成や改定が主な業務でした。私は銀行の振替依頼書などを一つ作るのにも一発ではなかなか終わらない(必ず1度は送り返される)ような人間ですので手続きが向いているとは思っていませんでしたし、押印を頂きに顧問先に行って事務所に戻ったら1ヶ所漏れていたなんて言うこともままありました。ただ役所で「書類を通す」ということについては比較的得意かもしれないと思ったりしていました。

開業後7年目くらいから顧問先の規模がやや大きくなってきて子会社の合併や分離などが行われるようになり、労働関係の「事業の考え方」など社労士講師として講義してきた内容が実務でも非常に生きてくるようになりました。業務の内容もいわゆる資格取得や喪失の手続き、就業規則の作成などから1つ難しくなって、それまでひたすら無我夢中でやってきたのは楽しかったのですが、そのころからさらにめちゃくちゃ仕事が面白いと思うようになりました。きっと知識と実務がマッチングしたのだと思います。

10年目に差し掛かる頃から1,000人以上の規模の企業から、いつも労務管理を中心に相談できる社労士として顧問契約をしてもらいたいという依頼を受けるようになり、そのころから完全に自分の方向性が決まりました。相談業務のみでも月額の顧問料をそれなりの額頂けるようになったのは、講師と教材作成で頭の中に労働法の関係法令の内容がかなり入ったこと、事例に応じた通達にもある程度精通するようになったことで、一つの事案に対しても考え方を整理して即答することができるようになったことが最大の理由だと思います。

例えば、「年次有給休暇を付与する場合、会社の合併があり別会社になった場合、付与日数を決める勤続年数は合併前後を通算するのか又は別会社だから通算できないのか」といった質問に対して即座にそれは通達(S63.3.14基発150号)がありますので同一事業主として通算することになりますと回答できるようになったということです。また、前々回の内容である計画停電などもこれまでの通達を念頭に回答が出せるようになったということもあります。

従って開業して10年後にやっと主に労務管理のコンサルティングを中心とする自分の方向性が見えたという感じでした。まずは流れに沿ってみる(相手の船に乗ってみる)という考え方が好きなので、流されるままに、来る仕事に合わせて行くことにより自然に方向性が決まったと思っています。

それ以後ここまでの約10年は人事制度や賃金制度なども毎年数件は委託頂き、また給与計算もある程度受けるようになりました。特に人事制度などについては社労士業務の中でも開業時は高根の花という感じでいましたが、今はやはり法律コンサルが自分にとっては奥が深い、また時代とともにテーマが変化する面でも、魅力が尽きない1番の業務に感じています。

ただ、労務管理の法律コンサルティングと言っても、社会保険労務士の基本である手続きを知らずには良いアドバイスはできない、というよりは企業にアドバイスするときに、手続きの知識も加えることが弁護士さんのアドバイスと異なる社労士としての労務管理のアドバイスとして効果的なことが多くあります。今は手続きまで自分で行う時間的余裕はないため、事務所でスタッフが担当してくれていますが、それがアドバイスの大切な要素になっていると思っていますので、業務を事務所全体で行う効果は非常に大きいものです。

最初から人事制度のコンサルティングがやりたいとか年金がやりたいとか、ワークライフバランスに力を入れたいなど色々な方向性を持つことも良いと思いますが、依頼いただく仕事により育つ部分が多くあるのも事実ですので、間口を狭め過ぎないことが大切なのではないかと考えます。


開業記⑬ スタッフを雇うということ

2011-03-06 23:59:09 | 開業記
13 スタッフを雇うということ

開業した時は、自分の事務所に人を雇い入れるなど考えてもいませんでしたが、3年くらいたったころからTACの講師と教材担当者と社会保険労務士として顧問先を持つという実務との2足のわらじならず3つの業務を行っていくには、一人では時々パンクしそうになり苦しくなりました。

特に講師室に入り教材を担当した3年目は総合本科と上級本科両方の教材を担当しましたので、1年間過敏性大腸炎になり苦しみました。精神的な面で具合が悪くなるということはそれまでもその後もなかったですが、その1年だけは精神的に相当厳しかったのだと思います。それでも医者にも行かず乗り切ってしまいましたが(したがって過敏性大腸炎というのは自己診断です)。当時は教材原稿の締め切りに追われるということに慣れていなかったことと、すべてに実力がなかったので調べたり考えたりすることがとても時間がかかり大変だったのだと思います。

そんなこんなで業務量からいっても、ひとりでやっていて具合が悪くなった時のことを考えても、やはりちょっとでも良いので事務所のことを分かってくれる人が欲しいと考えました。ただお給料を払わなければならないわけですから責任は重いと思い、まずは開業して5年目に友人に月1回だけ来てもらうことにしました。今も事務所で請求事務をしてくれている大津さんですが、実は大津さんは子供を連れて公園に行って遊ばせていた頃にその公園で仲良くなった先輩です。姉のように頼りにしてきた友人に事務所に来てもらい、それからここまで約15年近く事務所の円滑油になってもらっています。特に年末事務所の大掃除後みんなで飲むのですが、その時に大津さんの持ってきてくれる手作り料理が美味しくみんなで盛り上がり1年を終えるのが恒例です。

大津さんの入った翌年、資格取得者の優秀な金近さんが週3日事務所に来てくれるようになり、事務所で金近さんが書類を作り私が顧問先や役所に行くという感じでした。その頃初めて100人規模の優良企業の子会社と顧問契約をすることができてだんだん大きな仕事が入ってくるようになりました。1人の事務所が2人体制になり、人が増えることが先なのか仕事が入るのが先なのかという感じで、ある意味追いかけっこのような感じで仕事と人が増えて行きました。

ある時にもうひとり雇い入れようかと思っているのだけれどお給料が払えるか心配だと支部の先輩社労士である内木元支部長に話したところ、「自分もいつもそんな感じで1人増えればPCも用意したり出費が多いけど、結局何とかなるもんなんだよね」と言われたことをよく覚えています。本当にそんな感じで、人を増やすことにより仕事が入ってくる流れとなり、そこには勢いというか頑張りというかそんなものを呼び込む面もあるのかもしれません。

一番のピンチは金近さんとその時にいたスタッフのもう1人がほとんど同時に辞めることになったときで、私はその時家に帰って泣きました。しかしその時に事務所に入社してくれた今のスタッフの秋澤さんと佐藤さんとそれより4年くらい前から助っ人として来てくれていた三枝さんのおかげて何とか乗り切り、それからはそのメンバーに新たにメンバーが加わりここまで来ているという状況です。

当初自分一人でこなしていた仕事の中で、自分でなければできないことと自分でなくても大丈夫なことを区別してスタッフに担当してもらえる体制は、仕事の範囲を広げて行くにはどうしても必要なことでした。また、ひとりでは考えつかないことをスタッフが相談に乗ってくれたり、情報をくれたり調べてくれたりと、仕事の内容の充実にも欠かせないのです。私とスタッフが2人という3人体制になったところでお互い業務の進行状況を把握できるように業務を共有の仕掛業務一覧表で管理したり、人が増えて行くにつれて必要なことを少しずつ導入して行きました。スタッフがフルタイムで働いてもらうことになったときに社会保険を整備し中退共にも入り、賞与を払えるかどうか考えたりということで中小企業の社長の気持ちは痛いほどわかるようになりました。そうやって少しずつ色々なことを整備しつつここまで来た感じです。

人を雇うということは、自分の未熟さを見せつけられることも多くあり、また責任も重いものだと思います。しかし皆で事務所で笑いあいながら楽しく仕事ができる時間は人生の中でもとても大事な時間なのではないかと、これからも和やかに(しかし仕事には厳しく!)みんなで頑張って充実した仕事をしていければと思います。

開業記⑫仕事の依頼

2011-02-13 23:05:29 | 開業記

12 仕事の依頼

 以前にも書きましたが、開業当初友人・知人は専業主婦ばかりでしたので、開業のお知らせを送ったところで仕事に結びつく可能性は非常に低いと考えていました。その後仕事の依頼がどのように来たのか、すでに4月で開業19年ともなれば色々な機会でと言うしかないのですが、一言でいえばとにかく「人とのつながり」であったと思います。

 開業当初から5年くらいまではとにかく税理士の先生からのご紹介が一番多かったと思います。大学時代の友人が高校の同窓会で名刺を渡してくれたという同級生の税理士や、TACに講師としてきておられた税理士の先生から頂いた顧問先は今もまだほとんどが顧問先企業です。

 開業から10年くらいまではHPは一般的ではなく、事務所のHPももちろんなかったので労働保険料の申告書の中に入っていた名簿で、または電話帳でなど事務所からほど近い企業からの新規適用(会社を作り社会保険や労働保険に加入する手続き)のご依頼などがありました。

 その後初めてスタッフとして入社した金近さんがHPを独学で作ってくれて、HPからのご依頼も増えて行きました。HPのご依頼は東京都社労士会の会員検索との相乗効果もあり、1000人以上の規模の会社や、大手企業からの入札のご依頼もあり、大きな仕事を頂くきっかけになりました。女性の社労士をということでご連絡いただいたり、やはり地理的に近いからということは名簿時代と同じように大きな要素になるようです。HPはその後平成19年の1月から、カネボウ時代の先輩である友人が担当してくれるようになり、今のものにリニューアルされました。今も法人の顔としてHPはとても大切だと思っています。

 ご紹介は第1号の先輩から始まり、開業歴が長くなるにつれて顧問先企業の社長や人事担当者からグループ企業をご紹介いただいたり、また人事担当者が転職した先や、企業の分割により分割した企業もお願い!など色々なところからご依頼を頂きました。

 また開業して7年目くらいに、支部役員会から派遣され渋谷労働基準協会でセミナーをさせて頂いたご縁で、当時パートで勤務を始めたばかりの三上現事務局長と女性同志ということで親しくお付き合いさせていただくことになりました。渋谷労働基準協会のセミナーの講師を担当させていただいたり、労働時間設定改善アドバイザーを3年間一緒に務めさせていただき、その対象企業からもお仕事を頂くようにもなりました。この労働基準協会の新年会等は本当に男性ばかりで、150人以上の参加者の中で今でも女性は監督官と三上事務局長と私の3人ということが多く、最初は話をする人もなく立食の料理ばかりパクパク食べるしか間が持たないということもありましたが、メゲずに顔を出し、今ではとても多くの方から「小磯さん」とお声をかけて頂くようになりました(結構頑張ったと言えば頑張ったわけです)。

 しかし一番お仕事の依頼の割合が高いのは受講生・合格者からです。合格し企業で勤務登録してからも他社の動向も知りたいということ顧問契約いただいたり、色々相談に乗って欲しい(これは受講生時代の延長のような感じです)と依頼して頂くこともあります。ずいぶん昔にクラスにいた受講生が、HPを見て「先生事務所大きくなりましたね」と突然ご連絡頂くこともありますし、なんでこんなに有名な企業からうちにご連絡が?と思いながら訪問してみるとそこには受講生や合格者が・・・ということも珍しくはありません。

 合格後も何かあれば相談して欲しいと、受講生が開業すればできるだけフォローしてと思っていますが、こちらから企業の対応等を聞かせてもらうことや相談させてもらうもあり、この頃は私がフォローされているのではないのか?と正直思います。開業当初人脈といえるものがほとんどなかった私にとってのこの約20年間の人とのつながりは、本当に思いがけず広がり、人生の中で大切な財産になったと感じています。


開業記⑪講師としての15年間

2011-01-29 22:07:50 | 開業記

11 TAC社会保険労務士講座の講師は、平成7年から平成21年合格目標までの15年間務めさせてもらいました。時々受講生から、講師業は天職でしょうと言われるくらい私は楽しそうにやっていたのだと思います。

 元来講師になるまでの私は、人前で話をすることが得意というわけではありませんでした。講師になってからもずいぶん長い間講義の最初のあたりは汗が噴き出てノドが詰まりそうになるということを繰り返していました。ただ人前で話をすることが苦手ということは「慣れ」ることで克服することができます。今でもアガルことがないわけではないですが、苦ではなくなりました。コツは最初の5分くらいの部分をしっかり話せるように予習しておくことと思います。そこをうまく通過すればあとはノッテきますのでなんとかなるものです。

 長年マイクを片手に立って講義をするというスタイルでしたので、今でもセミナーなどで座って講義をすることが苦手です。先日も顧問先企業の拠点担当者の勉強会で立って話し始めたところ、「お座り頂いて良いですよ」と椅子を進められましたが、「立っていないと調子が出ないのです」とお断りしたら、笑われてしまいました。でも座って話すとおなかに力が入りませんしね。ついでにマイクがないのもちょっと苦手です。のどが弱くて声がかれやすいということもあるのですが、マイクがないとなんだかノリが悪いのです。

 通信講座を結構担当しましたが、声の収録だけの方が好きでした。というのもカメラ目線というものがまったくできないわけです。とにかく15年間の最後の時まで、講義の時は必死に頭をフル回転させてしゃべっているという感じでしたので、カメラの方を向くなどという余計なことまで考えたくないという状態でしたし、なんだか照れくさいという感じもしていました。と言っているわりにはだんだんノッテくると結構ノリノリになってよく勉強法にかこつけて子どもの受験の話や今でも事務所を手伝ってくれている柔道の達人三枝さんの話など実務の話に絡めてしていました。今でも久しぶりに会った合格者に息子さん何歳になりました?などと聞かれたり、合格者が事務所に来られて三枝さんに会ったとき「あなたが三枝さんですか~。初めて会ったとは思えない」などと言われたりして(ご本人赤くなって)いました。子供から「僕のことは話すな~!」と家ではクレームを受けたりもしていました。

 講義では実務の話と絡めて説明すればイメージが湧き覚えやすいのではと思っていましたので、実務は講義の勉強、講義は実務の勉強と考え相乗効果を狙っていました。ですから講義で出てくることをできるだけ自分で経験してみるということは意識していて、例えば子供が20歳になったときは早速学生免除を申請してみたり、事務所で中退共に加入してみたり、職安に行ったときに雇用保険の日雇労働被保険者の受付をウロウロ探してみたりしていました。講義で話している法律の内容が実務とピタッと来ることがあると納得という感じでとても快感でした。

 受講生の思い出はそれぞれ尽きないのですが、最初平成7・8年の5月速習時代は私も若くまた講師としても未熟でしたので受講生と一緒に勉強しているという感じでした。次の平成9・10年の池袋総合本科時代は受講生の年齢層が比較的若くて、本試験の前には「上手くいっていない男女交際は禁止!」などと言っていました。その後の水道橋時代は総合本科と上級本科と長く担当したので、クラスもいつも100人以上の規模でしたが受講生の名前を全員覚えるということを目標にしていましたので、みんながテストを受けている間にメモ帳に特徴と名前を記して時々それを見ながら顔を思い浮かべて復習していました。講師としてはまだまだだったと思いますが平成11年・12年は1年目でも実力テストで満点をとったりする優秀な受講生が多く合格者も増えて行きました。高度経済成長期という感じでした。BBクラブを立ち上げてくれた個性豊かで行動力のあった平成13年組やスマートに優秀だった平成14年組、選択式1点で涙をのんだ翌年だったのと社労士ブームでクラスが膨れ上がり合格者が55人出た勢いのある平成15年組、15年組がどっと合格した後残った平成16年組はほのぼのと仲が良かった感じでした。平成17年組は比較的年齢層が高く、休憩時間にみんなで屈伸をしたりして、楽しそうに授業の後一緒に勉強していました。平成18年にTACが本校を水道橋から渋谷に移すことになり、事務所のある渋谷ではツマランと思い、八重洲校を希望して担当しました。18年八重洲組はエリートサラリーマンが多く元気なクラスでした。平成19年に渋谷本校で上級fastを立ち上げ水道橋・八重洲・渋谷とついてきてくれた受講生に感激し、絶対合格させねばと心に誓いました。18年と19年の八重洲とfastは兄弟学年と私が名付けて今も仲良しです。19年にどっと合格者が出た関係で平成20年組は新しいメンバーで比較的おとなしいクラスでしたけれど新鮮でした。そして最後のクラス・最後の受講生の平成21年組。

いつもいつも延長ばかりの講義で本当に申し訳なかったですが、毎年毎年本当に楽しい講師生活をありがとうございました。


開業記⑩講師になったときのこと

2011-01-23 22:04:57 | 開業記

 与謝野さんが経済財政相になり、週末のテレビはその話が多かったですね。確かに与謝野さんのように自民党閣僚経験者が今度は民主党で大臣になるということは変節になるのでしょうけれど、私の想像でしかありませんが気持ちがわかるような気もします。東京都社会保険労務士会の40周年記念祝賀会の際与謝野さんは遅れてちょっとの時間ですが参加してくれました。その時はまだ病み上がりで、本当に大丈夫かなという足取りで、秘書さんや社労士会の重鎮に囲まれていましたが、私は式典委員長だったこともあって与謝野さんが会場に入られてから出られるまで囲まれている外周のところで付き添っているつもりでウロウロとしていました。その時の足取りのはかなさに驚きましたが、最近テレビで拝見するとお元気になられたような気がしていました。それでも残された時間に対する覚悟はきっとお持ちでしょうから、まだやり残したことがあるということで、最後に泥をかぶっても消費税を導入しようとしているのか、そしてそれに伴い年金制度を立て直そうと考えられているのかという気がしてしまいます。自民党だ民主党だと言っているような楽観的な時はもう過ぎているのではないかと。私は頑張って頂きたいと心から応援しています。

10 講師になったときのこと

 私が社労士として仕事をしていく上で最も重要な経験となった講師のことについて少しお話ししようと思います。

 開業してほんの少しずつ仕事が入るようになった2年目の平成6年の秋に社労士講座の講師にならないかというお話を頂きました。自分のように特に成績が良いわけでもなく(通信講座で適当にテストなども受けていたのでTACというより自分自身でも自分が全体のどの程度の成績であったのか知りませんでした)、もともとアタマに自信があるわけでもないような人間が講師になっても良いのだろうかと、最初は「ムリ!」と思いました。しかし開業した以上なんでもチャレンジしてみないといけないのではないかという気持ちが次第に固まり、やらせていただきたいと申し出ました。

 講師になるには模擬授業を何度か講師陣の前で行いますが、最初は黒板の前で呆然とし、何を話して何を黒板に書けばよいのか全然わからないという状態でした。これはいかんと色々な先生の講義を聴きに行き、小さな黒板を購入し、息子を目の前に座らせて「雇用保険とは・・」などと必死に練習(息子はまだ小学性でしたので熱心にうなずいてくれました)。平成6年末から通信用のテープを今はなき電話ボックスのような収録部屋に入って収録し、平成7年5月速習クラスから教壇に立ちました。

 最初は、本当に毎日毎日予習をして、板書ノート(黒板に書く内容のノート)作りに忙しく、講義は5月速習なので平日2日と日曜日2コマと非常にハードなものでした。年金も苦手、一般常識に至ってはどうすれば良いのと頭を抱えるような状態でした。というのも年金は理解し得ないままに合格してしまいましたし、OL時代2年間と10年間の専業主婦の経験しかない私が、30年以上サラリーマンをしておられる20歳以上年上の受講生もいるクラスで何を話せると言うのかということで、毎日胃がしくしくと痛かったことを覚えています。

 講師が本当に務まるのか不安ですと、元税理士講座の人気講師であった社員の方に話したところ「一生懸命やっているという熱意を感じれば受講生はついてきてくれるものですよ」と言われ、勇気を頂きました。その時から平成21年の夏までの15年間は、本当に受講生とのかかわりが楽しく、合格した受講生と喜びを共にできることが幸せで、また教えるということがいかに自分の勉強になったかと思うとき、今の私があるのはひとえに講師をさせてもらったお蔭だと思います。今でも平成13年の合格者が中心になって作ってくれたBBクラブという勉強会で、年に2回、法改正の勉強や開業体験、テーマを選んでの内部または外部の講師による講義など1日かけて勉強します。最初は30人も満たなかった人数が、今では登録は400名、1回につき150人以上が集まるという大きな規模になりました。 各学年の思い出は話し出すと尽きることがなく、また特に合格者を中心にではありますが苦楽を共にした皆の名前を私はほとんど覚えていると思います(この頃ボケてすぐに出ないこともありますが、お顔はしっかり覚えています)。15年間の受講生・合格者は私の財産、みんながいるから今も頑張れる、そんな感じです。

 とにかく一般常識をいかに克服するかということで必死でしたが、周りが敬遠するものを引き受けたり、歯ごたえのあるものに取り組むことが好きなちょっともの好きともいえる私は、直前対策の教材作り(この当時は主に一般常識対策でした)に手をあげて自信をつけ、それがのちに「最強の一般常識」になりました。また年金は平成9年から10年くらい本試験の厚生年金担当を申し出て好きになって行きました。「労働法全書」を教材作りのために毎年ボロボロになるまで読んだことで条文を読めるようになりましたし、受講生の質問に応えるために色々調べたりしたことも自分の蓄積になっていきました。

 これらのことは今社労士としていく上でちゃんと生きています。こう考えるとここまでの道は「努力努力の片道切符」(なんだか演歌調?)という感じですが、それを積み上げて来たという充実感はあります。やはり「苦労は買ってでもしろ」ということなのだと思います。ということで続きはまた来週。


開業記⑨駆け出しから飛び立つ3つのポイント

2011-01-16 22:01:13 | 開業記

 今朝の日経新聞の朝刊に「刑事司法も韓国に学べ」という記事が載っていました。被疑者・被告人の身柄拘束率が日本の80%に対して韓国14%と非常に低く、その理由は韓国における多段階拘束審査制度と呼ばれる刑事訴訟法の規定とそれを厳格に運用する裁判所の判断の結果ということです。韓国は国際的基準にかなうように制度改正や法改正を重ねて今の制度を作り上げたとのことですが、日本の状況は国際標準未満と言わざるを得ないとのこと。前例通りと変化を好まない日本は取り残されて行ってしまうのでしょうか。もう少し勇気を持ち、またスピーディーに新しいことに取り組んでいく、という元気や考え方(積極性とても言いますか)を、私たちが日々の仕事をしていくうえで又はそれよりさらに大きな視点で生き方の中でもっと大切にした方が良いのかもしれないと思いました。

 9 駆け出しから飛び立つ3つのポイント

 自分の一番の特徴が何か問われたらやはり「あきらめないこと」かなと思います。今の事務所に移転するときも1年近く物件を不動産屋さんから紹介してもらって(折々まだあきらめていませんのでヨロシクというFAXをして)、かなりコストパフォーマンスのよい条件で賃貸することが決まった時「小磯さんの粘り勝ちだね」と言われましたし、顧問先にご依頼いただくのもその他すべて敗者復活戦とTAC時代からの戦友であるOURS人研の島中所長に言われています。業務委託の入札をして他の事務所さんに決まった後で1年後に「やはり依頼したい」というご連絡があったり、ということはしょっちゅうといっても良いくらいなのです。昔「石の上にも3年」と「転んでもただでは起きない」が座右の銘ですと講義で言って受講生に大笑いされたことがありますが、特に開業当初はそんな感じでした。

 社会保険労務士を開業した当初から3年くらいまでは「不安」はいつもあるのだと思います。経験不足から来る不安だと思うのですが前回も書きました以下の3つの点がある程度クリアできればだいぶ楽に仕事を進めて行くことができるのではないかと思います。

 ①どこら辺からは知らなくても社労士として恥ずかしくないのかというラインが分かり始めたこと・・・・・最初はこのラインが分からないため常に不安です。手続一つにしても最初は1から聞かなければならず役所に変な顔をされるのではないか?顧問先の社長に「何だそんなことも分からないのか」と思われないかなど、不安でいっぱいなわけです。行政については、提出先ではないちょっと遠い役所にまず聞いてというのが有効です。顧問先の社長や担当者には、「ちょっと調べてみたいところがあるので折り返します」「(基本的かもと思っても)難しい部分がある案件ですのでよく調べてみます」と回答して、時間を稼ぎあの手この手で調べてみるのです。これは社労士事務所で経験を積んでいない場合は必ず通る道ではないでしょうか?しかしこれを重ねて行くうちに、だんだん行政などに聞かなくてもできることが増え、聞くのはちょっと恥ずかしいことと恥ずかしくないことのラインが見えてくるわけです。これが見えてきたら「駆け出し」脱出と思います。いわば綱渡りですがひとりで開業した場合は多かれ少なかれ通る道だと思います。

 ②法律通りのアドバイスをすることを方針とすると決めるに至ったこと・・・開業当初はやはり規模的に小さい会社とのお付き合いが多く、そういう小さな会社の社長のニーズと大きな企業の人事担当者のニーズとはずいぶん違います。税理士さんが節税をいつもアドバイスしてくれるのに対して、社労士は保険料は毎年どんどん上がるのに絶対払わなければいけないというし、残業も30分で毎日カットするのはだめだというしお金がかかって仕方ない、と文句のひとつも言われそうな気がするのです。何とか役に立ちたいと思っているのに会社に負担をかけることばかりのような気がして、申し訳なくなったりもします。しかもだんだんと手続をする際に、これはスルーしてしまえば分からないなと思う場面もあるわけです。また顧問報酬を頂いているわけですから、顧問先の社長の言うことをできるだけ聞いてあげたいとも思うわけです。今のように法令順守が当たり前になるとそんなことも少ないのかもしれませんが、私の開業当初はそのあたりの塩梅が社労士の腕の見せ所という同業者もいたりして正直悩みました。しかし「迷った時はとにかく法律通り原則通り行く。それが会社を健全に成長するには必要。長い目で見れば会社のため。」と決めてから迷いがなくなり楽になりました。

③聞かれたときに知識の引き出しのどこを開けばよいのかおぼろげながらわかるようになったこと・・・とにかく社労士の業務は範囲が広いですから、顧問先から今マイカー通勤の規程の作成ポイントを聞かれていたかと思ったら次は年金額の通知が来たけれどなんで上がったのかという問い合わせであったり、と思ったら会社に来なくなった社員の対応についてどうすればよいかの相談があったりと、頭は常にあっちに行ったりこっちに行ったりしなければなりません。

 開業当初であっても、社労士試験の本試験を合格しているということは知識的にはかなり持っていると自信を持って良いということなのです。実務と試験は違うというようなことを書いてあることを見ることもありますが、確かに書類の書き方などは勉強しませんし、実務は経験もさらなる勉強も必要ですから合格すればその範囲で仕事ができるということではありません。ただベースはやはり本試験の勉強そのものですから、自信を持って良いのです。ただ実務に接した時に、どの引き出しを開ければその回答があるのかがなかなか結び付けることができず、あとで「ああそのことだったのか。そういえば受験時代に勉強したな~」ということも多くあるのです。長い間、私は受験指導の講義と実務の内容がリンクするのがとても楽しくて仕方ありませんでした。社労士の仕事は奥が深くまた時代とともに変化していきますのでこれで終わりということはなく、引き出しは増えて行くばかりですが、さっと引き出しをあけて回答を取り出せるよう、今も情報や知識の整理には時間を割いています。

いずれにしても自分で経験して苦労して身につけて行くことこそ価値が出てくるのでしょうね。


開業記⑧開業当初の仕事ぶり

2011-01-09 23:51:59 | 開業記

 8 開業当初の仕事ぶり    

 開業当初はとにかく社会保険労務士事務所で働いたこともなく、意識の低いOL時代の人事労務の定型業務の2年間のみの経験でしたので、すべてが手探り状態でした。仕事のとり方も分からず、仕事が入ればその仕事のやり方が分からないということで、事務所=自宅で電話を目の前にして「電話かからないなあ~」と思いながら、思いがけず電話が鳴ると「ビクッ」とするという感じでした。

 しかし、その中でも親切な友人が付属高校の同窓会で税理士がいたから名刺を渡しておいたよといってくれて、税理士である大学の同級生を紹介してくれたり、採点のアルバイトをしていたTACの法人事業部に来ていた税理士の先生に名刺を渡したりして少しずつ、仕事を頂けるようになりました。開業医や小さな会社でも顧問税理士はいるため、税理士の先生から紹介されるお仕事が少しずつありました。それでもその後7年くらいはそんなにすごいスピードで顧問先が増えたわけではなく、本当に少しずつという感じでした。3年くらいで10件をちょっと超えるくらいだったと思いますが、開業2年後くらいにTAC社労士講座の講師の仕事をすることになったので勉強に忙しくて(受験生時代より5倍くらいは勉強しましたから)それどころじゃない!というような感じもありました。顧問先の増え方というのは面白いもので今でも急に集中して依頼があったと思うと静かになりという繰り返しで、ハードルを超えるごとに依頼して頂く企業の規模が大きくなって行きました。

 開業当初は、今度人が辞めることになったので手続きだけ依頼したいと言われても、何をどう準備すればよいのかというところから本やパンフを見て調べて行くので、とにかく時間がかかりましたが、仕事がそれほどバンバン入る心配もないので、歯がゆいながらじっくりとマイペースで処理して行ったという感じでした。

 とはいっても失敗は数知れずあり、例えば当時はカーボン用紙を入れる書類とそもそも複写になっている書類が混在していたりするとカーボンを入れるのを忘れて書類を作りそれに気づかず役所に送付して、いまでも思い出しますが、白紙の控えの用紙に受付のゴム印のみが押されたものが返送されたり(イヤミだったのでしょうか?)、事務所のスタッフにエラそうなことが言えなくなるのでやめますが、もっと軽率かつ大きなミスも「実は」ありました。背中がヒンヤリすることもしょっちゅうで、そういえばこの感覚は久しく忘れていましたが3年くらいはしばしばあったような気がします。

 ちなみに、役所に書類を提出するのは郵送でも可能で、その際は宛先を自分の事務所宛てにした返信用封筒を同封することなど、細かいことはTACの採点チームの情報交換で教えてもらったりしていました。

 税理士さんからいただいたり友人からの紹介が若干あったりで、少しずつ仕事をその都度覚えて行きましたが、その他、行政協力でずいぶん仕事を覚えさせてもらえたと思います。労働保険の申告・納付を行う年度更新(中でも建設業等の2元適用事業の事務処理等)は労働基準監督署の受付のお手伝いもむしろ勉強という感じでしたし、また納付書を提出しない会社をまわり申告書を作成してあげて回収するいわゆる「マル調」(今は廃止)が私の先生でした。となりに座った監督官のやり方を見よう見まねで時には質問しながら覚え、先輩社労士が行政協力などの際のランチで話していることを頭に叩き込みという具合で、耳は常にダンボにしておくくらいそういう機会は勉強の宝庫に思えました。ちらっと耳に入ったことを戻ってから調べるという感じで少しずつ知恵と知識がついて行きました。

 こういう手探り状態から抜け出すきっかけは、①どこら辺からは知らなくても社労士として恥ずかしくないのかというラインが分かり始めたこと、②法律通りのアドバイスをすることを方針とすると決めるに至ったこと、③聞かれたときに知識の引き出しのどこを開けばよいのかおぼろげながらわかるようになったこと、おおむね3つがあると思います。この3つについてはまた話が長くなるので次回に。                                          


労災保険率メリット制について・開業記⑦事務所の構え

2010-12-27 00:44:27 | 開業記
 労災保険の保険率は業種により決まっており、簡単にいえば過去3年間のその業種の業務災害及び通勤災害に対する保険給付(支出)と保険料(収入)を勘案して上がったり下がったりする仕組みになっています。さらに、労災保険率は企業ごとの保険給付(支出)と保険料(収入)の比率として計算された過去3年度間の収支率によって、上げ下げが行われます。これをメリット制といいますが、このメリット制の対象となるのは原則として100人以上の労働者を使用する事業場ということになります。
 
 事業分割や一昨年のリーマンショックで希望退職などを募り事業場の規模が小さくなった場合など100人を切ることがありますが、本当に正確な人数であるかどうかは特に100人前後の企業規模である場合はミスなく把握する必要があります。例えばアルバイトの人数は入れているか、兼務役員はカウントしているか、出向者は出向先でカウントしているかを注意する必要があります。100人以上の労働者を使用する事業場であるかどうかは、概算確定保険料申告書の人数を見て判断されますが、その人数がそれほど重要とも思わず正確に書いていないことも結構あるのではないかと思います。「平成23年の労災保険率のメリット制が適用されなくなる」という適用除外のお知らせは年内に来ているようです(その場合平成21年度の確定保険料の基礎となった1か月平均の人数を見ています)が、メリット制が適用されるのとされないのでは結構な保険料額の差になりますので、細かな記入の箇所ですが正確に平均の労働者数を計算して書いて頂きたいと思います。

7 事務所の構え
 現在の事務所は青山学院の近くにある事務所用のビルの2階にありますが、開業当初は自宅の一室が事務所でした。自宅の一室というとまだ聞こえは良いのですが、当時住んでいたのは富ヶ谷という小田急線代々木八幡駅と井の頭線駒場東大前駅の中間地点の住宅地にあるマンションの2DKで、当然1室を確保することはできず、子供部屋の入り口にある1畳半部分が私の事務所スペースでした。顧問先が少ない時代でしたので事務所に来客があるわけでもなく、当初はそれでも嬉しくハリキッていました。開業2年後に子供も中学に入学し、新しい友人ができたところで電話をすると留守録が「小磯社会保険労務士事務所です。ただ今出かけております」と言うわけです。子供の友人は「小磯の家は探偵事務所らしい」と興味深々で、遊びに来て事務所を見てびっくり。「小磯事務所ってコレ~?」という塩梅でした。
 
 事務所と住居を分けたいと考えだしたのは、4年目くらいからです。TACの業務として講師だけでなく、教材の仕事も行うようになると忙しくなりアルバイトでよいのでスタッフを雇いたいと考えるようになりました。人を雇うことになれば自宅というわけにはいかない、また折々アドバイスを頂いていた大野先生が常に「良い仕事を得るためには事務所の構えが大切」と言われていたことも念頭にありました。

 ある日当時の私にとっては結構出費だった解釈総覧を購入して机に置いておいたのですが、子供が紅茶を自分の机に持って行こうとしずしず歩いていたにもかかわらず転んで買ったばかりの解釈総覧が紅茶で染まってしまった事件が起きました。その時私は思わず怒ってしまい、その夜布団の中で子供に本当に申し訳ないことをしてしまったと大反省(これは子供に言ったことはありませんが、可哀そうなことをしたと今でも思い出すと切ない気持ちになります)。そんなこんなで、多少の無理をしても自分で事務所の家賃を払う決心をして、自宅だけを引っ越すことにしました。名刺など色々なものを作り直すよりはその方が影響が少ないと考えたアイディアでした。平成10年の春に自宅を引っ越し、富ヶ谷の2DKは晴れて事務所となりました。

 富ヶ谷の事務所でそれから平成16年の夏に現在の渋谷2丁目に移転するまでの6年間を過ごしたことになります。従って、開業してからの5年くらいに顧問先になって頂いた企業は富ヶ谷付近にある会社が多いのです。その時から今もほとんどの企業にお付き合いを頂いていますが、労働保険料の申告書の中に同封されていた社会保険労務士の名簿を見て電話を頂いたり、近いとことにあるとすぐに来てもらえるからということで、仕事を頂いたことをよく覚えています。その後渋谷に移転してからも、HPで見て近かったからというお話を1,000人以上の規模の企業から頂くことがあり、事務所から近いところに顧問先企業は増えて行く傾向にあったことを考えると、事務所の立地は非常に重要だと思います。

 また、事務所の構えということになると、事務所が渋谷に移転してから企業の人事担当者の方や受講生のOBなどほぼ毎日来客がある状態となり、事務所はとても活気が出たと思います。富ヶ谷にいるときは、きっと靴を脱がずに入れる(当時はスリッパに履き替えていました)事務所に移ろうという目標を持っていました。10人程度は打ち合わせができる会議室が持てるということで、今年同じビルの2階に移りましたが、事務所の成長に合わせて事務所の構えも変遷があり、さらに今お付き合い頂いている顧問先企業に合わせて行くためには、再度移転も考えており、そういうことを一歩一歩実現していく楽しさは開業ならではなのだと思います。

雇用保険二事業の事業仕分け・開業記⑥たった1件されど

2010-12-19 23:26:19 | 開業記
 行政刷新会議による事業仕分けについては、本当のところこんなことをしていて大丈夫なのだろうかという疑問がどうしても湧いてきます。監査を務めさせていただいている「女性労働協会」が国からの委託事業として行っている「女性と仕事の未来館の運営」も事業仕分けにより廃止とされることになっていますが、ハコモノというところばかりが取り上げられて十分な調査や論議の上で出された結論とは思えませんでした。また廃止になるまでの時間があまりに短く、「いろいろ努力をした結果やはり廃止せざるを得ない」という段階を踏んだものではなかったため、なぜそこまで急いで廃止にしなければならないのかと非常に疑問を感じてしまいます。未来館のこれまで以上の有効活用をいろいろ試行錯誤して、その結果を見てから決める必要があったのではないかと考えるわけです。

 また労働保険特別会計事業も廃止ということで、こちらについては雇用調整助成金以外の雇用保険二事業や労災保険の社会復帰促進等事業などが廃止とされたとのこと。雇用対策のための助成金は雇用保険の二事業の事業であり、雇用調整助成金のみが除外ということではありますが、今後雇用対策の助成金は一般会計からの確保ができなければほとんどなくなってしまうとはひどく乱暴な話だと思います。社会復帰促進事業については未払賃金立替払事業も含まれており、倒産により未払いになった賃金を支払ってくれるという事業は労働者のセーフティーネットのはずですが、これも廃止とは民主党は労働者を守ることが基本ではなかったのかとその整合性のなさに驚いてしまいます。

6 たった1件されど
 ゼロからの開業の場合、顧問先が1件でもできるとずいぶん違うものです。1件でも顧問先ができるとまず気持ちの上で少し余裕ができますし、その1件で起こった事件は10件分くらいに話をすることができるのです。要するにその会社の就業規則を作る際に導入したみなし労働時間制のケースも、出張の日当に対しての社長の考え方も、遅刻の多い社員への対応についてのルールも、それぞれ色々な会社で起きたように話すことにより、次の仕事が入ったときに結構事例を持っているなと相手に思わせることが可能になったわけです。そういう意味で1件目の顧問先は開業したばかりの駆け出しというこちらの事情を分かってくれている先輩でしたので、とにかく一生懸命その企業のことを考えるという姿勢だけは忘れず、安心して分からないので調べてみると言えたことは本当に幸せなことでした。たった1件の顧問先ではありますがされどそこが出発点、突破口となり重みのある1件でもあるわけです。
 
 開業したら社労士会や支部が仕事をくれるのかと質問されることがありますが、それは基本的にはないと考えて良いと思います。やはり仕事は自分でとりに行くもの、それだから顧問先として契約してくれた企業を大切に思えるということもあると考えています。社労士試験を目指しているという話を友人にして、じゃあ合格したらうちの会社をお願いねと言われて、合格して開業したことを勇んで報告したところ「その手続きは自分たちでやっているから」と冷たく返されたこともあり、仕事はそれほど簡単には入らないなあと思う日もありましたが、またひょんなところから仕事を頂くこともありました。こればかりは、あれこれ考え工夫しひたすら種まきをして芽が出ることを待つしかないと思います。ちなみに開業してから18年がたちましたが、今なお常に種まきしていると自分では思っています(というより種まきが習慣になっているのかもしれません)。

 結局私がいわゆる営業に行って仕事をとったのはこの最初の一件だけです。あとはすべてご紹介やホームページから又は顧問先企業が分離してなどにより顧問契約して頂いたものです。開業社労士として生きて行く中で強く感じるようになったのは、人間関係は貸したり借りたりしながらお互いにかかわりながら生きて行くものということです。一方的に貸してればよいかというと決してそうではなく、時には借りを作ることも大切なことです。また貸すときはその人に返してもらうということではなく、同じ人に貸してばかりでも構わないのです。きっと自分は他で色々借りていることが巡り巡ってその人に貸すことになっているかもしれないと思うからです。そういう意味で種まきといっても、まいたところから芽が出るとは限らない、そこがまた面白いところですね。

年休継続勤務の考え方・開業記⑤初めての営業

2010-12-05 23:36:53 | 開業記
 年次有給休暇は、会社に入社当初は6箇月間、その後は1年間「継続勤務」していることが付与の条件になっています。この継続勤務は一つの会社に継続して勤務している場合がもちろん該当しますが、高年齢雇用確保措置として定年退職後継続雇用された場合はどうなるでしょうか?通達でこの場合も実質的に労働関係が継続している限り継続勤務として前後の勤務期間を通算しなければならないことになっています(昭和63.3.14基発150号)。
 しかし平成18年春の高年齢者雇用安定法の改正の前年、各企業からのお問い合わせに上記通達を元に、労働局にも確認した上で、継続雇用制度の場合は継続勤務として前年分も繰越し及び6.5年以上勤務している方には20日の年休の付与をしていかなければならないと回答しておりました。

 それが施行3か月前くらいになると労働局の担当部署の回答が「本来そのような考え方ではあるのですが、労使の合意があれば継続勤務として取り扱わなくてもかまいません」という回答に変わってしまいました。企業側のクレームがきつかったのでしょうか?要するに、継続雇用制度で契約する際の労働条件において、年次有給休暇の付与は6箇月継続勤務して初めて10日付与ということで、労働者が合意していればよいということです。その時私は焦りました。顧問先企業には情報として連絡ができますがセミナーで聞いてくれた企業などには情報としてご連絡するすべがありません。結局直前に駆け込みで準備した企業にはそれを伝えることができましたが、半年以上前からきちんと準備した企業に伝えられなかったという残念な思いが残りました。それ以来改正の際どのような行政解釈になるかは最後まで様子見と考えながら回答しております。

5 初めての営業
 TACに毎週1回行って法人事業部の業務である企業向け通信講座の採点をするのは5、6人で皆開業したばかりのメンバーでした。のちにこのメンバーが島中先生、三浦先生、井上先生と講師仲間になっていくのですが、駆け出しの頃にこのメンバーと一緒に仕事をできたのは本当に楽しく良い思い出です。

 まだまだ少ししかない実務仕事の中でも開業したての頃は疑問だらけでしたので、1週間疑問を貯めておいて、毎週水曜日の休憩時間に色々とに皆の意見を聞いてみるのです。知識経験ともに少ない中での意見交換ですから、今聞いたら卒倒しそうな内容のことをしゃべっていたような気がしますが、それでもずいぶん助けられました。

 2年後に新標準テキストを島中先生が書くことになり、皆で校正をしてそれを使って勉強会もしました。社労士は色々勉強しなければならないことが多くて楽しいなと思っていました。開業した時経験がなかったとしても、例えば事務指定講習で知り合ったメンバーや受験生時代のメンバー又は支部の自主研究会のメンバーなどの人間関係を大切にして、相談できる仲間を持つ必要はあると思います。支部のベテランの先生にはここはというときに相談することができますが、お忙しいのでそういつもいつもというわけにはいかないからです。

 そのような環境であっても、仕事は向こうから来てくれることはありません。毎週「顧問先できた?」と採点チームのメンバーに冷やかし半分聞かれてもなんの戦略もなく開業した身としては「顧問先なんてなくても良いんだから。私は研修とか受けられればそれでよいの」とかわすしかできませんでした。

 しかし3か月たっても何も起こらないとするとこのままずっとこの状態?というのもちょっと悔しくて思い切って営業に行くことにしました。初めての営業は脱サラした夫の先輩のところでした。先輩の会社をというより先輩のお仲間の会社で何かありませんか(今なら何かありませんかではなく「こういうことができますが」くらいは準備したいですね)、ということで今考えると営業ツールも持たず気の利かないことこの上ない営業であったのです。しかし、ちょうど就業規則を作った方が良いと税理士さんから言われていたので頼んでみようかなというお話を先輩から頂き、初めて開業社労士として仕事をすることになりました。就業規則を作成後顧問先となって頂いて、それから20年近く今も顧問先第1号としてOURSの名簿のトップに君臨する存在です。本当に感謝しております。

開業記④開業当初の状況

2010-12-05 21:56:09 | 開業記
 昨日は東京都社会保険労務士会の社労士教育学院が主催する「事例に学ぶ、労務監査のポイントと実務」の研修を受けに行きました。大野事務所のパートナー社員である野田先生と元渋谷支部支部長である内木先生が講師となり、ご自身の経験を惜しみなくお話し頂きたくさんの「気づき」や「なるほどというポイント」がありました。土曜日に研修というのも、ゆったりと勉強に集中できて意外に良いものでした。BBクラブの会員にもばったり会うことができて結婚の報告を受け、満たされた気持ちになりました。

4 開業当初の状況
 開業するには、まず全国社会保険労務士会連合会の名簿に登録する必要があります。そこで、登録するため開業する事務所の管轄の都道府県社会保険労務士会に申請に行くことになり、当時お茶の水と秋葉原の中間地点にある東京都社会保険労務士会に行きました。その当時はまだ開業者が今ほど多くなかったせいか、5時直前に駆け込んだにもかかわらず当時の会長である石原会長に面接をして頂いて社会保険労務士の心得をお伺いした覚えがあります。登録には20万円程度の費用が必要でしたが、開業の決心がつかない期間にアルバイトで貯めた貯金を充てました。
 
 事務所のゴム印、名刺、挨拶状を準備して、当時は電話も加入権を購入する必要があったためそのお金はなく自宅との兼用でしたしワープロ(当時はパソコンはそろそろ普及し始めたなくらい)も持っていましたので、それでOK。これで行くぞとワクワクしました。しかし挨拶状を出す人はみんな専業主婦になった友人ばかりで、ここに出して何か仕事に結びつくのかな~という感じでした。

 それだけすると何をして良いかわからなかったので、とりあえず覚えて頂いているとは思えなかったもののカネボウ時代の顧問社労士の永島セツ先生の事務所に思い切ってお電話して、社労士の事務所を見せて頂きたいとお願いしました。実はそれまで私は開業社労士を永島セツ先生しか見た(それも10年前)ことがなく、何かきっかけをつかむにもどう動いて良いのか分からずワラにもすがる気持ちでした。先生の事務所で何をお話ししたか緊張しまくっていた以外は今ではほとんど覚えていないのですが、とにかく所属する渋谷支部の支部長(現東京政連会長の富田弘先生)と、渋谷支部には東京会を将来背負って立つ副支部長(現東京会副会長の大野実先生)がおられるのでにご挨拶に行きなさいということでした。東京都社労士会という区分だけでなく支部という区分があり活動は支部が中心になるということが想像できました。そこで早速お二人の先生のところにご挨拶に行き、たまたま富田支部長が今日は定期会議があるので渋谷東武ホテルの親睦会に来なさい、ナニ会費なんていらないからということで、初めて社会保険労務士の集まる場に行くことになったわけです(本当に会費を持たず行って、お財布を開けたらそんなお金は入っておらず、受付の先生にびっくりされたのをよく覚えております。本当に世間知らずだったわけです)。

 その初日から、支部の先輩方はまったくわけのわからない私のような新規開業者に本当に親切に自分の開業当初のことなどを話してくれました。社会保険労務士の市場は今現在でもまだ余裕があると私は考えています。新たに顧問先になって頂いた企業にこれまで社労士がいなかったということはざらですから、同業者はライバルというよりは業界全体で水準をあげて行く仲間、みんなで協力しあい企業に必要とされる存在になるほうが大切だということになります。例えばその会でその後も様々なヒントをいただきいつも応援して下さる田中和典先生から「小磯さん、僕も開業当初は社労士の業務をしたことがなかったんだけど、ある時は会社の社長、ある時は事務員、ある時は社労士ということで使い分けて、分からないことを役所に電話したりして聞いたんだよ」ということを伺いました。「なるほどね~」と実に感心しました。その後私もよく開業したばかりの方にその話をしてきましたが、これは勇気をもらいました。支部の先輩の先生は何でも聞いてきたらいいよと言ってくださる方が多く、それは渋谷支部の特徴でもありまた社労士業界の全体の雰囲気でもあると思います。今思えばこの日やっと扉が開き始めたのだと思います。

 

開業記③合格祝賀会から開業まで

2010-11-28 22:19:56 | 開業記
 いよいよ今年もあと1箇月となり、この1年の仕事のことを総括しながら(振り返ればピンチに弱く反省の多い1年でした)、来年に向けての方向性など考えを巡らせている今日この頃です。臨時国会も12月3日で終了し、派遣法はまた成立しない模様です。先日先輩社労士に声をかけて頂いて、ある国会議員の方を講師に迎えた勉強会に出席させてもらったのですが、労働者保護の政策について色々と語っておられました。とてもよく勉強しておられるのには感心しましたが、私は労働者保護だけではどうにもならないと思っています。ここにきて企業に課せられている負担は本当に重いと思います。登録型派遣は原則禁止になる見込み、契約社員は3年を超えると契約期間満了とすることがなかなか難しくなる、また最低賃金は東京でいえば20円以上の上昇で将来1000円を目指すなど、これでは企業はどうしたって雇用ということに消極的になるのは仕方がないように思います。

 労働者保護も大事なことかもしれませんが、それよりも雇用の流動化を促進すること、要するに退職しても次の仕事が見つかりやすいという状況を作るためには、企業にあまり重い負担を課すようなことをするのは逆効果ではないかと考えています。労働者にとっても気軽に仕事に就いたり、辞めたり、選んだりするということが選択できるのも大事なことだと思います。

3 合格祝賀会から開業まで
 
 TACのビデオブースで講義を聞くというスタイルで勉強して合格した私は、受験仲間はいませんでした。合格後合格者はどう動くのかも見当がつきませんでしたし、合格して葉書が届いても、合格しただけでは誰かが社労士の仕事をしてみませんかといってくれるわけではないですし、これまでと同じ時間が淡々と過ぎて行くだけです。合格祝賀会のお知らせがTACから届いたときには、これは万難を排して行かねばならないと思いました。平成3年合格の祝賀会はエドモントホテルで行われ、集まった合格者の人数も少なく、おおよそ30数名だったように思います。それまでビデオでしか拝見したことのなかった講師に会ったときはテレビのタレントさんを初めて実物で見たような気がしたものでした(これは私ものちにずいぶん合格者の方から言われましたが、当の本人はなんとなく「そうかな~」という感じでしたので、タレントという仕事も意外に多くの人の目に触れているということについての実感はないのかもしれません…余談)。

 そこで何人かの女性と話をすることができて、その中で労働保険事務組合に勤めているという女性が「私は絶対開業することはできない。なぜなら就業規則を作ったこともないから。」というわけです。それを聞いて「私だって就業規則なんて見たこともないんだから作れるわけもなく、開業などは遠い夢ということか・・・。ましてや今労働保険事務組合で仕事をしている人がそう言うのであればまったくかけ離れている私なんぞは開業は無理だ。」と考えたわけです。その日は少し興奮しながら、少しがっかりして帰ったことを覚えています。

 それから約1年は、編集の仕事をしている友人のテープ起こしなどのアルバイトを内職的にやりながら、どうするべきか迷っていました。開業セミナーなども価格が高くて手がでませんでした。しかし次の秋が巡ってきた頃には、試験勉強である程度覚えていたことをすっかり忘れてしまってような不安が押し寄せてきました。それを解決するには、社労士事務所に勤務するか思い切って開業してみるか、考えた結果「春には開業してみる」という方向で気持ちがだんだん固まっていきました。社労士事務所に勤務するには、たぶん残業などが多く小学生の子供を抱えてでは難しいだろうというのが一番の大きなポイントで、開業してのイメージがあったわけではありませんでした。ただ合格祝賀会の時のように、人に触れ情報を得て行くことに渇望していました。

 さらに合格祝賀会で知り合った女性の一人が扉を開くきっかけを与えてくれました。彼女は2年目の合格で、前年のクラスの友人が先に合格してTACの講師室でアルバイトをしており、採点のアルバイトを募集しているので一緒に行かないかと声を掛けてくれたのです。

 ということで平成5年の4月に自宅で開業、それと同時にTACで採点のアルバイトを週に1回というスタイルがスタートしました。