OURSブログ

社会保険労務士としての日々の業務を行う中で、考えたこと、感じたこと、伝えたいことを綴る代表コラム。

開業記⑪講師としての15年間

2011-01-29 22:07:50 | 開業記

11 TAC社会保険労務士講座の講師は、平成7年から平成21年合格目標までの15年間務めさせてもらいました。時々受講生から、講師業は天職でしょうと言われるくらい私は楽しそうにやっていたのだと思います。

 元来講師になるまでの私は、人前で話をすることが得意というわけではありませんでした。講師になってからもずいぶん長い間講義の最初のあたりは汗が噴き出てノドが詰まりそうになるということを繰り返していました。ただ人前で話をすることが苦手ということは「慣れ」ることで克服することができます。今でもアガルことがないわけではないですが、苦ではなくなりました。コツは最初の5分くらいの部分をしっかり話せるように予習しておくことと思います。そこをうまく通過すればあとはノッテきますのでなんとかなるものです。

 長年マイクを片手に立って講義をするというスタイルでしたので、今でもセミナーなどで座って講義をすることが苦手です。先日も顧問先企業の拠点担当者の勉強会で立って話し始めたところ、「お座り頂いて良いですよ」と椅子を進められましたが、「立っていないと調子が出ないのです」とお断りしたら、笑われてしまいました。でも座って話すとおなかに力が入りませんしね。ついでにマイクがないのもちょっと苦手です。のどが弱くて声がかれやすいということもあるのですが、マイクがないとなんだかノリが悪いのです。

 通信講座を結構担当しましたが、声の収録だけの方が好きでした。というのもカメラ目線というものがまったくできないわけです。とにかく15年間の最後の時まで、講義の時は必死に頭をフル回転させてしゃべっているという感じでしたので、カメラの方を向くなどという余計なことまで考えたくないという状態でしたし、なんだか照れくさいという感じもしていました。と言っているわりにはだんだんノッテくると結構ノリノリになってよく勉強法にかこつけて子どもの受験の話や今でも事務所を手伝ってくれている柔道の達人三枝さんの話など実務の話に絡めてしていました。今でも久しぶりに会った合格者に息子さん何歳になりました?などと聞かれたり、合格者が事務所に来られて三枝さんに会ったとき「あなたが三枝さんですか~。初めて会ったとは思えない」などと言われたりして(ご本人赤くなって)いました。子供から「僕のことは話すな~!」と家ではクレームを受けたりもしていました。

 講義では実務の話と絡めて説明すればイメージが湧き覚えやすいのではと思っていましたので、実務は講義の勉強、講義は実務の勉強と考え相乗効果を狙っていました。ですから講義で出てくることをできるだけ自分で経験してみるということは意識していて、例えば子供が20歳になったときは早速学生免除を申請してみたり、事務所で中退共に加入してみたり、職安に行ったときに雇用保険の日雇労働被保険者の受付をウロウロ探してみたりしていました。講義で話している法律の内容が実務とピタッと来ることがあると納得という感じでとても快感でした。

 受講生の思い出はそれぞれ尽きないのですが、最初平成7・8年の5月速習時代は私も若くまた講師としても未熟でしたので受講生と一緒に勉強しているという感じでした。次の平成9・10年の池袋総合本科時代は受講生の年齢層が比較的若くて、本試験の前には「上手くいっていない男女交際は禁止!」などと言っていました。その後の水道橋時代は総合本科と上級本科と長く担当したので、クラスもいつも100人以上の規模でしたが受講生の名前を全員覚えるということを目標にしていましたので、みんながテストを受けている間にメモ帳に特徴と名前を記して時々それを見ながら顔を思い浮かべて復習していました。講師としてはまだまだだったと思いますが平成11年・12年は1年目でも実力テストで満点をとったりする優秀な受講生が多く合格者も増えて行きました。高度経済成長期という感じでした。BBクラブを立ち上げてくれた個性豊かで行動力のあった平成13年組やスマートに優秀だった平成14年組、選択式1点で涙をのんだ翌年だったのと社労士ブームでクラスが膨れ上がり合格者が55人出た勢いのある平成15年組、15年組がどっと合格した後残った平成16年組はほのぼのと仲が良かった感じでした。平成17年組は比較的年齢層が高く、休憩時間にみんなで屈伸をしたりして、楽しそうに授業の後一緒に勉強していました。平成18年にTACが本校を水道橋から渋谷に移すことになり、事務所のある渋谷ではツマランと思い、八重洲校を希望して担当しました。18年八重洲組はエリートサラリーマンが多く元気なクラスでした。平成19年に渋谷本校で上級fastを立ち上げ水道橋・八重洲・渋谷とついてきてくれた受講生に感激し、絶対合格させねばと心に誓いました。18年と19年の八重洲とfastは兄弟学年と私が名付けて今も仲良しです。19年にどっと合格者が出た関係で平成20年組は新しいメンバーで比較的おとなしいクラスでしたけれど新鮮でした。そして最後のクラス・最後の受講生の平成21年組。

いつもいつも延長ばかりの講義で本当に申し訳なかったですが、毎年毎年本当に楽しい講師生活をありがとうございました。


開業記⑩講師になったときのこと

2011-01-23 22:04:57 | 開業記

 与謝野さんが経済財政相になり、週末のテレビはその話が多かったですね。確かに与謝野さんのように自民党閣僚経験者が今度は民主党で大臣になるということは変節になるのでしょうけれど、私の想像でしかありませんが気持ちがわかるような気もします。東京都社会保険労務士会の40周年記念祝賀会の際与謝野さんは遅れてちょっとの時間ですが参加してくれました。その時はまだ病み上がりで、本当に大丈夫かなという足取りで、秘書さんや社労士会の重鎮に囲まれていましたが、私は式典委員長だったこともあって与謝野さんが会場に入られてから出られるまで囲まれている外周のところで付き添っているつもりでウロウロとしていました。その時の足取りのはかなさに驚きましたが、最近テレビで拝見するとお元気になられたような気がしていました。それでも残された時間に対する覚悟はきっとお持ちでしょうから、まだやり残したことがあるということで、最後に泥をかぶっても消費税を導入しようとしているのか、そしてそれに伴い年金制度を立て直そうと考えられているのかという気がしてしまいます。自民党だ民主党だと言っているような楽観的な時はもう過ぎているのではないかと。私は頑張って頂きたいと心から応援しています。

10 講師になったときのこと

 私が社労士として仕事をしていく上で最も重要な経験となった講師のことについて少しお話ししようと思います。

 開業してほんの少しずつ仕事が入るようになった2年目の平成6年の秋に社労士講座の講師にならないかというお話を頂きました。自分のように特に成績が良いわけでもなく(通信講座で適当にテストなども受けていたのでTACというより自分自身でも自分が全体のどの程度の成績であったのか知りませんでした)、もともとアタマに自信があるわけでもないような人間が講師になっても良いのだろうかと、最初は「ムリ!」と思いました。しかし開業した以上なんでもチャレンジしてみないといけないのではないかという気持ちが次第に固まり、やらせていただきたいと申し出ました。

 講師になるには模擬授業を何度か講師陣の前で行いますが、最初は黒板の前で呆然とし、何を話して何を黒板に書けばよいのか全然わからないという状態でした。これはいかんと色々な先生の講義を聴きに行き、小さな黒板を購入し、息子を目の前に座らせて「雇用保険とは・・」などと必死に練習(息子はまだ小学性でしたので熱心にうなずいてくれました)。平成6年末から通信用のテープを今はなき電話ボックスのような収録部屋に入って収録し、平成7年5月速習クラスから教壇に立ちました。

 最初は、本当に毎日毎日予習をして、板書ノート(黒板に書く内容のノート)作りに忙しく、講義は5月速習なので平日2日と日曜日2コマと非常にハードなものでした。年金も苦手、一般常識に至ってはどうすれば良いのと頭を抱えるような状態でした。というのも年金は理解し得ないままに合格してしまいましたし、OL時代2年間と10年間の専業主婦の経験しかない私が、30年以上サラリーマンをしておられる20歳以上年上の受講生もいるクラスで何を話せると言うのかということで、毎日胃がしくしくと痛かったことを覚えています。

 講師が本当に務まるのか不安ですと、元税理士講座の人気講師であった社員の方に話したところ「一生懸命やっているという熱意を感じれば受講生はついてきてくれるものですよ」と言われ、勇気を頂きました。その時から平成21年の夏までの15年間は、本当に受講生とのかかわりが楽しく、合格した受講生と喜びを共にできることが幸せで、また教えるということがいかに自分の勉強になったかと思うとき、今の私があるのはひとえに講師をさせてもらったお蔭だと思います。今でも平成13年の合格者が中心になって作ってくれたBBクラブという勉強会で、年に2回、法改正の勉強や開業体験、テーマを選んでの内部または外部の講師による講義など1日かけて勉強します。最初は30人も満たなかった人数が、今では登録は400名、1回につき150人以上が集まるという大きな規模になりました。 各学年の思い出は話し出すと尽きることがなく、また特に合格者を中心にではありますが苦楽を共にした皆の名前を私はほとんど覚えていると思います(この頃ボケてすぐに出ないこともありますが、お顔はしっかり覚えています)。15年間の受講生・合格者は私の財産、みんながいるから今も頑張れる、そんな感じです。

 とにかく一般常識をいかに克服するかということで必死でしたが、周りが敬遠するものを引き受けたり、歯ごたえのあるものに取り組むことが好きなちょっともの好きともいえる私は、直前対策の教材作り(この当時は主に一般常識対策でした)に手をあげて自信をつけ、それがのちに「最強の一般常識」になりました。また年金は平成9年から10年くらい本試験の厚生年金担当を申し出て好きになって行きました。「労働法全書」を教材作りのために毎年ボロボロになるまで読んだことで条文を読めるようになりましたし、受講生の質問に応えるために色々調べたりしたことも自分の蓄積になっていきました。

 これらのことは今社労士としていく上でちゃんと生きています。こう考えるとここまでの道は「努力努力の片道切符」(なんだか演歌調?)という感じですが、それを積み上げて来たという充実感はあります。やはり「苦労は買ってでもしろ」ということなのだと思います。ということで続きはまた来週。


開業記⑨駆け出しから飛び立つ3つのポイント

2011-01-16 22:01:13 | 開業記

 今朝の日経新聞の朝刊に「刑事司法も韓国に学べ」という記事が載っていました。被疑者・被告人の身柄拘束率が日本の80%に対して韓国14%と非常に低く、その理由は韓国における多段階拘束審査制度と呼ばれる刑事訴訟法の規定とそれを厳格に運用する裁判所の判断の結果ということです。韓国は国際的基準にかなうように制度改正や法改正を重ねて今の制度を作り上げたとのことですが、日本の状況は国際標準未満と言わざるを得ないとのこと。前例通りと変化を好まない日本は取り残されて行ってしまうのでしょうか。もう少し勇気を持ち、またスピーディーに新しいことに取り組んでいく、という元気や考え方(積極性とても言いますか)を、私たちが日々の仕事をしていくうえで又はそれよりさらに大きな視点で生き方の中でもっと大切にした方が良いのかもしれないと思いました。

 9 駆け出しから飛び立つ3つのポイント

 自分の一番の特徴が何か問われたらやはり「あきらめないこと」かなと思います。今の事務所に移転するときも1年近く物件を不動産屋さんから紹介してもらって(折々まだあきらめていませんのでヨロシクというFAXをして)、かなりコストパフォーマンスのよい条件で賃貸することが決まった時「小磯さんの粘り勝ちだね」と言われましたし、顧問先にご依頼いただくのもその他すべて敗者復活戦とTAC時代からの戦友であるOURS人研の島中所長に言われています。業務委託の入札をして他の事務所さんに決まった後で1年後に「やはり依頼したい」というご連絡があったり、ということはしょっちゅうといっても良いくらいなのです。昔「石の上にも3年」と「転んでもただでは起きない」が座右の銘ですと講義で言って受講生に大笑いされたことがありますが、特に開業当初はそんな感じでした。

 社会保険労務士を開業した当初から3年くらいまでは「不安」はいつもあるのだと思います。経験不足から来る不安だと思うのですが前回も書きました以下の3つの点がある程度クリアできればだいぶ楽に仕事を進めて行くことができるのではないかと思います。

 ①どこら辺からは知らなくても社労士として恥ずかしくないのかというラインが分かり始めたこと・・・・・最初はこのラインが分からないため常に不安です。手続一つにしても最初は1から聞かなければならず役所に変な顔をされるのではないか?顧問先の社長に「何だそんなことも分からないのか」と思われないかなど、不安でいっぱいなわけです。行政については、提出先ではないちょっと遠い役所にまず聞いてというのが有効です。顧問先の社長や担当者には、「ちょっと調べてみたいところがあるので折り返します」「(基本的かもと思っても)難しい部分がある案件ですのでよく調べてみます」と回答して、時間を稼ぎあの手この手で調べてみるのです。これは社労士事務所で経験を積んでいない場合は必ず通る道ではないでしょうか?しかしこれを重ねて行くうちに、だんだん行政などに聞かなくてもできることが増え、聞くのはちょっと恥ずかしいことと恥ずかしくないことのラインが見えてくるわけです。これが見えてきたら「駆け出し」脱出と思います。いわば綱渡りですがひとりで開業した場合は多かれ少なかれ通る道だと思います。

 ②法律通りのアドバイスをすることを方針とすると決めるに至ったこと・・・開業当初はやはり規模的に小さい会社とのお付き合いが多く、そういう小さな会社の社長のニーズと大きな企業の人事担当者のニーズとはずいぶん違います。税理士さんが節税をいつもアドバイスしてくれるのに対して、社労士は保険料は毎年どんどん上がるのに絶対払わなければいけないというし、残業も30分で毎日カットするのはだめだというしお金がかかって仕方ない、と文句のひとつも言われそうな気がするのです。何とか役に立ちたいと思っているのに会社に負担をかけることばかりのような気がして、申し訳なくなったりもします。しかもだんだんと手続をする際に、これはスルーしてしまえば分からないなと思う場面もあるわけです。また顧問報酬を頂いているわけですから、顧問先の社長の言うことをできるだけ聞いてあげたいとも思うわけです。今のように法令順守が当たり前になるとそんなことも少ないのかもしれませんが、私の開業当初はそのあたりの塩梅が社労士の腕の見せ所という同業者もいたりして正直悩みました。しかし「迷った時はとにかく法律通り原則通り行く。それが会社を健全に成長するには必要。長い目で見れば会社のため。」と決めてから迷いがなくなり楽になりました。

③聞かれたときに知識の引き出しのどこを開けばよいのかおぼろげながらわかるようになったこと・・・とにかく社労士の業務は範囲が広いですから、顧問先から今マイカー通勤の規程の作成ポイントを聞かれていたかと思ったら次は年金額の通知が来たけれどなんで上がったのかという問い合わせであったり、と思ったら会社に来なくなった社員の対応についてどうすればよいかの相談があったりと、頭は常にあっちに行ったりこっちに行ったりしなければなりません。

 開業当初であっても、社労士試験の本試験を合格しているということは知識的にはかなり持っていると自信を持って良いということなのです。実務と試験は違うというようなことを書いてあることを見ることもありますが、確かに書類の書き方などは勉強しませんし、実務は経験もさらなる勉強も必要ですから合格すればその範囲で仕事ができるということではありません。ただベースはやはり本試験の勉強そのものですから、自信を持って良いのです。ただ実務に接した時に、どの引き出しを開ければその回答があるのかがなかなか結び付けることができず、あとで「ああそのことだったのか。そういえば受験時代に勉強したな~」ということも多くあるのです。長い間、私は受験指導の講義と実務の内容がリンクするのがとても楽しくて仕方ありませんでした。社労士の仕事は奥が深くまた時代とともに変化していきますのでこれで終わりということはなく、引き出しは増えて行くばかりですが、さっと引き出しをあけて回答を取り出せるよう、今も情報や知識の整理には時間を割いています。

いずれにしても自分で経験して苦労して身につけて行くことこそ価値が出てくるのでしょうね。


開業記⑧開業当初の仕事ぶり

2011-01-09 23:51:59 | 開業記

 8 開業当初の仕事ぶり    

 開業当初はとにかく社会保険労務士事務所で働いたこともなく、意識の低いOL時代の人事労務の定型業務の2年間のみの経験でしたので、すべてが手探り状態でした。仕事のとり方も分からず、仕事が入ればその仕事のやり方が分からないということで、事務所=自宅で電話を目の前にして「電話かからないなあ~」と思いながら、思いがけず電話が鳴ると「ビクッ」とするという感じでした。

 しかし、その中でも親切な友人が付属高校の同窓会で税理士がいたから名刺を渡しておいたよといってくれて、税理士である大学の同級生を紹介してくれたり、採点のアルバイトをしていたTACの法人事業部に来ていた税理士の先生に名刺を渡したりして少しずつ、仕事を頂けるようになりました。開業医や小さな会社でも顧問税理士はいるため、税理士の先生から紹介されるお仕事が少しずつありました。それでもその後7年くらいはそんなにすごいスピードで顧問先が増えたわけではなく、本当に少しずつという感じでした。3年くらいで10件をちょっと超えるくらいだったと思いますが、開業2年後くらいにTAC社労士講座の講師の仕事をすることになったので勉強に忙しくて(受験生時代より5倍くらいは勉強しましたから)それどころじゃない!というような感じもありました。顧問先の増え方というのは面白いもので今でも急に集中して依頼があったと思うと静かになりという繰り返しで、ハードルを超えるごとに依頼して頂く企業の規模が大きくなって行きました。

 開業当初は、今度人が辞めることになったので手続きだけ依頼したいと言われても、何をどう準備すればよいのかというところから本やパンフを見て調べて行くので、とにかく時間がかかりましたが、仕事がそれほどバンバン入る心配もないので、歯がゆいながらじっくりとマイペースで処理して行ったという感じでした。

 とはいっても失敗は数知れずあり、例えば当時はカーボン用紙を入れる書類とそもそも複写になっている書類が混在していたりするとカーボンを入れるのを忘れて書類を作りそれに気づかず役所に送付して、いまでも思い出しますが、白紙の控えの用紙に受付のゴム印のみが押されたものが返送されたり(イヤミだったのでしょうか?)、事務所のスタッフにエラそうなことが言えなくなるのでやめますが、もっと軽率かつ大きなミスも「実は」ありました。背中がヒンヤリすることもしょっちゅうで、そういえばこの感覚は久しく忘れていましたが3年くらいはしばしばあったような気がします。

 ちなみに、役所に書類を提出するのは郵送でも可能で、その際は宛先を自分の事務所宛てにした返信用封筒を同封することなど、細かいことはTACの採点チームの情報交換で教えてもらったりしていました。

 税理士さんからいただいたり友人からの紹介が若干あったりで、少しずつ仕事をその都度覚えて行きましたが、その他、行政協力でずいぶん仕事を覚えさせてもらえたと思います。労働保険の申告・納付を行う年度更新(中でも建設業等の2元適用事業の事務処理等)は労働基準監督署の受付のお手伝いもむしろ勉強という感じでしたし、また納付書を提出しない会社をまわり申告書を作成してあげて回収するいわゆる「マル調」(今は廃止)が私の先生でした。となりに座った監督官のやり方を見よう見まねで時には質問しながら覚え、先輩社労士が行政協力などの際のランチで話していることを頭に叩き込みという具合で、耳は常にダンボにしておくくらいそういう機会は勉強の宝庫に思えました。ちらっと耳に入ったことを戻ってから調べるという感じで少しずつ知恵と知識がついて行きました。

 こういう手探り状態から抜け出すきっかけは、①どこら辺からは知らなくても社労士として恥ずかしくないのかというラインが分かり始めたこと、②法律通りのアドバイスをすることを方針とすると決めるに至ったこと、③聞かれたときに知識の引き出しのどこを開けばよいのかおぼろげながらわかるようになったこと、おおむね3つがあると思います。この3つについてはまた話が長くなるので次回に。                                          


平成23年度年金額(見込み)

2011-01-02 21:55:33 | 年金

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。昨年は、OURS小磯社会保険労務士法人にとっては転換の年だったと思います。法人化がリーマンショックの直後であったため、一昨年は新規業務の委託がほとんどない状況だったのですが、昨年は一転して知名度の高い企業からのご依頼がとても多くあり、それも相談業務だけではなく手続などのいわゆるアウトソーシングもあり、事務所のスタッフも私も有難いことに非常に忙しい1年となりました。

 今年はさらに充実した1年にしたいと思いますので、ご支援のほどよろしくお願いいたします。

 平成23年度の年金額について年末に新聞に載っていましたので少し説明を加えてみようと思います。

 年金額は5年ぶりに引き下げを決めて、平成23年度の年金額は0.3%程度下がる見通しということです。老齢基礎年金を満額(月額6万6,008円)受給している場合は月額200円程度少なくなる予定です。これは物価に応じて年金額が変わる法律に沿った対応で、正式な年金額は今年の1月(下旬)に確定する予定です。

 この「物価に応じて年金額が変わる」ということについては以下の通りとなります。

年金額の決定方式は、平成16年の改正から変更になりました。しかし従来から年金を受給していた方への既得権を守るための特例である物価スライド特例措置の特例水準とこの改正により決めた本来の水準の2本立てにして、本来水準が特例水準に追いついたとき初めて物価スライド特例措置を廃止し、本来水準に一本化することになっています。従って現在は本来水準の額を使わず物価スライド特例措置の額を使っています。物価スライド特例措置は物価が上昇した場合は額をあげることはせず、物価が下降したときのみ下げることになっています。以下の厚労省の発表資料を見て頂くと2本立てになっていることがよくわかると思います(一番上の線が物価、真ん中が物価スライド特例措置の額、一番下が本来額です)。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000003zh7-img/2r98520000003zip.pdf
 
 
 平成22年度の年金額は、平成21年平均の全国消費者物価指数の対前年比変動率がマイナス1.4%となったのですが、基準としている平成17年の水準と比較すれば、依然として0.3%上回っている状況にあり、法律の規定に基づき、平成22年度の年金額は据置きとなりました。これは平成18年に0.3%、平成20年に1.4%と物価が上昇したため、1.4%の下落があってもまだ0.3%の貯金があったということです。平成22年度に0.3%を超えて下落すれば平成23年度は特例水準の年金額を引き下げということになっており、これを実行することになる予定だということです。

 実は平成17年に一度物価の下落があり、平成18年度の物価スライド特例措置の年金額は引き下げられています。そういう意味で5年ぶりに年金額が引き下げられるということになるわけです。

 上記の厚労省の発表資料を見て頂くとわかるように平成16年の改正時点で物価スライド特例水準と本来水準の差は1.7%でした。その後平成21年度には0.8%にまで縮まりあと一歩というところで景気が悪化して平成22年度にはその差は2.2%となりました。本来水準になるには道なお遠しという感じです。
 
 年金額を下げることについては民主党の中でも色々な意見があったようでしたが、これは法律通り必ず実施すべきと考えます。そもそも今の時点で特例措置なのですから、さらにそれに特例を設けてしまうのは避けるべきと考えます。国民も年金額の減額を受け入れてくれると思いますし、また受け入れるべきだと思います。
 
お正月早々なんだか景気の悪い話になってしまいましたが、お許しください。ただ平成23年は少しずつ上向いていくような気がします。日本人はいざとなれば力を発揮することができる国民だと信じているからです。しかし今の状態でどこに問題があるのかはよく考えてみなければいけないと思います。ルールを守る、目上の人を敬う、子供は叱るべき時はきちんと叱るなど、基本的な教育については、真剣に検討して行かなければならないと思います。

 今年は教材に追われることもなく15、6年ぶりに原稿のないお正月となり、のんびり過ごしております。少なくともこの間3冊は本を読むと決めており、駅伝と読書三昧という感じです。支部の若い後輩社労士から借りて「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読みました。とても面白くドラッカーの「マネジメント(エッセンシャル版)」も今日本屋さんに行って購入してしまいました。