真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO4

2018年03月10日 | 国際・政治

 現代日本人の多くが抱く幕末像は、司馬遼太郎の小説によって形成された部分が大きいと言われ、坂本龍馬や吉田松陰、勝海舟などを高く評価する司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観は、司馬史観などと呼ばれています。でも、その司馬遼太郎の「幕末」を読むと、明治という時代が、司馬遼太郎の描くような時代ではなかったような気がします。だから、こだわって、十二篇の短編の要所要所を順に、抜き書き的に抜粋しています。今回は「死んでも死なぬ」「彰義隊胸算用」です。

「死んでも死なぬ」には、日本の初代総理大臣伊藤博文や伊藤内閣で内務大臣をやった井上馨が、高杉晋作の指示で品川御殿山の各国公使館焼打ち事件に加わっていたことが書かれています。また、それだけではなく、宇野東桜という浪人学者を暗殺していることも書かれています。
 さらにその後、伊藤は自ら計画して、幕府の和学講談所の教授、塙次郎という国学者を襲い暗殺しています。塙次郎は『群書類従』の編纂で有名な塙保己一の子です。それを、司馬遼太郎は
これから、十日あまり後、俊輔(伊藤博文)は、焼打の仲間の山尾庸三と二人でもうひとつとほうもない暗殺をやってのけている
と書いています。まさに、「とほうもない暗殺」であり、驚くべきことだと思います。 

 そういう人たちが明治の日本の政治や文化を主導したことをきちんと踏まえなければ、日清戦争や日露戦争の真実は見えないのではないかと思うのです。最近、明治以後のいわゆる「官軍教育」の問題が、いろいろな立場で論じられているようですが、日本の紙幣に利用された政治家の肖像(伊藤博文、岩倉具視、板垣退助…)、歴史の教科書に記載された文章などを思い返すとき、確かに、「官軍教育」といわれる片寄った味方の教育がなされてきた側面も、きちんととらえられなければならないと思います。

彰義隊胸算用」には、徳川慶喜が江戸城へ移り、新政府に恭順の意を表したことに対して不満をもった幕臣が、一橋家の有志へ会合をもちかけたところから彰義隊結成にいたる様子、そして、その後維新までの動きが書かれています。
 第一回の会合は17人だったとのことですが、その後、参加者は、幕臣のみならず、市井(シセイ)の徒や攘夷浪士、さらに、町人や博徒や侠客にまで広がっていったようです。でも、結成当初から、内部に対立があったことがわかりました。
 彰義隊会頭が渋沢成一郎に決まったとき、すでに、天野八郎派の寺沢新太郎は、渋沢成一郎が「ろくでもない野郎だとわかったら、さっさと斬ってしまえばいい」などと言っています。天野派に結集した若者も、その言葉にあわせるように、「よし、斬ろう」と言い、その後、現実に繰り返し襲っているのです。同じ目的で結集した人たち同士でさえ、現状認識や考え方の違いを話し合い、確かめ合い、深め合うことがほとんどなく、すぐに「斬る」という行動になってしまっていることに驚きます。
八番隊の役目は、坂本の街道筋に出張し、その偵察員、飛脚をとらえて検査し、答弁うろんとみれば容赦なく斬った。ついには斬るのがおもしろくなり、旅姿の町人体の者とみれば容赦なく斬った
というような文章もありますが、幕末のこうした人命軽視の考え方が、その後、日清戦争や日露戦争の戦いへと発展していったのではないか、と私は考えます。

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 死んでも死なぬ

       一
 ・・・
聞多。
 姓は、養子に行って志道(シジ)。
 のち実家にもどって井上。維新後は、名を馨(カオル)と改めた。のちの大蔵大輔(オオクラダユウ)、外相、農商務相、内相、蔵相を歴任して侯爵、元老の座にのぼった男である。
 実家の井上家も、長州藩では歴(レッキ)とした上士だったが、養家の志道家も、世禄ニ百二十石の家で、しかも聞多自身、藩主敬親(タカチカ)に可愛がられ、特別のお声がかりで小姓(コショウ)に召しだされていた。もんたという奇妙な名前も、敬親が可愛さのあまりつけてくれたものだ。
 そこへゆくと、俊輔(伊藤博文)はみじめである。
 うじも、素姓もない。維新後、総理大臣になり、公爵まで授けられたこの人物は、遠祖は鎌倉期の名族河野(コウノ)・越智(オチ)氏から出た、などと称したが、要するに長州藩領の百姓の子である。それも田地持ちの百姓ではなく、熊毛郡束荷(ツカリ)村から流れて萩(ハギ)で作男をしていた人物の子である。
その点、戦国期の秀吉と出自が似ている。
 いや似ているどころか、萩の武家屋敷の小者として奉公していた少年時代、深夜、日課として習字をしたが、その習字がおわると、いつも、くるくると筆を走らせて奇妙な人形(ヒトガタ)を描き、
 --これが太閤秀吉である。
 と、つぶやいた。そのあと、床についた。それが習慣になっていた。草履取りから天下をとった太閤によほどあこがれていたのであろう。聞多も妙な男だが、俊輔(春輔・のちの博文)もかわっている。維新史は、志士たちの屍山血河(シザンケツガ)といっていいが、豊太閤を心のどこかで抱いていた「志士」は、伊藤俊輔のほか、なかろう。
 俊輔は、あくまでも太閤に似ている。運よく長州藩の名士来原(クリハラ)良蔵の若党になった。来原の死後は、来原の親戚の桂小五郎の若党になった。主筋がいい。
 その上、萩時代、隣家の吉田という藩士の子が、松下村塾に通っていた。吉田松陰がその門下中第一の人材として推していた吉田稔麿(トシマロ)(のち、池田屋ノ変で新選組に斬られる)である。この吉田稔麿の手びきで、卑賤の身分ながらも松下村塾に入れてもらった。松下村塾系の青年が藩政を牛耳るようになったとき、俊輔もその学閥で、高杉晋作や久坂玄瑞のあとにくっついて走ることができた。
 それに、幕末、長州藩は階級がみだれ、藩内は下克上(ゲコクジョウ)の気風がつよい。
「俊輔、若党ながらも志あり」
と認められたために、平時なら口もきいてもらえぬ上士階級の高杉、久坂、井上聞多と、「同志」づきあいができるようになっていた。
 ・・・
今夜は、ちょっとちがうのである。明晩、それこそ天下を驚倒させる大仕事をするために、土蔵相模で流連(イツヅ)けしているのだ。
 当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しようとしていた。
「あれを焼いてしまえ」
 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、その威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑(ハ)ねっかえりの若者は、この当時、長州藩でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。この連中が、維新までの六年間、正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中そのほとんどが死に、生き残った者が気づいたときには、維新回天の事業ができていた。
 聞多と俊輔は、こういう時代から、この仲間に入っていた。
 あくる日の夕方、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、同志の連中十二、三人が、ぞくぞくと土蔵相模にあつまってきた。
「俊輔、先ィ来ちょったのか」
 若党の分際で、といった眼で、高杉は、ぎょろりと俊輔をにらんだ。
「へい、志道様(聞多)のお供で」
 俊輔は、卑屈に腰をかがめた。高杉に対してはあくまでも若党の卑屈さをわすれない。
「お前は、聞多の銀蠅(ギンバエ)じゃのう」
 からっ、と高杉は笑った。銀蠅とは、いつも聞多の金にたかっているという意味だ。聞多は聞多で、藩主の寵(チョウ)があるから、うまく藩邸の金をごまかしてきては遊興している。
(おらァ、銀蠅か)
 俊輔は、終生、このことばをわすれなかった。
「さあみんな、早う妓を抱いておけ。子ノ刻(夜一時)この楼を出発だぞ」
 と高杉はいい、あごで一同をしゃくって、お前とお前は斬り防ぎ組、お前とたれとは爆裂弾組(バクレツダングミ)、とすばやく部署した。聞多も俊輔も爆裂弾のほうである。が、俊輔は斬り防ぎのほうが働きが目立つと思い、
「高杉様、おねがいです。私を斬り防ぎにまわしてください」
 というと、高杉は、馬鹿野郎、とだけ云ってさっさと妓の部屋へ引きとってしまった。あたりまえのことで、百姓あがりの俊輔は両刀を帯しているとはいえ、剣術など習ったことはない。
 ・・・
 さて、話は御殿山焼打直後のもどる。
 あの焼打の直後、高杉晋作はまた企画をたてたらしく、聞多、俊輔らを藩邸の自室によび、
「おい、宇野東桜を斬るから、藩邸へ連れてこい」
 と命じた。命じた、というが、俊輔は若党の分際だからいいとしても、聞多の場合、高杉と同格の上士で、しかも高杉よりも四つも年上だから命じられるのはおかしいのだが、人間の位負けというのは仕様のないものらしい。
「ひきうけた」
 と聞多は勢いこみ、伊藤俊輔、それに白井小助とう者とも相談をして、どうだましすかしたのか、その宇野東桜という男を藩邸に連れてきた。
 宇野東桜は、ここ一年ほど水戸藩邸や長州藩邸にしきりと出入りし国事を論じている浪人で、当時すでにこの男が幕府の隠密であることは藩邸ではだれも知って用心していた。高杉らと親しい宇都宮藩の儒者で大橋順蔵という人物も、この男の密告で捕縛されたことが明らかになっている。
 藩邸には、有備館(ユウビカン)という文武修業道場があり、長州藩の自慢の施設になっていた。桂小五郎が、その御用掛(塾長)を兼ねている。
 高杉は、口やかましい桂小五郎には内緒で、その宇野東桜を、有備館の二階小部屋に連れ込んだ。
「いやいや久しぶりで東桜先生の御高説を拝聴しようと思いましてな。伊藤俊輔、茶菓を差しあげろ」
「へっ」
 俊輔は階下へおりた。
 東桜は、父の代に肥後細川家を浪人して江戸に出たと称しているが、高杉の調べたところ肥後藩邸では左様な心当たりがないといっている。なかなかの学者で、しかも剣は心形刀流の免許皆伝である。おそらく宇野東桜は、はじめは純粋な動機からの尊王攘夷主義者だったのであろう。
 途中、なぜ幕府隠密になったのかわからない。
 ただ考えられることは、宇野東桜が免許まで得た心形刀流は、幕臣伊庭家に十数世伝えられている刀法で、当代の伊庭軍兵衛のもとに通う門人も、幕臣の子弟が多い。自然、そういう縁につながって、隠密を頼まれる機会があったか、それとも、単に幕臣に知人が多いというだけの理由で、水戸、長州などの過激分子から疑いをうけたのかもしれない。
(高杉さん、大丈夫かな?)
 階下で茶菓の用意を、有備館の小者に命じながら思った。高杉は江戸に出たころ、すぐ斎藤弥九郎道場に入門したが、当時、斎藤道場の塾頭だった桂小五郎が手をとって教えても、剣に癖(ヘキ)がつよすぎてあまり上達しなかった。
 --なあに、おれは実戦になれば強い。
 と、近頃はあまり熱心ではない。
(いったい、宇野ほどのやつを、高杉さんはどう斬るつもりだろう)
 高杉は、野放図というか、事前に、なかまと打ちあわせもしていないのである。
 --よし。功名のたてどころだ。
 と、俊輔は思い、大怪我は覚悟の上で、宇野に自分が斬りつけてみようと決心した。師の松陰を刑戮(ケイリツ)して赤裸にしたのは幕府ではないか。とりもなおさず宇野東桜がそれをした。そう思いこめば、腹立ちまぎれに、とほうもない力が出るかもしれない。
 そっと、大小の目釘を湿した。刀は、安物のなまくらであり、そのうえ刀の構え方も知らない男だが、べつにこわいという気はおこらない。
 そこへ二階から聞多がおりてきて
「おい俊輔、高杉は奴と無駄話ばかりしている。おれがあいつを斬らずばなるまい。人を斬ったことはないが、まあいっぺん、試しにやってみるからな」
「試しに?」
 ずぶとい男だ。
「聞多、あんたは剣術がにが手ではないか」
「あっははは。剣術なんざ、作法も術もあるものか。後ろから斬ればいい」
「ああなるほど」
 俊輔は、いかに相手が心形刀流の達人でも後ろに眼があるわけではあるまいと思いつつ、茶菓をもって二階へあがって行った。
 高杉は、自分の端唄を披露したり、品川女郎の品さだめを論じたり、愚にもつかぬはなしばかりをしていたが、急に
「そうそう」
 と、思いだしたように蝋鞘の太刀をひきよせ、ゆるゆると鞘から離し、やがてぎらりと抜きはなった。
「宇野さん、ちかごろ刀(コレ)を購(モト)めましてな、水心子(スイシンシ)だというのだが、ひとつ鑑定(メキキ)ねがえませんか」
「ああ、左様か、ちょっと拝見しよう」
 尊大な男なのである。ひと目見るなり、
「馬鹿な、これは水心子の門人で、遠州鍛冶一帯子三秀(イッタイシミツヒデ)です。この大乱れをみればわかる」
 と、興もなげに鞘におさめて、高杉に返した。高杉は「なんだ、だまされたか」と苦笑しながら、そいつをがらっとむこうへ押しやった。その刀が、伊藤俊輔のひざもとへ来た。
「宇野さん」
 高杉はいった。
「お差料を拝見」
 この男のふしぎなところである。口をひらくと、相手が王侯でも有無をいわせぬ人間の格といったところがあった。
 宇野東桜は、あわてて差料をさし出した。
「拝見」
 ぎらりと抜き、めききするのかと思えば案に相違し、すばやく拳をひるがえすや、宇野の腹にぶすっと突き立てた。そのまま手を離し、
「宇野さん、隠密なんざ、人間の屑だよ」
 といった。
 すかさず俊輔は腰の脇差をぬくと、宇野に斬りつけた。
 がちっ、と宇野の右の頬骨に刃があたって挑ねかえり、勢いで俊輔は宇野の上にわっと倒れかかった。
「馬鹿、俊輔」
 と白井小助が俊輔をつきとばし、その脇差をうばって宇野の胸にトドメを刺した。
「聞多、俊輔、あとは、始末しておけ」
 と高杉はさっさと階下へおりてしまった。
 この殺人には異説があり、高杉が詭計を以て宇野を刺したまでは確かだが、二ノ太刀はたれがやったかは、当事者の談話が食いちがっている。
 明治三十年代、伊藤博文が、伝記作者の中原邦平に直接語ったところでは、「わが輩が殺したというわけでもないが、みんながぐずぐずして居るから、一つヤッテやろうと思って、短刀をかれの喉へ突きつけようとしたところが、その短刀を遠藤多一がわが輩の手を執って(このところ意味不明)すぐに突込んで仕舞うた。そうすると、白井小助めが(俊輔はあまりこの男を好きではなかったらしい)刀を抜いて、横腹をズブズブ刺して殺した」となっている。
・・・
 この日、兇行直後、有備館塾長の桂小五郎が帰ってきて、事件におどろき、みなを集め、
「どうも藩邸の中で人殺しをするような乱暴なことをしてもらってはこまる」
 と、ねちねちと一刻(ニジカン)ばかり油をしぼった。
 これから十日あまり後、俊輔は、焼打の仲間の山尾庸三と二人でもう一つとほうもない暗殺をやってのけている。
 当時、幕府は、極端な攘夷論者だった孝明帝を廃位せしめることを考え、ひそかに廃帝の先例故事を知るために、幕府の和学講談所の教授塙(ハナワ)次郎に調査させているーーといううわさが、天下の激徒のあいだに伝えられた。
 が、うそである。
 とは、ほどなくわかったが、噂が立ったころには、俊輔は、百姓じみたしぶとさで塙次郎をねらいはじめた。こんどは高杉の企画でもなんでもなく、豊太閤をあこがれている長州藩の若党伊藤俊輔の、ひとりで立案した人斬りである。
 塙次郎といえば、盲人で不世出の学者といわれた塙保己一の子であった。国学者だが、史実に明るい。そんな関係から、幕閣では、この塙次郎と前田夏蔭の二人に、寛永以前の外国人待遇の式例(当時、諸外国からの公使に対する応接上さしあたって必要だったので)の典故(テンコ)を調べるように命じた。これが、廃帝の典故をしらべている、という巷説(コウセツ)になって流れたのである。
 が、外様藩の賊臣の俊輔はそんな真相を知らない。
(塙次郎といえば天下の大学者じゃ、しかも廃帝陰謀は天下のうわさになっている。これを斬れば、わしも同志の間でいっぱしの男になろうか)
 と、俊輔はおもった。そのうえ、
(五十六歳の老いぼれではないか)
 しかも、筆より重いものは持ったことのない学者である。
(斬れるだろう)
 俊輔は、そう計算している。
 聞多を仲間に入れようとしたが、そのころ聞多は、あいにく藩の公用で横浜へ出張していた。
 やむなく山尾庸三を誘った。
「やろう」
 と、こののちの工部卿(コウブキョウ)、宮中顧問官、子爵は、もちまえの単純さで賛成した。
 俊輔は、塙次郎の門人筋をたどって、塙の身辺を綿密にさぐった。
 やがて、十二月二十一日、駿河台の中坊陽之助の歌の会に出席することを知った。
 ・・・
 夕刻から、九段付近で待ち伏せした。
 ・・・
 「あっ」
 と、山尾は、小さく叫んだ。むこうから駕籠がきた。駕籠の先棒(サキボウ)に提灯がひとつ、それに駕籠わきで若党が持っているらしい提灯がゆれながら近づいてくる。定紋をみれば、まさしく塙次郎である。
 ぱっ、と俊輔はとびだし、
「奸賊」
 駕籠がぶちあたりそうな勢いで突進した。
 駕籠が、どさっと投げ出された。なかの塙はころび出た。駕籠かきも若党も逃げ散ってしまっていない。塙は這いころびながら、
「塙だ。なんの恨みがある」
 と叫んだ。俊輔は太刀をふりあげ、ふりおろした。が、馴れぬというものは仕様のないもので、何度ふりおろしても、間合いの見当がつかなくて切尖がとどかず、そのつど、がちっ、がちっ、と地上をたたいた。
 その点、山尾は剣に心得がある。
 突き殺してしまった。
 そのあとは、俊輔も夢中で突き刺し、やがて刀の刃(ヤイバ)を死体の首にあて、押し切るようにして首を切った。
 それを付近の屋敷の黒塀の忍び返しひっかけて梟(サラ)し、天誅の意を書いた用意の捨札を地に突きたてて、闇の中をころがるようにして逃げた。
・・・
 この間、聞多、俊輔は、最初は攘夷放棄を藩主、重役に説いて容れられず、いよいよ藩が戦いやぶれて藩庁の意見が講和に傾いたとき、聞多は、
「戦を続けるんだ」
 と重臣どもに怒号した。最初、藩は主戦論を唱えて聞多、俊輔をおさえたくせに、わずか百発の砲弾を浴びただけで講和とはなにごとが、と憤慨のあまり、別室で腹を掻(カ)っ切ろうとした。
 高杉が、飛びかかって制止した。じつのところ、ほんの一年前までは攘夷の大頭目だった高杉晋作が、藩費で上海見学をして帰っただけで、聞多や俊輔と同意見になってしまっていた。
 聞多が、刺客に襲われたのは、この年の九月二十五日の夜である。
 ・・・
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彰義隊胸算用
     一
 (諸式(ショシキ)の値動きというのは玄妙(ゲンミョウ)なものだ)
 と、寺沢新太郎は、四ツ谷鮫ケ橋をくだりながら、何度もくびをふった。往来をゆく町民どもの顔に生色がよみがえっている。腹いっぱいめしを食った、という顔つきなのだ。
 年の暮に一俵四十二両という高値をよんでいた江戸の米が、年が明けて正月なかばにはただの七両にまで安くなったのである。
 前将軍慶喜が帰ってきた、というだけの材料であった。史上こんな相場はあるまい。
 (やはり御威光だな)
 といって前将軍慶喜は凱旋したのではない。鳥羽伏見で負けて、大阪から着の身着のまま軍艦で命からがら逃げもどってきた。あとは、上野の寺にこもってひたすら謹慎恭順しているのみだが、それでも米の値は六分の一にさがった。
 江戸市民はいまさらのように将軍の偉大さをおもった。この米価のふしぎがなければ、江戸八百八町、将軍の尻押しをする彰義隊に、あれほど声援はしなかっただろう。
(たいしたものだ)
新太郎は、坂をくだる。

 快晴だが、坂は風があった。この日戊辰慶応四年二月十七日である。
 寒がりの寺沢新太郎は、山岡頭巾で顔をつつんでいた。
 名は正明。たかが御膳所の小役人だったが、それでも親代々、まぎれもない御直参(ゴジキサン)である。
 薩長が、海道を東下(トウゲ)しているという。

 新太郎は腕は立つ。
 神道無念流を学び、皆伝をうける寸前まで行った。その後幕府の奥詰め銃隊に入れられ、洋式訓練もうけた。
 詩人でもあった。いや、泰平の世に生まれておれば、詩人として世に立った若者だろう。たまたま乱世にぶつかったために、自分自身を詩の中におこうとした。
(あれが、円応寺とは。--)
 新太郎の足は速くなった。その町寺に、血で書く「詩」が待っているはずだ。彰義隊の歴史はこの日からはじまっている。
 じつは昨夜おそく、回状がきたのだ。文中、
 --君辱(ハズカシ)めらるれば臣死するの時。
 という激しい文句があった。回文の起草者は、徳川の恩に報ずるために武侠団をつくろうというのである。
 新太郎がきいたうわさでは、この回状ははじめ前将軍慶喜が出た一橋家の家臣だけにまわったそうだが、その第一回の会合の場所である雑司ヶ谷の「茗荷屋(ミョウガヤ)」にあつまったのはわずか十七人だったという。
 (一橋のやつらは、腸(ハラワタ)が腐れきっている)
 新太郎はおもった。 こんどは、幕臣全体によびかけられた。場所は、この坂の下の円応寺である。
 新太郎は、山門を入った。
 本堂、方丈(ホウジョウ)に人が満ちている。
 参会者は、幕臣、一橋家の家来だけではない。市井(シセイ)の徒もいる。攘夷浪士のくずれなどもいた。そのほとんどが剣術名誉の士で、名を聞けば新太郎も、あああの人か、とたいていは思いだせる人物ばかりであった。
「やあ」
 と、新太郎をみつけて、縁側にすわっている男が、座をあけてくれた。
 天野八郎である。
 新太郎は感激した。この高名な浪人は、二年前、銀座の「松田」で遭い、同行者から紹介されたことがある。それっきりの縁だったが、天野はおぼえていてくれた。いやおぼえているどころではない。天野は微笑して、
「蕭玉(ショウギョク)先生、詩の方はちかごろいかがです」
 と、きいた。新太郎の雅号など、親兄弟でも知らないのに、この男は、ちゃんとおぼえていてくれた。
・・・
 …天野派をのぞく中立派は、自然、この渋沢案に加担し、彰義隊会頭は渋沢成一郎、副会頭は天野八郎、ということにきまった。
・・・
「まあいい」
 新太郎はおさえた。
「まあ諸君、せっかくきまった会頭だ。しかしろくでもねえ野郎だったら、さっさと斬ってしまえばいい」
「寺沢さん、元気がいいなあ」
 天野が、杯をなめて苦笑している。…
 ・・・
(渋沢とはどんな男だろう)
 ということが、翌日、はっきりしてきた。新太郎の屋敷に、天野派の連中がつめかけてきて、聞きこんだ話しをいいtぶしじゅう話したのである。
 ・・・ 
 京や水戸で尊攘浪士が騒いでいるころ、当時まだ武州血洗島の在所で、藍の買いつけの算盤をはじいていた成一郎は、
 --おらァどももやるべえか。
 と、従弟の栄一にもちかけた。栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血の気の多いところも似ている。
 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし
「神兵組(シンペイグミ)」
 という田舎の天誅団をつくった。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」という題がついている。
 近日、高天ケ原(タカマガハラ)より神兵天降(アマクダ)り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三カ所に住居致す外夷(ガイイ)の畜生どもをのこらず踏み殺し、…
 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あたりへ斬りこもうというものであった。
・・・
 その短期間に、二人はたちまち出世して、成一郎は武をもって御床几廻(オショウギマワリ)となり、栄一は才をもって、「京都周旋方」になった。周旋方とは、往年の江戸留守居役とおなじで、諸藩の代表者と交際する外交官である。毎日、祇園で諸藩の有志と酒をのみつつ情勢を論じあうのが役目であった。
・・・
 彰義隊は、ふたつできた。
 天野派彰義隊は、上野寛永寺山内
 渋沢派彰義隊は、浅草東本願寺別院
 ところが渋沢派のほうが景気がいい。渋沢は例の政治力で幕閣の要人を説き、幕府の府庫や一橋家からしきりと金を流させたから、天野派から渋沢派へ走る者がしだいにふえ、ついに寺沢新太郎の八番隊とあと十数人という貧弱なものになった。
「幕府もしまいだね。こう同志が金で動くようじゃ」
 天野八郎も、さすがにさじを投げたかたちだった。
・・・
 八番隊の新太郎が一人一人聞きただしてみると、江戸中の富商に御用金を申しつけているのは、渋沢派彰義隊のようであった。
 新太郎から報告をきいて、天野はしばらく考えていたが、さすがにこの男は果断だった。
立ちあがった。この機会だ、とおもったのだろう。
「全員、すぐ支度を」
 と命じ、山を駈け足でくだって、白昼、浅草本願寺の本陣に突入した。
・・・
 天野は頭ごなしに一喝した。
「申しひらくことがあれば、明日殿中で申されよ。拙者も同行する」
 と、否応いわせず身柄を谷中の天王寺という荒れ寺に移し、軟禁した。…
・・・
  「奸賊。--」
 やっと、新太郎はうめいた。
 渋沢は箸をとめた。
「金を集めたのが奸賊かね。君も天野君も、金なしで戦さをするつもりか」
「程度があります。あなたは、ご出身がご出身だから彰義隊をたねにひと儲けしようとたくらんでいらっしゃるのだ」
 渋沢は、狡猾な表情でだまった。…
 ・・・
 翌朝、天野とともに勢いこんでこの渋沢の軟禁所にやってきたとき、もう一度おどろかねばならなかった。
 渋沢の姿が、かき消えていたのである。
 警衛に立てておいた天野派の隊士十人の姿もみえなかった。買収されて渋沢ともども逃げたとしかおもえなかった。
「寺沢君、これが幕臣だよ」
 天野は吐きすてるようにいったが、すぐこの機敏な男は、その足で登城し、殿中で渋沢の行状をのこらず言上した。
 ・・・
 天野はついに決心し、新太郎の八番隊に左京屋敷の討入りを命じた。

      三 
・・・
 --逃げられた。
 と、寺沢新太郎は、奥八畳の間で叫んだ。
・・・
 渋沢はその暁(ア)け方(ガタ)、江戸を逃げた。最初は武州北多摩田無(タナシ)に腰をすえ、そこであらたに近在の浮浪、江戸の同志などをよびあつめ、振武軍(シンブグン)というものを組織した。
 余談だが、そのころ、京の新選組も江戸へ舞いもどっており、隊長の近藤勇、副長土方歳三が、再挙をはかるべく、南多摩方面でしきりと募兵していた。ちょうど南多摩の首邑(シュユウ)府中まで募兵にきていた渋沢成一郎と、同じ目的で駐留している土方歳三とが、旅宿でばったり顔をあわせた、という話がある。
「渋沢さん、江戸へ帰りなさい」
 と、土方は頭からいった。江戸での渋沢の話は、耳に入っている。
「いや、再起をはかるために武州壮士をあつめているのです」
「それがよくねえ、てんだ」
 気短の土方は一喝した。甲州街道ぞいの南多摩は近藤、土方の出身地で、いわば募兵のナワバリである。その縄張りを、金でつらを張るようなやりかたで荒らされてはたまらぬ、と土方はおもったのだろう。 
 --二度とこの辺に姿をみせると、たたっ斬るぞ。
 といったというのだが、幕府瓦解で気が荒れている新選組副長なら、あるいはそういったかもしれない。
 渋沢はついに南多摩に手を染めるのをあきらめ、田無から西多摩箱根崎(いま、村山貯水池付近)に本陣をうつした。中世、武蔵七党のひとつ村山党の根拠地で、近在は農村ながら武のさかんなところである。
・・・
「化物は箱根崎に拠(ヨ)ったらしい」
 とうわさは、すぐに上野の本陣につたわってきたが、天野派では問題にしなくなった。
 渋沢遁走後、事情は天野派に好転した。幕府そのものが、彰義隊の面倒をみはじめたのである。

・・・
 新太郎の八番隊は、上野黒門から坂をおりて東、忍川(シノブガワ)にかかっている三枚橋(三橋)のきわの茶屋「山本」を屯所とし、付近一帯を警備した。
 すでに前将軍慶喜は水戸へ退隠し、江戸城は官軍にあけ渡され、その大本営になっていた。その官軍大本営から、宇都宮方面にむかってしきりと早籠(ハヤウチ)の偵察員、飛脚がゆく。宇都宮には、幕将大鳥圭介が兵を擁して薩長への叛旗をひるがえしたからである。
 八番隊の役目は、坂本の街道筋に出張し、その偵察員、飛脚をとらえて検査し、答弁うろんとみれば容赦なく斬った。ついには斬るのがおもしろくなり、旅姿の町人体の者とみれば容赦なく斬った。
 --一日血をみないと、どうも寝つかれない。
 といいだすものもあり、新太郎は、人を斬るごとに兇暴化してゆくかれらを、どう制御することもできない。吉原帰りの肥後藩士というのも斬った。が、薩長土の兵だけは避けた。かれらは余藩の官軍とちがって剽悍(ヒョウカン)な者が多く、小うるさいとおもったのだろう。
 ・・・
 この後、僧や医者に化けて官軍の探索の眼を避け、江戸の内外を転々としたが、品川沖に榎本武揚の幕府艦隊が健在ときき、深川河岸から同志四人ととおに小舟をやとい、旗艦開陽丸にたどりついた。
「われら、天地間、身をおくところがない」
 と哀願すると、榎本は「この艦を逃げ場所にされてはこまる」としぶったが、やがて搭乗を許された。
・・・
 開陽丸のむこうに、長鯨丸(チョウゲイマル)という軍艦が浮かんでいる。
「どうやらその船に、渋沢成一郎が逃げこんでいるらしい」
 といった。渋沢の噂はきいている。例の振武軍をひきいて大いに西多摩で威をふるっていたところ、官軍に飯能で一撃され、まもなく逃げ散ったという。その残兵三十五人をひいきて、長鯨丸にのりこんでいる、というのである。
「斬れ、斬れ」
 と五、六人景気よくさけぶと、もうそれが口火になって「天誅」
ということになった。
 騒ぎをきいて榎本はさすがに憤り、新太郎ら主だった者を艦長室にあつめ、
「君らは、なんのために干戈をとった。徳川家のためか、それとも私闘をするためか」
 と怒鳴り、和解しろ、いや和解だけではない、かつては渋沢が頭領だったのだから隊長として推戴しろ、兵は秩序だ、と命じた。
 やむなく、榎本の命に従った。従わねば気の短い榎本は退艦を命ずるかもしれない。
「ただ、条件をつけたいのですが」
「ああ、つけろ。和解をするためなら、十分話し合っておけ」
 榎本は、渋沢のほうにも、おなじことをいっておどしたらしい。渋沢も、退艦させられると、天地に身のおきどころがない。
・・・
 十一月五日、松前藩の居城福山城攻撃。

 福山城は、前に幅三十間の川をめぐらし、背後に山を負っている。
 城主松前徳広をはじめ主だつ重臣はすでに落ちのびていたが、それでもわずかな守兵が、城内と、川のむこう岸に銃陣を布(シ)いて待っていた。
 榎本軍は、旧陸軍奉行松平平太郎を攻城軍司令官とし、フランス海軍士官カズノフが実践指導に当たり、新選組、彰義隊、衝峰隊(ショウホウタイ)、工兵隊、砲兵隊、伝習隊、仙台額兵隊、それに高田、豊杯、長崎、桑名、会津各藩の脱士隊が、川にむかい、むらがり突入した。
・・・
 そのうち、隊長の渋成一郎が、旧振武軍の腹心三十余人を連れて妙な方向に走りだした。自然、新太郎ら二百余人もひきずられるようにそのあとに従った。
 行くさきは、金蔵(カナグラ)である。…
・・・
 このあと、渋沢は、妓楼「松川屋」を買いきり、腹心とともに連夜大騒ぎをし、その間新太郎が斬り込むのだが、このときも渋沢はすばやく蔵の中へにげこんで、一命をたすかった。 
 ・・・
 榎本軍は、明治二年五月十八日、官軍に降伏。その降伏の寸前まで、渋沢派は、「旧天野派は、日曜日に出陣しても賃銀はもらえぬからといって出陣を拒否した」といい、旧天野派は「城を取るより金蔵に駆けこむような連中と戦さはできぬ」といって紛争し、榎本はこの旧幕臣の始末に頭をかかえこんだ。

 寺沢新太郎、維新後正明ーー一時、旧幕臣とともに静岡に居住していたが、榎本武揚の新政府入りで引きたてられて官途につき、北海道開拓使出仕を手はじめに、太政官、内務、逓信などの諸官衙に出仕し、のち官を辞し、明治末年まで存命。

 渋沢成一郎、維新後喜作と改名ーー財界に入り、北海道製麻会社、東京人造肥料会社、十勝開墾会社、田中鉄工所、ほかに生糸売込商、廻米問屋、東京米穀取引所、商品取引所などに関係したが、ほとんど失敗し、そのつど、従弟の栄一が負債の補填をした。大正元年八月、七十五歳で死去。

 天野八郎ーー上野陥落後、本所石原の鉄砲師炭屋文次郎方に潜伏していたが、七月十三日、捕縛、十一月八日牢死。

 

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