真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO3

2018年03月06日 | 国際・政治

 幕末動乱期の暗殺者を主人公とする「幕末」を、司馬遼太郎は、書きたくないけれど、書かざるを得ない、そういう苦しさのなかで書いたのだろうと想像しつつ、今回は、前回に引き続き、「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」から、教えられたこと、考えさせられたこと、忘れないようにしたいこと、などの主なものを抜き書き的に抜粋しました。

土佐の夜雨」における暗殺は、土佐藩の内部問題絡みであることがわかりました。
 もともと土佐藩の領域は戦国時代末期に長宗我部氏が統治していたということですが、その長宗我部氏が、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となり、所領・所職・役職を取り上げられたのに対し、この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国を与えられたということが根底にあるということです。文中に
長曾我部家の遺臣群は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視され”、

ており

「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」と、さわぎはじめるのは当然であった

とありますが、長曾我部氏のもとにあった多くの人たちが、藩主山内家に怨みを抱き続けていたことがわかります。
 したがって、参政として様々な改革を断行した吉田東洋が、長曾我部氏のもとにあった尊王攘夷を主張する土佐勤王党に狙われ、武市半平太によって組織された暗殺組織の一組、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の三人によって暗殺されたことは、土佐藩の内部問題絡みであるということです。
 また、当時、吉田東洋の「下横目(シタヨコメ)」として動き回っていた岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が、その後、”士籍を脱している”という一文にも考えさせられました。

 「逃げの小五郎」には、維新の三傑の一人に挙げられている桂小五郎(木戸孝允)が、暗殺を逃れて逃げ延びる様子が書かれています。
 杉並木の根方に乞食小屋がずらりとならんでおり、その小屋の一つに、幾松という女性が、桂小五郎を発見します。でも、自由に話すことさえできなかったといいます。暗殺を逃れるために、桂小五郎は、乞食に姿を変え、たとえ知っている人があらわれても、話もしないほど慎重だったのだと思います。私は、そうした事実を「幕末」を読んで、はじめて知ることができました。そして、忘れてはならない大事な事実だと思いました。

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土佐の夜雨

       一
 この年、花の季節というのに、土佐高知城下で粉雪がふった。
 南国のせいか、この城下の男どもは陽気にできている。こういう異変でもこの国の男どもには結構酒の肴になるらしく、
「酒(ササ)ァ、雪で飲む、花で飲む、天は無駄なことはしちょらんど、飲めや」
 と、この日、城下のどの町でも昼から酒をのんでいる。
 --が、この巨大漢だけは別である。
 腰に鉄づくりの大脇差をぶちこみ、小脇に薬箱をかかえ、頭を坊主にまるめ、しかも真赤な女襦袢を着、思いきって尻をからげ、町並みをへいげいするように歩いてゆく、
 粉雪が漢(オトコ)の濃い眉にふりかかっては、溶けた。
 顔が、玉のように赤い。おそらく常人よりも血がありあまりすぎているのだろう。
「病人はおらんかァ、病人。薬ァ、一包み銀一分」
酔狂ではない証拠に、眉の下の眼がらんとして光り、噛みつきそうなほどに生真面目な顔であった。たとえ一人半人でも病人がつかまらなければ、今日の日が食えない。
 大坊主は、播磨屋橋(ハリマヤバシ)を西へ渡った。
さらにのし歩いて紺屋町筋を北上し、追手筋へ折れたときは、雪がどっとふぶいた。
むこうに城がみえる。ニ十四万石山内家の真白い天守閣が、このあわれな乞食医者を威圧している。
 そのときであった、仕置家老(シオキガロウ)(参政)吉田東洋が下城してきたのは。
 総身螺鈿(ソウミラデン)の槍を立て、若党に三引両(ミツビキリョウ)の定紋入りの挟箱をかつがせ、草履とりが一人、ほかに帯刀の家来を一人つけていた。
「何者か、あれは」
 相手の異装におどろいたが、わざわざ雪のなかで足をとめたのは、大坊主の眼くばり、足腰の動きをみて、ただ者ではないとみたのである。
(できるな)
 そう思った。
 もともと東洋もただの仕置家老ではなかった。いわば完全才能の持主で、学問は藩の儒者が束になってもかなわず、剣は最初一刀流を学び、ついで真影流の免許皆伝を得、さらに独自の境地をひらいているほどの男である。
・・・ 
 東洋(仕置家老<参政>吉田東洋)はその日、屋敷にもどってから、日ごろ可愛がっている「下横目(シタヨコメ)」をこっそりよんだ。 下横目とは、徒士(カチ)、郷士の非違を探索する卑役で、東洋はかねてこの役に井口(イノクチ)村の地下(ジゲ)浪人の子弥太郎という若者を抜擢してつけておいた。よく働く。
 姓は岩崎である。
 のちにこの男は三菱会社をおこす運命になる。
 弥太郎は学才はあるが目つきがするどく、「風丰(フウボウ)、盗跖(トウセキ)に似る」といわれた。盗跖とは、古代シナの伝説的な大盗の名だ。「商人の紋章は盗賊の紋章とおなじだ」という言葉が西諺(セイゲン)にあるほどだから、岩崎弥太郎はそのどっちにころんでもやりこなす男だった。
「よいか。内密に」
「かしこまりました」
 弥太郎は、その夜は家に帰らず、城下の町名主を一人ずつたずねてまわってうわさを聞き、ついにつきとめた。 
 唐人町(トウジンマチ)の裏長屋にすむ若医者で十日ばかり前、高知城下から八里ばかり西の佐川郷(家老深尾鼎(カナエ)領地)から出てきた男だという。
 大家には信甫(シンポ)などという医者らしい名前を届け出ているが、じつは武士である。
「武士?」
「左様でございます」
「郷士か」
 と、弥太郎は名主にいった。
 郷士とは、土佐の制度では最下級の武士で、上士から人間あつかいされない。たとえば上士ならその家族でも日傘をさせるが郷士はそれをゆるされないといったきびしい差別がある。土佐におけるこの差別が、ついに維新史を動かすにいたったことは後述する。
「いや、」その郷士でもございませぬ
「されば、地下であるか」
「左様で」
 となれば弥太郎と同じ出身階級である。
 地下浪人というのは、江戸などでうろうろしているいわゆる浪人者ではなく、貧窮して郷士の株を売った者、およびその子孫を指し、いわば村浪人という土佐独特の階級で、さむらいの風体はしているが、身分は百姓とかわらない。村の逸民(イツミン)である。

      ニ
「その者を屋敷によべ」
 と、東洋は弥太郎に命じた。呼びよせてとくと人体(ニンテイ)を見さだめたうえ、藩政に異論をもっているならば説教してやろうと思ったのである。これが東洋のくせである。水戸の大儒藤田東湖はめったに人をほめぬ男だが、「東洋、すこし才あり」とほめた。「ただし矯激なり」
 ・・・
 弥太郎はさらに調べた。
 それによると、大坊主は、佐川郷の領主深尾(土佐藩の譜代家老)の御勝手役で浜田佐左衛門の三男某であることがわかった。浜田家は郷士の出である。
 家老の知行所の御勝手役といえば聞えがいいが、二人扶持(ブチ)(一日一升二合五勺)の給与で数人の家族が食っている極貧最下等の武士である。
 某はその三男だから医者になったわけだが、医術もろくに学んでいない。だから、城下へ出て、医療の行商という奇矯のまねを思いついたのだろう。
「しかしなぜその者は在所へ帰ったのか」
「よく存じませぬが、なんでも、在所におめでたい話があったそうで」
 と、某に家を貸していた家主はいった。
 岩崎弥太郎は、薬の行商に化けて、佐川郷へでかけてみた。
 ・・・
三度目にその屋敷付近へ行ったとき、屋敷から、十八、九の気の荒そうな若者がとびだして、弥太郎の前にふさがった。風体は乞食同然のぼろ姿である。
「おんしは、何じゃい」
 腰に脇差を帯びている。郷士の子は眼でわかる。
 ・・・
へい、薬屋でございます」
「本当か」
 若者は、気味のわるい微笑をうかべた。弥太郎はあとで知ったのだが、若者の名は「顕助」という。この若者がのちに維新の元勲の一人となった伯爵田中光顕である。当時二十歳であった。弥太郎がさがしている某の甥にあたる。
 ・・・
弥太郎を追っぱらったあと、若者はすぐに旅装をととのえ、佐川郷から二日行程の山中である檮原(ユスハラ)村に急行した。叔父某はその村の郷士那須家の養子になっている。名を改めて那須信吾(明治後、贈従四位)
 ・・・
「叔父上」
と田中顕助は声をかけた。
・・・
「ところで」
 と、顕助は、薬屋の一件を話し、ついでに下横目ではないか、という自分の観測も伝えると、信吾はべつに驚きもせず、「大方、そうじゃろ」とあとはなにもいわなかった。
 顕助を帰してから、信吾は日暮れになって無紋の提灯をつけ、村の往来へ出た。もし、郷内に下横目が入りこんでいるとすれば、ひっとられて斬るか、なぶりものにしてやるつもりであった。
 ・・・
それにしても、東洋は酷である。参政に就任して以来、この男は譜代家老たちを押しのけたり罪におとしたりしてたちまち藩の独裁権をにぎり、人材登用と称して、自分の門下生のみを抜擢し、藩政を壟断(ロウダン)している。
 ・・・
 東洋は他人に関心のつよい男だ。とくに土佐人らしい活気のある男がすきなのである。岩崎弥太郎を抜擢したり、甥の後藤象二郎(後の伯爵)や乾(イヌイ)退助(のちの板垣退助)を愛したりしたのはそのあらわれである。

       
 ・・・
ところがその後ほどなく、
 --東洋を斬るという密謀がある。
 といううわさが、家中で流れた。出所がどこで、何者が斬るのか、ともわからなかったが、弥太郎はひそかに、那須信吾ではないか、と直覚した。信吾は、東洋の糞咆えにひどく憤慨していたという。
 当然このうわさを嗅いで、多勢の下横目が動きだした。弥太郎も役目がら、動いた。
 が、目算ははずれた。
 蜜謀のぬしは、檮原村の一郷士どころか、さらに巨大な存在であることがわかった。
 集団である。五人や六人ではない。おそらく二百人はいるだろう。二百人中、数人をのぞいては、すべて郷士、庄屋、地下浪人などの軽格である。その密謀の中心は、城下田淵の武市塾であった。首領は、武市半平太である。
 ・・・
 かれら土佐郷士には奇怪な感情がある。藩主山内家への憎悪である。この憎悪は、どの土佐郷士の家系にも代々伝えられ、ニ百余年十数代つづいてきた。
 もはや種族的な憎しみになっているもので、かれらのたれもが、自分たちを山内家の家来だとはおもっておらず、長曾我部侍(チョウソガベザムライ)である、と思っていた。こういう藩はほかにない。
 もともと山内家というのは、他国者である。藩祖山内一豊(カズトヨ)が関ヶ原の功名で遠州掛川六万石の小身から一挙に土佐一国を与えられたもので、藩祖一豊が本土からつれてきた連中の子孫が、すべて藩の顕職につく。
 長曾我部家の遺臣群は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視されている。
 ・・・
「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」
 とさわぎはじめるのは当然であった。
 ・・・

       
田淵町の武市塾の近所に、弥太郎の妻お喜勢の薄い親戚で、伊予屋五兵衛という筆墨を商う家があった。弥太郎は、あるじの五兵衛に会い、
「事情がある。しばらく二階の物置を使わせてくれぬか」
 と強引にたのんで、一ト月ばかり泊まりこんだ。この二階から、武市塾の人の出入りがよくみえるのである。
 ・・・
那須信吾も、二日か三日に一度はきた。

 ・・・
武市は帰国後、東洋をはじめ、譜代家老や大目付などを説きまわり、挙藩勤王をおこすよう必死に工作をした。
 が東洋をはじめ藩の上層部は「武市の天皇狂いめ」とわらってたれも耳をかたむけない。武市はついに、死を覚悟して最後の説得をするために東洋に会った。
 ・・・
武市は弁じたてた。もはや日本にとって徳川家は無用であるという。
 ・・・
(東洋は)さらに話題を転じ、
「武士には恩義というものがある。わが山内家は、関ヶ原の功によって遠州掛川の小大名から土佐一国を徳川家から拝領した。この事情は、関ヶ原で負けて減封された長州藩や、減封されぬまでも敗北の屈辱を負った薩摩藩とは、同日には論じられぬ。あの二藩はもともと徳川家へ怨みを抱いてニ百数十年をすごしてきたのだ。たまたま、こういう時勢になったから、にわかに尊王倒幕などと申して報復しようとしている。わしは参政として、そういう連中には加担できぬ」
 ・・・
        
 ・・・
(斬るか)
 と、武市が決意したのは、この夜である。
 武市は、田淵町の徒党から刺客を八人えらび、これを三組に分けた。 
 第一組は、鏡心明智流の目録岡本猪之助を首班とする二人。第二組は、同流の免許皆伝島村衛吉(のち土佐勤王獄で切腹)を首班とする三人。第三組は那須信吾である。武市は那須の組に、安岡嘉助、大石団蔵を加えた。
 ・・・
来た)
 安岡が鯉口をくつろげ、つかをにぎり、一呼息、二呼息、と自分の気息をはかりつつ最後におおきく息をのむと、ぱっと走り出た。
 提灯を切り落とした。
 安岡が、刀をひく。彼の役は、それでしまいである。かわって那須信吾が上段のままおどり出、
元吉殿、国のために参る」
 と叫びながら、二尺七寸、備前無銘の直刀をふりおろした。
 東洋は、ひらいたままの笠で受け、弾き捨てると同時に抜刀した。
 暗い。
 すでに右肩に傷を受けている。
 那須はさらに畳みこみ、踏みこんで、二太刀斬りつけた。那須は夜目がきく。田舎郷士の余得である。城下育ちの東洋には、闇はただ漠々とした闇でしかない。刃が、どこから来るのか。
 東洋は、その不自由さに煮えかえるほど腹が立ってきた。夜闇のばあい、声をたてるのは禁物とわかっていながら、ついに四十七年、この瞬間が最後の怒気を吐いた。
「狼藉者、いずれにある。--」
 声が湧きあがると同時に、ツツと那須が進んで、声を真向から斬った。
 横倒しに倒れようとするするところを、大石団蔵が、斬りつけ、倒れ伏したところを、安岡がとどめを刺した。
 那須が首を打った。
 大石団蔵が、自分の古褌(フンドシ)でその首をつつんだ。真新しい晒(サラシ)を、と思ったが、たがいにそれを購(モト)める金がなかった。
 ・・・
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逃げの小五郎

       一
(昌念寺に、妙な居候(イオスロウ)がいる)
 と妻からきいたのは、きのうである。そのとき堀田半左衛門は、
「寺だ、いるだろう」
 ぐらい答えて、気にもとめなかった。堀田半左衛門は但馬出石藩(タジマイズイシハン)の槍術師範役で、五十石。家中では人柄で通っている。但馬出石というのは仙石家(センゴクケ)三万二千石の城下で戸数はざっと千戸。
 ・・・
「ご住職。あの仁(ジン)は」
 と堀田は石を一つ置いた。
「あれか」
 住持はめいわくそうにいった。
「さる檀家からのあずかりもので、お役人に洩れては、まずい人物らしい。だから、戸籍(ニンベツ)のことはきかずにいる。名も知らぬ」
 眼つきからして武士だと堀田はみた。中背で肉の締まった体をしており、みるからに機敏そうな男だった。
(武芸者だな)
 それも凡手ではない。
 そのことに興味をもった。さもなければ堀田は人を詮索するような男ではない。
 ・・・
「碁でも打ちませんか」
「ええ」
 男は、障子を閉めた。
 夕食後、堀田は男と碁盤をかこんだ。さっきの笑顔とはおよそ遠い、不愛想な顔で男は碁を打った。男の碁は理詰めで、慎重すぎた。これほど面白くない碁打ちは、堀田にとってははじめてであった。
 ・・・
碁は二局やって二局とも、堀田は切り捨てられるような素っ気なさで負けた。強い。が、その間、男は無駄口をひとこともきかず、名も名乗らなかった。
(妙なやつだ)
 翌日、タキに、
「どういう御仁(ゴジン)だ」
ときいたが、タキはだまっていた。ただ、
「堀田様」
と思いつめたようにいった。
「堀田様のお人柄を信じてお願い申しますけれども、この松本屋にあの方が泊まっておいでなされたということは、どこにもお洩らしくださいますな」
 そうきいただけで、堀田はいままで薄々感じていた想像が、たしかなものとなった。
(長州者だな)
 なぜなら、この山峡(ヤマカイ)の出石にも京都守護職から通達がまわってきている。
 それも一ト月前のことだ。長州兵約千人が、朝廷に強訴する、ということで家老福原越後、国司信濃(クニシシナノ)、益田越中らに率いられて武装入京し、京を警護する諸藩の兵と、伏見、御所内外、その他市中数カ所で激突した。結局敗走したが、このため京の町は八百十一町にわたって全焼し、民家だけで二万七千五百余軒が焼けた。
 この大事変のあと、幕府の残党狩りがきびしく、会津藩、桑名藩、それに新選組、京都見廻組などは、長州人を見つけ次第に捕殺した。なにしろ、京の北野天満宮の廟前にあった一対の石獅子が、長州候の寄進だというだけで、会津藩士が打ちこわそうとしたほどの昨今である。長州人すなわち賊徒、という時勢になっていた。  

       二
 橋爪善兵衛は、京都藩邸の公用方を一年つとめただけに、他藩ながら同役の桂小五郎についてくわしく知っていた。
「桂は剣でめしの食える男だよ」
 といった。
 江戸の三大道場のひとつである斎藤弥九郎の練兵館(レンペイカン)で塾頭までやったという。練兵館塾頭というと大したもので、桂が江戸を去ってからの塾頭だった渡辺昇(肥前大村藩士、のち子爵)などは、竹胴を松の幹に着け、これを竹刀でたたき割った。ちょっと信じられないほどの、そういう達者が、代々塾頭になっている。
「桂はじつにすばしこいやつで、江戸のころ、土佐の老公が桂の試合をみて、あいつ蝗(イナゴ)の生まれかわりか、とあきれたという評判がある。だから当時、江戸の剣術仲間では、桂のことを、いなご、いなご、と陰でよんでいた」
 その桂が京から消えた。
 その間の消息は、むろん、橋爪善兵衛も知るよしがない。

       三 
 ・・・
 桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六か条からなる有名な壁書があった。そのなかで、「兵(武器)は兇器なれば」という項がある。
 --一生用ふることなきは大幸といふべし。
 出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の白刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。池田屋ノ変のときも、この男は特有の直感で、寸前に難を避けた。あの日集まることになっていた同志のなかでの、唯一の生き残りである。
 ・・・
桂はんは、きっと生きてお居やす」
 と、幾松は、対馬藩の大島友之助に断言した。
・・・
幾松は、なん日も京の焼跡をさまよっては桂をさがした。失望しなかった。ある日、京の難民が多数大津にあつまっているといううわさをきき、
(あるいは)
 と、出かけてみた。
 桂はいなかった。落胆して、京へもどる駕籠をさがすために町外れまできたとき、松並木の根方根方に乞食小屋がずらりとならんでいる。その小屋の一つをふとのぞくと、妙に褌のあたらしい乞食が、菰の上にあぐらをかあいてこちらを見ている。しきりと莨(タバコ)をくゆらせていた。幾松は息がとまった。桂である。
 とっさに、言葉が出なかった。幾松は、われながら妙なことをいった。
 「あの、もし、京まで駕籠はおへんか」
 よく考えてみると、乞食小屋に駕籠の注文をするばかはいない。
 桂は泰然としていた。
「ここは駕籠やごんせん」
「………」
 幾松は駈よろうとしたが、桂は、その幾松の呼吸をきせるでおさえた。トンと地面を打つと、幾松の足はすくんだ。剣の妙機といっていい。情のこわい男だ。
 桂はそのあと、ながながと欠伸を一つして、プイと横をむいた。
(寄るな)
 ということらしい。
 ・・・

京都見廻り組組頭佐々木唯三郎が、この吉田屋の格子をがらりとひらいたのは。いきなり土間にはねあがるなり二尺四寸、無銘の備前ものを抜き、
「御用改めであるぞ」
 襖にむかって突進し、足でひらいた。
・・・
そのころ、桂小五郎は、一丈の高さの石垣を飛んで、河原にとびおりている。
 そのまま、桂は、京にも、幾松のもとにももどって来なかった。
 いったん、大阪へ落ちた。途中旅芸人姿に身をやつし、阿呆陀羅経(アホダラキョウ)を唱えながら落ちていったというが、どこでどう装束をととのえたのであろう。…

       四
 ・・・
攘夷主義の長州藩は、下関海峡で、米英仏欄の四カ国艦隊と交戦し、領内の女子、庶民まで動員して戦ったが、下関砲台群を破壊され、一方的な敗北におわった。
 悲劇はそれだけではない。蛤御門ノ変の罪によって藩主毛利敬親(タカチカ)=慶親(ヨシチカ)は官位を剥がれ、幕府は大小二十一藩に長州征伐の軍令を発し、これを怖れた長州藩では、三家老の首を切って謝罪した。
 その間、桂は出石にいた。 
 かつては長州藩きっての切れ者として諸藩に知られた桂が、女房をもらって但馬出石で荒物屋になっているとは、天下のたれも知らない。
(あの男、どうしたのだ) 
 堀田半左兵衛までが、ひそかに桂の心事を察しかねた。臆病者と思った。
 藩の上下が諸外国と戦い、幕軍と戦い、亡国寸前にあるとき、血の通った男なら命を賭してでも、国へ帰るだろう。道中の危険など、かえりみる余裕はないはずだ。
(あれでも武士か)
 と思った、身の用心も、度を越している
 ・・・
桂は、夜走獣のように疑いぶかい。さらに、二、三歩にげかけたとき、さすがに温厚な堀田半左衛門も大喝した。
武士の言葉を信じられぬか。貴殿も、一時は京を動かしたほどの男子ではないか」
「……」
「早ければあすにも、幕吏が貴殿を探索するために出石に入る。それを知らせようと思って、今夜の機会を作った。しかし左様なことよりも、貴殿のことだ。内外に敵を受けて存亡の岐路にあるというのに、なぜかような山里で安閑と日を消しておられる」
「帰る」
 裂くような声で、桂は言った。どこまではいわず、身を躍らせ、闇にまぎれて姿を消してしまった。あくまでも用心ぶかい。が、このときの堀田半左衛門の一喝が、桂の惰気(ダキ)を一時にはらった。瞬間、桂は以前の男に目覚めたといっていい。
 ・・・
 桂がいよいよ長州に帰るために、町人体の旅ごしらえをし、甚助・直蔵の兄弟に伴われて出石を発ったのは、慶応元年四月八日のことである。
 一行のなかに、幾松がいた。彼女は、いったん長州に入り、萩城下で、伊藤俊輔(博文)、村田蔵六(大村益次郎)、野村靖之助ら桂の同志の手で保護されていたが、甚助が来るに及び、同行して出石に桂を迎えにゆくことにしたのである。…
・・・

 維新は、この三年後に来る。おびただしい数の志士が、山野に命をすてた。が、桂は生き残った。新政府から、元勲とよばれる処遇をうけた。皮肉ではない。元勲とは、生きた、という意味なのであろう。維新後、政治家としての桂は、なにほどの能力もはっきしなかったが、そこまで生き得たというのは、桂の才能というべきであろう。維新後の桂(木戸)の毎日は、薩摩閥の首領大久保利通に対し、長州閥の勢力を防衛することに多くの精力ををさかれた。ーー明治三年七月八日の日記に、
「八日晴。朝、大久保参議来談」 
 とある。

 ・・・

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