もう三十年以上にわたって、日本の最高額紙幣である一万円札の肖像は福沢諭吉です。しかしながら、中国・韓国の歴史家の多くは、その福沢諭吉を「アジア蔑視、侵略肯定論を展開した侵略主義者」として批判し、なかには「民族の敵」などという人もいるといいます。
慶應義塾の創立者で、「近代日本最大の啓蒙思想家」といわれる福沢諭吉は、『時事新報』の創刊者としても知られています。その福沢諭吉は、明治十三年十二月に参議の大隈邸で大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官三人と会見した際、公報新聞の発行を依頼されたといいます。当初、福沢は辞退しようと考えたようですが、最終的には依頼を受けるかたちで、『時事新報』の創刊者となりました。創刊にあたってかかげられた『時事新報』の発行趣旨には、
”唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(オシヒロ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(イヤシク)もこの精神に戻(モト)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(マタ)その相手を問わず一切敵として之を擯(シリゾ)けんのみ。”
と記されていたということです。
こうした内容や、『時事新報』創刊の経緯を考えると、たしかに福沢諭吉を「近代日本最大の啓蒙思想家」であり、「市民的自由主義者」と受け止める一般的評価には問題があるのではないかと思います。時の政権が自らの政治を正当化するために、不都合な事実を隠蔽したり歪曲したりすること、また、逆に評価されそうなできごとや人物は、誇張して美化することがあることは、歴史が証明していることなので、歴史家の分析や論証を頼りに、自分自身で直接福沢諭吉の文章に当たり確認したいと思いました。
杉田聡氏は『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)のなかで、
福沢諭吉の様々な記述を引いて、
”福沢の名とともに有名な「天は人の上に人を造らず…」は、福沢の思想の表現ではないことを、強調しなければならない”
と書いています。また、「学問のすすめ」の冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」の命題が、
”それ自体重要な近代原則として尊重されるべきであると福沢が考えていたのなら、そもそも「…と云えり」(=と言われている)と伝聞態で記すのではなく断定的に記すはず…”
とも書いています。確かに、その通りではないかと思います。
そこで先ず、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋することにしました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、それらをすべてはぶき、現時点で、私自身が気になったことや感想を、私なりに、無理解・誤解を恐れずまとめておきたいと思います。
1の「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」の記事は、朝鮮人の立場にたてば、全く受け入れ難いものだと思います。書契問題を背景とした日朝双方の考え方の違いを考慮することなく、こうした朝鮮全面否定ともいえる記事を書き、”滅亡を賀す”などと突き放した表現をするのは、朝鮮蔑視のあらわれのような気がします。温かさを欠いていると思います。
2の「日清の戦争は文野の戦争なり」の記事は、清国に対しても一方的だと思います。そもそも、文明と野蛮が、なぜ戦争しなければならないのか分かりません。戦争こそが野蛮なのではないかと、私は思います。さらにいえば、日本が文明で、清国が野蛮という主張も、何かおかしいと思います。日本に攻め込んできたわけでもない清国を攻撃する日本が「文明」で、自ら「野蛮」であると決めつけた清国との戦争を「日清の戦争は文野の戦争なり」と正当化することは、「侵略の肯定」にほかならないのではないかと思います。
3の「朝鮮の改革に因循す可らず」には、”
”満朝を一掃し、真実文明の主義に従て日本国の政友を求め、国務の全権を執らしむ外なし。或いは臨時の処分として日本国人の中より適者を選んで枢要の地位に置き、行政の師範とするも必要なり”
などという文章がありますが、その後、こうした考え方が現実のものとなっていったことを考えると、やはり、福沢諭吉が侵略主義者であったという主張も、否定出来ないのではないかと思います。また、時事新報の日清戦争前後の記事の中には、朝鮮や清国の理解を求めたり、話し合ったり、説得したりすることを呼びかけるような姿勢を示した文章がほとんどないことも気になるところです。
4の「朝鮮の独立」の記事のなかには、
”朝鮮の独立の為に支那と戦ひながら、後始末は他人に任すとは如何にも無欲の談にして信ず可らずの説あり。日本国人は無欲なるに非ず。朝鮮に対し政治的野心こそなけれど…”
などとあります。でも、その後の展開を考えると、実際は、政治的野心がなかったとはとても考えられません。読者を欺く内容のような気がします。
5の「井上伯の渡韓を送る」には”彼の政府当局者が日本人を信ぜざるのみか…”や、”満廷の官吏一人として真実日本に心を寄せるものなき為め…”とありますが、それこそが重要な問題なのだと思います。その理由をしっかりつかみ、対応することを呼びかける記事を、何故書かなかったのかと思います。また、”注意すべきは外国人の意向なり。日本は朝鮮の内政に干渉して国土を併呑する志を懐くと邪推するやも知れず”というのも、実際は”邪推”などではなく、それなりの根拠があるから、福沢諭吉は、気にしていたのではないか、と思います。
6の 「朝鮮国の革新甚だ疑う可し」には
”我が日本人の尽力も徒労の次第なれば、最早勘弁す可らず、一刀両断の英断も止むを得ず。独立の裏は亡国なれば、彼らは自ら滅亡を所望するならん。開明の反対は野蛮にして…”
などとあります。随分強引な話だと思います。”開明の反対は野蛮”などと決めつけて、朝鮮の人たちが、自ら国の進む方向を決めることさえ許さないということこそが、野蛮なのではないかと、私は思います。
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「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」(明治十八年八月十三日、時事)
人間に大切なるは「栄誉」「生命」「私有」の三つなり。今朝鮮の有様を見るに王室無法、貴族跋扈(バッコ)、税法紊乱(ビンラン)して私有の権なし。政府の法律不完全にして無辜(ムコ)の民を殺し、貴族士族の輩が私欲私怨で人を拘置し殺傷すれども訴へる由なし。栄誉に至りては上下人種を異にし、下民は上流の奴隷に過ぎず。独立国たるの栄誉を尋れば、政府は世界の事情を解せず、いかなる国辱を被るも優苦の色なく、長臣らは権力栄華を争ふのみ。支那に属邦視されるも汚辱を感ぜず、英国に土地を奪はれるも憂患を知らず、露国に国を売りても身に利あれば憚(ハバカ)らざる如し。人民夢中の際に国は売られたるものなり。朝鮮国民として生々する甲斐なきことなれば、露英に国土の押領を任せて露英の人民たることこそ幸福大なる可し。亡国の民たるは楽しまずと雖も、強大文明国の保護を被り、せめて生命と私有とのみを安全にするは不幸中の幸ならん。手近に一証あり。英人巨文島を占領支配し、英国の法を施行す。工事あれば島民を使役して賃金を払い、犯罪人あれば処罰す。既に青陽県館内巨文島の人民七百名は仕合せ者なりと他に羨まるゝ程なりと。
2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「日清の戦争は文野の戦争なり」(明治二十七年七月二十九日 時事)
朝鮮海豊島の付近の海戦で我が軍大勝利を得たるは、昨日の号外に報道したり。今回の葛藤に日本政府はひたすら注意に注意を加へ平和の集結を望みたるに、支那人は力の強弱を量らず無法にも非理を推し通さんとして、我が軍に勝利の名誉を得せしめたり。開戦第一の名誉を祝賀すべしと雖(イエドモ)も、我が軍人の勇武に加ふるに文明精鋭の武器を以て腐敗国の腐敗軍に対す、勝敗は明々白々、驚くに足らず。戦争の事実は日清両国の間に起こりたれど、根源を尋ぬれば文明開化の進歩を謀るものと進歩を妨げんとするものとの戦いにして、両国間の争いに非ず。本来日本人は支那人に私怨なく敵意なし。世界の一国民として普通の交際を望みたれど、彼等は「頑迷不霊」にして文明開化を悦ばず。反対に妨げんと反抗の意を表したるが故に、止むを得ず事のここに及びたるのみ。日本人の眼中に支那人も支那国もなし。ただ世界文明の進歩を目的とし、妨ぐるものを打ち倒したるまでのことなれば、人と人、国と国の事に非ずして、一種の宗教争ひと見るも可なり。文明世界の人々、一も二もなく我が目的に同意せんを疑はず。海上の戦争に一隻の軍艦を捕獲し千五百の清兵倒したりと云ふ。思ふに陸上の牙山にても開戦し、彼の屯在兵を鏖(ミナゴロシ)にしたらん。数千の清兵は無辜の人民にして憐れなれど、世界文明の進歩には多少の殺風景を免れず。支那人が今度の失敗に懲り非を悛め、四百余州の「腐雲敗霧」を一掃するに至らば、文明の誘導者たる日本人に向ひ、三拝九拝して恩を謝す可し。
3--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「朝鮮の改革に因循す可らず」(明治二十七年九月七日、時事)
朝鮮政府は目下大院君を摂政に、新に大小の官吏を登用して改革の最中なれど、我輩の伝聞を以て内情を推察すれば多少の疑ひなきを得ず。閔族を逐ひて地位に就きたる新任の官僚は、中国の束縛を脱し自国の独立に身命を擲(ナゲウ)つの決心あるや否や。朝鮮の中国所属は国民の心に銘したる習慣にして官吏も免れず。日本の所望する国事は文明流にして、彼の国人には耳新しく、草根木皮の服薬に慣れ学医の治療を嫌ふが如し。学医の言は道理至極にして拒むべきに非ざれど、数百年の旧習脱し難く、実行は手間取るならん。今の当局者は平生の主義で合同せるに非ず、十人十色にして一定の方針なく、政界の様子を見ながら万一の名利を欲する者共なればなり。閔族に時代に頭角を露はした為めに擯斥せられたる者、首鼠両端を持して禍を免れたる者、閔族に使嗾せられて身を利した者などありて、相互に信ずる能わざるのみか、上に大院君を戴きながら君の不利を謀りたる者さへあり。名義は一新改革の政府なれども、内実は異分子の寄合なり。我輩が邪推すれば王妃を始め閔族の余臭を帯びたる者朝野に少なからざる故に、日本流の改革を悦ばず、日本の勢力盛んなるに似たれど、明治十七年の例の如くなるときは、再び朝鮮は中国の光明に摂取せられ、閔族万歳の盛世に復る可べしと期するのみか、支那政府に気脈を通ずる者あるべし。実に頼甲斐なき相手なれば、いささかも仮す所なく満朝を一掃し、真実文明の主義に従て日本国の政友を求め、国務の全権を執らしむ外なし。或いは臨時の処分として日本国人の中より適者を選んで枢要の地位に置き、行政の師範とするも必要なり。隣国の国事改革を世界に声言しながら実を見ずては、我が対外の栄誉を如何せん。我輩のひそかに赤面する所なり。
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「朝鮮の独立」(明治二十七年九月二十九日 時事)
朝鮮の独立の為に支那と戦ひながら、後始末は他人に任すとは如何にも無欲の談にして信ず可らずの説あり。日本国人は無欲なるに非ず。朝鮮に対し政治的野心こそなけれど、積年の目的は貿易商売の一方に存す。国土を併呑して保護国と為すは、好機会ありても乗ずることなく、未開を開きて一区の新開国を得て貿易の市場に供するに至れば、対岸の隣国日本の利益この上もなく、我が能事終わると云ふ可し。
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「井上伯の渡韓を送る」(明治二十七年十月十六日、時事)
今回の改革の困難なる原因は、彼の政府当局者が日本人を信ぜざるのみか、一種の感情を以て寧(ムシ)ろ我を嫌い、表面には柔順に内実は他に志を存し、満廷の官吏一人として真実日本に心を寄せるものなき為めに外ならず。明治十七年の政変に挺身したる志士は死し、残りたる朴泳孝は未だ国王謁見も適はず。彼の政変に際し外交の当局たりし伯は、今回の朝鮮行き、自から今昔の感なきを得ざる可し。然りと雖も今更悔ゆるも致方なし。伯の経綸(ケイリン)に望むは目下の処置なり。彼の当局の「老物」は到底文明の事を謀る人物に非ざれど、弊政の根源は宮中にあれば、宮中掃除の任に当たらしむ可し。彼の開化党と称する新進の官僚は、他国に遊び多国人と面識ある故を以て進みたるに過ぎず。見識あるに非ざれば朋友として頼む可きに非ざれど、事を謀るに彼らより求む外なければ、人物の大小真偽を鑑察して鞭撻(ベンタツ)すべし。注意すべきは外国人の意向なり。日本は朝鮮の内政に干渉して国土を併呑する志を懐くと邪推するやも知れず。伯は大胆敢断な性質にして外交に老練なれば、必ず抜け目なきなるべし。
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「朝鮮国の革新甚だ疑う可し」(明治二十七年十一月三日 時事)
我輩は種々雑多な細事情を問はず。真正面より韓当局の怠慢を責めんと欲す。日本の軍人は万里の異域に骨を晒し、内の同胞は辛苦を共にして私財を擲(ナゲウ)ち、戦勝を願ふ本源は、朝鮮独立、文明開化の為めならずや。然るに朝鮮政府はなほ独立の決心なく、開明の入門に躊躇すと云ふ。我が日本人の尽力も徒労の次第なれば、最早勘弁す可らず、一刀両断の英断も止むを得ず。独立の裏は亡国なれば、彼らは自ら滅亡を所望するならん。開明の反対は野蛮にして、彼らは蛮習を守る意ならん。なれど、韓庭の力を以て文明開化の世界の大勢を留む可らず。聞く所によれば彼の政界は種々の小党派を生じて私争に忙しく、国事を憂ふるに遑(イトマ)あらず。希に誠実にして時勢に通じたる人物あれど、政府全体の「嫉風妬雨」に遮られて、ただ官職にあるのみ。彼の政治社会の不活発な割合に人々相互の嫉妬心深く陰険なる一例あり。明治十七年の変乱に失敗したる金朴らの主義は、今回日本政府が勧誘したる趣旨と同じなれば、何をさて置き朴泳孝、徐光範、徐載弻を迎へ、待遇を厚くし、全権を委任して国事の改革に着手するが至当なれ。彼らは多年異国に流寓して、酸甘を嘗め、政治上の知見も博く「経綸の伎倆」あり。その上好都合に日本国中に金朴徐の名を知らざる者なく、朝鮮人にして日本人同様の境遇にある者なれば、彼らが政府の主座を占めるは、両国の交際に無限の便利なり。韓人愚かなれどこれしきの理屈を解せざる筈なけれど、今に至る迄敵視し、朴泳孝は仁川に留まり、徐光範は米国より日本に帰来せるを知らざるが如し。小人輩嫉妬に妨げられたると推察する外なし。鳥の将さに死せんと、鳴くや哀しと云ふ。国の亡びんとする、愚や人を驚かすもの多し。金朴徐の流に対する朝鮮政府の挙動を見ても、亡国の前兆として疑はざる者なり。
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