真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO5

2018年03月13日 | 国際・政治

 司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)の「浪華城焼打」、「最後の攘夷志士」および「あとがき」を読んで、教えられたことや考えさせられたこと、疑問に思ったことなどを抜き書き的に抜粋しました。

浪華城焼打」には、再び田中顕助が出てきます。田中顕助は、土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した人物です。鳥毛屋という旅館の帳場にいるお光という女性に、「犬に爪を立てられた」といって、袴を縫ってくれるように頼みましたが、”脱がせてみると、点々と血痕が飛び散っており、人を斬ったことはまぎれもなかった”とあります。

 その田中顕助が、大阪城が長州征伐の根拠地になり、時の将軍徳川家茂の大阪城入城を知ったとき、将軍暗殺を画策しているのです。田中顕助は運よく生き延びますが、行動を共にした大利鼎吉はその後斬られて亡くなり、井原応輔と島浪間は刺し違え、千屋金策は切腹して亡くなっています。人を斬るために集まり、うまくいかなければ、自ら命を絶つという、今では想像できない恐ろしい世の中であったことがわかります。

 「最後の攘夷志士」にも田中顕助が出てきます。
 田中顕助は、”倒幕の蜜謀主”、薩摩藩の大久保一蔵(大久保利通)に呼ばれ、”侍従の鷲尾隆聚卿(ワシノオタカツムキョウ)を奉じて、紀州高野山で義軍をあげる”ように依頼されます。そこで、旧陸援隊士のほか、同志の浪士をあつめ、さらに、四方に募兵をし、大和十津川郷に別勅をくだし、部隊を組織します。そして、天誅組の生き残り三枝蓊(サエグサシゲル)を作戦家として迎えます。ところがその後、田中顕助は、攘夷を捨ててひそかに英国と手をにぎる薩長になびいていきますが、三枝は、あくまでも天誅組当時の攘夷の考え方で、英国公使ハ-リー・パークスの謁見の日、山城浪人朱雀操(スザクミサオ)とともに、一行を襲います。そして、全身十数カ所の傷を負いながら、馬を斃し人を斬り続けますが、刀が折れ、最終的には捕縛され、かつての攘夷の同志に斬首されて、その首を梟(サラ)されているのです。
 司馬遼太郎はさいごに、
三枝蓊のみは、極刑になった。節を守り、節に殉ずるところ、はるかに右の両男爵よりも醇乎(ジュンコ)としていたが。
 と書き、また、三枝の生家を訪れ、
冬の朝、この寺から東を望むと、藍色の伊賀境いの連山が美しい。
 と書いています。何かしら肯定的な感じがします。

 ところが、司馬遼太郎は、あとがきに、
殺者の定義とは、「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害する者」をいう。人間のかざかみにもおけぬ。”
と書いています。なんとなく、矛盾しているような気がします。

 暗殺が”人間のかざかみにもおけぬ”行為であることには、誰も異存はないと思います。
問題は、三枝をはじめ多くの志士が、命をささげ、”人間のかざかみにもおけぬ”暗殺を実行することになった「攘夷」の思想ではないかと思います。
 私は、司馬遼太郎が、暗殺の実行を日常化することになった「攘夷」の思想について触れなかったことを残念に思います。 

 藤田東湖を中心とする水戸学派の「攘夷」思想は、狡賢く英国と手び、「攘夷」を捨てた薩長藩士中心の明治政府の成立によって消えたのではなく、かたちを変えて、皇国日本の骨組みを構成することになったのではないでしょうか。だから、幕末の「攘夷」の思想は、暗殺の実行を日常化したという意味でも、また、維新後の日本を、どのようにとらえるのかという意味でも、大事ではないかと思っています。 
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浪華城焼打

        一 
 浪華の道頓堀、といえば芝居小屋だが、ここに、
 鳥毛屋
 というふるびた旅館がある。
 その土間に、元治元年九月の十三日の夕暮れ、
「上方見物のために、しばらく逗留したい」
 といって入ってきた八人の浪人がある。
 帳場にいるお光が、どうぞ、と上へあげた。そのうちの一人の若者が、ひどく稚児(チゴ)めいて可愛かったからである。
 しかしあげてみてから、よく観察すると、みな眼つきが尋常でない。
 そのうえ、宿帳には、みな「越後浪人」と書いたが、あきらかに偽称であった。なまりで知れる。どの男も、ひどい土佐言葉なのである。
「土佐者、とは厄介な」
 番頭は小声でお光にぼやいたが、町役人には届け出ずにおいた。このために、あとで奉行所からひどく叱られている。
 なにしろ京で、長州藩の諸隊、および土佐の浪士隊が、御所蛤御門(ハマグリゴモン)のあたりで戦ささわぎをおこしてほどもないころだ。大阪でも残党詮議がやかましい。新選組などはわざわざ出張してきて長州人とみれば斬った。
 土佐浪人も、同臭(ドウシュウ)とみられている。
 土佐藩というのは、藩そのものは佐幕主義だが、下級武士が過激化していてつぎつぎと脱藩し、それらのほとんどが長州へ走り、このところ、天誅組騒乱、池田屋事件、それにつづく蛤御門ノ変でも、土佐浪人の参加が圧倒的に多い。
「お光つぁん、気ィつけや」 
 と、番頭はいった。
 ・・・
「田中顕助様というお名も宿帳どおりでっか?」
「いやに詮議する」
「でも、みなさんトントといわはります」
 ・・・
       二
八人の浪人の名は、大利鼎吉(オオリテイキチ)、島浪間(ナミマ)、千屋金策(チヤキンサク)、井原応輔(オウスケ)、橋本鉄猪(テツイ)、池大六(ダイロク)、那須盛馬(ナスモリマ)、それにこの田中顕助である。
 田中顕助については、この連作の「土佐の夜雨」の稿に登場したことを、記憶のいい読者はおぼえておられるだろう。
 土佐藩参政吉田東洋を、城下帯屋町で暗殺した那須信吾のオイである。那須はその後天誅組の一将となり、大和吉野川畔の彦根兵陣地に斬りこんで討死した。信吾の養父だった那須俊平もその後脱藩、長州に身を寄せ、元治元年夏の長州軍の京都襲撃(蛤御門ノ変)に参加し、鷹司邸前で戦死してしまっている。
 当時顕助は、土佐の佐川郷にいたが、肉親の非業の死をきいて矢もたてもたまらず脱藩した。このとき一緒に脱藩した仲間が、いま鳥毛屋にいる井原、橋本、池、那須の四人である。
 長州へ走った。
 が、長州の情勢は、かれらの期待をうらぎった。--話は、ここからはじまる。

 顕助らが、長州藩領三田尻港に上陸したときは、幕府の征長軍が、すでに広島までせまっているという風評がしきりで、最悪の時期であった。
 去年までは、京都で威をふるっていたこの勤王急進藩は、いまは一転して防長二州に追いこまれ、「朝敵」の汚名までうけている。
 なにしろ長州系の七人の公卿は京都を追われ、天皇に嘆願するために攻めのぼった入洛軍(ジュラクグン)は蛤御門で戦って敗走し、その間、四カ国艦隊と下関海峡で劇戦して惨敗、--さらに幕府は天下の諸侯を動員して、長州征伐を準備しつつあった。
 その間、藩内に保守、佐幕派が首をもたげ、藩論は恭順、降伏に傾こうとしていた。
 これに対して急進派の高杉晋作などは、躍起に藩の要路を説きまわっている。「戦うのだ」と主張した。
 防長二州を焦土にしても戦い、かなわぬときには君公父子を奉じて朝鮮に渡り、その一角を斬りとって勤王討幕の旗をあげるのだ」
 が、藩ではいまや、そういう書生論に耳を傾ける者がいない。
 藩情はあんたんとしている。
 そういう時期であった、顕助らが長州をたよってきたのは。
 ・・・
「先生、こうして遊んでいても、気がひけます。なにか私にできることはないでしょうか」
「君に?」
 高杉はあらためて顕助をみた。子供々々した顔である。可愛くなったのか、肩の肉をつかみながらぐんぐんゆすって
「どうだ、将軍の首でもとってきてもらおうか」
 と笑った。
 高杉一流の冗談だが、顕助にはそれが通じない。それを大真面目にうけとった。
「とります」
「はっははは、元気がいい」
 高杉はその場で忘れてしまったろう。
 ・・・
諸君は恵まれている。世がいかになりゆくにせよ、諸君ら土佐義士の名は、史家によって千載の(センザイ)ののちにまで伝わるだろう」
 高杉はべつに扇動したわけではない。ただ、ふしぎな男で、言葉のひとつ一つが、相手の胸に灼くような魅力をもっていた。生得なものか、あるいは同じ傾向のあった師匠の吉田松陰からゆずり受けたものなのか、それはわからない。とにかく、稀有な革命児であったといえるだろう。
 これには顕助以外の者も感動した。
「私も、遅れはとらぬ」
 と高杉はいった。 

      三
 ・・・
「もはやのがれられぬ」
 街道に松並木がある。そのうちの老松をえらび、まず山中嘉太郎がすわって、腹をくつろげた。
「千屋君、介錯をたのむ。われわれは事志とちがい、かような名もなき片田舎で強盗の汚名を着て死ぬ、せめて首は笑顔でありたいとおもう。笑っているうちに、首をおとしてくれ」
 首が落ちた。笑っていた。

 つぎに、井原応輔、島浪間が、
「われら、家郷を脱走して王事のために奔走してきたが、野盗の汚名を着て死ぬ。魂魄(コンパク)となっても永(トコシ)えに恨みは尽きぬであろう」
 と、刺し違えて死んだ。
 ・・・
 明治三十一年、墓は改葬されていま土居小学校の校庭のそばにある。
 ・・・
 土佐藩は支配層が佐幕だったから、勤王運動をしている土佐人にたいして冷酷で、京都でも新撰組に斬られる者は多くは土佐人であった。斬られても藩が何の故障もいいたてないから、幕府方では遠慮なしにやった。幕末、「もっとも多くの血を流した集団の一つは土佐人であったが、藩としての行動でなかったため、維新政府は薩長に独占された。維新後よくいわれる比喩に「土佐の志士は、長州のミカン畑のコヤシになった。薩摩の藷畑のコヤシになった」というのがある。かれらの流血はほとんど酬(ムク)われず、維新後、自由民権運動に奔(ハシ)って、反薩長政府の行動をとったのは当然であった。
 もっとも維新政府で 酬われた者も相当数は居た。が、かれらの多くは、維新後でさえ母藩を恨み、「土佐藩はあのあぶない時期に一度も庇護してくれなかった。むしろかばってくれたのは長州藩で、われわれの故郷は長州であるといいたい」といった。もっとも長州藩も、結果的には土佐浪士を危所に使ってずいぶん得をしている。
 ・・・
       
 ・・・
そのとき、家鳴(ヤナ)りがするのと、雨戸を打ち破る音がしたのと同時であった。
(来たっ)
 と大利がたちあがったときは、階下いたこの家の当主元武者小路家の公家侍本多大内蔵は、裏口から逃げていた。
 置きざりにされた本多の老母、妻はその場でからめ捕られた。路上にほうり出され、奉行所の牢にいれられたが、その後どうなったかわからない。
「二階だ。--」
 と、万太郎狐は馬乗り提灯を腰につけ、階段をふた足ずつ駈けあがった。
 その昇りきった階段の口で、大利は足をあげて万太郎狐を蹴おとした。が、そのときは大利鼎吉も、肩に一太刀受けてしまっている。 
 その隙に二階から、屋根づたいに遁(ニ)げようとしたが、討入り側にそれだけの用意があり、裏から梯子ふたつを掛けて、万太郎狐の師範代通称正木直太朗、それと炭屋町の某が、とびこんできた。
 大利は、畳の上に左ひざをついて折り敷くなり、正木直太朗の右腕を斬って落とした。
 そのすきに、炭屋町の某が、例の仕込刀をめったやたらとふりまわしたため、その一太刀が右肩にあたって、大利はころげた。
 起きあがるなり太刀をふるって炭屋町の腰を撃ちのめしたが鎖帷子(キコミ)で刃が立たず、そのうち階下から万太郎狐がふたたび駈けあがってきた。
「--」
 とふりかぶるより早く、
「奸賊っ」
 と、大利は足をはらたった。これが、こより細工の人形をつくってやったおさんの父親とは、大利はむろん知らなかった。

 万太郎、さすがに剣術師匠だけあった大利の太刀をとびあがってかわし、かわしつつ上段から真向に打ちおろした。 
 が、剣尖(ケンサキ)が、天井を切ってとまった。そのすきに大利はさらにすねをねらった。
 大利は、蛤御門での実践の経験者で、鎖帷子を着込んだ相手には、すねをねらう以外に手がないことを知っていた。
 ざくっと万太郎狐の右のすねを斬ったが、万太郎も気が立っていたためこれほどの衝撃に気がつかず、大利の頭へ撃ちこんだ。
 昏倒した。 
 すかさず万太郎狐、走りよって背から垂直に刃を突きとおしてとどめをさし、
「討ち取ったり」
 とわめき、さらに二階の手すりに身をのりだして路上の諸藩の藩兵に
「谷万太郎、首魁を討ちとめました」
 と数度叫んだ。
 すぐ屋内のほうぼうに提灯を掛け、死体を改めたところ、手帳が出てきた。雑詠幾首か書きとめてあるなかで、まだ墨の湿りのある詠草があった。
「もとよりの軽き身なれど大君に、心ばかりはけふ報ゆなり」
 暗号している。大利鼎吉はむろんこの事件を予想していたわけではなかったろうが、何らかの予感があって、感興の湧くままに書きとめたのであろう。
 偶然辞世の歌になった。

 顕助は、鳥毛屋で事件を知り、その夜、那須盛馬と落ちあって、大和十津川の山中にのがれ、折立村(オリタテムラ)の文武館に潜伏し、その後町人の姿に化け、十津川、熊野の山中を転々とし、七月になってようやく土佐浪士の指導者中岡慎太郎をたよって、京へ潜入した。

 維新後、陸軍少将、ついで武職をやめ、参事院議官、元老院議官、警視総監、貴族院議員、宮中顧問官、学習院長、宮内大臣を歴任し、明治四十年、伯爵を授けられた。
 ・・・
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最後の攘夷志士

       一
 すでにご存じの田中顕助。
 土佐の浪士である。
 読者は、おもいだしていただけるであろう。この稿の「土佐の夜雨」のときは、まだニ十歳の田舎書生で土佐の草深い佐川郷に棲(スン)んでいた。叔父の那須信吉が藩の参政吉田東洋を暗殺したとき、走り使いをさせられている。
 のち、脱藩。
「浪華城焼打」では、長州藩へ奔(ハシ)った。当時はまだ幼な顔がのこっていた。ちょうど長州藩は、幕府の長州征伐の火事場さわぎの真最中で、顕助は後方攪乱(カクラン)をうけもち、幕軍の根拠地である大阪に潜入し、数人の同志で大阪城に焼打をかけようとして、失敗した。
 その後、幕吏に追われ、大和十津川の山中にかくれた。
 ようやく京に潜入したときは、時勢が急転し、薩長による倒幕計画が実行段階に移ろうとしていた。おりから洛北白川村で浪士団陸援隊をひきいている土佐浪士中岡慎太郎を知り、顕助はさっそく入隊し、入隊早々、中岡が同藩のよしみで副長格に抜擢してくれた。
 ほどなく、中岡が幕吏に暗殺されたため、顕助が隊長代理となった。このころの顕助については「花屋町の襲撃」の稿に登場している。
 顕助、運がよすぎる。 
 陸援隊長代理になったとたんに、王政復古、討幕、と舞台がまわった。
 このため一昨々年前に土佐をとびだしたばかりのニ十五歳の青年が、周囲の目まぐるしい変化で、にわかに土佐討幕派の巨魁のひとりにのしあがった。乱世である。
 いや、顕助自身も茫然としたのは、討幕の蜜謀主である薩摩藩の大久保一蔵にひそかに呼ばれ、
「すぐ、侍従の鷲尾隆聚卿(ワシノオタカツムキョウ)」を奉じて京を脱出し。紀州高野山にのぼって義軍をあげてもらいたい」
 といわれた。
 ・・・
       二
坊主、三枝蓊(サエグサシゲル)。
 顕助が、この三枝蓊にあったのは、慶応三年十二月十三日である。
 ・・・
「難物だな」
 と、顕助は、あとで香川にこぼした。香川も、連れてきたものの、ややへきえきしたらしい。
「あれは国学者だから」
と、香川はいった。おなじ尊攘主義者でも国学者系の志士は、別の臭味(クサミ)がある。毛色がべつだといっていい。荷田春満(カダノアズマロ)、賀茂真淵(カモノマブチ)、本居宣長(モトオリノリナガ)、平田篤胤(ヒラタアツタネ)、大国隆正(オオクニタカマサ)といった系列から出ており、宗教的な自国尊重主義者である。かれらは、洋学、洋人、洋臭をきらうばかりか、漢学、仏教をも外国思想として極度にきらっている。顕助と同時代の志士では、九州系浪士団をひきいて元治元年蛤御門の募兵と戦い、天王山で自刃した久留米水天宮の宮司真木和泉や、但馬の生野銀山で義兵をあげ、京の六角堂で獄死した筑前浪士平野国臣(クニオミ)などはそうであった。平野は通称二郎といったが、かれの復古思想から国臣と改名し、太刀の帯びかたも異風でであった。「戦国以来、武士は刀を差すが、あれはまちごうちょるたい」と、中世の武士のように腰に佩(ハ)いていた。幕末、ひと口に攘夷志士というが、この国学系統の志士はひどく宗教的で、行動も勁烈であった。明治後なおこの系列は生き残って、熊本で神風連(ジンプウレン)ノ乱をおこしたのは、この精神の残党であろう。
「なるほど」
 顕助は、香川と顔を見合わせた。顕助も攘夷党である。しかし本当は血気にはやって風雲の中にとび出し、討幕、攘夷、尊王、、と叫んでいるだけで、かれの攘夷には思想というほどのものはない。いや、顕助だけでなく薩長の連中の多くはそうであった。その証拠に、すでに薩長は藩兵を洋式化し、英国とひそかに好誼(コウギ)を通じ、ただ開港政策の幕府をこまらせるために、攘夷、攘夷とさけび、
「朝廷は攘夷の御方針である。しかるに征夷大将軍(将軍の正称)」は、征夷の官職にかかわらず、外夷の威圧に屈している。倒すべし」
 と恫喝し、すでに薩長とも、初期の純正攘夷主義をひそかにすてて、それを偽装しつつ、攘夷を討幕の道具にしようとしている。
 ・・・
 …三枝を中心に朋党ができはじめたことがある。その朋党の中心は三枝蓊のほかに、山城浪人朱雀操(スザクミサオ)(桂村出身。もと京の諸大夫某の家来)、それに武州の剣客川上邦之助(クニノスメ)(のち宮内省主殿寮主事)で、いずれも隊の幹部ではない。
 が、剣客川上邦之介も、その神道無念流の卓抜した長枝をもって、隊士から
「先生」と尊敬されていた。朱雀操も歌道に長じ、やはり先生とよばれている。この三枝、朱雀、川上の三人は、その熱狂的な攘夷思想でたちまち結ばれて、鷲尾卿のサロンの常連になった。
 ・・・
夕刻、顕助は三枝先生にたのみ、新募の十津川兵の伍長以上をあつめて、討幕の本義を説いてもらった。戦う目的が兵のすみずみまで惨(シ)みとおれば、士気はさらに高まるからである。
「薩長のためにあらず」
 といった。
「先帝(孝明帝)ご生涯のご悲願は、ただひたすらに攘夷におわした。幕府を倒そうとまではなされておらなんだが、天子から武権を委任されている幕府が、征夷攘夷の役目をはたさず、果たさざるばかりか、外夷に屈従し、港をひらき、神州の土を夷奴の足に踏ませた。幕府は、先帝の勅命にそむき奉った。皇天皇霊のおん怒りはいかばかりであろう」
 幕府は攘夷の勅命にそむいた。だから討伐する、という論旨である。奇説ではない。
 この攘夷論は嘉永六年のペリー来航いらい、天下の攘夷志士が奉じてきた思想で、その思想が革命エネルギーとなって時勢がここまで煮え詰まってきたのだ。
 かつての天誅組の殉難志士などは、ただひたすらに攘夷のさきがけたらんとして事をおこした。
(しかしこまるなあ)
 とおもったのは、顕助である。天誅組の事件はわずか数年前だが、その後、時流は眼にみえぬ川底でかわっているのだ。攘夷の雄藩といわれた薩摩藩は、英国艦隊に鹿児島を砲撃され、薩摩方の沿岸砲台からうちだす砲弾はすべて海中に落ち、英国艦隊は射程外を悠々遊弋(ユウヨク)しつつ長距離砲撃を行い、ほとんど一方的な砲戦におわった。その後ひそかに英国と手をにぎり、軍制を洋式化した。
 四カ国艦隊の砲撃をうけた長州藩も、同じ事情で英国と手をにぎり、その軍制も戦術も武器も一変させた。
 両藩とも攘夷はすてた。しかし秘密に、である。捨てた、となれば、全国の攘夷志士の支持をうしなう。第一「攘夷」はもはや、倒幕の道具にすぎなくなっている。
(三枝さんは、天誅組のころから一歩もすすんでいない)
 顕助はもともと思想というほどのものはない。ただ土佐を脱藩してから長州に身をよせ、第二幕長戦争のときなどは、長州の軍艦にのって艦底の罐焚(カマタキ)までしてきたのだ。時流の変化は、身をもって知っている。
(しかし、攘夷論が変質した、とは、口が裂けてもいえぬ)
 聖論、というべきものだからだ。この聖論のために、幾百の先輩志士たちが血を流してきている。
「どうです、参謀」
 と、三枝先生は顕助をふりかえった。
「結構なお説でござる」
 顕助は頭をさげた。
 その翌未明。
 三里むこうの河内長野方面に出してある斥候から急報がきた。
 どうやら河内方面から大部隊の幕軍が進撃しつつあるという。
  ・・・
 ほどなく下山し、京都に入った。
 一同、二条城に宿営させられ、総督の鷲尾侍従は隊を離れて御所にもどり、香川敬三ら諸参謀は板垣退助指揮による東山道征討軍に入り、顕助のみが残留して浪士隊の隊長、というより内実は、
「取締方」
 として薩摩の大久保一蔵から命じられた。
「かれらは過激な攘夷論者が多い。なにをしでかすかわからぬゆえ、ひとまとめにして屯宿させておくにかぎる」
 というのが理由であった。…
 ・・・
 京畿の地は「官軍」に帰したが、要するに幕軍を追ったその翌日、御所に、
「外国事務総裁」
 という奇怪な官職ができた。攘夷のための勤王倒幕であったのに、「外国事務」とは何事だろう。
 総裁には、宮様が任命された。ちかごろまで僧侶であられた嘉彰(ヨシアキラ)親王である。
 その数日後の正月十五日、
 外国交際の儀は、宇内(ウダイ)の公法なるをもって、これを取りあつかい候間、この段、心得申すべき事。(意訳)
 との朝廷布告所が渙発(カンパツ)された。
 これには公卿さえおどろいた。公卿たちは「いよいよ新政府によって外夷撃攘がおこなわれる」と信じていたのである。
 この奇術といっていい芝居は、薩長指導者の密計だが、筋書は、公卿のうち薩藩系の岩倉具視がかいた。
「奸雄(カンユウ)」
 といって職を投げた男もいる。岩倉の秘書で、岩倉が、「わが諸葛孔明(ショカツコウメイ)」と尊敬していた儒者玉松操(タママツミサオ)老人である。
 玉松操は、下級公卿の子で、もっとも国学に長じ、名文家として知られた。幕末の名分のひとつといわれる「王政復古詔勅」は、岩倉に頼まれてかれが書いたものだし、官軍の錦旗の図案を考えたのもかれである。玉松はただひたすらに攘夷を祈念してきたのだが、それが
「朝廷は外夷と交わる」
 という。
 玉松は岩倉を面罵して、中立売(ナカダチウリ)新町角の隠宅にこもってしまった。
 ・・・

       三
 ・・・
「やろう。どの洋夷をやる」
 と、朱雀がいった。三枝はうなずき、
「大国がいい。英国とする。公使といえば大将であろう。その首を一刀両断し、安政以来攘夷殉難の志士を弔(トムラ)おう」
 三枝は、最後の攘夷志士の心境にまでなっていた。… 
 ・・・
剣客川上邦之助は、三枝と朱雀に説きつけられて、襲撃失敗後の予備(ゴヅメ)にまわった。この第二襲撃隊にはさらに同志が志願した。

       四
 すでに英国軍艦は大阪に投錨している。
二月二十八日、英国公使サー・ハーリー・パークスは入洛、宿舎の知恩院に入った。この男は商人あがりで、機智もあり度胸もあったが、ひどい癇癪もちで、怒りだすと手のつけられぬところがある。
 知恩院の諸門の固めは、紀州徳川藩をはじめ五藩の兵が任ぜられ、おそらくむかしの将軍警固以上の厳重さであった。維新の元勲たちは、かつての自分の同志が襲撃にくることを怖れている。接待役は、この連作「死んでも死なぬ」に登場していた長州藩士伊藤俊輔であった。往年、品川の御殿山の外国公館に焼きうちをかけたり、開国論者の学者を暗殺したりしたこの男も、いまは新政府の接待方としてまめまめしく働いている。 
 謁見の日、午後一時。
 英国公使は、肥馬にまたり、浄土宗本山を出た。服装はどうしたわけか、公式の礼装ではなく、フロックコートである。
 警備の人数が、おびただしい。
 警視ヒーコックの指揮するロンドン第一警部隊十一騎、さらにブラッソー陸軍大佐指揮の英国騎兵第九連隊の将兵四十八騎、これは絢爛(ケンラン)たる儀仗服である。ほかに英国歩兵。
 先頭に立つ道案内は、宇都宮靱負(ウツノミヤユキエ)、土肥真一郎といった外国方。
 身分ある者としては、薩摩人中井弘蔵(弘ともいう。幕末、英国に留学し、明治後貴族院議員)が裃(カミシモ)をつけ、騎乗で、警視ヒーコックと馬首をならべている。
 さらに、日本側の先導役代表として、土佐藩参政後藤象二郎(のち伯爵)が、公使のすぐ前を馬で打たせている。
 そのあとに騎乗、乗駕、徒歩の英国公使館全員がつづき、海軍医官までが礼装で馬上にある。日本側護衛は肥後藩兵百人。
 沿道は、洛中はおろか、近郊近国からこの異風の盛儀を見るために押しかけた見物人でびっしりと人垣をつくっている。整理には肥後藩兵があたっていた。
「この大軍を斬りこめるか」
 と、朱雀にささやいたのは、三枝である。林下町の軒下で見物にまぎれこんでいる。
「なあに、洋夷が何人いようと」
 と、朱雀は微笑した。三枝もうなずき、かねての作戦どうり、別れ別れになった。
 やがて四条繩手通の弁財天町の角で落ちあった。ふたりは道の両側の軒下にそれぞれ待機した。ここも見物客が多い。肥後藩の足軽が、六尺棒をもって懸命に整理している。
 ふと、そのうちの抱丁字紋(ダキチョウジモン)の肥後藩士が、三枝の眼の異様さに気づいた。
 声をかけよう、としたが、すぐ眼をそらし他の部署へ歩き出した。この藩士も、あるいは攘夷論者であったのだろう。しかしきょうの整理は、藩命による仕事である。
 英人七十人、パークス一行は、林下町から橋本町に出、さらに新橋通に出、その先駆の騎兵隊がまさに弁財天町の町角をまがろうとしたとき、三枝、朱雀が同時にとび出した。
 かれらに錯誤がある。
 真赤な騎兵服こそ、高貴の者とみた。侍大将か、あるいは公使か。
 と信じつつ、三枝の一刀が、まず先頭の騎兵の一人を斬り落とした。
 つづいて朱雀が、士官らしい男を斬りおとして、中軍へ中軍へと進んだ。
 わっと混乱がおこったが、なにぶん道路がせまく、見物、行列の人数がひしめき、騎兵たちも、その主要武器である洋槍を十分にふるうことができない。
 二人は、つぎつぎに斬り落としつつ、
「パークスは、パークスは」
 と求めた。
「暴徒、縦横に飛躍し、手当るを襲撃す。その勢(セイ)、すこぶるあたりがたし」
 と、記録にある。
 ・・・
ここに不可解な現象がおこった。警備、整理の役目であったはずの肥後藩兵が、ひとり残らず消えてしまったことである。
 されば一行のなかで日本の武士といえば、先頭の通訳二人(御所へ報告と称して逃走)、土佐藩参政後藤象二郎と、薩摩人中井弘蔵の二人しかいない
 ・・・
と後藤は人馬をかきわけつつ走り、やがて中井と激闘中の朱雀操を見つけた。
「乱心者」
 一刀のもとに斬った。朱雀、即死。
 三枝はさらにすさまじい。
 全身十数カ所に傷を負いながら、馬を斃し人を斬り、その軽捷さ「車輪の如く」だったという。馬上の騎兵が銃をふりあげた。三枝はくるりとふりかえって受けとめたが、刀がつばもとから折れた。
 すぐ脇差をぬこうとして腰をおさえたが、さきほどからの乱闘で、ぬけ落ちたのであろう。
「ない」
 騎兵の槍につかみかかろうとしたがおよばず、ついに退却を決意した。
 ・・・
その一発が、三枝の足にあたって転倒したが、さらに起きあがり、人家の軒下へかけこみ、格子をあけ、土間を走ろうとしたとき、ふたたび倒れた。
 そこを捕縛されている。
 ・・・
ただ、三枝と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。
 かれらの士籍を削り、平民に落とし、朱雀の死屍から首を切りはなして、粟田口刑場に梟(サラ)した。
 同じ梟首台(キョウシュダイ)に、三枝の生首もならんだ。
 処刑の場所は粟田口であり、方法は、武士にたいする礼ではなく、斬首である。
 梟首は三日。
 ほんの数ヶ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。
 ・・・
 三枝蓊のみは、極刑になった。節を守り、節に殉ずるところ、はるかに右の両男爵よりも醇乎(ジュンコ)としていたが。

 三枝の生家は、いまも奈良県大和郡山市椎木町(新地名)で、東本願寺派末寺浄蓮寺としてのこっている。檀家二十一戸の貧寒たる寺である。現住職は、龍田晶という初老の僧で、三枝との血縁はない。
 冬の朝、この寺から東を望むと、藍色の伊賀境いの連山が美しい。 
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あとがき

 暗殺だけはきらいだ。
 と云い云い、ちょうど一年、数百枚にわたって書いてしまった。
 暗殺者の定義とは、「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害する者」をいう。人間のかざかみにもおけぬ。
 とおもう感情は、私のように泰平の世に愚会して「天下のために死なねばならぬ」客観的必要のいささかもない書斎人のねごとであろう。
 歴史はときに、血を欲した。
 このましくないが、暗殺者も、その兇手に弊れた死骸も、ともにわれわれの歴史的遺産である。
 そういう眼で、幕末におこった暗殺事件をみなおしてみた。そして語った。しかしながら、小説風に。
 なぜ「小説風に」書いたかといえば、幕末の暗殺は、政治現象である。政治情勢から出てきている。主人公はあくまでも政治思想であって、歴史を書くばあいならその政治情勢と思想に紙数を九割ついやさなければならぬであろう。
 が、それは、歴史に興味のない読者にとっては、月遅れの新聞の政治面を読むよりも無味乾燥である。
 なるべくそれを端折り、人間と事件にはなしの中心をおろした。歴史書ではないから、数説ある事柄は、筆者が、このほうがより真実を語りやすいと思う説をとり、それによって書いた。だから小説である。

 暗殺は、歴史の奇形的産物だが、しかしそれを知ることで、当時の「歴史」の沸騰点がいかに高いものであったかを感ずることができる。ロシア革命党が、皇帝アレキサンダー二世を暗殺しようとし、執拗な計画をたて、計画を変えること十一回、失敗をかさねつつ、じつに十五年の長きにわたった。歴史の平静な時期の人間には、想像もできない異常さである。

 この連作には、人斬りの異名で有名な岡田以蔵、河上彦斎をとりあげなかった。幕末を象徴する典型的な暗殺者であるこの二人については、井上友一郎氏、海音寺潮五郎氏、今東光氏らの好編がある。
 ことさらにはずした。

 書きおわって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうか考えてみた。
 ない。
 ただ、桜田門外ノ変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的に見てもまずらしい例外であろう。
 その後、幕末に盛行した佐幕人、開国主義者に対する暗殺は、すべてこれに影響された亜流である。暗殺者の質も低下した。桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神があったが、亜流が亜流をかさねてゆくにしたがい、一種職業化し、功名心の対象になった。
 暗殺は否定されるべきであるが、幕末史は、かれら暗殺者群によって暗い華やかさをそえることは否定できないようである。

  昭和38年11月 

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