真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO2

2018年03月01日 | 国際・政治

 司馬遼太郎は、明治時代を明るく描き、多くの人を感動させて国民的作家といわれるようになりました。私は、その司馬遼太郎が幕末をどのようにとらえているのか知りたくて、「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)を手にしました。

 繰り返しになりますが、教えられることや考えさせられることが多くありました。疑問に思うこともありました。だから、前回に引き続き、「猿が辻の決闘」、「冷泉斬り」、「祇園囃子」から、そうした部分の主なものを抜き書き的に抜粋しました。

 4「猿ケ辻の決闘」で見逃すことができないのは、会津藩士大庭恭平が、御府内浪士一色鮎蔵(イッシキアユゾウ)を名乗り、尊攘派の志士に近づき、計画通り姉小路(公知)を暗殺した後、薩摩藩士田中新兵衛の刀を、その場に残していることです。田中新兵衛が自刃するのは、現場の遺留品として自分の刀を見せられたからであるといいます。会津藩士大庭恭平の作略にかかって死んだということだと思います。

 5「冷泉斬り」には、幕末に斬られて死んだ何人かの人の名前があげられていますが、全部を合わせると、いったいどれくらいの人が暗殺されたのだろうと考えさせられました。文中に”毎日のように尊攘浪士の人斬りが跳梁し、所司代の警察力も、あってなきような状態になっている”とありますが、自らの主張を通すために、邪魔な人間は斬り捨てるとう、ほんとうにに恐ろしい時代であったと思います。そうした幕末を生きた志士が、明治の新政府で活躍し、海外とのやりとりを展開したのですから、表向きはどうあれ、その政治活動には、当然いろいろな問題があったであろうと思います。

 6「祗園囃子」では、幕末に明治維新への大きなうねりをつくった藤田東湖を中心とする水戸の尊王攘夷の思想を、土佐藩士山本旗郎が「遅れている」と指摘し「水戸学などという紙の上の論議よりも、外国製の鉄砲、大砲、軍艦をもっている藩のみが倒せる」と主張して、水戸藩京都警衛指揮役の住谷寅之助の暗殺を大和十津川郷士浦啓輔に持ちかけ、実行しました。尊王攘夷で結びついた討幕派であったにもかかわらず、山本旗郎がいつの間にか攘夷を捨てていたので、浦啓輔が「われら勤王奔走の徒の自らの父祖を斬るようなものだ。返答はどうある。その次第ではこの場から去らせませんぞ」と言い返したのは当然であったと思います。住谷寅之助の暗殺者山本旗郎は、その後住谷の長男・次男らによって殺されてしまいますが、明治の時代が、かつての仲間を暗殺する山本のように、その時、その時の事情に合わせて人を斬り捨てる討幕派によって主導されたことを見逃すことができません。
4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
猿ケ辻の決闘
       一
 ・・・
文久二年九月のことだ。
 京の市中は、毎日のように尊攘浪士の人斬りが跳梁し、所司代の警察力も、あってなきような状態になっている。(新選組創設は、その翌年のことだ。つまり、この事件は京の治安がどん底におちいっている時期と心得ていい)。
 この日、午後からすこし日和雨(ソバエ)がふり、ほどなくやんだ暮六ツ(六時)前、あたりをはばかるようにして入ってきた旅装の巨漢がある。帯刀が、おそろしく長い。
「会津から参った者」
 武士はただそれだけをいい、主人藤兵衛に案内されて、奥八畳に通った。この一家が待ちかねていた客である。
「お国表(オモテ)から御家老さまお差し立ての御書状をを頂戴し」
 と、藤兵衛は平伏しながら、
「いさい、承知つかまつっております。この寮はほとんど無人でございますゆえ、ごぞんぶんにお使いくださいますように」
 といった。
 武士はちょっと頭をさげただけである。
 ・・・
大庭恭平(オオバキョウヘイ)という会津藩士はおよそ密偵という感じからは、遠かった。皮膚は三十前の桜色で眉ふとく、頬からあごにかけ、髭の意休とまではいかないが、かなりひげを貯えている。
 豪傑といっていい。異相である。これでは密偵にむかない。もうひとつ、密偵に不似合いなことがあった。会津なまりである。これほどめだつ男が密偵になるというのは、どういうことだろう。
・・・
「なにぶん田舎者で京にはなれませぬ」
 それだけいって、大庭は、おおきなからだを音がなるように折った。
 京に馴れぬ、といえば、 今年の末、江戸を発って京都守護職として京の治安に任ずる大庭の主人松平容保もそうだし、会津藩兵はすべてそうである。
 奥羽のあらえびすのようなもので、徳川家の親藩のうち、会津ニ十三万石ほど武骨な藩はない。
 その会津武士団が、この年末、京にくるのだ。
 ーー事情は、こうである。
 この年に入って、諸国から京へ流れてくる浪士の数がめだってふえ、それが薩長土三藩の京都屋敷を足場にして市中に出没し、天誅と称して、親幕派の公家侍、学者、論客を斬りまくる、といった状態で、従来の所司代程度の警備力では手がつけられない。
 手を焼いた幕府はついに「京都守護職」という新職名のもとに強大な警察軍をおくことになった。それを親藩の会津藩ときめ、藩主松平容保(カタモリ)に交渉した。最初藩主松平容保は固辞した。
(後世、逆賊の汚名をきるかもしれぬ)
 とまで考えたという。
 が、説得側は、幕府の政事総裁で前代の井伊直弼などとはちがい、京都でも人気のある松平慶永(ヨシナガ)(春獄)である。
 これがわざわざ容保の江戸屋敷に足をはこび、
 --天子の在(オワ)す京師の治安をまもることは武家としての尊王の第一である。
 といった。容保は従わざるをえなかった。
 ・・・
最後に受諾をきめたとき、容保は「行くも憂(ウ)し行かぬも辛(ツラ)しいかにせむ(後略)」という歌をよんだほどだし、三人の家老を前にして
 --かくなった以上は、会津君臣は京都を死所としよう。
 といった。
 が、会津人は、京都をしらない。
 ・・・
そこで、容保は、家老田中土佐を指揮官とする京都偵察団(野村左兵衛、小室金吾、外島機兵衛、柴太一郎、柿沢勇記、宗像直太郎、大庭恭平)を先発させ、このうち大庭恭平に対してはとくに容保自身、いいふくめ、
 --汝は過激人をよそおい、偽名を用い、すすんで浪士と交わり、その動きをさぐれ。
 と単身先発させた。
 ・・・
と、大庭は、藤兵衛と小里にいった。
「わしが会津藩士であることは他言してくださるな。人がきけば、御府内浪士一色鮎蔵(イッシキアユゾウ)という偽名にしていただく」
「江戸の人、と申しあげるのでございますか」
「そうだ。わしはありがたいことに江戸で剣術修行をしたおかげで、会津なまりがない」
(へえ…)
 ほとんど聞きとれぬほどの会津なまりのくせに、よほどの楽天家なのか、自分ではすがすがしい江戸弁だと信じこんでいる。
(いいひとなのだ)
 小里が、この大男に興味をもったのはこのときからである。


 秋になった。
 すでに京の浪士間で、一色鮎蔵という名は知られはじめていた。
 -- 
 腕は立つ、というのだ。しかも、激論家である(むろん偽装だが)。そのうえ、京にあらわれるなり、軟弱論を唱える志士数人を、下河原で一人、三本木で一人、四条の鴨川堤で一人、斬った。これが大そうな経歴になった。ちかごろでは河原町の長州屋敷や土州屋敷に出入りしはじめている。
「一色鮎蔵とは、かつて聞かなんだ名だが、どういう男か」
 と、興味をもったのは、錦小路の薩摩屋敷を根城とする同藩の激徒田中新兵衛である。この男は、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎(ゲンサイ)とならんで、幕末の人斬り男としてしられた人物である。

       三
 ・・・
大庭は一晩考えてから、もう一度田中土佐に会い、
「じつは、私案がござる」
といった。
「お人払いを」
「おお」
 田中土佐は急いで座敷を空にした。
「どういうことだ」
「左様」
 これを決行すれば京都政界に驚天動地の大混乱がおこることになり、薩長の宮廷勢力を一挙に削ぎ、会津藩入京後の政治的立場を有利にすることができるはずだった。
 --姉小路を暗殺する。
 これである。姉小路を殺せば(さらに三条中納言を加え二人同時に斃せば)この二人を操縦している長州藩の神通力をうしなわせることになり、さらにこの案をひとひねりして、この長州系公卿を薩摩藩士の手で斃させれば、もともと仲のよくない薩長両藩に致命的ひびが入り、同時に薩摩藩は公卿全体からきらわれて、その勢力も一時におちるだろう。
「一石三鳥の妙手でござる」
 ・・・
 その翌日、大庭は、木像事件の残党六人を大仏裏の寮にあつめ
「いいか、黒豆(姉小路卿)が軟化しはじめている。黒豆が軟化すれば、幕逆の白豆(三条卿)も影響されずにすむまい。このさい、二卿を斬って宮廷の惰気(ダキ)を払うのだ」
「よかろう」
 この連中に思慮などない。血気と功名心だけがあった。さっそく手配りして宮廷の情報をあつめると、明後日の五月二十日は廟議があり、最近の例からみて長びきそうだという。
 大庭はその前日、一同を御所周辺に連れて行って、十分に地形地物をみせた。

 --よいか。
 と、大庭は、いった。
 --
 金輪勇と吉村右京には君ら三人でかかれ。僕は姉小路を斬る。
(来た。…)
 と、大庭が一同の袖をひいたのは、亥の刻(夜十時)の鐘が鳴りおわったころである。
 闇のむこうに数人の足音がきこえ、先頭にに定紋の入った箱提灯がゆれている。少将は徒歩であった。
 少将の右わきに吉村右京、左わきに太刀持ちの金輪勇が従い、背後には、沓持(クツモ)ちらしい小者、といった一行五人で、ひたひたと近づいてくる。
 それが眼の前にきたとき、吉村右京が何事かを感じたのか、
「殿下。--」
 と立ちどまった。が、そのときに大庭恭平がおどり出て、少将のこめかみを、ざくっ、と割つけた。
(しまった。浅い)
 とっさに刀に馴れぬ、と思い、新兵衛の和泉守忠重をカラリと捨てて、自分の刀をぬいた。
・・・
--うむっ。
 と気合を入れ、肩を右袈裟に割ってから、
「退け」
 と命じた。

 ・・・
 大庭恭平は、その後行方不明。が釜師藤兵衛の菩提寺である鳥辺山の蓮正寺にはかれの墓碑と思われるものが、いまも朽ちて残っている。
 文久三年五月二十一日歿、と読めるから、これが大庭の墓碑ならば、事件の翌日自害したことになる。
 なんおために自害したか、かれの場合もまた、当時の会津人になってみなければわからない。
5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
泉斬り
      一
 文久四(元治元)年の正月、当時、京の鞍馬口の餅屋の二階に潜伏していた長州脱藩の浪士間崎馬之助のもとに、夜陰、川手源内と梶原甚助のふたりの同志がたずねてきた。
 用件というのは、絵師冷泉為恭(レイゼイタメタカ)という者を殺すことであった。
「何者だ、それは」
「絵師だ」
「なぜ絵師づれを斬らねばならぬ」
 間崎はそういうことよりも、同志がもってきてくれた酒を冷やのままのどに押しながすことのほうに気をとられていた。温和な性格の男だったが、ひどく大酒家で、久坂玄瑞(クサカゲンズイ)も「間崎の酒は胃の腑を溶かしながら飲むような酒だ」といったことがある。酒で体をそこなうことをしんぱいしたのだろう。
 間崎馬之助は、論客の多かったいわゆる勤王のなかではきわだって無口な男で、秘密の会合のときなども、いつも後ろの座でねそべってほとんど口をきいたことがなかった。そのくせ、なんとなく同志のあいだで重んじられたのは、かれが、長州につたわる間崎夢想流という抜刀術の流儀の相続者で、剣をとっては京にきている諸国の脱藩浪士のなかではおよぶ者がないといわれていたからである。

・・・

「うわさだけではないぞ。あんたは、さきごろ、朝議の機密がしきりと幕府側にもれて大騒ぎになった一件をおぼえていよう。あのときは、三条実美公が、機密漏洩の張本人らしいという疑いがあった。三条公だけしか知らないはずのことが所司代に筒抜けになっていたからだ。機密が洩れたために、幕吏につかまった同志も二人や三人ではない。
このために、三条公に天誅を加えようという者も出た。わすれたか。 
「おぼえている。しかし、ほどなく三条公の疑いがはれたときいている」
「晴れていない。一時ほどではないが、いまなお機密が洩れ続けている。どうやら調べてみると、三条公の身辺に冷泉為恭という名が出た。この男は、ふるくから三条邸に出入りし、家来同然に昵懇(ジッコン)にしてもらっているらしい。三条公のはなしではこの男に語ったことだけが洩れている、というのだ。これが動かぬ証拠である。しかも三条公が、それに気づいて冷泉を遠ざけるにつれて、機密の洩れがすくなくなった」
「なるほど。--それで?」
「天誅を加える」
「可哀そうではないか」
「なぜだ」
「たかが絵師づれに」
「絵師とはいえ、六位の朝臣だぞ。しかもうわべながらも攘夷論を論ずるのが好きな男だ。彩管(サイカン)一本もたせておけば機嫌のいい絵師ではない」
 間崎馬之助はだまった。口に出してはいわなかったが、ここ数年、諸藩の脱藩浪士のあいだで「天誅」が流行しているが、すこしやりすぎではないか、とかれは思っている。
 京はひどく血なまぐさくなっていた。一昨年の文久二年七月二十日には、九条家の家来島田左近が木屋町二条下ルの妾宅で殺されているし、その二ケ月後に島田の同僚宇郷玄蕃が自宅で妻子と語らっているところを刺客にふみこまれて首をはねられた。その翌月には、目明し文吉が殺され、去年の五月二十日には国事係の公卿姉小路公知が御所を退出した帰路を要撃されて落命した。さらに千種家の雑掌賀川肇が、下立売千本東入ル町の自邸で殺されている。
 ・・・
       
 ・・・
その翌日、冷泉家の前を通りかかると、為恭がでてきた。
 拍子ぬけするほど貧相な四十男であった。はやりの黒縮緬の無紋の羽織に細身の大小をさし、毛の薄いあたまに諸大夫まげをのせていた。
 しかし為恭のあとからもう一人、背の高い男が出てきたとき、馬之助の顔が、おおわずこわばった。新選組の探索方で、米田鎌次郎という男である。人斬り鎌次郎といわれ、神道無念流の使い手で、この男に殺された尊攘志士の数は、五人や六人ではなかった。
(鎌次郎が、付け人になっているのか)
 二人は、馬之助とすれとがった。鎌次郎はちらりと馬之助をみたが、気づかない様子だった。
 ・・・
翌日、馬之助は、東山妙法院に潜伏している川手源内を訪ねた。
「冷泉為恭の居どころがわかった」
「どこだ」
 西加茂の神光院である、というと、気の早い川手はもう佩刀(ハイトウ)をつかんでいた。「よせ」と馬之助はするどくいった。
「西加茂は守護不入の地だ。社頭を血で汚しては、世の聞こえもわるい。為恭は、明日の小正月に家にもどるから、その帰路を扼(ヤク)せばよかろう」
「なるほど」
「しかし、わしはことわる」
「なぜだ」
「自分でも、よくわからぬ」
 正直な返答のつもりだったが、この答えは川手を激昂させた。
「かまわぬ。当方で有志を集めるだけだ」

       三 
 ・・・
 ところが、市中のうわさに、この朝、百万遍のあたりで浪人が殺されたという。このところ京ではありふれた事件にすぎなかったが、馬之助は、はっとした。 
 早速、太兵衛から笠と百姓蓑(ミノ)を借り、なかに刀をしのばせて、ふりしきる雪のなかを出た。現場についてみると、死体にはムシロがかぶせてあり、近所の男女が数人、それをかこんで立っていた。
「ほとけは、どなたです」
「さあ、知りまへんな」
 どの顔もおそろしく不愛想だった。この付近の五人組の者らしく、おそらく町年寄からいいつけられて、死体が雪にうずもれないようにときどきムシロの上を手ではらいおとすために立っているのだ。いい迷惑にちがいない。
「ちょっと、みせていただく」
 ムシロをめくると、予感はしていたが馬之助の顔色がかわった。まぎれもなく川手源内であった。左袈裟を心ノ蔵まで一刀で斬りさげられている所からみれば、よほどの腕利きの仕業とおもわれた。
 ・・・
 間崎馬之助は、なにげなく背後をふりかえってから、万一の用意に笠の結び目を解いた。武士たちが近づいてくるのである。
 武士の笠と蓑の上に雪がつもっていた。武士は十歩ほど手前でとまり、
「町人」」
 と声をかけた。馬之助はうずくまったまま、へい、と笠を解くまねをし、そっと上眼づかいに武士を見た。米田鎌次郎である。新選組がよくやる手だった。人を斬っておいてから、死体をそのままにしておき、同類の者が引きとりにくるのを待ち伏せるのである。
「このものの縁者か」
「いえいえ、ちがいまする」
「ほう、妙なナマリがあるな。名前と住(スマ)い生国をいえ」
 ・・・
 米田は、云いおわるなり抜き討ちで斬ってきた。馬之助は、雪の上にころび、五、六度勢いよくころがったが、鎌次郎のするどい太刀をかわしきれなくなった。
 幸い鎌次郎も雪に足をとられて、十分踏みこめない。
 馬之助は、そのスキにやっと立ちあがった。蓑のなかに大脇差がある。そのツバモトを左手でおさえ、腰をわずかに沈めた。
「ほう、やはり武士だったようだな」
 鎌次郎は、切先を上段にあげた。
「何藩だ」
「…」
 馬之助は、居合に構えたまま、何物も見ざるごとく眼を細めて立っている。ただ視野のなかをおびただしい雪片のみがいそがしく通りすぎた。真剣の立ち合いでは、鎌次郎のほうが場馴れしているだけに一日の長がある。しかしいま鎌次郎が仕掛けてくれば、馬之助の手は無意識にはたらいて相手を斬り倒すことができるだろう。
 が、鎌次郎は、
「やめた」
といって、刀をひき、
「いい芸をもっている。何流の居合だ」
「…」
「いずれ、顔をあわせることもあるだろう・そのときは君の首胴、所を変えるとおもっていたまえ」
 と鎌次郎は、京の浪士のあいだではやっている「給えことば」でいった。
 ・・・
 その翌日、間崎馬之助は、別に用があって河原町の土州屋敷にゆくと、顔見知りの坂本龍馬が暗い土間で呼びとめた。馬之助はおどろき、
「いつ京にのぼられたのです」
「きのう」
 と竜馬は、みじかく答えた。この男のくせで、懐(フトコ)ろ手をして首をしきりとふっては、骨をコクコクと鳴らしている。
「ところで」
 懐ろ手のまま、この男独特のえたいの知れぬ微笑みをうかべ、
「きょうの昼は、この藩邸ではきみの話でもちきりだったぞ。貴国の人が三人きて、川手源内の一件でひどくあんたを罵っていた。あんたは約束しておきながら逃げたというではないか」
「それがどうしたというのです」
「どうもしないさ」
 竜馬は、相変わらずコクコクと首を鳴らしている。
 ・・・
 馬之助は土佐の京都屋敷のなかでも、矯激な性格で知られている吉村善次郎と会い、
「あの一件は自分にもいい分はあるが、いまは弁じないことにする。とにかく冷泉為恭は私が斬る」 馬之助の本意は、もし土佐側で暗殺を考えているならばしばらく手をひいてもらいたい、ということであったが、吉村は鼻で笑い、
「それは君のご勝手だ。しかしわれわれの方にも多少の用意はある。それは十津川郷士の桜井忠蔵、大倉大八なども、冷泉のことで悲憤していたようだから、天誅は君だけにゆだねるわけにもいくまい」
やはり冷泉斬りは、諸藩の浪士の競争のようなものになりそうだった。

       四
 ・・・
 ところが、二月に入って御所の築地の下馬札に、何者とも知れぬ者が以下のような貼り紙をしたことから、事態は急変した。

 此者安政戊午(ツチノエウマ)以来、長野主膳、島田左近等に組し、種々大奸謀を工(タク)み、酒井若狭守に媚び、不正の公卿と通謀し悪虐数ふべからず。不日(ヒナラズ)我等天に代り、誅罰(チュウバツ)を加ふるべき者也。                                (原文のまま)

 いわば、天誅予告の公開状である。為恭が、かつて長野、島田と結んで悪虐をきわめたというのはすこし酷だが、いずれにしても書き手は為恭をねらう洛中の尊攘浪士であることはまちがいない。
 新選組からは米田鎌次郎がきて筆跡をしらべたり、所司代からは与力加納伴三郎が配下の同心数人をつれてきて貼り紙を撤去し、冷泉屋敷を警護したが、その程度の護衛ではもはや為恭の恐怖は癒えなかった。
 ・・・
  五
 その日、太兵衛の店でこの貼り紙のうわさを聞いた間崎馬之助は、為恭とは別の意味で狼狽した。
(無用のことをする。土州者のしわざだな)
 と、吉村善次郎の顔をおもいうかべた。おどしになっても、せっかくの魚をにがすようなものではないか。
 しかし、貼り紙の効用もあった。これによって市中の町民がにわかに冷泉為恭の身辺に注目しはじめたからである。
 ・・・
 …十日ばかりたったある日、ついに重大な変化がおこった。
 為恭が遁走したのである。
 「うわさ」は、為恭の駈けこんだ先までしっていた。西加茂の神光院であった。
 ・・・
 馬之助は侍姿にもどり、その日の暮れから西加茂に出かけてみた。
 ・・・
 杉木立が深まったため、足をふみおろす場所もわからぬほどに暗くなった。そのとき不意に、やわらかいものに蹴つまずいた。
 血のにおいがした。
 死体である。
 馬之助は、思いきって用意の馬乗り提灯に灯を入れて、死体を照らしてみた。名は知らないが見覚えのある男だった。
(十津川郷士だな)
 唇からあごにかけて一太刀いれられており咽喉(ノド)にも傷があった。馬之助は、米田鎌次郎が突きの名手であることを思いだした。
 そのとき、木立のむこうの神光院のあたりの闇に、急に提灯の灯が五つ浮かんだ。
 --みつかったか。
 あわてて灯を消した。
 提灯の灯はおそらく新選組の人数であろうと思われた。かれらにすれば冷泉為恭を護衛するよりも、冷泉をオトリにして浪士を誘(オビキ)よせるのが目的なのだろう。
 ・・・
 その後、二十日ばかりして冷泉為恭の運命はさらに急転した。
 明神の社家のほうから、神光院に対して故障がでたのである。--絵師が神光院に入って以来、神域に不浄の幕吏が出没することが多いののははなはだ迷惑である、というのであった。
 神光院の月心律師もこれにはさからうことができず、為恭に因果をふくめ紀州那賀郡粉河の山中にある粉河寺あての書状をもたせて暮夜ひそかに寺を出立させた。
・・・
おっつけ、京から刺客がくだるでしょう」
「間崎様は、なぜ参られませぬ」
「遠すぎる」
 といったのはていのいい口実で、間崎馬之助は、このころには、あのあわれな絵師を討つ意気ごみが失せはじめていた。
 ・・・
「絵師は、私でなくても、だれかが討つ。私は、あの正月十五日の雪の日に百万遍の挙に加わらなかったというので卑怯よばわりされた。あのとき不幸にも川手源内が斬られたが、かれを斬った男は申すまでもなく絵師ではない。新選組の米田鎌次郎という男です。私がこの男を討てば、川手の恨みもはれ、同時に私の恥辱も消えることになる」
 元治元年三月に入ると、絵師冷泉為恭の噂は京の市中から消えてしまった。
・・・
 そのころ間崎馬之助は、長州にもどらねばならぬ所用ができ、そのことで在京の同志と数度会合をかさねたことがある。最後の会合は、六角二条の旅館丹波屋嘉兵衛方でひらかれたが、その帰路、長州屋敷に立ちよるため河原町通りまで出たとき、不意に巡邏中の新選組隊士五人に出会った。
 すでに薄暮になっている。
(逃げるか)
 とっさに思ったが、かえってあやしまれると思ったので、そのままの足どりを変えずに歩いた。
 ・・・
 すれちがって事もなかったため、馬之助はおもわず急ぎ足になった。
 そのとき、あとで考えれば天祐といっていいことだが、右の雪駄の鼻緒がきれた。馬之助は右ひざを立てて、かがみこんだ。通りかかった町家の隠居風の老婆が
「どうおしやした」
 と親切にも寄ってきて、ふところから手拭いを出して引き裂き、
「据えて進ぜましょう」
 と、馬之助の前にかがんでくれた。馬之助は顔をあげて礼をいった。その顔をあげた拍子に、むこうから米田鎌次郎が近づいてくるのを見たのである。
 鎌次郎は気づいていない。
 ・・・
「あばあさん」
 と馬之助は小声でいった。話しかけながら、そっと構えをなおした。
「しばらく動かないでください」
「どうしてどす?」
 老婆は、おだやかに微笑している。
「むこうから男がきている」
「顔をみられとうおへんのどすな」
「左様」
 鎌次郎が、老婆のうしろ三歩まできたとき馬之助はいきなり、
「米田ーー」
 と低い声でよんだ。人斬り鎌次郎は、はっと刀のツカに手をかけた。その刀がなかば鞘からすべるのと、馬之助の体が老婆の背を跳びこえるのと同時だった。米田鎌次郎の刀が鞘から地上にすべり落ち、額が、鼻先まで真二つに割れた。
 ・・・
6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
祗園囃子
       一
 大和十津川の郷士で、浦啓輔(ウラケイスケ)。
 --といえば、元治元年から慶応年間にかけて京の志士のあいだで高名な若者である。
「浦の剣、粗剛なれども気品り」
 と言われた剣客である。
 剣は、義経流といい、今日でも古流の武芸家でこれを伝えている人があるが、十津川郷につたわった古拙な太刀わざである。それに独自の居合術を工夫し、
「浦の籠手(コテ)斬り」
 といえば、新選組でさえおそれた。
 元治元年の禁門ノ変ののちは、洛中、新選組の暴威がすさまじく、過激武士のなかでもほとんどこれに正気で立ちむこう者もいなくなったが、浦はしきりと挑戦し、数度路上で争闘し、三人まで斬った。---人斬り、と異名(イミョウ)された、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦斉(ゲンサイ)でさえ、新選組に対しては一度も太刀をあわせなかったことからみても、浦啓輔の一種の人気がわかる。
 ・・・
 千葉赤龍庵(セキリュウアン・浦啓輔の学問の師匠・浦家の宗家)は、この大和十津川郷における幕末の勤王提唱者のひとりで、壮者のころ、水戸藩の藤田東湖をたずねたことが、なによりの自慢であった。
 当時、水戸藩といえば、水戸光圀以来、勤王思想の本山である。安政の大獄で捕縛された政客、論客のほとんどは水戸学派の影響をうけ、その洗礼を受けにゆくことを、「水戸詣(モウデ)」といい、たいていは、一度は水戸の地を踏んでいる。
 そこを赤龍庵も踏んだ。これが、老人の生涯の自慢になった。
「当節。--」と、この老人は口ぐせのようにいう。
「亡き東湖大先生に拝顔した者でその志を生かしているものは、薩州の西郷吉之助とわしぐらいのものであろう。先年の大獄で死んだ長州の吉田寅次郎(松陰)も水戸の地を踏んだのは二十二歳のときで、東湖大先生はご不在、やっと会沢正志斎、豊田天功などに会えただけである」
 当時、藤田東湖は、儒者とはいえ藩主斉昭の御用人で藩政の機密に参与するほどの政治家になっていたから大和郷士の千葉赤龍庵ごときが会えるはずはなかった。ところが、赤龍庵の名刺に、
 --大和十津川郷士。
 とあるのをみて、にわかに興をおこし書屋(ショオク)に通させたという。
「十津川の人とは、おめずらしい」
 東湖は珍獣でもみるように、何度もいったというのである。大和十津川といえば秘境といっていい山地だが、「古事記」「日本書紀」によれば、神代、国樔人(クズビト)という人種が住み、神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入るとき、この天孫族の道案内をつとめた土着人がかれらの祖先である。以来、朝廷が、大和、奈良、京都とうつってもこの山岳人はさまざまな形で奉仕し、京に政変があると敏感に動いて、禁廷のために武器をとって起(タ)った。古くは保元平治ノ乱、南北朝ノ乱などに登場し、南北朝時代には最後まで流亡の南朝のために、足利幕府に抗した。水戸学は、北朝を否定し、南朝を正統とした史観を確立した学派である。東湖が、勤王史の生きた化石ともいうべき十津川の赤龍庵の出現をよろこんだのはむりもなかった。
 ・・・

       

 ・・・

「それで」
啓輔は聞いた。
「何者を斬るのです」
「ああ、まだおぬしには云わざったか。その仁は、年配は五十歳ほど。名は、水戸藩京都警衛指揮役
住谷寅之助(スミヤトラノスケ)だ」
「えっ」
 啓輔は、だまった。その名は聞いている。耳にたこができるほど、赤龍庵からきかされてきた名ではないか。
「水戸藩は」
 と赤龍庵はいつもいった。
「安政の大獄で弾圧されて以来、東湖先生のころとくらべると、人物落莫と(ラクバク)としている。藩内で党派が乱立し、たがいに抗争、殺戮しあって、ついに人物が尽き、勤王の本山として天下の志士に君臨してきた威容をうしなった。とはいえ、藤田東湖、会沢正志斎、戸田忠大夫、金子孫二郎、武田耕雲斎、藤田小四郎なきあと、たった一人の人物は生き残っている。住谷寅之助先生がそれだ。この人からみれば,薩長土の志士など、まるで孫弟子のようなものさ。公卿、諸侯のなかでも、この人を師と仰いでいる人が多い」
 土佐の山内容堂などは、とくにそうだと啓輔は聞いている。
 容堂候は、藤田東湖の生前、他藩の家臣ながら、師弟の礼をとってその時局に対する卓論をきいた。東湖なきあと、ある日、第二の東湖といわれる住谷寅之助を、江戸鍜場の上屋敷に招じた。
 東湖のときと同様、師弟の礼をもって、辞をひくくして時務のことをきいた。
 ・・・
啓輔も、なるほど若い。若いが、その師匠は、自称直系と称する水戸学者であった。水戸学のありがたさは知っている。
「山本どの」
 啓輔は、刀をひきつけた。
「申しておくが、われら十津川郷士は数千年の勤王郷士です。この京都御危難のときにさいし、禁門守護のつもりで上洛している。不埒な企てには、加担できませぬ」
「では、頼まぬ」
 山本は、立ちあがりかけた。
「待ちなさい、山本どの。あなたこそまさか逆徒ではありますまいな」
「なぜだ」
「高士住谷寅之助先生を斬ろうとしている。これは、われら勤王奔走の徒の自らの父祖を斬るようなものだ。返答はどうある。その次第ではこの場から去らせませんぞ」
「激するな」
 山本も、中腰で、刀をひきつけた。が、腕は、この単純な十津川郷士のほうがはるかに優っていることを、山本は知っている。
「すこし、話そう」
 ぐゎらり、と鞘ぐるみ自分の佩刀をむこうへ押しやり、
「君は遅れている」といった。「十津川の連中はみなそうだが、君までそうだとは思わなかった」
「……」
「時代は、急湍(キュウタン)のように動いている。それどころか、水戸はいまや逆徒といっていい」
 水戸は、死んだ藤田東湖もそうだったが、最後まで討幕は云わなかった。所詮は御三家のひとつである。幕府体制を改革する、とまではいう。それが水戸的政論の限界であり、もはや今日の情勢になってみれば、そういう俗論は時代の進行に大害がある、と山本はいう。こういう俗論がいま横行しているために、京都の公卿でさえ、倒幕の決断のついた者が、二、三しかいない。
「諸侯しかり」
 土佐の山内容堂がその好例である。これだけの大藩が動けば事が一挙に成るというのに、容堂はなお公武合体の白昼夢をいだき、倒幕論者の武市半平太以下を処刑してしまっている。
「その公武合体論の公卿、諸侯の教授役が、水戸藩京都警衛指揮役の住谷寅之助である。これを斃さねば、天下は動かぬ」
「何者が、幕府を倒す」
「よく訊いた。浦君、それは水戸藩ではないことは君でもわかっているだろう。むろん、薩長だ。もはや、水戸学などという紙の上の論議よりも、外国製の鉄砲、大砲、軍艦をもっている藩のみが倒せる。--浦君」
「なんです」
「君にだけいってやる。薩長は、倒幕の秘密盟約を結んだぞ」
「えっ」
 この両藩が、禁門のノ変以来犬猿の仲になっていることは啓輔もきいている。それが、いつのまに同盟したのか。
「とにかく、倒幕によってはじめて、天皇御親政の世がくる。君たち十津川郷士のそれが先祖代々の宿志であろう。それには、住谷を斬ることだ。住谷が生きて公卿を説きまわっているかぎり、かんじんの五摂家、清華家以下の公卿が薩長による倒幕に踏みきらぬ。踏みきらねば薩長による倒幕群に錦旗がおりぬ」
 ・・・

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