真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ナミビア・アンゴラの独立とアメリカお決まりの関与

2023年06月17日 | 国際・政治

 私はウクライナ戦争が始まって以来、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外政策外交政策の歴史をふり返っています。
 今回は、ナミビアアンゴラの独立問題にアメリカがどのように関わったのかについて、「アフリカの21世紀 第3巻 アフリカの政治と国際関係」小田英郎編(勁草書房)から、関連部分を抜萃したのですが、その中に、下記のような記述があります。

レーガン政権は、ナミビア独立のための安保理決議第435号の実施条件としてアンゴラからのキューバ軍の撤退を主張したのであった。

レーガン政権は、アンゴラ・ナミビア紛争に対して一方では85年8月のアンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止とそれに伴うアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に対する支援の再開といった強硬な姿勢をとり、・・・”

 当時の国連、安全保障理事会は、1976年、国連の監視のもとに行われるナミビアの選挙を受け入れるよう、事実上の宗主国である南アフリカに要求し、また、78年には、”国連監視下の自由選挙の実施と南アフリカ軍のナミビアからの撤退を求める決議”をしています。そしてそれは、ナミビア問題解決のための基本的枠組みとして国際的に承認されていたといいます。
 さらに言えば、国連総会では、ナミビア人民による武装解放闘争に支持を表明して、いかなる問題の解決も、ナミビア人民の唯一の代表である南西アフリカ人民機構(SWAPO)の合意がなければならない、とも認めていたのです。

 注目すべきは、ナミビアの独立問題に関わって、アメリカがアンゴラからのキューバ軍の撤退を持ち出し、また、アンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止を求め、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に対する支援を開始したことです。そこに、私は、アメリカの対外政策や外交政策の性格がよくあらわれていると思います。

 隣国、アンゴラの情勢が、ナミビアの独立に深く関わっていたようですが、アメリカはアンゴラにおける最大勢力アンゴラ解放人民運動 (MPLA)が、反アパルトヘイトを唱える社会主義的組織であることに危機感を抱き、南アフリカとともに、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)の支援に動いているのです。
 だから、アンゴラはキューバに助けを求めたのだと思います。
 強国が関与しなければ、ポルトガルからの独立後、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)が政権を樹立し、社会主義的国家が生まれる流れであったのに、強国が関与した結果、アンゴラ解放人民運動と、アンゴラ民族解放戦線やアンゴラ全面独立民族同盟との武力闘争(アンゴラ内戦)になってしまったのだと思います。

 それは、アメリカの政策に関する下記の文章でも、わかると思います。
「この建設的関与」政策とは、南アと南部アフリカ黒人諸国の対話と和解を促進することによって同地域におけるソ連とキューバの影響力を低下させる一方、合衆国と南ア白人政権との対話を通じてアパルトヘイト体制の変革を促進しようというものであった。
 アメリカは、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)による社会主義的政権の樹立を阻止するために、南アフリカのアパルトヘイト体制(人種差別体制)を部分的に修正し、国際社会の理解を得て、南アフリカと手を結ぶことにしたのだろうと思います。
 アンゴラ独立前、南アフリカは、当時支配下に置いていたナミビアからアンゴラに軍事侵攻し、「アンゴラ人民民主共和国」の独立を宣言したアンゴラ民族解放戦線アンゴラ全面独立民族同盟を支援したということですが、激戦の末、「アンゴラ人民共和国」の独立を宣言した、最大勢力アンゴラ解放人民運動に阻止されているのです。
 アメリカが、支配する側、すなわち、搾取・収奪する側を支援し、される側の闘いを抑圧する反共国家であることは、ナミビアやアンゴラの独立にかかわっても、貫かれていると思います。
 だから、ウクライナ戦争でも、アメリカは、反政府勢力を支援し、ヤヌコビッチ社会主義政権を倒して、ロシアと戦わせることにしたのだと思います。そういう意味では、ゼレンスキー政権は、アメリカが支援した南アフリカの少数白人政権と同じで、決して民主的な政権ではないだろうと思います。

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                     第四章 人種主義からの解放
                        ── 南アフリカ共和国とナミビア

    Ⅱ ナミビア独立問題の経緯
 南部アフリカに残された最後の未独立地域ナミビアは、1990年3月21日に同地域を違法統治してきた南アの支配を離れて多数支配政権のもとに独立を達成した。しかしながら独立にいたる過程は極めて紆余曲折したものであり、直轄統治地域としてナミビアを管理してきた国連、そして国際的な非難にも拘らず統治を続けてきた南ア、そして同地域を代表する唯一の解放組織として国連に承認されたSWAPOといった当事者の活動だけでなく、国際政治の力学がその独立に決定的な影響を与えたのであった。
 ・・・
  一 歴史的背景
 1884年から85年にかけて開催されたアフリカ植民地分割のためのいわゆる「ベルリン会議」において現在のナミビアの国境線が確定し、同地域はドイツ領「南西アフリカ」となった。ただしナミビア唯一の良港であるウォルビス湾とその周辺地域は既にケープ植民地の一部となっていたため、「飛び地」として今日に至るまで南アによって統治さっることになった。
 第一次大戦中、ナミビアは南ア軍によって占領され、戦後、南アは国際連盟によって同地域の委任統治権を与えられた。これによって南アは、基本的には独立に至るまで国内に対してと同じようにナミビアに対しても人種差別的な統治をおこなったのである。 
 第二次大戦後に誕生した国際連合は、ナミビアを信託統治領とすべく南アに対して委任統治の終了を求めたが、南アはこれを無視して一方的な統治を継続した。当初こうした南アの政策に対して国連は、これを阻止する有効な手段を持たなかった。しかしながら60年代に入ると第三世界の諸国、とりわけアフリカ諸国が大挙して国連に加盟したため、ナミビア問題は国連の場において積極的に議論されるようになった。その結果60年代後半において国連はナミビアに関する一連の決議を採択したのであった。すなわち66年、国連総会は南アの委任統治の終了とナミビアに対する国連の直轄統治を決議し、その翌年にはナミビアの統治にあたるナミビア理事会を設置した。そして68年にはこれまでの「南アフリカ」から「ナミビア」へと同地域の名称を改めるとともに、安保理はナミビアに対する南アの統治を違法と宣言したのであった。
 他方ナミビアのアフリカ人は、1958年にSWAPO(South-West African People's Organization)を結成して南アからの解放運動を開始し、66年以降、同組織は武力解放闘争に踏み切った。しかしながら70年代の後半に至るまで、ナミビア独立問題は容易に進展しなかった。その理由は、①ナミビアに対する南アの力による統治が確立されていたこと、②国連は、みずからの決議を強制的に実施する手段を持たなかったこと、③SWAPOの解放闘争が南アに政策を変更させるだけの影響力を持たなかったこと、などである。しかしながら1974年のポルトガル・クーデターとその後のポルトガル植民地体制の崩壊、そして南部アフリカにおけるモザンビークとアンゴラの独立は、ナミビア情勢にも大きな影響を与えることになったのである。そしてアンゴラ内戦を契機としてナミビア問題は、一地域の独立問題から国際政治における東西対立の文脈へと移行していったのである。

  ニ ナミビア独立交渉の展開
 1977年1月に誕生した合衆国カーター政権は、一方で宗主国イギリス政府と共同歩調をとりながらローデシア(現ジンバブェ)紛争の平和的解決の処方箋を模索し、他方でナミビア紛争の平和的解決に向けて、コンタクト・グループ(イギリス、合衆国、カナダ、フランス、西ドイツ)の一員として積極的な調停活動をおこなった。
 ナミビア問題の平和的解決の可能性を模索した通称コンタクト・グループは、合衆国のイニシャティヴのもと、当時の安保理西側5カ国によって結成された。同政権がナミビア問題の交渉による解決に乗り出した理由としては次の3点が指摘されている。第1は、に、77年初頭、ナミビアの独立を認めない南アに対する非難が国連内部において激昂していたこと。第2点は、当時南アが、国連を無視して、ナミビア領内の親南ア勢力を結集して独自の問題解決、いわゆる「内部解決」を図ろうとしていたこと、第3点は、カーター政権が、新政権として第三世界に対する独自の政策を打ち出そうとしていたこと、である。これに加えて同政権が、その前年、当時の合衆国国務長官キッシンジャーが展開していた南部アフリカ積極外交に強く刺激されたことも否定できないであろう。
 コンタクト・グループの行動指針となったのは、1986年1月に採択された国連監視下における自由選挙の実施を骨子とする安保理決議第835号であった。この決議もとづいて、コンタクト・グループ
は、ナミビア問題の当事者である南ア、SWAPO、そして問題の準当事者ともいうべきフロントライン諸国首脳と交渉を重ね、この結果を踏まえて国連安保理は、78年9月、ナミビア紛争解決の基本的枠組みを定めた決議435号を採択した。同決議の骨子は、国連監視下の自由選挙の実施と南ア軍のナミビアからの撤退であり、この決議は同紛争解決のための基本的枠組みtpして国際的に承認された。
 南アは、一方ではコンタクト・グループと交渉を行って国際的な問題解決に応じる姿勢を見せながらも、他方では「内部解決」を強引に推し進めたため同グループの調停活動は容易に進展しなかった。さらに、80年代に入ってからはレーガン政権が、ナミビア独立問題とアンゴラからのキューバ軍の撤退を結びつけた独自の解決案を持ち出してきたために、コンタクト・グループは、まさにその「グループ」としての一体性と機能を低下させていったのである。
 周知のように1981年1月に誕生したレーガン政権は東西両陣営の対立という文脈のなかに南部アフリカの諸紛争を位置付け、同地域に対する基本戦略としていわゆる「建設的関与」政策を打ち出した。「この建設的関与」政策とは、南アと南部アフリカ黒人諸国の対話と和解を促進することによって同地域におけるソ連とキューバの影響力を低下させる一方、合衆国と南ア白人政権との対話を通じてアパルトヘイト体制の変革を促進しようというものであった。そしてアンゴラ・ナミビア紛争に関して言うならば、合衆国はこうした基本路線に即していわゆる「リンク政策」を打ち出した。すなわちレーガン政権は、ナミビア独立のための安保理決議第435号の実施条件としてアンゴラからのキューバ軍の撤退を主張したのであった。
 レーガン政権は、アンゴラ・ナミビア紛争に対して一方では85年8月のアンゴラに対する武器援助を禁じたいわゆる「クラーク修正法」の廃止とそれに伴うUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)に対する支援の再開といった強硬な姿勢をとり、他方では紛争の平和的な解決を目指して紆余曲折はあったものの着実に紛争当事国との交渉を重ねた。要するに合衆国は、まさに「和戦両様」の戦略をもって同紛争の解決にあたったと言えよう。
 「リンク政策」に即して当事者間の合意を取り付け、アフリカ南西部の和平を実現しようとする合衆国の調停活動は、国務次官補クロッカーを中心にして80年代前半から積極的に展開された。そして84年2月にザンビアの首都ルカサにおいてアンゴラ、南ア、そして合衆国のあいだでアンゴラ南部の非軍事化とそれに関する「合同監視委員会(JMC)」の設置について合意に達したことは、公式の場における合衆国の調停活動の最初の大きな成果として位置づけることが出来よう。
 


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