しばらく前、朝日新聞の「日曜に想う」という欄に、沢村亙論説主幹代理が「歴史はいかに転換するのか」と題する文章を書いていました。その中で、ドイツのショルツ首相が、「ロシアのウクライナ侵攻」開始を受けて議会演説でくり返した「ツァイテンベンデ(時代の転換点)」という言葉を、ドイツで生まれ、日本で暮らす3人に投げかけ、それぞれの「ツァイテンベンデ(時代の転換点)」に関する思いを聞いていました。
まったく立場の異なる3人なので、「ツァイテンベンデ 」について、読者に いろいろ考えさせようという意図が窺えました。
だからこの文章では、ウクライナ戦争の捉え方が極めて重要なわけですが、ウクライナ戦争をより深く理解させ、停戦や和解のきっかけにしようとする意図はまるでなく、「でも、だれもプーチン大統領は止められなかった。楽観は消え、私のツァイテンベンデは終わった」とか、「ナチスの台頭を許したのは市民の傍観でした。民主主義が攻撃されているときに、傍観者ではいられない」とか、冷戦終結は、たとえ敵対国でも関与し、経済の相互依存を深めれば友好的、民主的になるという営為の結実だった。「その成功体験が、ロシアの侵攻で崩れ去った」というような「ツァイテンベンデ(時代の転換点) 」の理解へ、読者を誘うのです。それは、「ツァイテンベンデ(時代の転換点) 」という言葉を利用して、ロシアは悪であり、プーチンは悪魔であるというような捉え方へ、読者を巧みに誘導するものだと思いました。
考えるべきことは、こういう「反ロ思想」からは、停戦・和解の話は出て来ないということです。
それは、ウクライナ戦争によってロシアを孤立化させ、弱体化させようとするアメリカの戦略であり、戦術なのだと思います。
だから私は、アメリカを中心とする西側諸国の、”ウクライナ戦争は、プーチンの野望で始まった”というようなプロパガンダが、そのまま朝日新聞を含む西側諸国の主要メディアのスタンスになってしまっているのだろうと察するのです。
でも最近、そういう主要メディアのスタンスは、徐々に窮地に立たされつつあるように思います。
9月10日の朝日新聞のトップ記事は、”G20、初日に首脳宣言採択、「戦争非難」文言なし”という見出しでした。
そして、
”主要20か国・地域首脳会議(G20サミット)が9日、インドのニューデリーで始まり、首脳宣言が採択された。先進諸国とロシアが鋭く対立していたウクライナ侵攻に関して、昨年の首脳宣言にはあった「戦争を強く非難する」という言及がなくなるなど、後退を印象づける内容になっている。”
とありました。
この文章にも、私はとても問題があると思いました。停戦・和解を考えれば、先日の首脳宣言は、少しも後退ではないと思います。私は、G20が中立的な立場に立つようになって、停戦・和解に一歩近づいたという意味で、むしろ前進だと受け止めています。
ウクライナ戦争を画策したアメリカの戦略に従えば、上記の文章は、「戦争を強く非難する」ではなく、「ロシアを強く非難する」という言葉が、適切だろうと思います。でも、「戦争を強く非難する」という言葉を使うのは、アメリカの戦略に対する反対を許さないための、巧みな誤魔化しだと思います。
本当に「戦争を強く非難する」ということであれば、即、停戦・和解の話し合いに進めるはずですが、現実的には、停戦・和解には結びつかない考え方、すなわち、ロシアは交渉相手たり得ない悪の国であるというプロパガンダを行きわたらせているために、反対することが許されない「戦争を強く非難する」という言葉を使うのだろうということです。
下記は、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)からの抜萃ですが、なかに、
” 米国に逆らう国は武力でつぶそうとするのが、今も昔も変わらぬ米国の政策だ。当時は今よりもあからさまだった。三ヶ月後、アメリカに亡命していたキューバ人約1500人が武器を手に、キューバ南部のコチノス湾(英語名ピッグズ湾)のプラヤ・ヒロン(ヒロン湾)に上陸した。作戦を計画し、資金や武器を提供したのは米国政府の情報機関、米中央状況情報局(CIA)だ。”
とあります。アメリカの対外政策や外交政策をふり返れば、こういうことがくり返されてきたことがわかります。
だから、ウクライナにおけるヤヌコビッチ政権の顚覆に、アメリカが深く関わり、ウクライナを利用して、ロシアを孤立化させ、弱体化させようとして、ロシアの特別軍事作戦(ウクライナ侵攻)をもたらしたことは、否定できないと思います。ノルドストリームの問題をはじめとして、いろいろ取り上げてきましたが、数々の証拠が、それを物語っていると思います。
アメリカに逆らうロシアを、ウクライナを利用して、武力でつぶそうとしているというのが、ウクライナ戦争の現実だということです。
昨年、
”プーチン氏は血液のがん”である”とか、”ロシアのプーチン大統領が病気を抱えているとの見方が相次いでいる”
というような報道が何度かありました。
また、
”ウクライナ国防省の情報機関「情報総局」トップのキリル・ブダノフ局長は14日放映の英民放スカイ・ニュースのインタビューで、プーチン氏に関し「心理的にも肉体的にも非常に状態が悪い」と指摘し、「がんやその他の病気を患っている」との分析を明かした。”
との報道もありました。
さらに、
”ウクライナで苦戦が続いているため、露国内では政権転覆を図る「クーデター計画が進行している」とも主張し、「止められない動きだ」と語った。情報戦の一環として「プーチン氏重病説」を流しているとの見方については否定した。”
との報道もありました。
米誌「ニュー・ラインズ」は、
”プーチン政権に近いオリガルヒ(新興財閥)の発言として、プーチン氏が2月24日のウクライナ侵攻開始前にがんの手術を受けたと伝えた。”
とか、
”プーチン氏の健康状態を巡っては、甲状腺の病気や、パーキンソン病を疑う報道も続いている。”
との報道もありました。
私は、こうした報道があった時、もしかしたら、アメリカが、現実にロシアにおけるクーデターを画策したり、プーチン大統領を殺害する計画を進めていたのではないかと、「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂」伊藤千尋(高文研)その他を読んで、想像させられるのです。殺害しても、病死で片付けることができるからです。あり得る話だと思っています。
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Ⅰ キューバを取り巻く新しい世界
1 国交回復の衝撃
米国によるキューバへの干渉
そもそも、なぜ国交が断絶したのだろうか。断絶後のキューバとアメリカはどんな関係にあったのだろうか。
国交断絶を一方的に通告したのは米国だ。キューバ革命から二年後の冷戦時代のさなか、1961年にアイゼンハワー大統領が行った。
その前年から両国の関係は険悪だった。生まれたばかりのカストロ政権を米国は承認しなかった。不和に輪をかけたのが農地改革だ。
キューバの革命政府は大土地所有制度を廃止し、大農園を接収して、貧しい人々に農地を分けた。第二次大戦後の日本でマッカーサー連合国軍最高司令官が行ったのと同じような農地改革をしたのだ。接収された大土地の多くが、米国人の地主や米国の大企業の土地だった。接収といっても没収したのではなく買い取ったのだ。しかし、革命政府にはカネがなかった。革命で倒された独裁者、バディスタが国庫のカネを持ち逃げしたからだ。
土地や資産を接収された米国の地主や企業は怒った。彼らの訴えを受けた米国の政府は、キューバに対する制裁を始めた。キューバから毎年か買い付けていた砂糖の買い上げを拒否し、キューバへの石油の供給も止めた。当時のキューバ経済は完全にアメリカに頼っていたから、こうすればアメリカの言うことを聞くだろうと思ったのだ。
ここで顔を出したのがソ連である。当時は冷戦のさなかで、ベルリンをめぐる危機など米ソの対立が急速に高まった時期だ。ソ連は米国から迫害されたキューバを味方に引き入れようとした。アメリカが拒否した砂糖をそっくりソ連が引き受け、アメリカが送らなかった石油をソ連が供給すると申し出た。キューバ政府は飛び付いた。しかし、ソ連からキューバに送られた原油は生成しなければ使えない。キューバにあった製油所はほとんどが米国の企業で、ソ連製原油の精製を拒否した。このためキューバ革命政府は米国の石油製油所を国有化した。米国はキューバ向け商品の部分的禁輸を命令した。キューバに物資不足起こして国民の不満を高まらせ革命をつぶそうとしたのだ。両者の対立はエスカレートした。
米国は1961年1月、キューバに対して国交の断絶を通告した。
米国に逆らう国は武力でつぶそうとするのが、今も昔も変わらぬ米国の政策だ。当時は今よりもあからさまだった。三ヶ月後、アメリカに亡命していたキューバ人約1500人が武器を手に、キューバ南部のコチノス湾(英語名ピッグズ湾)のプラヤ・ヒロン(ヒロン湾)に上陸した。作戦を計画し、資金や武器を提供したのは米国政府の情報機関、米中央情報局(CIA)だ。
キューバの革命軍は迎え撃った。カストロ自身も戦車で戦った。侵攻はわずか72時間で撃退された。これでキューバと米国の対立は決定的となった。翌1962年には米国は全面禁輸の経済制裁に踏み切った。
米国政府がキューバをテロ支援国家に指定したのは1982年だ。タカ派だったレーガン大統領の時代である。当時、爆弾テロを繰り返していたスペインの「バスク祖国と自由」(FTA)や南米コロンビアの左翼ゲリラ、コロンビア革命軍(FARC)のメンバーをキューバ国内にかくまったとして、キューバに対する武器の輸出・販売や経済支援を禁じる制裁を科した。キューバ側は、彼らは立ち寄っただけだと反論した。
キューバの後ろ盾になっていたソ連が1991年に消滅すると、米国の議会はキューバに対する経済制裁を強め、一気にキューバをつぶそうとした。92年には提案した議員の名からトリチェリ法と呼ばれる「キューバ民主化法」が成立した。キューバへの送金の禁止、キューバへの渡航の禁止、キューバ国内の民主化勢力の支援などを織り込んだ。96年にはヘルムズ・バートン法と呼ばれる「キューバ自由民主主義連帯法」が発効した。キューバを国際金融機関から排除したほか、キューバ産がわずかでも含まれた物資は米国に輸入できず、キューバに寄港した船は180日間、米国に入港できないようにした。
米国自身による制裁のほか、周辺のカナダや中南米諸国も動員してキューバを孤立させようとした。1962年には西半球のすべの国を網羅する米州機構(OAS)からキューバを除名した。94年にクリントン大統領の時に始まり、西半球のすべての国の代表が集まる米州首脳会議からも、キューバは排除された。当時の中南米は「米国の裏庭」と呼ばれ、米国の植民地のような状況だった。米国はキューバを孤立させて革命政権をつぶそうとしたのだ。
しかしつぶせなかった。
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2 米国はなぜ国交正常化に踏み切ったのか
米国の対キューバ政策を変えたのはオバマ大統領だが、オバマ大統領の個人的な考えから政策が一変したのではない。大統領がオバマでなくても、米国はキューバへの姿勢を変えるはずだった。
それには大きく2つの理由がある。
まず米国の内部の事情だ。米国の中で反カストロや反共を掲げ、対キューバ封じ込めの先頭に立っていたキューバ系米国人社会の変化だ。キューバに武力侵攻してカストロ体制を覆そうとしたタカ派が世を去り、社会主義キューバの存在を認めつつ、和解を進めようとする考えが主流になった。対立解消の足を引っ張る人々がいなくなったのだ。
それどころか、キューバをきちんと認めた方が利益になると考え、正式に付き合おうという勢力が増した。農産物業界を中心とする経済界である。同じ社会主義の中国とも貿易しているではないか。だったらキューバを貿易相手にして金もうけをしよう、と考えるビジネスマンたちが全米規模で急速に増えた。彼らは地域の政治家、ワシントンの議会やホワイトハウスにもロビー活動をし、キューバとの正式な外交、経済関係を結ぼうと積極的に工作した。
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