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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松代大本営 合意なき建設工事?

2008年09月09日 | 国際・政治
 「松代大本営 歴史の証言 」青木孝寿(新日本出版)は、松代動座に関する天皇側近や天皇の言葉を取り上げている。下記はその一部抜粋である。読み進めると、多くの犠牲を伴った巨大な地下壕建設工事も、極秘工事とはいえ、陸軍中枢の一部による独走に近い計画であったように思われる。また、昭和天皇の「無駄な穴」発言も、心からの言葉であったのではないかと想像される。
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               2 「国体護持」と松代大本営

松代動座に消極的な宮廷派など
 天皇は松代動座をまったく考えていなかったとよくいわれる。東条首相に替わって首相になったばかりの小磯国昭が1944年(昭和19年)7月25日、天皇に移動について言上したところ、
天皇は、自分が帝都を離れれば都民に敗戦感を抱かせるので万止むを得ざる限りは帝都にとどまると答えている。そして、戦争の推移によっては大陸に移動を考える者もあるようだが、あくまで皇大神宮のある神州を死守すると述べた(『木戸幸一日記』下)。……(以下略)

 まず天皇の考え方を、天皇の側近を通して見ると、当時の藤田尚徳侍従長は、 「侍従と宮内省の事務官が、松代に出かけてみることになったが陛下には東京を離れられる気持ちは微塵もない。言葉にこそおだしにならぬが、皇居に最後まで残られるのは、強いご決心であった。私たち側近の者も、またそれは当然のことと信じていた」(藤田『侍従長の回想』)
とのちに書いている。5月25日、皇居が空襲で炎上したあと6月初めごろのことを言っているのであろう。この記述は、藤田(退役海軍大将)が1944年8月から46年5月まで天皇の侍従長という立場にあったことと、この回想録が1961年に発行したものであることから、かなり批判的にとらえなければならないが、藤田は、”皇居は動かない”という理由を、次のように書く。
 「松代に移られ、大本営が設置されたとしても、穴にとじこめられた熊のようなもので本土での作戦の指揮はとれない。敵陣に橋梁を爆破され、通信設備を破壊されてしまえば、各地ごとに兵団が孤立するに過ぎない。本土を守護するのは、やはり東京が戦略的にもポイントである。しかも皇居に陛下がいますという国民の安心感は、なにものにもかえがたいものだ。私たちは、このように信じていたが、陛下の御心もそこにあった。
 断じて皇居は動かぬ、陛下も私たちも大内山に立て籠もる意気込みであったのだ。松代大本営案は宮中では問題にされなかった
というわけで、6月時点では皇居龍城の発想であったという。……(以下略)

 当時の小出英経侍従も4月ごろ、侍従武官から信州の山奥に行在所を考えていると聞いて驚き、小倉侍従らが松代に調査に行ったあと、「けれどわれわれとしては、陛下が御動座になるなんてことはあり得ないことと確信していたので、気にはしませんでしたがね」(『昭和史の天皇』3)と天皇の動座はあり得ないと確信していたと述べている。
 1936年(昭和11年)5月から45年6月まで
宮内次官だった白根松助は、大本営移転プランを早くから軍より聞いていたが宮内省としては、「本土決戦のために皇居を地方へ移転するなんてことは、頭から問題にしていなかったと言い、ただし皇后・皇太后の疎開は念頭においていたという。(『昭和史の天皇』3)……(以下略)

 木戸幸一内大臣は天皇の側近中の側近であるが、戦後に、
 「わたしとしては、松代のことはちょいちょい聞いていたが、そこまで行っては(松代へ動座するようなことになっては)もうおしまいで、結局洞窟の中で自殺する以外なくなってしまう。そんなことはわかりきっていた。それで国を全くほろぼしてしまったら大変なことで。だから、
わたしははじめから洞窟入りは考えなかった。もっとも松代行きは一つの案で、もし、わたしたちがそのころやっていたこと(特使をソ連に派遣して和平工作の仲介を頼む)が時間的に立ち遅れてしまって、日本が潰滅することがあるかも知れない。その際の手段としてはやむを得ぬが、頭から松代へ行ってしまって、陛下以下が洞窟の中で自害するなんて愚の骨頂だ。だから、御動座についての話には、ほとんど関心をもたなかったね」(『昭和史の天皇』3)
と藤田侍従長と共通した理由・感想を述べているのがおもしろい。ただ藤田と異なる点は、「そのころやっていたこと」すなわち近衛特使のソビエト派遣による和平の仲介依頼などがだめになって土壇場に立たされた時は、松代行きもやむを得ないということである。やがてそれに近い現実がくる。……(以下略)

……木戸の内心では東京で皇居を死守するという思いと、どうしても駄目なときは一案として松代行きを考えるという思いが揺れ動いていたことがわかる。それは軍部の本土決戦強調との力関係、連合国軍の侵攻の度合い、ソ連の出方、連合国の方針と微妙にかかわっていた。
 天皇・宮廷側近が東京の皇居から松代へ動座することは考えてもみない、という方針は、政府にも共通していた。
 「抗戦派なるも、御上は絶対東京をお動き遊ばすことなき様との意見」(『細川日記』下・3月30日)の鈴木貫太郎首相は、6月6日の最高戦争指導者会議の席上本土決戦指導の基本大綱の中に、帝都を固守する方針を明らかにする必要があると発言した。藤田侍従長も言ったように、天皇・大本営・政府を東京以外に移してしまえば、国民の心が解体して本土決戦はできないだろうということである。しかし陸軍は、東京から大本営や政府を移さなければ徹底的な本土決戦はできないという従来からの考えを主張し、基本大綱に帝都を固守することを明示できなかった。しかし翌7日
、鈴木首相は閣議に自説を持ち出し、閣議了解事項として帝都固守を決定した(『昭和史の天皇』3)。
 その翌日6月8日、「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」を決定され、そこから陸軍は既定のとおり大本営移動の方針を貫こうとしており、帝都死守派は、戦争終結の方向を模索していく。


 徹底抗戦か戦争終結か

 1945年2月14日、天皇上奏文を奉呈した
近衛文麿はその中で、「国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に候」と述べ「敗戦必至の前提より論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば一日も速やかに戦争終結方途を講ずべきものなりと確信仕候」と言っている。そして「戦争終結に対する最大の障害は(略)軍部内のかの一味の存在なりと存候」として、「戦争を終結せんとすれば、先ず其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候」としている(『細川日記』下)。
 近衛の奏上がすむと天皇の下問があり、軍の再建について近衛が阿南惟幾・山下奉文両大将の起用も一案であると答えたあと、天皇は、「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と言い戦争の継続を主張、近衛は、「そういう戦果があがれば、誠に結構か思われますが、そういう時期がございましょうか」と述べて暗に疑問を呈している(このとき立ち会った木戸内府のメモを藤田侍従長が再現したもの、藤田前掲書)
 天皇も期待をつなげていた沖縄戦の敗北が必至となった5月下旬、天皇は戦争終結に傾いてきた。木戸内府は近衛に、「最近御上(天皇)は、大分自分の按摩申し上げたる結果、戦争終結に御心を用ひさせらるることとなり、むしろこちらが困惑する位性急に、『その方がよいと決まれば、一日も早い方がよいではないか』と仰せ出される有様なり」と話しているほど変わってきた(『細川日記』下)。
 前に触れたように、6月8日御前会議であくまで本土決戦遂行を強調する「基本大綱」が決定された。秋永月三総合計画局長官より交通・重要生産・食糧などから国力を判断して戦争は不可能という報告も、徹底抗戦の陸軍の主張の前には認められなかった。こうした状態に強い不安を感じた木戸内大臣は6月8日、「時局収拾の対策試案」を起草し、戦争収拾のために、きわめて異例ではあるが天皇の勇断をお願いするという趣旨の文を起草し、具体的には天皇の親書を奉じてソ連を通じて「名誉ある講和」の交渉しようというものであった。木戸によれば、軍部がまず和平を提唱して政府がそれをうけて交渉するのが正道だが、今日の段階では不可能でありそれを待っていたらドイツの二の舞になり、「皇室の御安泰・国体の護持てふ至上の目的すら達し得ざる悲境に落つることを保障し得ざるべし」と述べている(『木戸幸一日記』下)

・・・

 黒崎中佐は1944年5月、井田少佐らと大本営の適地を探しに、信州に同行した一人であったが、種村大佐と共に近衛文麿に、本土決戦が可能であることを説得し、阿南陸相ら陸軍の主張を伝えている。種村・黒崎の本土決戦の戦術は、海岸線4,5キロメートルのところで戦うものでその内側に入られた時には敗戦という考え方であるという。この考えでいくと、松代大本営は無意味ということになる。

・・・

 ……7月25日木戸内府は天皇に拝謁したが、このとき戦争終結について天皇がいろいろ話し、それに関連して、木戸は次のような要旨の意見を言上した。

 「午前10時20分拝謁す。戦争終結につき種種御話ありたるを以て、右に関連し大要左の如く言上す。
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦機転換を唱え居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能わず。万一之に失敗せんか、敵は恐らく空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、斯くすることにより、チャンス次第にては大本営が捕虜となると云ふが如きことも必ずしも架空の論とは云へず。爰に真剣に考えざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統2千6百余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持し得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることを想到するとき、
難を陵んで和を講ずるは極めて緊急なる要務と信ず」(『木戸幸一日記』下)
 この木戸内府の言上と7月31日の天皇の話を合わせてみると、松代大本営の目的・役割が最終段階に達したことを示している。
 

・・・

 このようにポツダム宣言とどう対応するか明確な方針を日本側が出せないまま、「黙殺」といったあやふやな態度でいたとき、天皇は25日の木戸内府の意見について一週間後の7月31日、木戸の答えた。そこで「三種の神器」をめぐり「国体護持」のために「信州」が出てきたのである。「木戸日記では7月31日の項に、「御文庫にて拝睨、伊勢大神宮、熱田神宮につき別紙の通り仰せありたり」と記して、つぎのようにある。
 「御召しにより午後1時20分、御前に伺候す。大要左の如き御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其室に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。宮内大臣は既に内務省側と協議を進め居る趣なりき」



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