真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通化事件 NO3 - 吉林省文史資料第十二輯には

2016年10月22日 | 国際・政治

 先だって(10月14日)、日本政府が、今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億円5千万円の支払いを「保留」していると朝日新聞が報じました。昨年、中国が申請した「南京大虐殺の記録」が記憶遺産に登録されたことに対する反発が背景にあるとのことです。戦後70年以上が経過しているにもかかわらず、いまだに先の大戦における歴史認識が共有できていないこと、加えて、分担金支払い「保留」で、この問題に対応しようとする日本政府の姿勢を悲しく思いました。歴史認識の共有のための場を、政府が責任を持って設定し、相互に理解を深めるための努力を惜しまないでほしいと思います。

 そう言う意味で、通化事件に関する理解を深めるために、事件関係者を取り調べた八路軍幹部の報告をもとにした下記の中国側記述は貴重だと思いました。日本人関係者の証言だけでは知り得ない数々の事実が明らかにされているからです。下記の文中にも「藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した」とありますが、中国側は、多数の国民党関係者も訊問しており、様々なの文書も押収しているため、藤田大佐も認めざるを得なかったのだろうと思います。

 「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)によると、通化事件に関する中国側の資料は、たまたま京大が第三者を介して中国で入手したものだということなので、信頼できる貴重な資料ではないかと思います。

 下記の「通化『二・三暴動』」の文章は、「吉林省文史資料第十二輯(吉林省委員会文史資料研究委員会・通化市委員会文史資料研究委員会・編)の中にあるとのことですが、ここでは、佐藤和明氏の著書から「二、首謀者」の「(三)組織を結成、暴動を計画」と「三、 野合」の「(一)武装暴乱総指揮部と組成」、「四、反撃」「(三)、藤田を生け捕り」および「五、結末」の「(1)戒厳令解除、勝利を祝う」の一部を抜粋しました。

 国民党側からの働きかけがあって進められたといえる反乱・暴動の結果、「暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っている」ことに対するインタビューでの呉政治委員の下記の話には考えさせられました。反乱・暴動の計画で盛り上がったのは、元関東軍百二十五師団参謀長・藤田実彦大佐を中心とする軍人およびその関係者と国民党側関係者のごく一部の人間に過ぎず、多くの国民党側関係者は、本気にはなれなかったのではないかと…。
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                  通化「二・三暴動」李大根著:中川孝訳
一、前兆
(一)「九・三」祖国復帰後の状況・・・略
(二)通化に居住する日本人の状況・・・略

二、首謀者
(一)蒋日特務の活発な活動、秘密結社、暗殺団の組織・・・略
(二)国民党の三党本部と”三青団”の一工作による反共活動・・・略 
(三)組織を結成、暴動を計画
 近藤晴雄、劉正修(蒋日の特務分子)、孫耕暁、藤田実彦らが密議をこらし、扇動した結果、手ごたえ、各方面から声援を受けるなど敵にとっては、恐いものなしの状況であった。1月15日、 劉正修は孫耕暁の家で秘密会議を持ち、「暫編東辺地区軍政委員会」を設立した。投票による選挙の結果は次の通りである。

  主任委員    孫耕暁
  副主任委員   劉玉青
  委員      劉亦天、楊振国、鄧覚非、遅文玉、藤田実彦、近藤晴雄

続いて、暫編東辺地区軍政委員会の成立を正式に宣言した。直ちに会議を開き、次の機構(政治と軍事の二部門に大別され、各部の下に若干の科が設けられる)を設けた。
政治部長    劉亦天、劉玉青
  副部長     鄧覚非 
  総務科長    劉亦天
  民政科長    楊振国
  保安科長    姜基隆
  財政部長    劉靖儒
  軍事部長    藤田実彦
  副部長     遅文玉
  参謀科長    鄭乃樵、干正福
  副官科長    関崇芳
  軍需科長    劉慶栄、威相雲
  軍法科長    周洪漢、劉滌新、趙憲福
  軍機(兵器)科長 王桂声、楊景春
  軍医科長    柴田大尉

 この軍政委員会が成立すると、1月17日に暴動を決行することを決定した。しかし、この日は援軍を得られず、計画は失敗に終わった。劉正修は1月18日、奉天に戻った。
 国民党遼寧省党部主任委員李光沈は、直ちに蒋日特務分子の宮川、宮本の二人を通化に送り込み、藤田実彦の行動を監視させた。二人は協和街の住宅に身を潜め、ひそかに情報ステーションを設けた。暗号は401、藤田実彦に関するあらゆる情報を集め、随時無線で李光沈に報告した。
 同時期、国民党東北行営(注・前進司令部のある軍営)もまたひそかに蒋日特務分子、西川太郎、花岡一夫、林幸男の三人を通化に潜入させ、藤田実彦をひそかに動かし、早く事前謀議を実施し暴動を起こすよう迫った。
 劉正修が奉天に戻ると藤田実彦は不安にかられ、1月19日、石人溝方面に潜伏していた日本侵略者の桜井と池田辰三の二人に親書を持たせ、奉天の岩切医院の岩切院長(藤田実彦の同郷の蒋日特務分子)を訪ねさせ、国民党遼寧省党本部の李光沈へ暴動事件を連絡したのである。国民党遼寧省党本部政治部員の片山は直ちに命令を受け、藤田実彦宛の李光沈の電文を無線で送信した。その概要は以下の通りであった。
 「世界大戦が終結し同慶の至りである。通化方面の日本軍はその立場を堅持し、八路軍に武装解除されることなく、今に至るも其の勢力を保持するは、中国東北者に対し協力作用をなすものにして、まことに貴官の英明なる指揮の賜である。今後もまた相互に連繋し、東北建設のためともに邁進し…」
 李光沈に称賛された藤田実彦は内心大いに感激し、武装暴動の実施を早めることを決意した。彼は1月21日、国民党通化県党本部に対し、日本再興への展望と日本軍国主義の利益を考え、武装暴動実施に先立ち三条件の要求を提示した。第一は通化の日本人が帰国しないことを保証すること、第二は通化の日本人が失業しないとを保証すること、第三に通化の日本人が台湾籍になることを保証することだった。このため、大政豊を日本代表として派遣し、国民党通化県本部代表の姜基隆、周志傑と交渉させた。交渉の結果、会議を主催することに決まった。場所は南関信農洋行であった。国民党側からは孫耕暁、鄭乃樵、劉亦天、姜基隆、劉玉青、周洪漢が出席し、日本側は阿部、近藤、大政、小向が出席した。

 孫耕暁は日本侵略者を利用して共産党を壊滅するという目的のために、何等意に介さず日本側が提示した三条件に応じた。だが、日本側はそれでも満足せず、第四の条件を加えた。それは、暴動が成功したら、通化に「中日連合政府」を設立する、というものだった。孫耕暁を中心とする通化国民党の輩は、暴動により共産党を消滅させることを急ぐあまり、国家利益を売るのも省みず中華民族の尊厳を失い、通化に主権喪失の「中日連合政府」を設立するという国辱的な売国的協定を成立させたのである。同時に、国民党旗と日本国旗を掲揚すること、孫耕暁が政務を掌握し、藤田が軍事を握ることも決定した。第四の条件が受け入れられると、日本代表の大政豊と国民党代表姜基隆は双方を代表として署名した。藤田実彦は調印された協定を見て大喜び、暴動を発動するために更に精力的に奔走することとなった。

三、 野合
(一)武装暴乱総指揮部と組成
 あれこれ駆引きの末に、藤田実彦と孫耕暁の取り決めがまとまり、1月22日に孫の自宅で「武装暴動総指揮部」が発足した。南十字西街公益涌油坊の劉靖儒の家を指揮部に当て、総指揮に孫耕暁、田友(藤田実彦)、姜基隆、副指揮に劉亦天である。その下に三つの指揮所、三つの連絡組を設けた。
第一指揮所は通化カトリック教会近くにある栗林宅(暴動の際に千葉幸雄宅に変更されたが、状況が緊迫して使われなかった)で、指揮者は田友(藤田実彦)、阿部元、連絡組の責任者は近藤晴雄だった。第二指揮所は裕民街の姜基隆宅で、指揮者は孫耕暁、 姜基隆、連絡組の責任者は劉子周、劉慶栄だった。第三指揮所は通化南関区の遅文玉宅で、指揮者は劉滌新、遅文玉、連絡組の責任者は邵裕国だった。臨江方面の劉玉清を頭とする悪党一味も通化の斐家の店に寝泊まりし、いざという時、第二、第三指揮所に呼応する手はずになっていた。また、暴動に必要な兵力を調達するため「軍事収編委員会」を発足させ、帰順者を取り込んで「暫編東辺地区部隊」を編成し、援軍と内通者の連絡をとることになった。このため、 孫耕暁、近藤晴雄、藤田実彦ら首謀者は、連絡員(注・伝令)や蒋日特務をあちこちに派遣し、買収、威嚇などの手段に訴えて兵力をかき集めさせた。

 近藤晴雄は軍事収編委員会の名義で山中部隊伝令である吉田、松尾に国民党特務五人を同行させ、長白山へ旧日本軍と連絡するためひそかに向かわせた。後の孫の自供によれば、潜伏している日本軍と連絡をとるために哈尼河、八区へ連絡員を派遣している。こうして、前後九つの連絡組を送った。
藤田実彦は市内において3000余名の元日本兵を集めたほか、石人溝にいる元日本軍宮内との連絡に中山、斉藤、布田、吉田、松尾や蒋一の味の特務を送り、兵力と兵器の調達に当たらせた。
 また、五道江方面の日本軍、増井少尉と連絡をとって鉱山地区の旧日本軍を組織しようとした。孫耕暁は市内において漢奸(注・民族裏切り者)、旧満州国の協和会部員、軍人、警察官、官吏、ごろつき、やくざ、土匪など200余人を集め、国民党員と三民主義青年団の幹部を組織し、一味を武装させた。そして、奉天国民党党本部から三青団の活動を進めるため、通化に派遣されてきた邵裕国に指揮を命じ、党部の徐斌、鄧永林に監督と管理を委ねた。さらに、趙殿礼の党本部の残党である周洪漢、胡世良らに、撫松、小南岔、輯安(現在の集安)、臨江一帯にいる文徳喜、何学福、馮殿剛らの地方武装力を組織させた。同時に、多数の蒋一味の特務に日本人特務の連絡員と協力させて、東昌区、竜泉区、啓通区、中昌区、二道江区で旧満州国の軍人、警察官などを引き込み、わが党、政府、軍の各機関に内通者をふやした。首謀者たちがこのようにあらん限りの手を尽くした結果、ついに一万人に達する武装暴力集団ができあがった。彼らの反革命武装行動の行動計画は次の通りである。

 ①暴動の綱領、目的、任務

 武装暴動総指揮部の首謀者は、黒幕の李光沈の意に従い、こう唱えた。

 「人類史上未曾有の大戦が終わった。この間、共産軍は各地に満ちあふれ、その兵力等は次第に拡大し、通化を根拠地として中央軍の進駐を阻んでいる。これに反撃する準備を進めなければならない。通化の民主政府をくつがえし、中日連合政府を樹立し、通化にいる日本軍を中央暫編東辺地区部隊に改編し、各地で接収改編した国民党の地方武装力は中央軍とするものである。共産党の長白山根拠地を破壊し、南満および全東北を占領しなければならない」

 これがとりもなおさず、暴動の綱領であり、目的でもあった。目的を達するために次の任務を決めた。接収改編した東辺地区軍政委員会軍事部で編成される部隊で「共産軍を消滅し通化を奪取する」政治部長の劉亦天を頭に、通化行政督察専員公署の接収に責任を負う。孫建武が市・県政府の行政の接収に責任を負う。徐斌が市・県政府の財政金融の接収に責任を負う。王桂馨が通化市内の治安の維持に責任を負う。総指揮部の三つの連絡組と「婦女宣伝会」が連絡とビラ配りに責任を負う。

②重点目標 
   暴動部隊のおもな攻撃目標はつぎのようになっていた。
(1)安東省通化区行政督察専員公署
(2)通化支隊司令部
(3)市・県政府、県大隊
(4)市公安局
(5)市電報局・電業局
(6)東北軍政大学所属東北砲校(戦車部隊を含む)、東北航空学校および飛行場
(7)放送局、通化日報社、第一医院、東北造幣厰
  中国共産党遼東省通化省分委員会は目標とされなかった。当時、省分委は公表されておらず、事務をとる場所も「通化地区各界建国連合会」

  にあった。ありふれた和風の小さな建物で、門前に歩哨もたてておらず、特務の注目を引かなかったので攻撃目標には入らなかったのだろう。
③兵力の組織と兵器の配備・・・略
④合言葉、合図、標識・・・略

(二)黒幕の登場・・・略
(三)旧正月の夜・・・略
(四)首謀者を事前逮捕・・・略

四、反撃
(一)、孫耕暁を処刑・・・略
(二)、自滅の道へ・・・略
(三)、藤田を生け捕り
 敵の反革命武装暴動は、わが党、政府、軍、人民の英雄的反撃により失敗に終わった。しかし、藤田実彦、近藤晴雄、柴田大尉ら首謀者達は捕らえられていない。このため、2月3日午後、全市に戒厳令が布かれた。各部隊各機関の幹部や兵士、労働者自衛隊が戦場の後かたづけ、死体の始末、武器の接収、捕虜の収容に当たる一方、精鋭部隊の一部が敵の捜索にあたった。

 2月3日夜、藤田実彦ら第一指揮所の日本人は阿布元(注・阿部元と思われる)の家に集まり、夜九時頃、藤田は吉田に一部を率いて戦闘に向かわせ、その後、小向を偵察に出した。その結果、わが軍の捜査が第一指揮所の千葉幸雄宅に及んでいないことを知った。夜半3時頃、藤田の伝令が竜泉街で捕まった。危険を察知した藤田は一切の秘密文書を焼却させ、ただちに栗林宅に移動し、天井裏に潜んでいた。

 2月4日午前、朝鮮義勇軍支隊の李成万大隊長は、高応錫中隊に藤田捜索の任務を与えた。それを聞いた幹部と兵士はみな喜び、首謀者藤田を捕まえる決意を固めた。友好的な日本住民から得た情報を手がかりに、藤田が身を隠しそうな日本人住宅街を包囲し、戸別に家宅捜査した。九軒つづきの長屋に行くと、屋内におびえた5人の女が固まっていた。中隊の通訳をしている金基善同志が
「きみたちの夫はどこへ行ったか」と日本語で訊ねると、中年の一人が
「お許し下さい。さっぱり判らないのです。夕べ出て行ったきりまだ戻りません」と気ぜわしげに答えた。
「怖がらなくてもいい。藤田さえ差し出してもらえればいい」と高中隊長。
「いません、ここには藤田さんはいません」と、一人がごまかそうとする。
「もし、いたらどうする」と高が語気を強めて言うと、女は身震いしながら顔を伏せて答えた。
「ここの天井の裏は仕切がないので、ほかの家でかくまったかどうかまでは知りません」
 高中隊長は兵士に捜索を命じたが、家捜ししても一人も見つからない。隣の部屋に移ろうとした時、金基善が押入れで音がしたのを聞きつけた。とっさに押入れに二発撃ったが反応がない。いぶかって押入れの襖を開けると、上の天井に通気口があってオーバーらしき裾がはみ出している。高はそれに向かって、日本語で「おとなしくしろ、さもないと撃つぞ」と叫んだ。するとオーバーにくるまって男がどすんと落ちてきた。「誰だ」と詰問すると、体を震わせ、「藤田です」と答えた。
 高は不審に思って眺めた。男は中くらいの背丈で、年も三十七、八だ。李万成大隊長が言った藤田の特徴とあわないのである。藤田は五十がらみで、背が低く、目が小さく、唇が厚く、禿頭で、黒髪の典型的な日本ファシストだと、李大隊長は言ったはずだ。「いや、おまえは藤田じゃない。上にまだ誰かいるはずだ」「いません、自分だけです」高はもちろん騙されはしない。通信班長に目配せし、「機関銃を天井に向けろ!」と大声でどなってみせた。すると、すぐ天井裏から「撃たないでくれ、皆、すぐ降りる」とうわずった声がした。それから次々に降りてきた。名前をただすと、近藤晴雄、小向利一、井上、長谷川、藤田武雄、阿布元、柴田朝子、佐々木絹江(阿部元の愛人)、小林、鈴木、松本、河野ら29人である。しかし、藤田実彦と名乗り出た者は一人もいなかった。高中隊長はこれらを縛って、朝鮮義勇軍南満支隊司令部に連行させた。取調べの結果、27番目に降りてきた藤田一雄と名乗る男が首謀者の藤田実彦だと判明した。こうして数々の罪悪を犯した日本戦犯、暴動のナンバー・ツーの藤田実彦大佐はついに人民の法網にかかった。国民党遼寧省党部と奉天の日本特務工作組織が通化に送りこんだ連絡員の近藤晴雄も逃れられなかった。

 逃げのびた柴田ら30余人は、2月3日、山上に身を隠したが、飢えと寒さに耐えられず、7人一組となり、その夜のうちに奉天、安東(今の丹東)、朝鮮方面へ逃亡しようとした。佐山ら5人を連れて柴田大尉は山中の百姓家で身なりを換え、夕食をとった。その後、佐山だけを連れて、夜通し撫順方面をめざして逃げた。そして、通化県境の快大茂子にさしかかったところで捜索隊に見つかり、追撃され、野菜を入れる穴蔵に潜んでいるところを捕まった。
 また、松倉十一(薬剤主任、大尉)藍田正箭箭(外科主任、中尉)、平井敏雄(内科主任、中尉)、紺田節美(医務主任、少尉、女)、松淵正(医務、准尉)、平賀茂松(会計曹長)、藤本浅夫(看護長)、の7人は安東へ逃亡しようとしたが、輯安境内に迷い込み、すぐ捉えられて通化に護送された。

 国民党側では通化県党部の暴動の副総指揮、政治部長の劉亦天、総指揮部のナンバー・スリーで政治部保安処長の姜基隆と軍法処長の劉滌新、周洪漢、軍事部副部長の遅文玉および張璽魁、遅金鐸らは瀋陽に逃れた。国民党三青団地下工作団団長邵裕国、陳丕亜ら13人は逮捕された。

 捜索に際して、わが軍は兵士と幹部は東北局の指示を厳しく守り、現場で抵抗した者を除いてすべて生け捕る方針を貫いた。2月3日から5日にかけて逃亡者1000余人を逮捕した。うち国民党匪賊は100人余にのぼった。わが方に死傷者はまったくなかった。
 藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した。
 暴動とそれへの反撃。敵は惨めな敗北をこうむり、わが党、政府、軍、人民は輝かしい戦果をあげた。事後の統計によると、暴動への参加者は計12300余人で、うち現場での死者千百余人である。最初の処刑者は、国民党の暴動首謀者孫耕暁以下20余人、ついで悪らつな内通者と内海勲暗殺事件の前後に逮捕した戦争犯罪人など100余人を処刑した。捕虜は3000余人で、うち国民党暴徒は130余人である。暴動平定後に藤田実彦、近藤晴雄、阿布元、小向、柴田、赤川、新倉、小林ら首謀各を20余人逮捕した。これらの人間はあいついで審判に付された。残党は瓦解潰滅し、またある者は逃走した。

 敵方特務情報ステーション(暗号401)は、秘密無線で2月28日に国民党遼寧省党本部に対し、「二、三事件において、戦死したり捕虜になった者は、孫耕暁、藤田以下1800余名、うち日本軍1000余名が射殺された」と報告している。参考までに記しておく。押収した武器は軽機関銃五丁、歩兵銃500余丁、拳銃100丁のほか、手榴弾、日本刀、あいくち、斧、棍棒など多数である。軍需物資や金銭については統計がない。

 わが方の戦闘参加者は、党、政府、軍の幹部と兵士が計500人余、労働者自衛隊や民衆で自発的に反撃戦に参加した者約1000余人である。敵味方の比率が1対10と大きくかけ離れているなかで、わが党、政府、軍政の幹部と兵士は勇敢に戦った。わが方の犠牲者は幹部、兵士含め、わずかに26人であった。彼らは、通化人民のために貴い生命を捧げた。

五、結末 
 (1)戒厳令解除、勝利を祝う
 ・・・
 『通化日報』は「国民党特務が日本人戦犯と結託して起こした反乱の真相」と題して、上述の談話全文を掲載した」。
 [インタビュー抄録]
問 呉政治委員の話では、今回の暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っているが、これはどうしてですか?
答 抗日戦8年来、国民党は一貫して日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党を叩いたり抱き込んだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた。捕虜になった日本人の供述によると、国民党は日本人の間でおおげさに吹聴していたようだ。中央軍がもう山海関を出て、瀋陽へ向かっている破竹の勢いで進んでいる。二日夜には四万の大軍が通化暴動に呼応し、夜明けには瀋陽から百機飛来して通化を爆撃する。二道江には機関銃二万丁があって装備できる。通化政府と駐屯軍には内通者がいて、銃声があがればすぐに行動に移って通化駐屯軍がすぐに消滅できる。そうすれば中日連合政府が樹立でき、通化にいる日本人は解放され安全に帰国できる、とかいった具合いにである。しかし、戦闘が始まると、いたるところで、出鼻をくじかれ内通者の応援が得られないばかりか、各所で真っ向から痛撃をこうむった。国民党特務分子は、みなこそこそ逃げ出してしまった。だから、これらの日本人は「良心のくさった国民党がたくさんいる」と憤慨している。今度の暴動では国民党特務に騙された、と彼らは感じている。

(2) 烈士を追悼、功労者を表彰 ・・・略

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