真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ポツダム宣言発表前の原爆投下命令

2013年10月16日 | 国際・政治

 日本の降伏にかかわるポツダム宣言の発表は1945年7月26日であった。ところが、下記の2つの文書で明らかなように、その前日の7月25日に原爆投下命令が下されている。俄には信じがたいこの公式文書は「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)に紹介されている。
 日本のポツダム宣言拒否が原爆投下につながったという理解が誤りであるとすれば、歴史は書き直される必要があると思う。

 当時のアメリカ大統領トルーマンはチャーチルやスターリンの要請を巧に退け、ポツダム会談を、原爆実験の結果が判明する時期まで、意図的に延ばした。そして、原爆の実験が成功し、投下の準備が整うと態度を一変させたという。トルーマン大統領は、ポツダム宣言発表直前に調印国からソ連を外し、強引に、ポツダム会談には参加していなかった中国(蒋介石政権)を加えた。また、草案にあった天皇の地位保全の条項を宣言からは削除している。さらに、原爆投下前に、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告するべきだという科学者等の進言も受け入れなかったし、ソ連の参戦についても何も触れなかった。当時、日本はすでに降伏に動いており、アメリカの日本本土上陸作戦の予定は、かなり後の1945年11月1日であった。にもかかわらず、ソ連の参戦直前に突然原爆を投下したのである。なぜなのか。

 それらを考え合わせると、アメリカ大統領トルーマンが
「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」という意図を持って動いていたという主張が、間違ってはいないように思う。トルーマン大統領を中心とする一部のアメリカ首脳部にとっては、「日本の降伏」ではなく、効果的な「原爆の投下」こそが課題であったということである。下記は、そうした意味で、世界中の歴史教科書の書き直しをせまる重要文書であると思う。

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              第2章 ケイト教授からの質問状

ケイト教授からの質問状

 1952年(昭和27年)の初冬、12月6日。
 アメリカの首都ワシントンにある大統領官邸、ホワイトハウスに一通の手紙が届いた。中西部の大都市、シカゴにある名門シカゴ大学歴史学部の封筒に入っている。差出人は同学部のジェームズ・L・ケイト教授、宛名は「ハリー・トルーマンン大統領閣下」となっていた。
 もともと西洋中世史が専門ながら、その後戦史研究の道に転じたケイト教授は、この手紙の中で広島・長崎への史上初の原爆投下命令が出された正確な日時と状況を、アメリカ合衆国大統領に尋ねていた。とりわけ、この命令と、ポツダム宣言に対する日本政府の拒否──いわゆる「黙殺」──との正確な前後関係について戦争終盤の米国の最高責任者であったトルーマンから直接の”証言”を得たいと望んでいた。

 いうまでもないが、これは2つの事実の時間的な前後関係を確認するだけの意味合いではない。日本政府のポツダム宣言拒否という”事態を受けて”(以下の手紙の中で、ケイト教授はこれを”inthe face of〔事態に直面して〕”とわざわざ括弧を付けて強調している)、アメリカ政府最高責任者による日本への原爆投下が初めて決断されたのかどうかの因果関係を知りたいと望んでいるのである。


 その意味でこの手紙は、一民間学者からの学問的照会ではなかった。手紙を受け取った側のトルーマンンにとっても、合衆国元首であり、かつは憲法上の三軍最高司令官として、自分がとった歴史的決定の根拠を後世に示す絶好の機会であった。

 ケイト教授はこのとき、多忙な大統領の日程を長い手紙で邪魔することを丁重に詫びているが、そんな必要は実はほとんどなかった。
 というのも、トルーマン大統領は、45年4月から続いた7年9か月もの長い任期をあと1か月と2週間で終え、故郷のミズリー州インディペンデンスへ帰る日を心待ちにしていたからである。官邸のスタッフたちも、このころ政権最後のクリスマスの飾り付けに余念がなかった。


責任のタライ回しを止める ・・・略

てんやわんやのホワイトハウス ・・・略

「黙殺」と原爆の前後関係

 ケイト教授の手紙と、ホワイトハウスのあたふたとした対応を示す内部メモ、大統領の返書の草案、スタッフの入れ知恵で修正された最終回答などは今日、ミズリー州インディペンデンス市のトルーマンン記念図書館で、大統領秘書所蔵のファイルの一部として公開されている。大統領スタッフによると思われる書き込みや横線も入った手紙の写真も残っている。

 まずは騒ぎの発端となったケイト教授の質問状の全文からご紹介しよう。マル括弧の中は、日時や指名を明確にするために筆者が挿入した(以下同じ)。原注の場合はそう断っておいた。
 念を押す必要もないと思われるが、トルーマン記念図書館を含む全米9か所(フランクリン・ローズベルトからレーガンまでの各大統領の名を冠している)の大統領記念図書館の文書や資料は、国立公文書館(NARA)の管轄下にあり、すべて米政府の公式文書の扱いを受けている。


大統領閣下
ワシントンDC                            シカゴ大学  
                                     イリノイ州シカゴ市37
                                     歴史学部   
                                     東59丁目1126番地
謹啓
 この数年間というもの、『第2次世界大戦における陸軍航空隊』の編集者および執筆者の一人として奉職することは、私に与えられた特権でした。この本は、米空軍とシカゴ大学が共同スポンサーとなって、非営利を原則に公刊されている歴史書です。現在はこの第5巻の刊行作業中で、この巻での私の仕事は広島、長崎に対する原爆攻撃の説明を書くことにあります。原爆を使用するとの決定に関して、私は証拠の食い違いと思われるものに直面しており、これを解決することが私にはできません。そこで、大統領閣下の時間に食い込むのは、気乗りしないのですが、(この問題の)最良かつ恐らくは唯一の権威である閣下に情報をいただくようお願いする次第です。


 閣下ご自身が出された声明──1945年8月6日(の広島原爆投下直後)にだされたものと、1946年12月16日付でカール・T・コンプトン博士に出され、1947年2月号のアトランティック・マンスリー誌に掲載された手紙──を、私は非常な関心を持って読みました。また、故スティムソン(終戦時の陸軍長官)が、さらに詳しく説明し、1947年2月号のハーバーズ誌に掲載された論文も読みましたが、これも閣下の声明に完全に一致しています。こちらの要旨はこうでした。閣下が勇気を持って責任を遂行されたあの恐るべき(原爆投下の)決断は、(1945年)7月26日のポツダム宣言に盛られた警告を、鈴木首相が拒否したのを”受けて”ポツダムで下されたものであること、その(原爆使用の)動機は、(1945年)11月に予定されていた九州進攻作戦に伴うはずの大量の人命の損失を避けるためであること、がそれです。最近になって私は、予定された4つの(原爆投下)目標のうちのひとつに対し、最初の原爆を投下するよう、カール・スパーツ陸軍大将(原爆投下作戦を担当する陸軍戦略航空隊司令官)に命じた命令書の写真コピーを目にしました。この指令書は機密を解除されているので、(コピーを)同封しておきます。命令書は、1945年7月25日の日付でワシントンで出されたもので、マーシャル陸軍参謀総長のポツダム出張中、参謀総長代理をつとめたトマス・T・ハンディ陸軍大将(参謀次長)のサインがあります。アーノルド将軍(戦時中の陸軍航空隊総司令官、元帥)が別のところで述べているところによると(原注、H・A・アーノルド『グローバル・ミッション』589ページ、1949年ハーバー社刊)、この指令は、(1945年)7月22日に、アーノルド自身とスティムソン陸軍長官、それにマーシャル元帥が協議したのち、ワシントンに使者を出して送達した覚書に基づいたものとされています。

 この指令は、”1945年8月3日ごろからのち、天候が有視界爆撃を可能とするようになり次第”、(日本への原爆)攻撃を開始するように、との無条件の命令を含んでいます。この翌日(7月26日)に出される予定になっているポツダム宣言への言及はなく、8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合にどうすべきかも述べていません。文書によるこの指令に、口頭による指示という条件が付いていたことは考えられますし、もしも日本がポツダム宣言を受諾した場合は、(原爆投下への)無線のメッセージによって指令を取り消すよう意図されていた可能性もあります。(原爆投下)指令が、スティムソン陸軍長官の意図を誤って伝えたものであったことも考えられます。

 にもかかわらず、この指令自体は、ポツダム宣言の発出の少なくとも1日前、さらには、東京時間では7月28日の鈴木(首相)によるポツダム宣言の拒否の2日前に、原爆を使用することの決定が下されていたことを示唆するように思われます。このような解釈は、公表されているもろもろの(米政府)声明にそれとなく含まれている説明、つまり、(原爆投下の)最終決断は、日本がポツダム宣言を拒否したのちに初めて下されたという説明と真っ向から矛盾します。


 この問題が、とてつもない重要性を帯びていることから、閣下が(原爆投下の)最終決断に到達された日時と状況についてより完全な情報を提供していただくこと、閣下の回答を私が担当する前記の本に引用する許可をいただけるようお願いします。閣下が歴史に関心を抱いておられるのはよく知られており、これに勇気づけられて私は、歴史家がそうであるべきであるように、源泉から情報を求めることにしました。ただ一つのお詫びは、問題を正確に述べようと望むあまり、過度に長くなった手紙をお送りすることで、閣下のご多忙な日程を妨害したことです。
                                ジュームズ・ケイト(署名)
                                中世史担当教授



 ケイト教授の質問状の焦点は、すでに触れたように、ポツダム宣言発表前日の日付を持った原爆投下の命令書が出された状況である。教授の質問状をよりよく理解するため、問題の命令書の全文を掲げておこう。括弧の中は、筆者の注である。


 米陸軍省
 参謀長局
 ワシントン25 DC
                                     1945年7月25日
 あて名   カール・スパーツ陸軍大将
        米陸軍戦略航空隊司令官
1、第20空軍第509混成群団は、1945年8月3日ころ以降、天候が有視界爆  
  撃を可能にするようになり次第、最初の特殊爆弾(原爆)を、次の目標のうち  
  の一つに投下すること。広島、小倉、新潟、長崎。爆弾の爆発効果を観測、記 
  録すべく、陸軍省から武官および文官の科学担当者を搭乗させるため、(原  
  子)爆弾搭載機には別の飛行機一機を随伴させること。観測にあたる飛行機 
  (複数)は、爆発点 から数マイル(1マイル約1.6キロ)の距離を置くこと。


2、(原爆開発のマンハッタン)計画のスタッフによって、準備が完了次第、追加
  の(原子)爆弾(複数)を、前記の目標に投下すること。以上のリスト以外の目 
  標(複数)に関しては、追って指示する。

3、日本に対する(原子)兵器の使用について、いかなるものかを問わず、すべて
  の情報 の公表は(スティムソン)陸軍長官と、(トルーマンン)アメリカ合衆国大
  統領の手に留保される。具体的な事前の承認のない限り、現地司令官(複数)
  らによるこの件についてのコミュニケや情報の公表はおこなわないものとする。
  どのような(報道)記事であっても、特別の許可を得るため、陸軍省に送付のこ
  と。


4、以上の指令は、陸軍長官と(マーシャル)参謀総長の命により、かつその承認
  のもとに、貴官に出されたものである。貴官がこの指令の写し各一部を(西南
  太平洋軍総司令官の)マッカーサー陸軍元帥と、(米太平洋艦隊司令長官の)
  ニミッツ海軍元帥に対し、情報として自身で手交されるのが望ましい。

                                トマス・ハンディ(署名)
                                陸軍大将、陸軍参謀総長局
                                陸軍参謀総長代理

 この有名なハンディ参謀総長代理の命令書の日付は、7月25日とタイプされているが、トルーマンンは、回顧録の中で、これを7月24日の指令と書いている。実際にはハンディが24日に書いて同日中に、「25日発効」としてスパーツ将軍に手渡したと伝えられているが、米政府の文書では「7月25日」で統一されている。

 ・・・以下略


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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投下命令 (rumichan)
2018-10-30 23:39:23
引用開始
 この指令は、”1945年8月3日ごろからのち、天候が有視界爆撃を可能とするようになり次第”、(日本への原爆)攻撃を開始するように、との無条件の命令を含んでいます。この翌日(7月26日)に出される予定になっているポツダム宣言への言及はなく、8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合にどうすべきかも述べていません。文書によるこの指令に、口頭による指示という条件が付いていたことは考えられますし、もしも日本がポツダム宣言を受諾した場合は、(原爆投下への)無線のメッセージによって指令を取り消すよう意図されていた可能性もあります。(原爆投下)指令が、スティムソン陸軍長官の意図を誤って伝えたものであったことも考えられます。


https://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/2d311f4dc8731afe3197f83d709573a3
から引用
 1945年7月25日に原爆投下命令が発せられた後、ポツダム滞在中のトルーマンン大統領から、ワシントンのスティムソン陸軍長官に対し、8月2日以降の原爆投下とその大統領声明発表承認のメモが届く。それを受けて、それまで実物を模したパンプキン爆弾で訓練を続けていた陸軍第509混成群団を率いるポール・W・ティベッツ(Paul・W・Tibbets)のもとに、ルメイ将軍の署名の入った原爆投下命令書が届く。8月3日である。
--------------------------------------
実行部隊に対して、8月3日にカーチス・ルメイの正式命令が下された.

7月25日にトルーマンが投下命令を出したからと言って、8月3日以降に必ず投下されたわけではありません.
トルーマンの命令によって、投下に向けた準備が進められることになっただけで、実際に投下する決定、正式な投下命令が下されたのは8月3日であり、トルーマンがポツダムから戻り、かつ、日本がポツダム宣言拒否を表明してから行われることになったと考えられます.

今一度引用
『8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合にどうすべきかも述べていません。』
何故、こんなことを言い出すのか理解に苦しみます.こんなことは何の意味もありません.
『8月3日以前に日本が降伏を申し出た場合』は、『ルメイ将軍の署名の入った原爆投下命令書』は、出されなかった、それだけの話です.
返信する
そうでしょうか? (syasya61)
2018-10-31 10:49:48
umichan様

 コメントありがとうございます。

 これは、日本政府の”ポツダム宣言拒否”という事態を受けて、アメリカ政府最高責任者による日本への原爆投下が決断されたのかどうか、という因果関係の問題であり、日本の降伏にかかわる、ポツダム宣言発表(1945年7月26日)の前日(7月25日)に原爆投下命令が下されていることと関連して、下記のようなことが問題なっています。

 当時のアメリカ大統領トルーマンは、ポツダム会談をせかすチャーチルやスターリンの要請を退け、原爆実験の結果が判明する時期まで会談を延ばしました。そして、ポツダム宣言の調印国からソ連を外し、強引に、ポツダム会談には参加していなかった中国(蒋介石政権)を加えました。
 また、日本が判断に迷うことがわかっているのに、草案にあった天皇の地位保全の条項を宣言からは削除しています。さらに、原爆投下前に原爆保有の事実とその破壊力について、きちんと日本に通告するべきだという科学者等の進言も受け入れませんでした。ソ連の参戦についても、意図的ではないかと思われるのですが、何も触れませんでした。当時、日本はすでに降伏に動いていたことを、アメリカは把握していたといいます。そして、アメリカの日本本土上陸作戦の予定は1945年11月1日であったというのです。にもかかわらず、ソ連の参戦直前に、突然原爆を投下したのはなぜなのか。

 大戦後の米ソ冷戦を頭に置いて、総合的に判断すると、「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」と考えざるを得ないのではないでしょうか。「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」仲晃(日本放送出版協会・NHK-BOOKS-891)の指摘が誤りであるということであれば、こうしたことをどのように考えるのか、教えていただければ幸いです。
返信する
攻撃中止 (rumichan)
2018-10-31 23:34:15
1941年11月26日、日本の艦隊は真珠湾攻撃に出撃した.
このように書くと、日本の艦隊は攻撃命令を受けて出撃し、この時点で真珠湾攻撃が確定していたように思われるが、本当の攻撃命令は『ニイタカヤマノボレ』である.
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『ウィキペディア(Wikipedia)』
司令長官の山本五十六大将は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。
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艦長『出しかけたションベンを、途中で止めて帰ってくるのか』
山本『そうだ』
と言う、有名なやり取りがありました.

東京裁判で、アメリカの検事が『日本の艦隊は11月16日に真珠湾攻撃に出撃した』と指摘して、この時点で真珠湾攻撃が確定していたかのように指摘しました.けれども、確かに攻撃するために出撃をしたが、絶対に攻撃すると確定していたのではありませんでした.

真珠湾攻撃では、12月8日以降に真珠湾を攻撃できるように、日本の艦隊は11月26日に占冠湾を出撃する命令を下した.
トルーマン原爆投下命令も同じで、8月3日以降に原爆投下を出来るように、7月25日に原爆投下命令を下した.
真珠湾攻撃は『ニイタカヤマノボレ』の指令によって実行され、原爆投下はルメイの搭乗員に対する命令書によって実行された.

私は、トルーマンもしくは当時のアメリカの政府、軍部の首脳が、日本に原爆を投下したかった事を否定するつもりはありません.
単に、7月25日の投下命令が、日本への原爆投下を決定した訳ではなく、日本のポツダム宣言拒否後の8月3日、搭乗員に対するルメイの命令書によって決定し行われた、と言いたいだけです.
もう一度書けば、真珠湾攻撃は『ニイタカヤマノボレ』で決定し、実行されたのです.

『投下命令をポツダム宣言以前に下したのだから、日本がポツダム宣言を受諾しても、原爆を投下するつもりだった』と言うのは、こじつけもいいところで、東京裁判でのアメリカの検事のように『11月26日に出撃したのだから、この時点で攻撃が決定していた=太平洋戦争開戦が決定していた』と言い張るのと同じです.

日本のポツダム宣言(条件付き)受諾表明のニュースは確か8月11日伝わっていて、11日に爆撃に出撃したB29の搭乗員が、『途中で中止の命令が来るのではないかと無線に注意していたが、中止命令は来なかった』と書いていました.
ポツダム宣言以前に投下命令を下したにしても、日本がポツダム宣言を受諾したら、中止命令を出すだけのことです.

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話は違いますが、
アウシュビッツの犠牲者の数が600万人から、確120万人程度に修正されました.
あれやこれやと無理矢理こじつけるような考え方は、止めるべきだと思います.
返信する
再びコメントありがとうございます (syasya61)
2018-11-01 10:02:37
rumichan様

問題は
"日本がポツダム宣言を受諾したら、中止命令を出すだけのことです."
というような簡単なことではなく、投下命令が出て、軍の原爆投下行動が始まり、投下の準備が整うまで、日本がポツダム宣言を受諾しないようにあらゆる工作をした、ということが問題なのではありませんか。
 軍命令が一旦発せられたら、中止命令がない限り、実行することが前提だと思いますが、原爆投下の場合は、まだ実際に投下できる準備が整っていなかったので、トルーマンンは、ポツダムいる時も関係者と連絡を取り合ってチャンスをうかがっていたのだと思います。原爆投下の準備が整う前に、日本が降伏してしまえば、投下のチャンスが失われるので、何とか日本が降伏をためらうような工作をしたということです。すべては、投下を前提に進められたということです。
 そして、ソ連が参戦する前に投下するという、絶妙のチャンスを逃さなかったということなのです。
 アメリカはきちんと外交ルートを通じて、日本に降伏をせまらず、伝単を撒いたということも知っておくべきことではないかと思いますが…。
返信する
戦争とラジオ (rumichan)
2018-11-01 23:40:02
『戦争とラジオ』
ポツダム宣言の通告が正式な外交ルートで行われず、宣伝放送で行われたことに対して、『日本を馬鹿にしている行為』、『誠意のない行為だ』と批判し、アメリカは日本に原爆を投下したかったので、ポツダム宣言の受諾を望んでいなかった証拠だと主張している方がいました.
本当にそうなのか?

ポツダム宣言は、大きく分けて二つのルートで日本に伝わりました.
1.アメリカ、その他の宣伝放送
2.ポツダム記者会見による発表->海外の新聞等->スイス、スウェーデンの大使館->日本の外務省

日本の軍部は1.の方法でポツダム宣言を受信し、自分たちで内容を翻訳しました.
日本の政府は2.の方法で得た宣言文を、自分たちの都合のよいように編集(改竄)して発表しました.

外交ルートを通じる方法と、ラジオ放送とどちらが正確に情報が伝わるのか?
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当時の日本では、電話による通信網は爆撃によって破壊されているか、あるいは何時破壊されるか分らないので、警察、官庁の業務連絡は、時間を決めてNHKのラジオ放送をによって行っていました.
ラジオ放送は、情報を確実に伝達する、重要な手段だったのです.
返信する

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