1945年7月25日に原爆投下命令が発せられた後、ポツダム滞在中のトルーマンン大統領から、ワシントンのスティムソン陸軍長官に対し、8月2日以降の原爆投下とその大統領声明発表承認のメモが届く。それを受けて、それまで実物を模したパンプキン爆弾で訓練を続けていた陸軍第509混成群団を率いるポール・W・ティベッツ(Paul・W・Tibbets)のもとに、ルメイ将軍の署名の入った原爆投下命令書が届く。8月3日である。下記はその命令に関わる「特殊爆弾(原爆)任務13号」である。ティベッツに出されていたそれまでの12回の指令は投下テストであったが、この13号が実戦指令である。
ティベッツは、1944年9月にコロラド・スプリングスで、P・D・エント第2航空軍司令官から、原爆投下の特殊任務について指示をうけたという。エント司令官は、ネブラスカ州の基地の1箇戦隊のB-29を提供し、それを中核にして「君が思うとおりの組織を作り上げるとよい」と指示したという。それを受けて、ティベッツはウェンドーヴァー空軍基地で、機密保持に気をつかいながら、20機(当初は15機) のB-29を利用して、彼が選んだ優秀な戦闘搭乗員と訓練に取り組んだのである。国内訓練終了後は、ティニアンに移動して、攻撃を有効にするためレーダーを補助手段とした、目視攻撃の訓練を続けたという。そして、日本本土に対する特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)が年7月20日からパンプキン爆弾を利用して行われたのである。
訓練で使われたパンプキン爆弾は、長崎原爆ファットマンと、形も、大きさも、重量も同じ特性の大型の火薬爆弾で、本物の原爆投下をシミュレートするために、ティベッツの要求によって作られたという。その形と橙黄色の塗装からパンプキンと呼ばれたのであるが、模擬爆弾とはいっても、それまで使われていた最大の規格爆弾、2トン爆弾の倍以上もある5トンの爆弾であり、その破壊力は大きく、恐るべき被害をもたらしたようである。
特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)で、総計49発のパンプキン爆弾が日本本土に投下され、その間に、下記8月6日のSBMNo13 で広島に、9日のSBM No16 で長崎に本物の原爆が投下されたというわけである。因みに広島に投下された原爆はリトルボ-イいうコードネームのウラニウム型原爆で、TNT火薬換算15キロトン相当という。8月6日、エノラ・ゲイと名づけられたB-29爆撃機の機長として、広島に原爆を投下したのは、エント司令官から特殊任務を指示されたティベッツ自身であった。
9日のSBM No16 では、第1目標が「小倉造兵廠および市街地」となっている。しかしながら、原子爆弾は長崎に投下された。その理由は2つある。その一つはよく知られている気象条件である。目視攻撃が難しかったのである。当初、目視攻撃ができないときは、爆弾を持ち帰ることになっていたという。しかしながら、飛行機に問題が発生したことがもう一つの理由である。タンクから燃料を送ることができず、マリアナに帰ることが難しい状況にあったのである。爆発可能な兵器を積んで沖縄などに着陸することは考えられなかったということである。長崎に投下された原爆はファットマンというコードネームのプルトニウム型原爆で、TNT換算およそ22キロトン、投下したB-29爆撃機ボックスカーの機長はチャールズ・スウィーニー少佐であった。
米軍が小倉や長崎に、アメリカ兵などが入っている捕虜収容所があることをつかんでいたという事実には考えさせられる。長崎の収容所には、およそ2,000名の捕虜が入っていると見積もっていた。報告によっては、シンガポールから送られた30,000名のイギリス軍の捕虜がいるというものもあったという。しかしながら、陸軍省と連絡を交わした結果、「収容所の存在は、目標の選定を左右する要件ではない」と確認されたのである。
下記は、「米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで」奥住喜重・工藤洋三訳(東方出版)から、その「特殊爆弾(原爆)任務13号」の部分を抜粋したものであるが、この「作戦計画の要約」は、「原爆投下報告書」を作成するために、第20航空軍の求めに応じて、第509混成群団が用意したものではないかという。
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資料G
第509混成群団、作戦計画の要約
報告8
第509混成群団
作戦計画の要約
野戦命令:13号
特殊爆撃任務〔SMB〕:13
任務実行:1945年8月6日
1、第509混成群団の第1目的
1945年6月初め、当司令部は、1945年8月6日に敵に対して1発の原子爆弾が使用可能になろうという報告を受けた。1945年8月5日までに、世界史上最初の原子爆弾攻撃始めるための万端の準備ができた。爆弾の用意もでき、天気も申し分なく、厳選された搭乗員は十分に訓練を受けていた。
2、攻撃のために選んだ目標
A、第1目標:90.30 広島市街地工業地帯
照準点 063096
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図広島地区
No.90.30-市街地
B、第2目標:90.34 小倉造兵廠および市街地
照準点 104082
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図小倉造兵廠
No.90.34-168
C、第3目標:No.90.36-長崎市街地
照準点:114061
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図長崎地区
三菱製鋼および兵器工場、No.90.36ー546
気象観測機が、攻撃時の気象予報を攻撃機に中継するために、全ての目標に派遣された。しかし、他の2つの指定目標よりも、できるだけ第1目標を攻撃することが望ましかったので、攻撃機に対しては、第1目標を目視攻撃する機会を逃さないために、気象観測機の連絡に関係なく、攻撃機自身が第1目標に充分接近してみるように、指示が与えられた。ただし、その点検のあとは、攻撃機は気象観測機の指示次第で、第2目標または第3目標のどちらに向かってもよいとされた。
この爆弾は極めて広範囲の平均有効面積〔Mean Effective Area,MEA〕を有していたが、それは高価なものであり、また、市街地目標の重要な地区は極めて集中していたから、攻撃を有効にするためには、目視攻撃をすることが大切であった。レーダーは補助手段として使うものとし、もしも目標上空で目視してみて、ノルデン爆撃照準機が使えない場合には、搭乗員は爆弾を基地に持ち帰ることになっていた。搭乗員に対して目視作戦ができる余分の機会を与えるためには、第1目標に加えて、2つの目標が割り当てられたのである。
[訳注.次の1段は切り抜かれて、機密解除から外され、後になって解除された。]
3、目標選定の理由
原子爆弾攻撃のために取り分けてあった4都市の中で、新潟はこの種の攻撃のためには配置があまりにも貧弱である──工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れている理由から除外された。他の3都市のうち、長崎は配置が最も貧弱であり、しかも近くに捕虜収容所があった。(息子たちが、捕虜収容所にいて帰ってこなかった母親たちにとって、刺激的[Sensitive]である)それでこれは第3目標になった。他の2つ、広島と小倉は、配置がよく、比較的重要であった。しかし、小倉には捕虜収容所があり、一方広島にはわれわれの知る限りそれがなかった。それで広島が第1目標となったのである。
目標そのものに関して言えば、広島は工業目標として極めて重要であった。この攻撃に先立って、広島は日本本土内でBー29の焼夷攻撃にやられずに残っているものでは、(京都を除いて)最大の都市に挙げられた。この都市の人口は1940年に344,000人であった。
広島は陸軍の──第5師団の司令部と第1級の乗船港がある。市の北東部と東部は全体が軍用地である。市の北部中心部分で目立つのは陸軍の司令部地区であり、広島城、多数の兵舎、軍政上の建物、兵器庫がある。そのほかには以下のような軍事目標がある:
A、陸軍の新兵収容所
B、大きな軍用飛行場
C、陸軍兵器廠
D、陸軍被服廠
E、陸軍糧秣廠
F、大きな港とドック地域
G、いくつかの船舶修理と造船の会社
H、日本製鋼会社
I、鉄道操車場
J、多くの航空機部品の工場
広島が無傷であったことがそれを理想的な目標とした。このことは、原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデータによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径7,500フィート[約2,3km]と信じられた。市の中心に照準点を置くことにより、予測される被害の円は南部のドック地域を除く広島のほとんど全域を覆った。
4、弾薬
1発の原子爆弾
5、航法上の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 6 1節をみよ)
6、爆撃手の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 6 2節をみよ)
7、レーダー計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 7 3節をみよ)
8、航空機関士の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 7 4節をみよ)
9、レーダー対策 [R.C.M.]
なし
10、戦闘機による援護
なし
11、空海救助
通常この活動は航空団司令部によって手配される。しかしこの作戦が重要なものであるため、この任務に関しては第20航空軍司令部が手配した。いかなる不運な出来事も、すべての目撃者[参加者]の安全な帰還を妨げないように、完全な空海救助の便宜を与えるよう、あらゆる注意が払われた。
12、攻撃兵力
3機 ─ 1機は爆撃、2機は観測
13、特別に計画した作戦行動
A、全ての味方機の攻撃との混乱を避けるため、攻撃時に先立つ4時間の間は目標地区から少なくても50マイル[80.5km]だけ離れているように指示された。爆発の真上の空域におけるほとんど無限大量の放射能から味方機を守るために、味方機は攻撃後6時間のあいだは50マイル以内に入ることを禁じられた。爆発後の写真を撮影する機は、特別な命令を受けていたから、攻撃の4時間後に地域に入ることを許された。
B、爆撃担当機に失敗があった場合にも、計画された日に攻撃が実行できるように、予備の攻撃機が1機硫黄島に待機した。そこには、原子爆弾を積み降したり積み直したりするためのピットも用意してあった。
C、天候:それぞれの目標に1機ずつ、3機の気象観測機が、それぞれに割り当てられた目標から、06845K[060745J]から060915[060815J]までの間に、攻撃時の気象予報を中継放送できるような時刻に発進することになった。これによって攻撃機は、第1目標が雲に覆われていることが判ったときにも、第2か第3のどちらかの目標が選べるはずであった。それぞれの気象観測機には、第313航空団が提供した気象観測者が乗り込んだ。
D、攻撃後の写真: 第509群団の指揮官は、2機のFー13機に指示を与え発進させる責任を負う。これらの機は、投弾から4時間たたないうちは目標地域に入ることができない。攻撃部隊が硫黄島の予備機を使わなければならなかったか否かにかかわりなく、この予定が確実に守られるために、写真撮影機は硫黄島を通過するときに、ティニアンと硫黄島の両地上局に連絡をとって許可を得ることにした。もしも、これらの写真撮影機が、どの目標が爆撃されたか通知を受けなかった場合には、撮影機は3つの目標全部の写真をとることにした。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
ティベッツは、1944年9月にコロラド・スプリングスで、P・D・エント第2航空軍司令官から、原爆投下の特殊任務について指示をうけたという。エント司令官は、ネブラスカ州の基地の1箇戦隊のB-29を提供し、それを中核にして「君が思うとおりの組織を作り上げるとよい」と指示したという。それを受けて、ティベッツはウェンドーヴァー空軍基地で、機密保持に気をつかいながら、20機(当初は15機) のB-29を利用して、彼が選んだ優秀な戦闘搭乗員と訓練に取り組んだのである。国内訓練終了後は、ティニアンに移動して、攻撃を有効にするためレーダーを補助手段とした、目視攻撃の訓練を続けたという。そして、日本本土に対する特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)が年7月20日からパンプキン爆弾を利用して行われたのである。
訓練で使われたパンプキン爆弾は、長崎原爆ファットマンと、形も、大きさも、重量も同じ特性の大型の火薬爆弾で、本物の原爆投下をシミュレートするために、ティベッツの要求によって作られたという。その形と橙黄色の塗装からパンプキンと呼ばれたのであるが、模擬爆弾とはいっても、それまで使われていた最大の規格爆弾、2トン爆弾の倍以上もある5トンの爆弾であり、その破壊力は大きく、恐るべき被害をもたらしたようである。
特殊爆撃任務(Special Bombing Mission.SBM)で、総計49発のパンプキン爆弾が日本本土に投下され、その間に、下記8月6日のSBMNo13 で広島に、9日のSBM No16 で長崎に本物の原爆が投下されたというわけである。因みに広島に投下された原爆はリトルボ-イいうコードネームのウラニウム型原爆で、TNT火薬換算15キロトン相当という。8月6日、エノラ・ゲイと名づけられたB-29爆撃機の機長として、広島に原爆を投下したのは、エント司令官から特殊任務を指示されたティベッツ自身であった。
9日のSBM No16 では、第1目標が「小倉造兵廠および市街地」となっている。しかしながら、原子爆弾は長崎に投下された。その理由は2つある。その一つはよく知られている気象条件である。目視攻撃が難しかったのである。当初、目視攻撃ができないときは、爆弾を持ち帰ることになっていたという。しかしながら、飛行機に問題が発生したことがもう一つの理由である。タンクから燃料を送ることができず、マリアナに帰ることが難しい状況にあったのである。爆発可能な兵器を積んで沖縄などに着陸することは考えられなかったということである。長崎に投下された原爆はファットマンというコードネームのプルトニウム型原爆で、TNT換算およそ22キロトン、投下したB-29爆撃機ボックスカーの機長はチャールズ・スウィーニー少佐であった。
米軍が小倉や長崎に、アメリカ兵などが入っている捕虜収容所があることをつかんでいたという事実には考えさせられる。長崎の収容所には、およそ2,000名の捕虜が入っていると見積もっていた。報告によっては、シンガポールから送られた30,000名のイギリス軍の捕虜がいるというものもあったという。しかしながら、陸軍省と連絡を交わした結果、「収容所の存在は、目標の選定を左右する要件ではない」と確認されたのである。
下記は、「米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで」奥住喜重・工藤洋三訳(東方出版)から、その「特殊爆弾(原爆)任務13号」の部分を抜粋したものであるが、この「作戦計画の要約」は、「原爆投下報告書」を作成するために、第20航空軍の求めに応じて、第509混成群団が用意したものではないかという。
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資料G
第509混成群団、作戦計画の要約
報告8
第509混成群団
作戦計画の要約
野戦命令:13号
特殊爆撃任務〔SMB〕:13
任務実行:1945年8月6日
1、第509混成群団の第1目的
1945年6月初め、当司令部は、1945年8月6日に敵に対して1発の原子爆弾が使用可能になろうという報告を受けた。1945年8月5日までに、世界史上最初の原子爆弾攻撃始めるための万端の準備ができた。爆弾の用意もでき、天気も申し分なく、厳選された搭乗員は十分に訓練を受けていた。
2、攻撃のために選んだ目標
A、第1目標:90.30 広島市街地工業地帯
照準点 063096
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図広島地区
No.90.30-市街地
B、第2目標:90.34 小倉造兵廠および市街地
照準点 104082
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図小倉造兵廠
No.90.34-168
C、第3目標:No.90.36-長崎市街地
照準点:114061
照準点参照:XXI爆撃機集団石版集成図長崎地区
三菱製鋼および兵器工場、No.90.36ー546
気象観測機が、攻撃時の気象予報を攻撃機に中継するために、全ての目標に派遣された。しかし、他の2つの指定目標よりも、できるだけ第1目標を攻撃することが望ましかったので、攻撃機に対しては、第1目標を目視攻撃する機会を逃さないために、気象観測機の連絡に関係なく、攻撃機自身が第1目標に充分接近してみるように、指示が与えられた。ただし、その点検のあとは、攻撃機は気象観測機の指示次第で、第2目標または第3目標のどちらに向かってもよいとされた。
この爆弾は極めて広範囲の平均有効面積〔Mean Effective Area,MEA〕を有していたが、それは高価なものであり、また、市街地目標の重要な地区は極めて集中していたから、攻撃を有効にするためには、目視攻撃をすることが大切であった。レーダーは補助手段として使うものとし、もしも目標上空で目視してみて、ノルデン爆撃照準機が使えない場合には、搭乗員は爆弾を基地に持ち帰ることになっていた。搭乗員に対して目視作戦ができる余分の機会を与えるためには、第1目標に加えて、2つの目標が割り当てられたのである。
[訳注.次の1段は切り抜かれて、機密解除から外され、後になって解除された。]
3、目標選定の理由
原子爆弾攻撃のために取り分けてあった4都市の中で、新潟はこの種の攻撃のためには配置があまりにも貧弱である──工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れている理由から除外された。他の3都市のうち、長崎は配置が最も貧弱であり、しかも近くに捕虜収容所があった。(息子たちが、捕虜収容所にいて帰ってこなかった母親たちにとって、刺激的[Sensitive]である)それでこれは第3目標になった。他の2つ、広島と小倉は、配置がよく、比較的重要であった。しかし、小倉には捕虜収容所があり、一方広島にはわれわれの知る限りそれがなかった。それで広島が第1目標となったのである。
目標そのものに関して言えば、広島は工業目標として極めて重要であった。この攻撃に先立って、広島は日本本土内でBー29の焼夷攻撃にやられずに残っているものでは、(京都を除いて)最大の都市に挙げられた。この都市の人口は1940年に344,000人であった。
広島は陸軍の──第5師団の司令部と第1級の乗船港がある。市の北東部と東部は全体が軍用地である。市の北部中心部分で目立つのは陸軍の司令部地区であり、広島城、多数の兵舎、軍政上の建物、兵器庫がある。そのほかには以下のような軍事目標がある:
A、陸軍の新兵収容所
B、大きな軍用飛行場
C、陸軍兵器廠
D、陸軍被服廠
E、陸軍糧秣廠
F、大きな港とドック地域
G、いくつかの船舶修理と造船の会社
H、日本製鋼会社
I、鉄道操車場
J、多くの航空機部品の工場
広島が無傷であったことがそれを理想的な目標とした。このことは、原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデータによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径7,500フィート[約2,3km]と信じられた。市の中心に照準点を置くことにより、予測される被害の円は南部のドック地域を除く広島のほとんど全域を覆った。
4、弾薬
1発の原子爆弾
5、航法上の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 6 1節をみよ)
6、爆撃手の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 6 2節をみよ)
7、レーダー計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 7 3節をみよ)
8、航空機関士の計画
(第509混成群団 報告1 PAGE 7 4節をみよ)
9、レーダー対策 [R.C.M.]
なし
10、戦闘機による援護
なし
11、空海救助
通常この活動は航空団司令部によって手配される。しかしこの作戦が重要なものであるため、この任務に関しては第20航空軍司令部が手配した。いかなる不運な出来事も、すべての目撃者[参加者]の安全な帰還を妨げないように、完全な空海救助の便宜を与えるよう、あらゆる注意が払われた。
12、攻撃兵力
3機 ─ 1機は爆撃、2機は観測
13、特別に計画した作戦行動
A、全ての味方機の攻撃との混乱を避けるため、攻撃時に先立つ4時間の間は目標地区から少なくても50マイル[80.5km]だけ離れているように指示された。爆発の真上の空域におけるほとんど無限大量の放射能から味方機を守るために、味方機は攻撃後6時間のあいだは50マイル以内に入ることを禁じられた。爆発後の写真を撮影する機は、特別な命令を受けていたから、攻撃の4時間後に地域に入ることを許された。
B、爆撃担当機に失敗があった場合にも、計画された日に攻撃が実行できるように、予備の攻撃機が1機硫黄島に待機した。そこには、原子爆弾を積み降したり積み直したりするためのピットも用意してあった。
C、天候:それぞれの目標に1機ずつ、3機の気象観測機が、それぞれに割り当てられた目標から、06845K[060745J]から060915[060815J]までの間に、攻撃時の気象予報を中継放送できるような時刻に発進することになった。これによって攻撃機は、第1目標が雲に覆われていることが判ったときにも、第2か第3のどちらかの目標が選べるはずであった。それぞれの気象観測機には、第313航空団が提供した気象観測者が乗り込んだ。
D、攻撃後の写真: 第509群団の指揮官は、2機のFー13機に指示を与え発進させる責任を負う。これらの機は、投弾から4時間たたないうちは目標地域に入ることができない。攻撃部隊が硫黄島の予備機を使わなければならなかったか否かにかかわりなく、この予定が確実に守られるために、写真撮影機は硫黄島を通過するときに、ティニアンと硫黄島の両地上局に連絡をとって許可を得ることにした。もしも、これらの写真撮影機が、どの目標が爆撃されたか通知を受けなかった場合には、撮影機は3つの目標全部の写真をとることにした。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
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8月14日にトヨタ自動車の工場にも投下されましたが、模擬爆弾の投下情報が明かになったのは最近のことであり、つい最近まで、その被害状況(破壊力)から判断して、1トン爆弾と思われて来ました.
米軍の判断も同じで、重量の割りには破壊力が弱く、戦後残っていた物は海に破棄されたはずです.
今一つ、火薬の入っていない、セメントの詰まった爆発しない物も作られました.
本物の爆弾が不発に終わったとき、カムフラージュするためです.
不発に終わったときに備えて、セメントの詰まった爆発しない模擬爆弾も使用されたことは、先に書きました.
私がすごく不思議に思っているのは、原爆投下機に護衛が付かなかった点です.しかも、エノラゲイの機体は爆撃専用機で、銃座は機体の前後だけで防御能力もありません.
あなたが示された作戦計画案に、はっきりと『護衛機無し』と決められていますが、護衛機無しを決定した時点で、原爆の威力、原爆投下の事前通告は行わないことに決定していたと判断されます.
つまり『護衛機無し』を決定したのがトルーマンでなければ、事前通告をしたのもトルーマンではありません.
当時は、硫黄島から護衛をつけることは容易なことなので、『護衛機無し』の決定が何故なされたのか、本当に不思議でなりません.
事前通告に関する批判をするならば、容易に実行可能な護衛を何故つけようとしなかったのか、この決定から調査する必要があると思います.
アメリカが護衛をつけなければ、日本側も迎撃を行わなかった、実に変な出来事だったと思います.
(広島では、一機追撃してきたが、途中で居なくなった)
(小倉では、3回目の爆撃を試みた頃、迎撃機が飛び上がった情報を得て、長崎に向かった)
映画『広島』に依ると、一晩中空襲警報が出ていて、朝になってやっと空襲警報が解除されたと思ったら、爆弾が投下されました.
ここでも多分に心理作戦が行われているのですが、それでも護衛機をつけてもいっこうに構わないはず.
”原爆投下機に護衛が付かなかった”ということが、そんなに不思議な事でしょうか。それが、何が何でも他国に先駆けて原爆を投下しようとするアメリカの意図を否定することになるでしょうか。
日本に原爆が投下される前の原子爆弾開発競争の時代、旧ソ連の工業地帯、中部ロシア、ウラル、シベリアの工業都市の近くに、地図にはない人口10万ともいわれる大きな核秘密都市が建設され、厳重に警備されて核開発が行われていたといいます。放射能汚染の対処は後回しで、近隣には多くの被害者があったということです。ウラルの核惨事も報告されています。
また、アメリカでも同じような核秘密都市がありました。サイトXという暗号名のオークリッジ国立研究所やサイトYのロスアラモス国立研究所、そして、広大な敷地にプルトニウム生産炉や再処理工場など核兵器製造工場が点在するハンフォードは、サイトWと呼ばれたといいます。こうした核秘密都市周辺には、被曝による健康被害に気づかなかったり、訴えることができなかったりした住民が存在したこと、また、今なお苦しんでいる人たちが存在するといいます。
放射能汚染を顧みず、死に物狂いで開発に取り組んでいたからだと思います。したがって、他国に先駆けて原子爆弾を完成させ投下することは、日本がポツダム宣言を受諾したら中止するというような簡単なものではなかったのだろうと思います。
だから、
”私がすごく不思議に思っているのは、原爆投下機に護衛が付かなかった点です.しかも、エノラゲイの機体は爆撃専用機で、銃座は機体の前後だけで防御能力もありません.
あなたが示された作戦計画案に、はっきりと『護衛機無し』と決められていますが、護衛機無しを決定した時点で、原爆の威力、原爆投下の事前通告は行わないことに決定していたと判断されます.”
という判断は、おかしいと思います。
”つまり『護衛機無し』を決定したのがトルーマンでなければ、事前通告をしたのもトルーマンではありません.”
『護衛機無し』は作戦上の問題で、
”映画『広島』に依ると、一晩中空襲警報が出ていて、朝になってやっと空襲警報が解除されたと思ったら、爆弾が投下されました.”
ということで、あえて護衛機をつけなかった作戦に、日本はまんまとひっかかったということではないかと思います。それは、
”基地から先行した単機が、「恐らくは偵察目的と認む。追撃の必要なし」の通信を受け爆撃せず離脱し、燃料の不足も危惧されるため帰還したということにもあらわれているのではないかと思います。
”ポツダム宣言の通告が正式な外交ルートで行われず、宣伝放送で行われたことに対して、『日本を馬鹿にしている行為』、『誠意のない行為だ』と批判し、アメリカは日本に原爆を投下したかったので、ポツダム宣言の受諾を望んでいなかった証拠だと主張している方がいました.
本当にそうなのか?”
とのことですが、あなたは、アメリカの原爆投下は正当に行われた、とお考えなのでしょうか。ポツダム宣言の通告が正式な外交ルートで行われなかったことが、日本が降伏をためらう原因になったとは考えられないのでしょうか。日本という国家が、正式な外交ルートを通じない伝単や国民向けのラジオ放送の内容に、すぐに反応するとお考えなのでしょうか。そういう例が、どこかにあるのでしょうか。
”外交ルートを通じる方法と、ラジオ放送とどちらが正確に情報が伝わるのか?”
などと勝手に問題を置き換えてはいけないのではありませんか。日本が降伏をためらうように画策されたと思われることは一つではないのですから…。
アメリカが他国に先駆けて原子爆弾を投下したことによって、アメリカは世界の警察(覇権国家)となり、他国はアメリカに服さざるを得ない状況になったのではありませんか。それこそが、アメリカの意図することであったことは、否定できないのではありませんか。
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ザカライアス放送に対して、日本が打ち返し放送を行い、日本とアメリカがラジオの電波によって、電話で話すようにやり取りしていたのを、ご存じないのですか?.
8月3日の原爆投下決定を受け、8月4日に最後のザカライアス放送が行われた.
ザカライアスは『一刻の猶予も無い.すぐにポツダム宣言を受諾しろ』と迫ったのに対して、
井上は『そうそう、せかせなさんな.今の東京はあなたの知ってる東京ではないのだ.一面焼け野原だ.(すぐに何かをしろと言って無理だから)もう少し時間をくれよ』と答えた.
アメリカに録音原盤が残っていて、このやり取りはNHKで放送されました.
8月10日未明だったと思いますが、ポツダム宣言条件付き受諾の表明を、日本はラジオ放送によって行ったはず.未発表の事項を放送していると、憲兵隊が放送局に乗り込んで来ました.
何故、放送で行ったかと言えば、一分、一秒の遅れで、また原爆が投下されることを怖れたからです.
>8月3日の原爆投下決定を受け、8月4日に最後のザカライアス放送が行われた.
ザカライアスは『一刻の猶予も無い.すぐにポツダム宣言を受諾しろ』と迫ったのに対して、
井上は『そうそう、せかせなさんな.今の東京はあなたの知ってる東京ではないのだ.一面焼け野原だ.(すぐに何かをしろと言って無理だから)もう少し時間をくれよ』と答えた.
アメリカに録音原盤が残っていて、このやり取りはNHKで放送されました.
8月10日未明だったと思いますが、ポツダム宣言条件付き受諾の表明を、日本はラジオ放送によって行ったはず.未発表の事項を放送していると、憲兵隊が放送局に乗り込んで来ました.
とのことですが、アメリカの日本向けラジオ放送は、軍の戦時情報局の担当で、指示された内容のみを扱う、情報・プロパガンダ機関なのではありませんか。だから、原爆投下が決定されたのに、『一刻の猶予も無い…』などといって、上からの指示で、原爆投下が決定されたことは伝えなかったのではないですか。問題はそこにあるのだと思います。
日本においても、参謀本部の中に、謀略宣伝戦を所掌する組織があり、様々な宣伝宣撫戦・神経戦・思想戦を展開していたのであって、ラジオ放送や伝単によって、直接ポツダム宣言の受諾決定を連合国側が了解するということはないと思います。
だから、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定され、「終戦の詔勅」が発せられたのを受けて、同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、連合国側に宣言受諾に関する詔書を発布したことが伝えられてはじめて、事態は次の段階に進んだのではありませんか。
交戦国とは外交が断絶していたため、当時のポツダム宣言をめぐる外交は、スイスやスウェーデンを通して行われていたのだと思います。日本の降伏が無条件か条件付きかという部分にも微妙な問題が複雑に絡んでおり、やはりポツダム宣言受諾は中立的な国を通す外交ルートでしか進められないことだったと思います。
もちろん、ラジオ放送や伝単の内容も、戦時の外交に複雑に絡んでいるとは思いますが、それらはあくまで、戦時情報局や伝単部の担当する心理戦争の取り組みであることを踏まえる必要があると思います。
政府の発表を受けてNHKが勝手に行ったのではなく、外務省の指示により国策として行われたのです.
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ザカライアス放送の連絡を受けて、天皇がこう言ったので、打ち返し放送が行われることになったはず.
同盟通信の井上勇達少数の関係者が(内緒で)打ち返し放送を行ったと言っている人がいますが、そうではありません.
そして、ザカライアス放送を、天皇自身がラジオで聞いていました.
ザカライアス放送は毎週土曜日の決まった時間に14回行われました.内緒で行われたのではありません.
井上『日本は戦争に負けたことがないので、降伏の仕方が分からない』
ザカライアス『嘘付くな.西郷隆盛は西南戦争で負けただろう』
電波を用いてこんなやり取りを行っていて、内緒のとは絶対に言えないと思います.
確か7月21日のザカライアス放送
『無条件降伏しても大西洋憲章が守られる』->民族自決主義
ポツダム宣言
『無条件降伏とは日本国民ではなく、日本の軍隊が行うものである』
こうした言葉を考え合わせて、政府は国体護持の感触を得ていたそうです.
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『陸軍中野学校』と言う映画があります.もちろん映画自体は娯楽映画でフィクションですが、中野学校の出身者に言わせても、正しく描かれているそうです.
『変装して嘘をつき相手を騙すこと、それだけがスパイの役目ではない.相手の信頼を得て、正しい情報を正しく伝えることも、スパイの役目である』
ザカライアスは日本に滞在したことのある諜報部員でスパイのはず.
『私は同盟通信の井上博士です』、こう自己紹介する井上勇は、陸軍中野学校で話術を教えることの出来る才能を持った人間だと思いました.
8月8日夜、情報局総裁の下村宏が天皇に『ポツダム宣言を受諾するときは、マイクの前に立ち国民に直接呼びかけて欲しい』と依頼に行き、玉音放送が行われることになりました.これは、ザカライアス放送により、自分達がどの様な影響を受けたか考え、学んだ結果だと思われます.
天皇の声を聞いたのは初めてだったので、玉音放送を聞いて本物かどうか国民は疑いました.けれども、放送を聞いて謀略だと決めつけたという話は聞きません.(そう言う人も居たでしょうが、大勢にはなりませんでした)
8月15日、天皇の玉音放送の後、アナウンサーが海外に向けて『天皇の命令である.直ちに戦闘を停止せよ』と、連呼しました.
フィリピンの山岳地帯を敗走していた日本兵は、アメリカ軍のマイクによる放送、伝単ビラで終戦を知りました.
あなたは正式な手続きがどうのこうのと言いますが.
降伏条約の正式な調印は9月2日.
その前にアメリカ軍の進駐に関する段取りを決めるために、使節団がマニラに行き、責任者のサインの入った書類を持ち帰っています.これが終戦にかかわる初めての正式な(効力のある)書類だと思います.
他方ソ連の場合は、8月15日以降も『ソ連とは停戦が成立していない』と、戦闘が継続しました.
正式かどうかよりも、守る気があるかどうかの方が問題だと思いますが.
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青森で爆撃前に予告のビラがまかれました.
『爆弾は何処に落ちるか分りません.逃げなさい』
多くの人が山に逃げたところ、市の人間がやってきて、
『街へ戻らないと、配給をやらないぞ』と脅しました.
結果、多くの犠牲者を出すことになりました.
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あなたと同じように、当時の市の役人(日本という国家)が、『正式な外交ルートを通じない伝単に、反応するやつがあるか』と言ったのです.
きついこと書くかもしれませんが、あなたが言っていることはこう言うことなのです.
8月10日のポツダム宣言受諾表明の放送は、外務省がNHKに原稿を持ち込んだので行われました.
政府の発表を受けてNHKが勝手に行ったのではなく、外務省の指示により国策として行われたのです.
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『謀略かもしれないが、それを承知で乗らないと、事態を打開する道は開けない』
ザカライアス放送の連絡を受けて、天皇がこう言ったので、打ち返し放送が行われることになったはず.
同盟通信の井上勇達少数の関係者が(内緒で)打ち返し放送を行ったと言っている人がいますが、そうではありません.
そして、ザカライアス放送を、天皇自身がラジオで聞いていました.
>8月10日のポツダム宣言受諾表明の放送は、外務省がNHKに原稿を持ち込んだので行われました.
政府の発表を受けてNHKが勝手に行ったのではなく、外務省の指示により国策として行われたのです.
>そして、ザカライアス放送を、天皇自身がラジオで聞いていました.
>電波を用いてこんなやり取りを行っていて、内緒のとは絶対に言えないと思います.
どれも当たり前の話で、否定するものではありません。アメリカの戦時情報局も日本の伝単部も実戦に関わる心理戦争を展開しているのですから。
>あなたは正式な手続きがどうのこうのと言いますが.
降伏条約の正式な調印は9月2日.
その前にアメリカ軍の進駐に関する段取りを決めるために、使節団がマニラに行き、責任者のサインの入った書類を持ち帰っています.これが終戦にかかわる初めての正式な(効力のある)書類だと思います.
正式な外交ルートを通すということは、戦時中の場合は、スイスやスウェーデンなどの中立国や駐在する外交官を通すということです。現実に、ポツダム宣言受諾に関するやり取りもスイスやスウェーデンに対する公電によって進んでいったと理解しています。
>青森で爆撃前に予告のビラがまかれました.『爆弾は何処に落ちるか分りません.逃げなさい』多くの人が山に逃げたところ、市の人間がやってきて、『街へ戻らないと、配給をやらないぞ』と脅しました.結果、多くの犠牲者を出すことになりました.
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あなたと同じように、当時の市の役人(日本という国家)が、『正式な外交ルートを通じない伝単に、反応するやつがあるか』と言ったのです.きついこと書くかもしれませんが、あなたが言っていることはこう言うことなのです.
少しも「きつい」とは思いません。なぜ「原爆投下が告げられなかったか」ということとは関係のない話です。
ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示しましたが、その二ヶ月ほど前の5月28日に、国務長官代理のJ・C・グルーがトルーマンに、対日戦の早期終結のために、大統領がただちに対日警告を出すようにと進言しています。彼は日本が降伏に動いていること、そして、日本側の無条件降伏に対する最大の障害が、天皇および天皇制の破壊または永久的除去を伴うことであると言っています。だから、日本人自らが、自身の将来における政治形態を決定することを許されるであろうという何らかの指示を与えれば、早期終結が可能であり、日本が東京大空襲で大損害を被っている今こそ、そうした内容の対日警告が「最大の効果」を発揮して、早期終結が可能であると言っているのです。
でも、グルーのこの進言は無視されます。なぜでしょうか。
また、7月1日に予定されていた米・英・ソ三国首脳会談(ポツダム会談)の日程が、7月15日からに変更されました。それが、アメリカの原爆実験日と無関係だといえるでしょうか。アメリカの懸案であった原爆実験は7月16日未明、ニューメキシコ州アラモゴルドで大成功をおさめているのです。イギリスのチャーチルはトルーマンに同行した陸軍長官スティムソンに「昨日トルーマンンに何が起こったかを今や知った。私は理解できなかったが、この報告(グローブスの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、彼(トルーマンン)は別人となった」と語っているのです。
原爆実験成功の電報が、ポツダムに来ていたアメリカ首脳部のもとに届いたとき、アメリカは絶対の切り札を手中にしたことが間違いないことを示しているのだと思います。原爆実験の成功によって、ポツダム会談に臨むアメリカの態度は一変したということです。
原爆投下の前に、「ソ連の参戦」、「天皇の地位の保全」、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告すれば、日本は必ず降伏すると軍の関係者や政府関係者の多くは考え、トルーマンに進言していたということですが、それらを日本に通告しなかったのはなぜでしょうか。特に「天皇の地位の保全」をポツダム宣言案から削除したのはなぜでしょうか。
トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載しているということですが、これは何を意味するのでしょうか。トルーマン大統領が戦時情報局 (OWI)に指示したポツダム宣言の周知徹底では、日本が受諾に動けないことを物語っているのではありませんか。アメリカ本土でも、国務省の担当者ではなく、戦時情報局がポツダム宣言を発表したことで、様々なとまどいや混乱があり、アメリカの新聞のいくつかは、「ベルリン発の英BBC放送によれば」という、当時としてはあり得ないような書き出しで自国大統領によるポツダム宣言発表の第一報を、7月27日の夕刊に掲載するほかなかったといいます。大統領の指示であっても、戦時情報局が流す情報は、「宣伝」として受け止められるということではないでしょうか。
だから、当時のアメリカの最も重要な課題が、戦後の世界を見据えて、世界に先駆けて原爆を投下することであったということではありませんか。