日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
大鵬幸喜
大鵬幸喜
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立浪部屋横浜後援会会員 吉野永人
昭和34年九州場所、当時中学3年生の私は新聞の取組結果表に十両で白星をずらり並べている大鵬幸喜という力士がいることを初めて知った。
同時に私の改名前の吉野武喜(たけよし)の『喜』の字が同文字だったこともあって余計に親近感を覚えた記憶がある。
当時は
44代横綱 栃錦清隆
45代横綱 若乃花幹士
46代横綱 朝潮太郎
で栃若時代と言われた
『大鵬というすごいのが出て来たなぁ』という強烈な印象だった。我が家に念願のテレビがやっと設置された一年後であった。
昭和35年初場所新入幕。この春、私は高校一年生。余談ながら5月にチリ地震津波の襲来で恐怖の体験をした。その年九州場所で大鵬幸喜は初優勝。その場所後超スピードで新大関となった。
全く強かった。あっという間のスピード出世であった。
ライバルに山形出身の柏戸 剛という強い関取も居て、大鵬が幕内で最初に土を付けられたのもこの柏戸だった。
柏戸 剛が47代横綱、同時昇進で
大鵬幸喜が48代横綱。
偶然ながら47も48も大吉祥数であることが面白い。その後、名実ともにこの二人で柏鵬時代を築きあげた。
この二人は大鵬の21勝16敗でほぼ互角の戦いぶりだった。
特に大鵬は21歳3か月で横綱を締めたのだが、これはもちろん横綱の最年少記録である。
柏戸 剛・58歳で逝去
(1938・11・29~1996・12・8)
大鵬幸喜・72歳で逝去
(1940・5・29~2013・1・19)
四股名大鵬と通称名大鵬幸喜はともに凶名ながら現役時代に不世出の活躍を見せたのは運気を超えた(とはいっても、48代横綱という吉祥運の補完は実際に存在した)自身のとてつもない努力と稽古で鍛えた体格、体質、気質、大鵬を育てた二所ノ関親方の考えや方針、家族や周囲の理解と協力が有ったからこその快挙であったと思う。
(後述するが、現役中に一部の事象に於いて、また、現役を退いてからは、もろに凶名の運気が支配する境遇の惹起を余儀なくされたことは言うまでもない)
この大鵬がいかなる努力のもとに頂点に立ったのか、検証して観る。 続く