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①激震 2

  1. 激震

 2

「6メートルなら大丈夫だろう」

防災庁舎は、指定避難場所ではないが、狭い災対本部の中央デスクを取り囲むように人であふれかえった。「おめえたち、本部以外のものは別の配備につけ」

「住民の避難誘導をしながら高台へ向かってくれ」

 

地震直後に遠藤副町長らが促し、多くの職員が任務に就いた。本部要員の危機管理、総務、企画の3課の職員と本庁の課長以外の職員も少なくなかった。

 

「怖い、怖い」。余震におびえ、ヘルメットをかぶって身をかがめる若い女性。ぎゅうぎゅうの部屋の片隅に4、5人の女性職員が身を寄せ合い、その場から動けずにいた。

 

「情報収集でうろちょろしているうちに、批難誘導の業務が頭から飛んでしまった」。かろうじて助かった町民税務課の三浦勝美さん(58)が、遠巻きに本部の様子を見ていた当時を振り返る。

 

災対本部には総務や企画部門の経験者もいた。

『公務員の性(さが)というのかな。災対本部を手伝おうと思ったんだべなあ・・・』生き残った職員が重い口を開く。

町の災害検証報告書などによると、役場本庁舎には地震後、約60人の職員がいたと見られる。

 

防災庁舎には、警察、消防、県など、関係機関のほか、近隣住民やのシステム業者らも居た。

「危ないからこっちへ来て!」。ある職員は良かれと思い、老夫婦を建物に呼び入れた。

 

町は1960年のチリ地震津波で高さ5・5メートルの津波に襲われ、県内最多の41人が犠牲に成った。

 

宮城県沖地震による津波の想定は市街地で6・7メートルだった。

 

災対本部の壁時計は津波到達予想の午後3時を回った。

 

「5・5メートルの防潮堤もある。ここは6メートルの津波なら大丈夫だろう。

 

宮城県沖地震だと信じ込んでいた佐藤町長らに危機感はまだなかった。続く

 

 南三陸町の防災対策庁舎は、東日本大震災による高さ15・5メートルの大津波に呑み込まれ、町職員33人を含む計43人が命を落とした。赤茶けたむき出しの鉄筋が、今も津波の威力を物語る。生き残った佐藤町長ら町職員11人全員の証言から、壮絶な一日を時系列で振り返る。(報道部・吉田尚史・南三陸支局佐々木智也)

 

 

 

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澁澤榮一 一日一訓

澁澤榮一 

一日一訓

1月24日

およそ世の中は、何事も進歩発展が必要であるけれども、向こう見ずにただ進むわけにはいかない。

特に国家の進歩については、十分に進歩させつつ、歴史も顧みて、しっかりと地盤を踏みしめ、つまずいて倒れないように注意しなければならない。

 

2月24日

我が国の商工業は、これまでの間、大いに成長し、大いに発達をしたと言っても、これを樹木で例えれば、相当な幹となり、枝葉が繁茂したように見えて、いまだ根が十分に堅固ではない。したがってその枝葉もまた、風雨霜雪にくじかれやすいという事を考えねばならない。

 

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