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坂上二郎・六・

◎コント55号の誕生

『二郎さん、あんた面白いね。やっぱりコメディアンの勉強をした方がいいよ』と、浅草フランス座を紹介してくれたんです。そこに萩本欽一がいて、それが出会いなんですよ。

――フランス座ではどういうコメントをおやりになってたんですか?

坂上:今は浅草演芸ホールになっていますが、当時はヌードが専門でしたから、踊り子さんたちが着替える時間にみじかいコントを二人でやっていたんです。

最初はお客さんから『早く裸を見せろ!』ってやじられていたのが、そのうち『面白い。もっとやれ』と言われるようになりました。コントの内容は下ネタだったんですが、欽ちゃんは『若いけど、面白い人だ』という印象がありましたね。

1963年に欽チャンは自分の劇団を作ってやめて行き、私も翌年に辞めて、一応役者として、明治座とか新宿コマ劇場なんかに出ていたんですけど、とても食べていけないので、夜はキャバレーの司会をやっていました。

たまたま北浦和でマージャンをやる事になってメンバーが一人足りなくて、「そういえば欽ちゃんはマージャン出来るな」と思って電話して誘ったら、欽ちゃんはわざわざ北浦和まで出てきてくれたんですよ。

駅前の喫茶店に入って「久しぶりだね」って話しをしているうちに、欽ちゃんがコントの話しを始めて、いろいろしゃべっているうちにネタが一本出来あがったんです。それをきっかけに又コンビを組むようになりました。

――「コント55号」という名前は、どのようにして決まったんですか?

坂上:舞台が終わって楽屋に帰ってくると、直ぐに欽ちゃんがコントの
話しをするんですよ。私も負けないでやりますから、たちまちコントが出来上がります。

そうしているうちに「あのコンビは面白い」って評判になって浅草松竹演芸場の支配人が「君たちの名前を看板にのっけてやる」って言うんですよ。

「萩本欽一・坂上二郎じゃ長すぎるから何かいい名前を考えよう」という事になって、その支配人が「君たちはいつも楽屋へ帰ってくると喧々囂々とコントの打ち合わせをして、前進前進、ゴーゴーゴーという感じだから『コントゴーゴーゴー』ってのはどうだ」とおっしゃったので、
「じゃあそれでお願いします」という事になったんです。

その頃『007』の映画が流行っていたからゴーゴーは数字の55にして、台風みたいに号をつけて、台風並みのコントということで『コント55号』に決まりました。そのうちにテレビ局や劇場の関係者が見に来るようになったわけです。・・・続く




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