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日本刀で現役ヤクザを滅多切り①

日本刀で現役ヤクザを滅多斬り①

                                 12回

 ちょうどそれと同じころに日本社会党委員長の浅沼稲次郎刺殺の事件があった。1960(昭和35)年10月12日のことだ。

 あれをやった山口二矢(やまぐち・おとや)は、俺とお同い年でさ。

「我々の世代にも凄い男がいるんだなあ」と思ったよ。

 [ちょっと、永人解説]

山口二矢(3・3・2・5)運気100点、完全大吉名。父親が東北帝国大学出の自衛隊員一等陸佐。本人は玉川学園高校を中退。大東文化大学の聴講生だった。赤尾 敏の大日本愛国党に入り、暗殺実行の前に脱党。

 ポケットに入れてあった当日の遺書『汝、浅沼稲次郎は日本赤化を図っている。自分は汝個人に恨みは無いが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と訪中に際しての暴言と国会乱入の直接のせん動者としての責任からして汝を許しておくことはできない。

ここに於て我、汝に対し天誅を下す。

皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢』

 昭和18年2月22日生まれの彼は

11月2日、東京少年鑑別所2階2号室でシーツを割いて作った縄状の紐を天井の電球をカバーする金網に掛け、首を吊って自死した。『2・二』という数字の因縁がもたらす不思議な感覚を私は覚える。

 尚、野田佳彦は3歳半でこのことをテレビで見て政治に興味を覚えたという。そういえば野田佳彦の父も自衛隊員だった。

 しかし、2012年、現在の野田佳彦の日本を害し、国民裏切りの連続する罪状は浅沼稲次郎の数百倍にも相当し、この意味で野田佳彦は10回殺されても文句を言えないほどの出てらため、国賊ぶりである・・・解説終わり。

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 17歳で、自分の思想、信念のもとに政治家を殺して、鑑別所で命を閉じるなんて、すごい衝撃だった。ショックを受けたよ。俺もあんな生き方が出来たらと

一時は右翼にあこがれたもんだ。

 田舎だったから右翼団体に入る機会がなかったけど

「同い年でもあんな奴がいるのに逃げたら恥ずかしいじゃないか、男としてみっともないじゃないか」ということは思ったな。

 そういう経験がいろいろ積み重なって自分の生きる道が決まって行ったんだ。

 そんな風に街を闊歩してるうちに、街の不良には恐れられるようになっていったんだが、さすがに本物のヤクザにはかなわなかったな。プロには。

 いつだったかどこかに連れて行かれて、手足を縛られて、木刀でグシャグシャに打ちのめされたことがあった。その時にやっぱり本物の兄貴分が居なきゃいかんと思ったんだ。

 それで当時街で一番強かった男を兄貴分に持って、その下でまた愚連隊をやってたんだ。俺は17か18で兄貴分は25か26、いや30歳近かったかな。格好いい人だったよ。

 ある朝、食堂で一緒に飯を食ってたら、ヤクザが3人位で兄貴分をさらいにきた。スッと店に入ってきたと思ったら、いきなり日本刀を抜いて、突きつけてきたんだ。3人がかりで。

 兄貴分はそれをかわすと、横に置いてあった自分の刀をパッと抜いてさ。刀を構えて道路に出て、パン、パン、パン、ダン、ダンって5,6回火花が散ったな。本物のチャンバラだよ。真剣のな。

 連れていかれりゃ、殺(や)られるのがわかっているから受け身(兄貴分)の方が強かった。逆に兄貴分を連れに来た3人の方が段々弱腰になって、そのうち逃げ出したから、追いかけて行ったら、タクシーに乗って逃げて行ったわ。

 逃げる途中に滑ったり転んだりして、その姿の醜さといったらなかったな。なかなか格好いい兄貴分だろ。

でもそれから1、2年で死んじゃったんだ、肝硬変で。

毎日毎日酒を浴びるように飲んでたから。

 二人目の兄貴分を持ったのは、20歳になったばっかりの時だ。これに「お前は根性あるもんで、一回体を懸ければ、富士宮は取れる。」とか空気を入れられて(けしかけられて)さ。

 その兄貴分は松葉会だったけど、当時は稲川会が勢力を張ってた頃で、そこの組織の人間と何か仕事の取引をした時に、カーンと蹴られたらしいんだな。

 それで恥をかかされたというんで反目になって、

「そいつの玉(たま=命)まではいいから,とにかく斬って来い」と。「そしたらお前は男になれるから」と言われてな。

相手はお前よりも『3階級上の幹部』だから」と。  続く

 

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