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戦災と震災4・封殺と黙殺(2-1)

戦災と震災

4・封殺と黙殺

反戦と津波の警鐘は届かず(2-1)

 「津波は陸奥国府城下(今の多賀城市)に達し、死者1000人を超す」貞観地震津波の記録が平安時代の正史『日本紀略類聚国史』に残っている。

 869(貞観11)年に東日本太平洋側を襲った。

 1986年、東日本大震災まで25年。

東北大大学院理学研究科の箕浦幸治元教授(65)は弘前大助教授時代、仙台平野の地層に砂の層があるのを見つけた。海岸線から約4・5キロ地点に分布貞観津波の運んだ堆積物と見られ、史実を科学的に裏付けた。

警告の意を込めて、研究成果を発表する。

 だが見向きもされなかった。多くの地震学者はプレートテクトニクス理論の研究に熱心で、地質学に関心を示さなかった。時はバブル前夜。仙台でも土地開発の足音が聞こえていた。

『適当なことを言うな』警告は業者の嫌がらせ電話の標的になった。研究予算が付かない。メデイアも取り上げない。津波堆積物研究の先駆者の警告は黙殺された。

 *

満州事変翌年の1932年、宮城県大崎市出身の政治学者吉野作造は、同事変を批判する論文を中央公論に寄せた。「満州における××××(軍事行動)の本質は×××××(帝国主義的)」

『×××(自衛権)の看板に隠れても(中略)慈善の×××××××××××××(装の下に人から奪わんとする)が如きもの』バツ印は44か所、反戦思想は検閲の餌食になった。続く

 

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