【1】過酷な時代 - 「書高雑低」が定着
今年に入って『論座』『現代』『月刊PLAYBOY』『ロードショー』といった名のある月刊誌の休刊が伝えられるなど雑誌という出版形態を取り巻く状況は厳しい。書籍・雑誌を合わせた出版物の推定販売金額はここ10年ほどマイナス成長が続き、1996年を頂点として、2007年の2兆853億円という数字は18年前の1989年まで逆戻りしたことになる。かつて出版界においてプラス成長が続いていたときには「雑高書低」といわれたほど雑誌の勢いがよかったものの、今年の1~7月の累計を前年同期と比べてみると、書籍はマイナス2.7%、雑誌がマイナス4.1%で、雑誌の売れゆきの低下傾向が表れている。
【2】西洋雑誌 - 始まりはオランダ語の翻訳
ある調査によると今年発行された雑誌は3480誌にのぼるとされるが、これは取次ルートを経たものの数字で、直販ルートの出版物などを合わせればさらに多い。
世界の雑誌の起源とされるのは17世紀にフランスで発行された新刊紹介のカタログで、独立した定期刊行物としては1665年1月にパリで創刊された『Journal des Savants(ジュルナール・デ・サバン)』という法律学術誌と、同年ロンドンで刊行されたイギリス学士院会報が最初である。雑誌を意味するフランス語のジュルナール(英語のジャーナル)のほか英米ではMagazine(マガジン)という言葉が倉庫・貯蔵庫という意味から転用されて用いられるようになった。日本ではこれを「雑誌」と翻訳して、明治の前年である1867(慶応3)年に柳河春三(しゅんさん)により最初の雑誌『西洋雑誌』が創刊された(上画像)。この雑誌はオランダ語に通じていた柳河がオランダで発行された雑誌の中からおもしろい記事を翻訳して掲載したものである。
【3】○○雑誌 - 時代の転換期が生み出す
風俗史を研究していた宮武外骨は、明治6(1873)年から22年までに「雑誌」という言葉を使った雑誌が220点あったことを調べた。『海外雑誌』『民間雑誌』『信教雑誌』といったもので、英米の草創期に「マガジン」をうたった雑誌が多く現れたのと似ているが、これらは明治という新しい時代に指導者層がいかに対処してゆくか、はたまた人びとをいかに啓蒙してゆくか、という時代の転換期が生み出したものといえよう。明治20年には、後に『中央公論』となる『反省会雑誌』とともに総合雑誌のルーツと呼べる『国民之友』が徳富蘇峰によって創刊された。これらは初期の雑誌より多様化して商業的色彩を帯びており、中でも大正14(1925)年に大日本雄弁会講談社から創刊された『キング』は創刊号にして74万部、昭和に入ると100万部を突破するほど人気を集めた。
【4】戦後初の本格総合誌 - 発売即日に売り切れ
菊池寛によって創刊され、いまや総合月刊誌の代表ともなっている『文藝春秋』も終戦直後には沈滞し、隣りのビルに入っている敗戦後にスタートしたばかりの新生社の活気に圧倒されていた。朝になると新生社の入っていたビルの周囲にはリュックを背負った小売書店主がたむろして行列を作るほどであった。そこから創刊されたのが『新生』で、創刊号はB5判32ページ、本文・表紙ともザラ紙であったが、戦後最初の本格的総合誌とあって36万部の発行部数はまたたくまに売り切れてしまった。
【5】『新生』創刊 - めざましい発展の推進役
敗戦の年の昭和20年10月10日に創刊された総合雑誌『新生』の目次には、室伏高信、尾崎行雄、小林一三、正宗白鳥らそうそうたる顔ぶれが名を連ねた。さらに創刊2号の12月号には永井荷風も登場した。それらによって『新生』の人気はいよいよ高まり、新生社は『女性』『花』『東京』といった雑誌を次々と創刊、昭和21年には社員を180名に増やして自社ビルに移るなど活況を呈した。その推進役となったのが青山虎之助という人物である(下画像)。
【6】文学青年 - 次々同人誌創刊、執筆活動も
青山虎之助は大正3(1914)年の生まれで、新生社を創立したときには31歳の若さであった。彼は岡山県の出身で、地元にいた10代の頃から熱心に詩や小説の同人誌を発行していた。やがて大阪や東京で丸善石油の勤め人となるが、『茉莉花』という文芸同人誌の活動にも熱心で、著名な小説家とも親交を深めて寄稿してもらうなどした。戦時中は軍需工場に入って徴兵をまぬがれ、家族は岡山に疎開させて自分は熱海の旅館に滞在して東京へ通い、三宅晴輝や室伏高信の知遇を得た。敗戦の玉音放送は郷里の岡山で聞き、9月に100万円の預金通帳を持って上京、室伏と三宅に顧問になってもらって創刊したのが『新生』であった。
【7】破格の原稿料 - 相場の10~30倍超
『新生』が著名な執筆者を集めることができたのは、従来の青山のコネ以外にも破格の原稿料と貴重な物資を提供したためであった。昭和20年当時の400字詰め原稿1枚につき3円という相場に対し、『新生』は評論に30円、小説に50円、呼びものとなるような大家には100円(現在では20000円以上に相当)を支払った。また青山は執筆者を訪ねるときは米、砂糖、酒、輸入タバコなどの手みやげを欠かさなかった。このような執筆者への優遇は、他の出版社にとっては脅威となるものであり、戦前は芥川・直木賞を創設するなど活発に動いた文藝春秋社は戦後には完全に出遅れてしまったのである。当時の文藝春秋社には、ヤミ紙を入手してでも雑誌を出していこうとするような猪突猛進する気迫が欠けていたといわれる。
【8】鎌倉文庫 - 文士のための文士の出版社
文藝春秋社の沈滞について社長・菊池寛は「うちの重役の久米(正雄)なんかも、社が苦しいときに味方になってくれるどころか、鎌倉の連中と一緒に鎌倉文庫に行ってしまって、文藝春秋と似たような雑誌を出している」と嘆いたとか。鎌倉文庫とは、鎌倉在住の作家たちが、蔵書を持ち寄って作った貸本屋を母体として設立した出版社である。久米正雄、川端康成、里見、高見順らが参加して、軍需で儲けた洋紙店と合弁して終戦後の9月14日に出版社として発足した。
【9】丁度いいところへ - 「鎌倉文庫」のにぎわい
巌谷小波の子息で文芸家協会書記から戦時中は日本文学報国会事業課長となっていた巌谷大四も、戦後に失業していたところを鎌倉で高見順とばったり出会ったことから鎌倉文庫の出版部長を務めることに。鎌倉文庫は『現代文学選』などの双書のほか雑誌『人間』や『文芸往来』を創刊。編集局長には、戦前『改造』の編集長を務めながらも言論弾圧事件の横浜事件に連座して逮捕された大森直道を迎えた。後に文春社長となる池島信平は、知り合いだった大森を鎌倉文庫に訪ねてみると生き生きと働いており、編集室全体も当時の文春からはうらやましく思われるほどの活気にあふれていた。
【10】にがにがしい思い - 保守派でゆく決意
文春の池島信平が、新生社や鎌倉文庫といった新興出版社の台頭に接して覚えた悲哀は、戦後という時代に直面して旧来の権威が通用しなくなったことの表れであった。池島は昭和8年に文藝春秋社へ入ったが、その頃の文春は総合雑誌のトップにある『文藝春秋』のほか小説誌の『オール読物』も発行するなど堂々たる地位についていた。戦時中は召集されて兵隊となっていた池島は、栄光の座を降りた『文藝春秋』の編集長となったものの、戦時中に神州不滅とか天皇帰一とか言っていた者が《一夜にして日本を四等国とののしり、天皇をヒロヒトと呼び捨てにする》戦後の風潮がにがにがしくてならなかった。それならば“保守派”でゆこう、としたものの、そのような編集姿勢は「進歩的でない」ということで白眼視され、経営にも影響するようになる。
※書評紙『週刊読書人』の編集主幹を務める出版ジャーナリストの植田康夫氏により東京新聞夕刊に連載されている『戦後日本・雑誌の興亡』。「マガジン」とうたう弊ブログでも、この連載記事を抄録して随時掲載してゆくこととします。
今年に入って『論座』『現代』『月刊PLAYBOY』『ロードショー』といった名のある月刊誌の休刊が伝えられるなど雑誌という出版形態を取り巻く状況は厳しい。書籍・雑誌を合わせた出版物の推定販売金額はここ10年ほどマイナス成長が続き、1996年を頂点として、2007年の2兆853億円という数字は18年前の1989年まで逆戻りしたことになる。かつて出版界においてプラス成長が続いていたときには「雑高書低」といわれたほど雑誌の勢いがよかったものの、今年の1~7月の累計を前年同期と比べてみると、書籍はマイナス2.7%、雑誌がマイナス4.1%で、雑誌の売れゆきの低下傾向が表れている。
【2】西洋雑誌 - 始まりはオランダ語の翻訳
ある調査によると今年発行された雑誌は3480誌にのぼるとされるが、これは取次ルートを経たものの数字で、直販ルートの出版物などを合わせればさらに多い。
世界の雑誌の起源とされるのは17世紀にフランスで発行された新刊紹介のカタログで、独立した定期刊行物としては1665年1月にパリで創刊された『Journal des Savants(ジュルナール・デ・サバン)』という法律学術誌と、同年ロンドンで刊行されたイギリス学士院会報が最初である。雑誌を意味するフランス語のジュルナール(英語のジャーナル)のほか英米ではMagazine(マガジン)という言葉が倉庫・貯蔵庫という意味から転用されて用いられるようになった。日本ではこれを「雑誌」と翻訳して、明治の前年である1867(慶応3)年に柳河春三(しゅんさん)により最初の雑誌『西洋雑誌』が創刊された(上画像)。この雑誌はオランダ語に通じていた柳河がオランダで発行された雑誌の中からおもしろい記事を翻訳して掲載したものである。
【3】○○雑誌 - 時代の転換期が生み出す
風俗史を研究していた宮武外骨は、明治6(1873)年から22年までに「雑誌」という言葉を使った雑誌が220点あったことを調べた。『海外雑誌』『民間雑誌』『信教雑誌』といったもので、英米の草創期に「マガジン」をうたった雑誌が多く現れたのと似ているが、これらは明治という新しい時代に指導者層がいかに対処してゆくか、はたまた人びとをいかに啓蒙してゆくか、という時代の転換期が生み出したものといえよう。明治20年には、後に『中央公論』となる『反省会雑誌』とともに総合雑誌のルーツと呼べる『国民之友』が徳富蘇峰によって創刊された。これらは初期の雑誌より多様化して商業的色彩を帯びており、中でも大正14(1925)年に大日本雄弁会講談社から創刊された『キング』は創刊号にして74万部、昭和に入ると100万部を突破するほど人気を集めた。
【4】戦後初の本格総合誌 - 発売即日に売り切れ
菊池寛によって創刊され、いまや総合月刊誌の代表ともなっている『文藝春秋』も終戦直後には沈滞し、隣りのビルに入っている敗戦後にスタートしたばかりの新生社の活気に圧倒されていた。朝になると新生社の入っていたビルの周囲にはリュックを背負った小売書店主がたむろして行列を作るほどであった。そこから創刊されたのが『新生』で、創刊号はB5判32ページ、本文・表紙ともザラ紙であったが、戦後最初の本格的総合誌とあって36万部の発行部数はまたたくまに売り切れてしまった。
【5】『新生』創刊 - めざましい発展の推進役
敗戦の年の昭和20年10月10日に創刊された総合雑誌『新生』の目次には、室伏高信、尾崎行雄、小林一三、正宗白鳥らそうそうたる顔ぶれが名を連ねた。さらに創刊2号の12月号には永井荷風も登場した。それらによって『新生』の人気はいよいよ高まり、新生社は『女性』『花』『東京』といった雑誌を次々と創刊、昭和21年には社員を180名に増やして自社ビルに移るなど活況を呈した。その推進役となったのが青山虎之助という人物である(下画像)。
【6】文学青年 - 次々同人誌創刊、執筆活動も
青山虎之助は大正3(1914)年の生まれで、新生社を創立したときには31歳の若さであった。彼は岡山県の出身で、地元にいた10代の頃から熱心に詩や小説の同人誌を発行していた。やがて大阪や東京で丸善石油の勤め人となるが、『茉莉花』という文芸同人誌の活動にも熱心で、著名な小説家とも親交を深めて寄稿してもらうなどした。戦時中は軍需工場に入って徴兵をまぬがれ、家族は岡山に疎開させて自分は熱海の旅館に滞在して東京へ通い、三宅晴輝や室伏高信の知遇を得た。敗戦の玉音放送は郷里の岡山で聞き、9月に100万円の預金通帳を持って上京、室伏と三宅に顧問になってもらって創刊したのが『新生』であった。
【7】破格の原稿料 - 相場の10~30倍超
『新生』が著名な執筆者を集めることができたのは、従来の青山のコネ以外にも破格の原稿料と貴重な物資を提供したためであった。昭和20年当時の400字詰め原稿1枚につき3円という相場に対し、『新生』は評論に30円、小説に50円、呼びものとなるような大家には100円(現在では20000円以上に相当)を支払った。また青山は執筆者を訪ねるときは米、砂糖、酒、輸入タバコなどの手みやげを欠かさなかった。このような執筆者への優遇は、他の出版社にとっては脅威となるものであり、戦前は芥川・直木賞を創設するなど活発に動いた文藝春秋社は戦後には完全に出遅れてしまったのである。当時の文藝春秋社には、ヤミ紙を入手してでも雑誌を出していこうとするような猪突猛進する気迫が欠けていたといわれる。
【8】鎌倉文庫 - 文士のための文士の出版社
文藝春秋社の沈滞について社長・菊池寛は「うちの重役の久米(正雄)なんかも、社が苦しいときに味方になってくれるどころか、鎌倉の連中と一緒に鎌倉文庫に行ってしまって、文藝春秋と似たような雑誌を出している」と嘆いたとか。鎌倉文庫とは、鎌倉在住の作家たちが、蔵書を持ち寄って作った貸本屋を母体として設立した出版社である。久米正雄、川端康成、里見、高見順らが参加して、軍需で儲けた洋紙店と合弁して終戦後の9月14日に出版社として発足した。
【9】丁度いいところへ - 「鎌倉文庫」のにぎわい
巌谷小波の子息で文芸家協会書記から戦時中は日本文学報国会事業課長となっていた巌谷大四も、戦後に失業していたところを鎌倉で高見順とばったり出会ったことから鎌倉文庫の出版部長を務めることに。鎌倉文庫は『現代文学選』などの双書のほか雑誌『人間』や『文芸往来』を創刊。編集局長には、戦前『改造』の編集長を務めながらも言論弾圧事件の横浜事件に連座して逮捕された大森直道を迎えた。後に文春社長となる池島信平は、知り合いだった大森を鎌倉文庫に訪ねてみると生き生きと働いており、編集室全体も当時の文春からはうらやましく思われるほどの活気にあふれていた。
【10】にがにがしい思い - 保守派でゆく決意
文春の池島信平が、新生社や鎌倉文庫といった新興出版社の台頭に接して覚えた悲哀は、戦後という時代に直面して旧来の権威が通用しなくなったことの表れであった。池島は昭和8年に文藝春秋社へ入ったが、その頃の文春は総合雑誌のトップにある『文藝春秋』のほか小説誌の『オール読物』も発行するなど堂々たる地位についていた。戦時中は召集されて兵隊となっていた池島は、栄光の座を降りた『文藝春秋』の編集長となったものの、戦時中に神州不滅とか天皇帰一とか言っていた者が《一夜にして日本を四等国とののしり、天皇をヒロヒトと呼び捨てにする》戦後の風潮がにがにがしくてならなかった。それならば“保守派”でゆこう、としたものの、そのような編集姿勢は「進歩的でない」ということで白眼視され、経営にも影響するようになる。
※書評紙『週刊読書人』の編集主幹を務める出版ジャーナリストの植田康夫氏により東京新聞夕刊に連載されている『戦後日本・雑誌の興亡』。「マガジン」とうたう弊ブログでも、この連載記事を抄録して随時掲載してゆくこととします。