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雑誌の興亡 #2

2008-10-30 21:16:10 | Bibliomania
【11】文藝春秋社解散 - 紙のない時代に
保守派でゆこうとする池島信平の編集姿勢は、用紙割当委員会からの用紙の配給が『世界』『中央公論』の半分か3分の1と低く抑えられる結果をもたらした。ヤミ紙が数倍もする価格だったので、公定価格で割り当てられる用紙が少ないと、32ページの『文藝春秋』をわずか数万部しか出せず、経営が立ち行かない。いよいよ菊池寛は文春の解散を決断するが、池島は社員だけで雑誌を続けるため、菊池から発行権を譲り受けて文藝春秋新社を発足させるまでにこぎつけた。

【12】新社設立 - 文藝春秋の関係者だけで
いっぽう新生社の青山虎之助も、文藝春秋社を買収し、編集長の池島を高給で迎えて文春の看板を配下に収めようと動き出していた。しかし池島や同僚たちは、ほかの社に移してまで文藝春秋を出したくない、なんとしても文春関係者だけで古いノレンを守ってゆきたい気持ちであった。この気持ちで新社設立にこぎつけた池島たちは、資金援助や印刷会社の側面支援も得て、昭和21年5月に『文藝春秋』復刊1号(6月号・上画像)を新社から発行した。定価は5円。新社発足時の社員11人の月給は全員同額の500円であった。

【13】創刊ラッシュ - 新しい時代の到来
日本出版協会の用紙割当委員会が各出版社・雑誌への用紙供給量を決めていたが、戦中に軍部によって廃業に追い込まれた『改造』『中央公論』や、岩波書店が戦後に創刊した『世界』、同じく筑摩書房が創刊した『展望』が優遇されていた。それまでの価値観が転倒した戦後には、これらの他にも『新時代』『人民評論』『時論』『世界文化』『世紀』など30を超す総合雑誌が創刊されたのだが、いま戦後創刊の総合雑誌で残っているのは『世界』1誌のみである。

【14】理想主義 - 自戒込めつくった総合雑誌
岩波書店という出版社は「書店」の名のごとく、教師から転身した岩波茂雄が大正2(1913)年に神田神保町に創業した古書店が出発点であった。値引き交渉に応じず正価販売を貫くような岩波の生真面目なやり方は夏目漱石に愛され、漱石の『こゝろ』を刊行させてもらえることになって出版業にも乗り出すようになったのである。以来、岩波書店は知識人を対象とした書籍を多く刊行し、昭和2年には岩波文庫、13年には岩波新書を発刊するのだが、戦後の昭和21年に出版人として初めて文化勲章を受けた岩波茂雄は、第二次大戦を知識人が阻止できなかったことに対する反省から大衆雑誌を発行したい希望を持ちつつ受勲の2ヵ月後に急逝してしまった。(下画像:岩波書店が刊行した夏目漱石の『こゝろ』と『道草』の函)



【15】『世界』創刊 - リベラル派文化人と結びつく
岩波書店が総合雑誌『世界』の創刊を岩波茂雄の存命中に実現できたのは、彼と親しかった安倍能成や志賀直哉、武者小路実篤らの同心会というグループにも雑誌発刊の計画があったからで、安倍が監修にあたり、岩波新書の創刊にもたずさわった岩波書店社員の吉野源三郎を編集長として創刊されることになった。教師志望であった吉野は、卒業した東京大学の図書館に勤めていたが治安維持法に引っかかって失職。やがて山本有三が新潮社で企画した「日本少国民文庫」の編集を手伝い、自らも『君たちはどう生きるか』を執筆し、岩波書店に入ると神がかりの国粋主義から日中開戦など戦争体制にのめり込んでゆく時勢を憂えて科学的精神や国際的な視野を広めようと、哲学者の三木清らと協力して岩波新書を企画する。

【16】文化建設のために - 社会水準に基因する戦争
『世界』創刊号となった昭和21年1月号はA5判192ページで定価4円。表紙裏に自社出版物の広告を載せている以外はいっさい広告がない。本文には美濃部達吉の「民主主義とわが議会制度」、和辻哲郎の「封建思想と神道の教義」といった論説のほか志賀直哉や里見の小説も。当初は前述の同心会との関係から保守党左派あるいは金ボタンの秀才の雑誌みたい、と冷評されもしたが、やがて同心会に代わって吉野源三郎の設立した平和問題談話会との関係が強まり、雑誌のカラーは反戦・平和を強く打ち出すものになってゆく。

【17】講和問題特輯 - 熱っぽく読者に語りかける
8万部で創刊された『世界』が、異例の増刷をかけるほど注目を集めることになったのが昭和26年10月号の「講和問題特輯」であった。当時サンフランシスコで調印されることになっていた講和条約の草案は、ソ連や中国の参加しない「単独講和」と呼ばれるもので、共産主義の台頭を警戒する新聞などほとんどの論壇に推されていたものの、『世界』同号では巻頭の「読者へ訴う」からして真剣に日本の前途と世界平和の観点からこれに異を唱えたのである。

【18】『文藝春秋』と『世界』 - 創業者の思想を反映
毎日新聞社から出た『岩波書店と文藝春秋』の巻頭インタビューで司馬遼太郎は文春出身の半藤一利の質問に答え、両社の創業者の資質の違いをこう表現している。司馬によると岩波茂雄と菊池寛は《エリートコースの一高→帝大と進む過程でともに挫折を味わい大学は選科であったことから、それぞれの主題を生涯長持ちするものにした》が、《岩波は理念を考え、菊池は世界を散文に置きかえることを考えた》という。「絶対」という架空の一点を見つめる岩波のジャーナリズムと、日露戦争の生き残りのチンドン屋に取材するなど地べたから歴史を見つめる文春のジャーナリズム。このことに戦後の文藝春秋社復活の理由も表れている。

【19】引っ越し - 社員総出で同志的結合
用紙の配給量からも他社に遅れをとってしまう厳しい状況下で新社として発足した文藝春秋社は、逆境を社員の団結で乗り切ったのである。進駐軍に接収されるので仕事場の大阪ビルから出なければならなかったときも、急遽決まった引っ越し先に社員総出で荷物を運んで移動。『文藝春秋』のほか『オール読物』も復刊にこぎつけたが、社長の佐佐木茂索と創業者の菊池寛がGHQから戦争協力者として追放命令を受け、さらに編集局長と『文藝春秋』編集長も兼ねていた池島信平が過労から病気療養を余儀なくされる。

【20】『リーダイ』から学ぶ - 最後まで読ませる工夫
病気で静養していた池島信平が、退屈しのぎに読み漁った内外の雑誌。中でも彼はアメリカの『リーダーズ・ダイジェスト』から徹底的に学ぼうと決めた。今までの日本の編集者がむずかしい議論や空疎なイデオロギーにこだわって自分で雑誌を狭くし、読者を限定していたのに比べ、『リーダイ』は高度な内容をも、シュガー・コーテッド(糖衣)といわれる編集法でやさしく読者に伝えていた。どんな記事でも初めの5~6行ですでに最後まで読ませる表現法を必ずしていたのである。
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