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劇画漂流 / 媒体の浮沈

2016-02-02 20:10:34 | マンガ
デビッド・ボウイの100曲を選んだ追悼記事で、筆致に任せて有吉弘行の悪口を書いてしまったことを後悔している。ボウイの偉大さは、対照的に人をおとしめなければ証明できないようなものではない。有吉だけでなく、ボウイに対しても失礼だ。
有吉の番組の一部しか見ていないけれども、ラジオは毎週楽しみに聞いているし、私が興味を失う一方の芸能界にあって、抜きん出た才覚の持ち主であると思う。

番組のヒッチハイク企画で注目を浴び、2人組の「猿岩石」として一時アイドル的な人気を集めた彼は、その収束に伴って低迷するが、独特な毒舌を武器に復活を果たした。彼は本来お笑いでガッツリ勝負するよりは「テレビにずっと出ているような人になりたい」そうで、若者のテレビ離れが進んでいるとはいえ依然として暇つぶしの王座であるテレビの顔の一人として、10年後も20年後も出ているに違いない。

よくも悪くも、私がしばしば説明なしで彼に言及するのも、そうした、ずっとテレビに出ているような、一種の公共インフラだと認めているからだろう。ベッキー、SMAP、甘利大臣、インフラ的存在には違いないが、私が決して言及しないタイプの人たちもいる。民放の夕方のニュース番組では、北朝鮮の核実験についておどろおどろしく報じた直後に、CMを挟んでグルメ・リポートを流したりする。馬鹿で無神経な大人の養成所。

甘利氏の辞職直後、現政権の支持率はむしろ上昇した。
素性のよく分からない者を大臣室に招き入れ、現金を受け取ったのはまぎれもない事実で、そのような政治家がTPPの秘密交渉を担っていたのは、国民の利益を長期的に損なうのではないかと恐怖を覚えるのだが、一般的には「いさぎよい、立派な人物」と印象付けたようだ。

夕方のテレビを見、ベッキーやSMAPの話題を平気で口にするような人びとが平均値なのだとすれば、日本人の値段というのはこの30年ほどで恐ろしく下がったのだろう―




昨年3月に死去した辰巳ヨシヒロさんの自伝的長篇『劇画漂流』を読んだ。
終戦直後の大阪府豊中市で少年時代を過ごした彼は、病弱な実兄(のち漫画家・桜井昌一)と2人で、手塚治虫、大城のぼるなどのマンガに熱中、彼らにファンレターを書いて面会し、指導を乞うなど、漫画家になるという夢を次第に現実のものとしてゆく。

これを大いに促したのが、当時の大阪で、正規の書籍の流通ルートに乗らず、駄菓子屋などで売られる「赤本」と称する粗末な本を扱う零細の業者が雨後のタケノコのように増殖したことである。
宝塚市に住んでいた学生時代の手塚治虫も、そうした赤本の執筆で名を売り、やがて東京の出版社に乞われて上京することとなったので、さまざまな業者が「次の手塚」でひと山当てようと、若い描き手を募り、そうした一人として辰巳ヨシヒロも十代から世に出たのだ。

辰巳は、何百ページもの習作を、100ページ程度の赤本にまとめ、さらに東京に出てはページ数の制約から『ジャングル大帝』などの大作も窮屈に描かねばならなかった手塚治虫の教訓を活かし、映画的・印象的な情景描写を潤沢なコマ数で展開する、新しい表現方法を模索する。これが後の「劇画」となる。

辰巳らが主に描いていた日の丸文庫の古株の作家で雑誌形式に執念を燃やす久呂田まさみが、辰巳が温めていた若手サークル2~4名の合同誌という腹案を聞き、日の丸文庫と諮って実現されたのが『影』という雑誌形式の貸本で、新たな表現を試みる格好の舞台となり、商業的にも成功して、漢字一文字の亜流本が次々作られる活況をもたらした。

こうした赤本・貸本の業者は、零細ながら山っけたっぷりで、若い作家への接待、引き抜き、稿料の交渉、資金繰りの苦労など、戦後日本の復興や商都・大阪の活気と相まって、非常に見ごたえのある描写となっている。

やがては彼らも上京し、辰巳は「劇画工房」の仲間である松本正彦、さいとう・たかをと共同生活。貸本の衰退と週刊誌の創刊ラッシュにより、劇画のあり方や発表媒体も大きく移り変わる―




話変わるが、「これが最後」と銘打った最新作などからも、筒井康隆という作家さんは、「ほめられたい・認められたい」欲求が強い人なのだろうなと思う。

地方の文芸同人誌を舞台に、主人公が直木賞候補となってのドタバタを描く『大いなる助走』(1979年・文藝春秋)には、特にそれが強く表れている。同人誌の合評会(執筆者が互いを論評する)に招かれた、中央の文芸誌編集者が「そもそも小説を書く、というのは自分以外の他人に読ませる為に書くのであって~」に始まる大演説をぶつし、俺は同人誌でいいんだという人物も、主人公が候補になると嫉妬のかたまりとなって足を引っ張る。

中央の雑誌に認められる・賞をもらう、ということしか存在証明になりえないのは、いかにも媒体本位・売名志向で、戦後の昭和期のように、成功が次の成功を呼ぶ成長期には一定の効力を発揮したろうが、テレビを見ると馬鹿になり、雑誌は次々つぶれる出版不況の今からすると、筒井という人は老残の反面教師に過ぎなくなってしまう。

メディア論としても好対照となる、『劇画漂流』と『大いなる助走』でしたね―



劇画漂流(上) (講談社漫画文庫)
辰巳 ヨシヒロ
講談社
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