マガジンひとり

自分なりの記録

蒐集 #18 - 人喰い

2015-10-21 19:26:10 | Weblog
■本音のコラム・竹田茂夫 - 情報操作とミクロ権力
内部告発を発端として不正会計が明るみにでた東芝は、さらなる内部告発で決算発表の再延期を余儀なくされた。

達成不可能な目標を上司が迫るパワハラの実態も明らかにされている。脅迫と強要の連鎖で積み上げられたうその数字で、辞任した3人の歴代東芝首脳は何を隠そうとしたのか。

アマゾン(世界最大の通販会社)の過酷な職場については、この数年、欧米で多くの記事や潜入ルポが出ている。先頃、米国の一流紙の報道で、あらためて日本のブラック企業にも比すべき驚くべき職場統治が議論を呼んでいる。

非正規が大半を占める物流センターの配送係は電子機器の指示通りに品物を集めるが、同時にその一挙手一投足がリアルタイムで管理部門に把握され、効率基準に達しない者は容赦なくクビにされる。文字通りの使い捨てだ。管理企画部門でも長時間労働と持ち帰り残業が常態化し、個人間、チーム間の生存競争が繰り広げられる。深夜や休暇中でも、メールの即時返信は至上命令だ。

アマゾンは、顧客のビッグデータを活用して一人ひとりの欲望を先回りして提示・誘導し、一刻も早く配達することに血道を上げる。だが、「消費者は王様」のイデオロギーは、職場では常時監視と懲罰のミクロ権力に姿を変える。これが現代の超優良企業なのか。 ―(法政大教授、東京新聞2015年9月3日)



●新聞を読んで・赤川次郎 - ジャーナリズムの正念場
安倍首相が「日本を戦争から守る」ためと称して強引に成立させた安保法。その実態を至って分かりやすく説明してくれているのが、米ヘリテージ財団上級研究員ブルース・クリングナー氏のコメント(9月20日6面)である。

今までは国連PKOで自衛隊の参加は他国による護衛が必要でかえって迷惑だったが、法成立で少しは役に立つようになった。しかしこれはまだ「哀れなほど小さな変化」にすぎないと語る。

他の国に向かって「哀れ」とは驚く表現だが、この「上から目線」に徹した元CIAの発言は安保法の本当の目的が、後方支援だけでなく、現実の戦闘への参加にあることを明示している。

しかも、日本の軍国主義復活を危惧する人々を、祖父がアルコール依存症だったからといって酒を飲まないようなものだと語っているのだ。日本人だけで3百数十万、他のアジア諸国を含めれば膨大な死者を出した戦争への反省として平和憲法を選び取った国民に対し、「アルコール依存症」とは…。

安保法を成立させた「愛国者」の方々は、この言葉に腹が立たないのだろうか。

このクリングナー氏、CIAの間違った情報によってイラクに派遣された多くの米兵の死にも全く責任は感じていないようである。

クリングナー氏のコメントとは対極にあるのが、アフガン支援のペシャワール会代表・中村哲氏の談話である(9月19日夕刊7面)。アフガニスタンで紛争の真っただ中、医療活動だけでなく、井戸を掘り、用水路を造り「農民を土地に定着させる」ことこそ平和につながるとして、30年にわたり活動して来た。

紛争の中、診療所が襲撃されたとき、「死んでも撃ち返すな」と言った。報復の連鎖を断つこと、「裏切られても裏切り返さない誠実さこそ」が「武力以上に強固な安全を提供してくれ」ると言う。
「平和とは理念ではなく、現実の力なのだ」

これを真の勇気というのである。中村氏は広大な砂漠を作物の実る緑の大地に変えた。安保法がもたらすのは、不信と荒廃だけである。

法成立直後の5連休。観光地は人であふれた。休暇を取り、旅を家族で楽しむのは大いに結構。ただ帰り道、ふと足を止めて考えてみてほしい。こうして家族で楽しめるのは、平和なればこそである。

米国の戦争に自衛隊が参加するようになれば、いつこの平和が失われるか知れない。この前の旅で一緒だった家族が、次は一人欠けているかもしれないのだ。その想像力が、今必要なのである。これからが特にジャーナリズムの正念場だ。安保法のその後を見続けよう。戦争に行くことを拒否して立ち上がった若者たちの思いを裏切ってはならない。 ―(作家、東京新聞2015年9月27日)





◎妻と夫の定年塾・西田小夜子 - どうぞお静かに
夫を亡くした女性に対し、自分勝手に勘違いして寄ってくる男たちの話を聞き、何ともいやな気分だ。ほとんどの男が60、70代だが、80代も交じっている。

妻帯者、独身者にかかわらず、目的はみんな同じだ。弱い立場につけこみ、下心丸出しで近づいてくる。毎日やることがなく、妻には無視されている点も似ている。

実は私も去年、無礼な男にゾッとさせられた。怒りと嫌悪感で友達に電話し、彼女のすすめで翌日一緒に警察に行った。最近は警察にも相談員がいる。親切に私の話を聞いて、注意点や防御法を教えてくれるのだ。

うちには亡き夫が趣味の武術サークルで使い込んだ、ごついカシの木の棒が玄関に置いてある。
「危ない時はカシの棒で、死なない程度にブン殴っていいですか」

私がまじめに言うと、警官と友達は大笑いだ。
「まァ、ほどほどに。死ねば犯罪ですからね」
「正当防衛です。襲ってきたヤローこそ犯罪者でしょうが!」

というわけで、私は緊急ブザーやセンサーライト、その他いろいろ取り付けた。隣近所の人たちも私を気遣ってくれる。独り暮らしの中高年女性にしつこく迫る男に言っておきたい。
「決まり文句の『さびしいんでしょ』は、そっくりあなたにお返しします。年相応に分別ある賢いじいさん目指してください。私たちに構わないで、どうぞお静かに」 ―(作家・夫婦のための定年塾主宰、東京新聞2015年2月4日。イラスト:入江めぐみ)



【弱いということの意味】社会の成熟 測る尺度に - 鷲田清一
声を上げられない人の声をどこまで聴けるか。このことが、社会の成熟を測るひとつの尺度になるのではないかとおもう。

たいていの宗教は、ひとの弱さということに大きな意味を見いだしている。弱いということを知らぬ傲慢なひとが、浄土に、天国に行くのは「らくだが針の穴を通るよりむずかしい」ことだとしている。

たとえば、「心貧しき人は幸いである。天国はその人たちのものである」という新約聖書の言葉。「心貧しき人」を、英語では「自分が霊的に貧しいことを知っている人」とうふうに訳すことがある。そういう含みをふまえてのことだろう、17世紀の思想家、パスカルは、「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れる」という章句を残した。

「言い捨つ」(言い捨てる)という言葉がある。「相手の答えを待たず、自分だけ言って話をやめる」「吐き捨てるように言う」と辞書にはある。聞く耳を持たぬ、問答無用、ということである。条理をていねいに説き、相手の心を深く慮って言葉を尽くすということを、無駄だとする態度である。そんな「言い捨て」が、路上に、そして論議を尽くすべき議会という場でも、このところ目立つ。

路上に群れて、あるいは権力を笠に着て、薄ら笑いを浮かべながら、高飛車に、「弱い」人たちに怒号を浴びせて脅す人たちは、弱い。その人たちは、「笠」をなくせばじぶんがどれほど弱いか、その事実を直視できないからこそ、それをかき消すかのように声高にがなり立てる。彼らはじぶんの弱さに眼を塞ぐ。

弱いとは傷つきやすいということである。傷つきやすいとは、敏感であるということ、つまりは周りの微細な変化への感度が高いということである。たとえば病む人は、湿度や気圧、匂いや陽射しのちょっとした変化にすぐに気づく。危機が近づく微細な兆候に強い感受性を示す。かつて炭鉱で、あるいはオウム事件の捜査でも、先頭はカナリアの籠を提げて進んだ。停電時には眼の不自由な人がもっともよく案内してくれるように。

北海道の浦河に「ぺてるの家」がある。精神障害という「苦労」のある人たちの自助のための施設である。当初、施設の設置にかならずしも賛成でなかった人が、時が経ってこんな感想を漏らすようになったという。どうしてもご紹介したい文章なので、少し長くなるが以下に引く。

《私たちが、普段の暮らしのなかで忘れてきた、見ないようにしてきた大事なものを、精神障害という病気を通して、教えてくれている人たちなんだね。あの人たちは嘘を言ったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というスイッチがちゃんとはいる人たちだよね。…私たちの隣に、そういう脆さを持った人たちが居てくれることの大切さを考えたときに、とっても大事な存在だよね。》(『浦河ぺてるの歩みから』同時代プロジェクト)

人を欺こうが、人を蹴落とそうが、人を言葉で傷つけようが、病気にならないことの異様さに気づかせてくれる人。その人たちに感謝できるようになってはじめて、右に引いた声があたりに満ちてくるようになってはじめて、わたしたちの社会派少しばかり成熟したといえるのだろう。 ―(わしだきよかず=哲学者・京都市立芸術大学学長、東京新聞2015年4月3日夕刊)


コメント