マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

1968 - メキシコ五輪

2010-07-03 23:49:14 | メディア・芸能
いわゆる「天下り」などは公務員に限った話ではない。むしろ民間において大企業が子会社や系列企業を配下として、賄賂・談合・天下りなどをはびこらせる風習のほうに根深いものがあるのではないだろうか。
オラも経験あるだ。労働組合の役員をやったので、30才のとき系列の印刷会社へ出向してみると=当時の高卒社員としてはまずまずのコース、その後一変するんだけど=いるわいるわ、親会社を管理職で定年して天下ってきたのがごろごろ、社長から課長クラスまでほとんどがその類いで、その会社からの直接採用組は「プロパー」と呼ばれて差別される。
すべて親会社を頂点とする構造で、オラの仕事も出身の親会社や系列会社をルート・セールスで回る営業だ。そうやって回る営業先の中に、同じ冠のリース会社があってね、親しくなった担当者もまた出向組で、年もオラと同期。
旧友のM原くんのように、その人もキンクス、ザ・フー、XTC、スクイーズといった英国純正の音楽を好む。会社へ入ってから、そうした話題に通じた人がぜんぜんいなくて、砂漠をさまよう思いだったオラの前に現れたオアシス。
でも、1995~97年という3年ほどの付き合いで、やがてその人は新しい音楽をあんまり聞かなくなって、主に欧州のサッカーのリーグ戦へと趣味の軸足を移していった。
そりゃそうだ。サラリーマンには時間がない。その人は結婚もしていたので、音楽とサッカーの両方をガッツリ楽しむのは無理だったろう。音楽よりサッカーを選んだわけで、日本人が活躍してるわけでもなかったから、当時のオラにはちょっぴり不可解だったが、きのうW杯の準々決勝を見ていて納得いったね。
おもしろいわ。時間が濃い。音楽にも劣らない人類普遍の価値だ。野球ならば個々のプレーの独立性が高く、連関が少ないが、サッカーは前後関係がすべてつながっており、目が離せない。一瞬で守備と攻撃が入れ替わる。そして同じPK戦負けでも、日本はまだあきらめがつくが、ガーナのあの負け方は悔しそうだ。
それぞれの国情などにも興味が湧くし、代表選手個々の名前やどこのチームでプレーしてきたかとか情報が入っていれば、さらに楽しめるに違いない。W杯の試合中だけでなく、出場選手だけでなく、背景となって関連するすべてがそこに凝縮されている、歴史の中を生き、新たな歴史が刻まれるのを見届けるという感覚。
そこへ思い当たると、読売新聞・日本テレビが手を引いたので東京ヴェルディが経営難だとかの話は、結局のところ読売は野球の巨人みたいな、ファンの信仰を集める権威となって自分たちのマスコミ権力維持に役立つ存在でなければ、自分たちの思い通りにならないのであれば切り捨てるという考えでしょ。野球もサッカーも道具でしかない。
いや、ほかの国でも、プロの球団なんてのは、ある程度はそうした企業の帝国主義的発想のもと成り立ってるのかもしんないけど、日本国内の市場さえ制圧できれば、どんなに卑怯な手段でもみっともない音楽でもかまわないJ-POPとも共通する、民主主義の不在、歴史への責任感の欠如というわれわれの病理が、ことに読売には強く匂う気がします。



1968年10月12日、第19回夏季オリンピック・メキシコ大会が開幕。大観衆の拍手の中、オリンピック旗は美濃部東京都知事からブランデージIOC会長を通してロサル・メキシコ市長に引き継がれた。



陸上男子200mで優勝したアメリカの黒人選手トミー・スミスと3位のジョン・カーロスは表彰式で黒手袋のこぶしを突き上げて人種差別に抗議。2人は米チームの一員としての資格を停止され、五輪村を追放されることとなった。



米チームの宿舎に掲げられた「打倒ブランデージ」の幕。当時IOC会長だったアベリー・ブランデージ氏(アメリカ)には親ナチスや反ユダヤの過去があり、彼が掲げた厳格なアマチュアリズムも、共産圏の「ステート・アマ」や米国の大学が黒人選手を奨学金で釣ってかき集める動きの中にあっては現実離れした貴族趣味となりつつあった。



メキシコ市は海抜2230mという高地のため、中長距離では欧米の有力選手が酸素不足で不振な結果となり、ケニアやエチオピアの高地勢が台頭。マラソンではローマ、東京と世界記録で連覇していたアベベ(エチオピア)が途中棄権し、代わって同僚のマモ・ウォルデが30km過ぎから独走して優勝した。



3分ほど遅れ、2番目でもがくように競技場へ入ってきたのは日本の君原健二。前回東京で8位、次回ミュンヘンでも5位と長く活躍した名ランナー。



中長距離の選手を苦しめた高地の気圧は、短距離や跳躍では快記録の誕生を助けた。男子走幅跳のボブ・ビーモン(アメリカ)は従来の世界記録を55cmも上回る8m90という大記録で優勝。この記録は1991年(東京世界陸上で米国のパウエル)まで破られなかった。



あおむけにバーを越える「背面跳び」で男子走高跳を制し、満場の注目を集めたディック・フォスベリー(アメリカ)。以降、この跳び方が定着してゆくこととなった。



男子円盤投げを64m78で制し、オリンピック4連覇となったアル・オーター(アメリカ)。個人種目の4連覇は後のカール・ルイス(アメリカ、走幅跳)と史上わずか2名。



女子バレーボールでソ連とチェコ(白いシャツ)が対戦。チェコスロバキアで起こった民主化の動きに対しソ連軍が侵攻した「プラハの春」の直後だったため、どの会場でも目立った声援を受け、第1セットを取るも、1対3で敗れた。日本は男女とも銀メダルとなった。



体操女子個人総合で3位となったクチンスカヤ(ソ連)の平均台の演技。前回に続いてベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)が個人総合など3種目を制し、大会後、メキシコ市内の教会で陸上選手と結婚式を挙げて引退を表明した。



体操日本のエース、中山彰規の床運動の演技。個人総合では加藤沢男、ボローニン(ソ連)に次ぐ3位にとどまったが、種目別で鉄棒など3個の金メダルを獲得。



レスリングのグレコローマン・ライト級で優勝した宗村宗二が、予選3回戦でフランスのマルシャンを攻める様子。70~63kgの中量級で優勝したのは当時高く評価された。ちなみに柔道はこの大会では行われていない。



ボートのかじつきフォア決勝では、ニュージーランドが2位東ドイツを一艇身以上引き離し、6分45秒62で優勝した。



日本はアメリカ、ソ連に次いで多い11個の金メダルを獲得したが、ほとんどは体操、重量挙げ、レスリングなど集中的に強化してきた競技によるもので、むしろこの大会の記憶を今にとどめている=オラ3才でしたので直接にはまったく覚えてない=のはサッカーで健闘して3位になったことだといえよう。予選リーグを1勝2分けで突破した日本は、決勝トーナメントでフランスに3対1で勝ち(いちばん上の画像、フランスのディフェンスをかわしながらドリブルする杉山)4強入り、準決勝では東京大会優勝のハンガリーに0対5で敗れたが、3位決定戦で地元メキシコを2対0でくだして史上唯一の銅メダルを獲得。↑前半1対0とリードした日本は、左コーナーへ快走した杉山(左から2人目)が釜本(左端)へパス、釜本は鋭く走ってきてキーパーをかわし、2点目となるシュートを決めた。後半は防戦一方となったが、メキシコの猛攻をしのぎ、逃げ切った。 ─(写真は『アサヒグラフ』1968年11月の増刊号より)
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