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『グラン・トリノ』

2009-04-09 23:15:13 | 映画(映画館)
Gran Torino@有楽町・よみうりホール, クリント・イーストウッド監督(2008年アメリカ)
監督業でも名高い名優クリント・イーストウッドが、アカデミー賞の主要4部門を制した『ミリオンダラー・ベイビー』から4年ぶりに自ら主演する『グラン・トリノ』。これで俳優業は最後とも伝えられており、それにふさわしい入魂の一作ともいえよう。
妻に先立たれ、一人暮らしの頑固な老人ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)。朝鮮戦争の戦場も経験した彼は人に心を許さず、無礼な若者たちを罵り、自宅の芝生に一歩でも侵入されればライフルを突きつけることさえ。そんな彼に息子や孫たちも寄り付こうとしない。フォード車の工場を退職してからは、自宅を修繕し、ビールを飲み、月に一度行きつけの床屋で散髪する、同じ日々の繰り返しだ。
やがて彼の近隣に、中国から東南アジアにかけて住む少数民族モン族の一家が引っ越してくる。その家の学校も行かず仕事もない少年タオ(ビー・ヴァン)が不良のイトコから命令されてウォルトの大切にするヴィンテージ・カー《グラン・トリノ》を盗もうとして失敗したことから、二人の不思議な関係が始まる。ウォルトから与えられる作業をこなすうち男としての自信を得るタオ。素直なタオを一人前にする目標に喜びを見出すウォルト。しかしタオは愚かな争いから、家族と共に命の危険にさらされる。彼の未来を守るため、最後にウォルトがつけた決着とは──?



二浪してまでも慶応大学へ入る。入学の際も就職の際も、2才も年下のやつからタメ口を聞かれて不快かもわからない。しかし勉学だけでなく世知にも長けた彼のことである。長い目で見ればその程度のことは簡単に取り返してお釣りが来るくらい社会的成功者となっていよう。そんなS藤くんのビジネスモデル。
チャパツに染めて軽くて奇矯な発言でTV弁護士としてキャラ付け。発言が行き過ぎても太田光夫妻の庇護のもと涙目で謝罪してまでもTVには出続ける。そうして選挙で圧勝して知事として巨大な権勢をふるう。そんな橋下ゴキブリのビジネスモデル。
人生は一度きり。そんな人生で成功するために、彼らは「賭けた」のかもしれない。必勝の人生戦略。S藤くんには軽い、橋下には極度の、それぞれむかつきを覚えるけれども、逆に一度きりの人生で大学を出てまでフリーターになってしまう『遭難フリーター』の男の子、大学を出てまで風俗嬢・AV女優になってしまう「音楽と風俗」の女の子には心配になってくる。彼らだけの問題でなく、世代的に多少なりともその傾向はありましょう。安直で無計画。
そして映画というのも風俗産業である。2時間ほどの演技サービスでお金をいただく。やり直しのきかない人生を生きるお客が、必ず2時間で決着する夢の世界を消費しにやって来る。そしてそれは必然的に、中でもハリウッド映画などは、まるで風俗嬢のようにフリーターのようにゲームのように安直なご都合主義の現実ばなれしたものになりがち。人生を生きるのになんら寄与しない。むしろ弊害が。またそういう映画ばかり興行会社が選んでロードショー公開するわけなので、オラ最近ぜんぜん見たい映画がなくて。
そんなところへ先日レンタルDVDで見た『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』は、少なからず斬新な映画のかたちを示してくれたような。なかんずくメルキアデスを殺してしまったため主演のトミー・リー・ジョーンズに引きずり回される国境警備員の男の目線で見ると。浄化の旅、救済の旅、成長物語としても見ることのできるロードムービー。
またそれは国境地帯のさまざまな暮らしをも伝える。『グラン・トリノ』もまたそうした多民族国家アメリカの姿を映すタペストリーとして楽しむことができる。黒人、ヒスパニック、ユダヤ系、白人でもアイルランドやらポーランドやら、そして最近ぶいぶい増殖してこの映画の眼目ともなるアジア系~それら出自をからかう人種ジョークの連発。前半は客席からも笑いが絶えない。アメリカでは人種ジョークが挨拶代わりというか人付き合いの潤滑油としても機能してるような。それが一転、中盤以降は、一つの暴力が次の暴力を生み、またそれが次の暴力を生む、次々と雪だるま式に大きくなってゆく、映画的には暴力が終わりなく続いてくれたほうがランボー2だのダーティーハリー2みたくいつまでも続編を作れていいかもわからないが、人生としてはいったいこれでいいものか心配になってくる、それが極度に達したところで…

…まったく驚くような終わり方をする。特にクリント・イーストウッドがこれをやったというところに意味がある。彼は78歳になっても前進している。少なくともこれは《2時間で完結する娯楽産業》の範疇を超えている。ウォルト・コワルスキーのすべての過去が、そしてタオ少年のすべての未来が凝縮されて、映画という形で交錯している貴重な瞬間といえるのではないだろうか。

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