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マガジンひとり

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「世間」の混乱と解体

2021-02-04 18:09:31 | 中産階級ハーレム
「皆さんの親・兄弟・配偶者、すべての人に伝わるよう叫び続けます。日本中に言います。三重大学を倒そうとしている人たちは、この人たちだと」(汚職やパワハラに耐えかね18人中14人が退職し手術に支障が出ている三重大学病院の臨床麻酔部を率いていた60代・男性医師の音声)

新型コロナウイルスのクラスター(感染集団)が発生した静岡城北高校に対してインターネット上で「アホなのか! 全員PCR(検査)受けろ」「城北高、コロナ怖い」など同校を中傷する書き込みが10件以上確認されたことがわかった。また高校に「感染者を教えろ」「受診させろ」など対応を非難するような電話もかかるなど新型コロナの「二次被害」が起きている。県教育委員会は「教職員らが懸命に対応しているところで、高校は被害者ということを理解してほしい」と強く呼びかけている。


「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、30~40人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の羞(は)じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!

(中略)国家安泰には、女性の社会道徳が一役かっている。女性が一人で復讐することはありうるが、世界史を見渡してみても、女性どうし、または女性が男性と共謀して暴力沙汰や政治的混乱を引き起こしたという事例はない。

この点について、日本の権力者たちは、長い経験と人間性についての洞察によって、ある完全な答を得ていたにちがいない。彼らは、公衆浴場で民衆が自由にしゃべりたいことをしゃべっても、国家安泰にはいっこうに差し支えがないと、判断したのである。

日本政府は、売春を是認し奨励するいっぽうで、結婚も保護している。正妻は一人しか許されず、その子供が唯一の相続人となる。ただし妾を自宅に何人囲おうと自由である。 —(Hシュリーマン/シュリーマン旅行記 清国・日本/講談社学術文庫1998・原著1865)


このシュリーマンはドイツ出身で移住したロシアで商売に成功、40代で世界旅行をして清国、次いで開国直後・明治維新直前の日本を訪れた感想を著したもので、男女問わず賭け事を好み、鉄道など西欧文明を拒否する清国を「不潔で退廃的」とするいっぽう日本を「人びとは素朴で質素、世界一清潔、われわれの文明が正しいのか疑いたくなるほど」と絶賛。日本スゴイ・ホルホル。

もちろんこの素朴で清潔な異文明は維新後急速に変貌し、近代国家として列強の一角に加わるわけですが、シュリーマンが心惹かれた点の一つに彼を世話した人夫や下級役人が決して賄賂を受け取らなかったということがあり、これはいまだに警察の賄賂やタクシーのぼったくりが後を絶たない諸外国に比べ独特な美質ではないかと思う。自立した個人が形成する「社会」がない代わり、人間関係と利害関係が不可分に連なる「世間」の目が人の言動を律する。

明文化された法治でない、相対的に移り変わる人治。なので世間とインターネットはものすごく相性が悪い。ウシジマくん・フーゾク編の女たちは杏奈の前ではその場にいない瑞樹の悪口を言ったり情報交換で盛り上がるが、杏奈が去ると杏奈の悪口を言う。媚びるとか裏切るとかの自覚もないその場限りの社交。のためにも酒が必要。コロナの緊急事態宣言、再び出せばGoToの失敗を認めることになるとか東京など3人の知事から求められて出すのは面子がとか政治家も売春婦レベル。子どものころからスマホ(バカホ)にさらされ刹那的な生き方を強いられる若者層もそういう悪事に長じる自民党に共感。阿片と賭博が蔓延する、モラルの荒廃した末期清朝、そうならないために頭を下げて西欧文明を取り入れたわーくにが150年遅れで似た末路を辿ることになったのは皮肉な歴史といえよう。

中産階級ハーレム⑭ — マラソン

2020-12-13 18:52:21 | 中産階級ハーレム
先週金曜だったか5chでコロナ情報を漁っていると

群馬県46(おそらく歴代2位
埼玉県185 (おそらく歴代2位
京都府57

との書き込みがあり、歴代2位という言葉に思わず駅伝・マラソンを熱心にみていた頃を思い出してしまった。「区間新記録」なんてのも他では使われないが一部の人を熱くさせますよね。スポーツに限らず人が競うことにはその種の記号が溢れている。

私が高卒で就職する1983年、2月に東京マラソンで瀬古利彦が2年ぶりのマラソンを走り日本初の2時間8分台で優勝、宗兄弟やこの後おなじみになるイカンガーも出ていて非常に盛り上がり、確か38%とかでマラソン駅伝が高視聴率を叩き出す先鞭を付け、私も興奮して見ていた。86年ころにはますます熱中して陸上の専門誌を買ったり、架空の選手たちを作って箱根駅伝からやがてはユニバーシアードに出て世界陸上・オリンピックへ~とかね。自分は走りもしないのに、高卒だし。

ワープロ機器が出始めて架空の記録リストまで作ってたわ。誰にも見せない。プロ野球や大相撲でも似たことをやっていたが、それは学校時代に始まっており、そうしたことをやる子どもは少なくないでしょうが、陸上・マラソンについては就職してから始まって熱中していたというのが黒歴史である。女子マラソン解説など広く活躍する増田明美さんは私より学年1コ上で、成田高校時代から「女瀬古」の異名をとり、川崎製鉄千葉が陸上部を創設して監督の滝田氏も一緒にってことで彼女を獲得。しかし紆余曲折あり現役のマラソン選手としては大きく花開くことはなかった。80~90年代のマラソン駅伝隆盛は、部活で集団の中で揉まれ、心身を鍛えたり先輩後輩など人脈を作って一人前の社会人になる、昭和の高度成長~バブル経済と表裏一体なのであった。ゆえにいま失われた30年、いやもっと、さまざまなスポーツ団体や大学の関係者の不祥事・犯罪が噴出し、さらにコロナも重なってオリンピックさえ忌まわしいものに変貌してしまったのでしょう—。




「いまはなんでも科学、科学と言いよるがね、でもマラソンは科学じゃない。子供時代、ザトペックもアベベもみんな苦労した。ひもじい思いをしている。いいランナー、貧乏人じゃないと駄目よ」
孫基禎は韓国が日本に併合された2年後の1912年、新義州(現北朝鮮)の貧しい家に生まれた。十代で働きながら走ることに打ち込み、専門的なトレーニングなしで朝鮮の大会上位入賞し、20歳で故郷の先輩などの支援を得て体育の名門、京城の養正高等普通学校に入学。4年生だった時にマラソン2時間26分42秒の世界記録を出す。翌年のベルリン五輪には選考の結果、孫ら朝鮮の2人と日本の2人が派遣され、現地でレース本番の18日前に突如30キロを走って3人を選ぶことになり、孫と同輩の南昇竜が1・2位となり五輪本番でも1・3位。



1954(昭和29)年の箱根駅伝復路、早稲田大のアンカー昼田哲士はトップ快走していたが芝大門から新橋にかけみるみるペースダウン、倒れそうになって中村清監督(後の瀬古・新宅・ワキウリらの指導者)がサイドカーを降りて「都の西北」を歌いながら伴走、どうにかテープを切ってそのまま失神。



円谷のことを思うとき、君原には決まってふたつの日の顔が浮かぶのだった。
ひとつは、東京オリンピックのレース直後のことである。控え室で、疲労困憊して簡易ベッドに横になると、側にいた円谷と眼が合った。ひどく悲しい目つきをしていた。一瞬、君原は円谷がレースを棄権したのかと思ったほどである。のち、銅メダルを獲得したものの、トラックに入ってからヒートリーに追い抜かれたことを耳にする。あの悲しい眼は、追い抜かれた無念の目線であったのだろうか…。
もうひとつは、円谷が自殺する半年前のこと。君原が円谷とともに走った最後のレース、1967(昭和42)年5月、広島で開かれた全日本実業団選手権でのことである。東京から2年近く、円谷は右足アキレス腱の故障、さらに腰のヘルニアに悩まされていた。ともに20000mを走ったが、この大会でも円谷は不調であった。会場の控え室で、君原の顔を見ると思いつめた表情でこう言った。
「メキシコでもう一度日の丸を揚げることが国民に対する約束です」 —(後藤正治/マラソンランナー/文春新書2003)



1965年6月、英ポリテクニック・マラソンで重松森雄(福岡大)が2時間12分00秒の世界記録。4月のボストン・マラソンでも優勝。



1978年の福岡国際マラソン、この年の2月に別大マラソンで世界歴代2位の好記録を出し(ヘッダー画像右上)好調の宗茂(旭化成)が飛ばしたが36キロで瀬古利彦(早大)がかわし2時間10分21秒でマラソン初優勝。インターハイ中距離2冠⇒箱根駅伝と王道を歩む瀬古は翌年にエスビー食品に就職、マラソン16戦10勝と勝負強さを誇ったが代表に決まっていた80年モスクワ五輪に日本が不参加となり、84年と88年の五輪代表にも選ばれたものの調整に失敗し14位と9位。



1980年代後半から90年代前半にかけ世界的に記録が停滞し、日本・韓国・中国のアジア勢が台頭。【左】92年バルセロナ五輪・男子マラソンでは韓国の黄永祚(中央)が日本の森下広一(旭化成)を振り切り優勝。【右】93年シュツットガルト世界陸上では中国の馬俊仁コーチ率いる「馬軍団(現地では馬家軍)」が中長距離のトラック種目を席巻。画像は女子3000mで1-3位独占した曲雲霞(右)ら。この馬コーチは競技経験のない退役軍人で後にドーピングを選手に強要していたことが発覚。



2003年のパリ世界陸上、女子マラソンで本命視されたケニアのンデレバ(658)は前半慎重策をとり、日本の野口みずき(グローバリー)が前に出る場面がみられた。33キロ過ぎからンデレバが追いすがる野口を徐々に引き離し優勝。千葉真子と坂本直子も3・4位に。これで翌年のアテネ五輪代表に決まった野口は本番で25キロから思い切ったペースアップ、逆にンデレバを振り切り、2000年シドニー五輪の高橋尚子(積水化学)に続き日本勢2連覇。



【左】2013年モスクワ世界陸上・女子マラソンに2時間27分45秒で3位となった福士加代子(ワコール)【右】同じく女子10000mで先頭を引っ張り30分56秒70の自己ベストで5位の新谷仁美(ユニバーサルエンターテインメント)。トラックからマラソンへ息の長い活躍、底抜けに明るい福士ちゃんと「国民の皆さんが反対するのであれば、五輪は開催する必要はないと思う」のような奔放な発言で知られる新谷。「お金で命を買われている身。どんな手段を取っても結果を出さないといけない」とも発言しておりいったん引退したが2018年に復帰。


1999年冬~2001年春の長期入院中、就寝が早いのでコサキンが聞けないこと、デイルームのテレビは古株のおばさんたちが占拠していてマラソンが見られないことがつらかったな。会社を辞めたのが2003年。だんだんマラソン駅伝、スポーツ全般から心が離れ、2012年のロンドン五輪あたりを最後にほぼ見なくなった。会社員時代の一人遊びからブログ・ピクシブ・コミケ等を介し同人誌作りに。親を見殺しにせざるをえなかったが会社に属さずお金を稼げるようになった自分を褒めたい(ありもり)。

日本の主婦という蛮族 — 石岡瑛子のデザイン

2020-11-27 18:20:37 | 中産階級ハーレム
コロナ禍に伴って外食のデリバリー or テイクアウトが一般化。でも、値段のわりに美味しくないですよね。平凡。店で食べる場合、仲間とおしゃべりしながらなので味などどうでもいい。仲間がメインディッシュ。店側にとってみても孤独のグルメのおじさんなどより騒々しい集団客がありがたい筈。しかしコロナによって騒々しい集団客は忌まわしい存在に。時代は変る。

私はなるべく客の少ない午後の時間帯、たまに一人で外食するのだが電車に乗ってまで行きたいのは御徒町の羊香味坊(やんしゃんあじぼう)のみ。店側は全員中国人なので音楽を聞いて漫画など読みながら食っても気がねない。ラム肉の旨い人気店であるがさすがにコロナ前より客足は落ちているようだ。私にとって御徒町はもう一つ、上野松坂屋のデパ地下が庶民的なゴージャス感なので通う理由になる。色とりどりのデパ地下。値段のわりに美味しくないのは同じでも、上野松坂屋は珍しい種類の鮮魚を少量買えるようになっていたり高齢・一人客に優しい。



故さくらももこ『ちびまる子ちゃん』のB級男子。さくらご本人が言ってたからね、B級って。ロンハー好きであった私が言うのも何だが人に上下を付ける考えは諸悪の根源だと思う。派遣切りからホームレスの身となり幡ヶ谷のバス停で寝ていたところ撲殺されてしまったかわいそうな女の人。加害者の男やその親もいろいろかわいそう。前にもなぜ藤木は「卑怯キャラ」に追いやられてしまったかという記事で少し考察したが、要はさくら自身「花輪くんにおネツ」って言っちゃうように最初はエキセントリックなキャラであった花輪くんを持ち上げ、映画版で登場した杉山・大野くんをかっこいいリーダーとして描くなど後付けで上下の秩序が作られていったのである。

そうした様子を引用しようと探してみると、やはり滅法面白いですね。小学校ってこうだったなァという細かな描写は見事なもの。天才だ。しかし一方で芸能ネタが多く、色恋目線で男子を格付け、またエッセイ本ではインチキ超能力の男と交流があって信じていたりおかしな健康器具・民間療法を試したり、ミーハーなBAKA女でもある。少女漫画は全般に恋愛結婚イデオロギーに縛られており、萩尾望都や大島弓子ですらいまの時代にあっては保守的で古いものに感じられてしまう。さらに『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』には4大専業主婦アニメの異名があり、マザコンなのに男尊女卑というわが国の精神風土の延命に寄与しているとすれば責任は免れない。

漫画の天才だが女の面を問われるとミーハーBAKAになる。ゴッドタンの野呂や朝日の芸人ネタ完コピは見事だが、自分で創作できるとは思えない。女は個々はマジメで優秀で社交的、多くの引出しを持っていて生活力は男よりあると思うが、OLとか主婦とかの属性を持つ集団としては手の付けられないBAKAになる。そして美大や音大や演劇やアパレル=「アート系の女」の俗物性を象徴するような石岡瑛子の歩み。




1977・パルコのポスター。イラストは吉田カツ。



1986・マイルス・デイビスTUTUのアルバム・アートワーク。


1989・東急百貨店のコーポレート・アイデンティティ。
これが最高傑作じゃないですかね。抽象的で。キャプション「いらないものは何ですか。ものに支配されて暮らすのはつまらない」。よくいうわ、バブルの頂点の年。このころ東京や大阪は世界有数の物価が高い都市であった。そして日本の政府や大企業やマスコミはお金に代わる価値を示すことができず、女と若者を弱い立場に置いたまま搾取し続ける道を選ぶ。搾取の代償として与える幻想を体験型の「コト消費」と呼ぶ。支配の秩序に従っていれば大企業正社員とその妻のようにいちおうの安定を得られ、主婦は時間を埋めるため外食・観劇・美容・お稽古事・あるいは不倫旅行、連ドラの主役のように自己愛的・類型的な「女性型消費」に走る。1938年生まれ、芸大卒業後資生堂に入社、パルコや角川書店のコラボレーション、数々の映画・オペラ・オリンピック式典の衣装デザインを手がけ、2012年に死去した石岡瑛子のデザインは、「亭主元気で留守がいい」欺瞞的な高度成長~バブル期日本の主婦のあり方の象徴。「古代」「神話」「野蛮」「死と再生」のようなありきたりなモチーフの組み合わせが多い、俗悪なこけおどし。美内すずえ・池田理代子の少女漫画。おしゃべりが過ぎるなジジイ、ストレスたまってんのか。ええ、来週白内障の手術があるんですよ😅 

世間の圧

2020-07-14 20:17:35 | 中産階級ハーレム
オアシズ大久保「いとうあさこって元々顔は変じゃないじゃない? 番組のマラソン企画で痩せたらきれいになってさ。これはイカンっていうんで『食べなきゃダメだよォ~』とか煽って元通りにしたw」
森三中黒沢「いとうさんの体形は大久保さんがコントロールしてるんですねw」

正確でないが6月下旬にOAされたオアシズ大久保さんのオールナイトニッポンでこのようなやり取りが。1回きりなのか準レギュラーのようになるのか分らないが考えてみると女性メインの深夜ラジオを聞くのは初めて。中島みゆきや松任谷由実のANNは聞いたことがなく。やはり違いますよね、女は。ゲストはコロナ休養も記憶に新しい黒沢さんと男の肺がん専門医。美容や健康志向だけでなく、女芸人界の付き合いをはじめ社会性というか子どものころから女は男より人間関係に保険を掛ける傾向が強いんだなと再認識。

逆に、竹内まりやの歌詞に「♪自由と孤独は2つでセット、隣の芝生が青くみえたら~」とかいうのがあるそうで、大久保さんも黒沢さんも感動したっていうんだけど、主婦向けのおためごかしのくだらねー歌詞だなと。別に人間関係が盛んでも責任をキッチリ負えれば自由に振る舞うべきだし、女ってしばしば集団内で仲間外れにしたり「これみよがしに無視する」みたいな振る舞いをするじゃないですか。語義矛盾ですが。この被害者は自由どころか困難の多い卑屈な立場に追いやられることになるし、それが分ってやってる加害者たちもまた人間関係に縛られ過ぎて楽しそうにはみえない。社会性が強いから女子の方が大人だというのは、必ずしも精神年齢が大人だということを意味しないようである。




noobie@ゲーム評論集発売中ニキ @17noobies 7月7日
今の社会の有り様を一言で表すのならば、「被害者の時代」という形容がふさわしいのではないか、と近頃思う。

 @kubi0213 7月12日
飲食店や理髪店でまずまず寛いで過ごせるようになった。長年の修行の賜物か。並の人はこれを巧まずして遣って退けているのだろう。おれはおっさんに成り果せるまでやれなかった。惨めだ。


先進国とされる国々から唾吐きかけコロナ殺人、あるいはマスクなし入店拒否したら射殺されたなんていうニュースが流れてきて、自粛警察・マスク警察だの「母親ならポテトサラダくらい自分で~」だのの話題がツイッターで盛り上がるわが国は平和というのか何というのか…。おそらくそういう高齢男は女だから自分より下にみて説教しようとするのだろうし、駅などで女だけにぶつかってくるオヤジとか、男にはみえにくい平和でないことがたくさんあるのだろう。

吉田豪さんが異色の漫画家たちにインタビューするシリーズで、小林まことさんら高名なベテラン勢を集めた単行本『レジェンド漫画家列伝』を読んだなかに魔夜峰央さんの項もあり、彼がクイズ番組に出演したとき本番以外の楽屋などで島田紳助氏らの出演者が「ものすごく暗かった」。所ジョージ氏だけは明るかったけどみな話す内容が暗いので2~3度で飽きてテレビのオファーは断るようになったという。

紳助が暗いというのはよく分る。90年代の彼は社会派の番組MCに抜擢されてとても殊勝で理知的な態度であった。しかし当時人気のあったグラドルに「(自分が)結婚してること前提で付き合ってくれ(愛人になれ)」と迫ったとされ、00年代に入ってヘキサゴンなどが成功するとどんどん増長、金儲けの才もあるようでヤクザとの交際がきっかけで芸能界から去っても左団扇であろう。彼に限らず男の尊大さやビジネス面の野心は往々にして暗い性格、とくに女たちに対して卑屈な思いを抱いてきた怨念のようなものの表れなのではないかと感じる。

同書の弘兼憲史さんの項では、大企業(彼の場合は1970年ころの松下電器)に入社すると「新入社員をOLが待ち構えている」。「本社は秘書みたいなかたちで(大卒の)新入社員に高卒か短大卒の女子社員が2人ぐらいアシスタントで付く」。もちろんいまはどの会社でも変ってきている筈だが、しかし昨秋私が出席した従姉の娘さんの結婚式は花嫁のためのものというより新郎の実家と勤務先の合同宣伝イベントのようで奇妙に感じたのも事実である。資本主義と男尊女卑は強固につながっており、「世間という言葉が人間関係と利害関係が不可分に重なって人を縛ってくる状態を指すので、個が確立して自由というものがあることになっている欧米の『社会』の訳語にはできなかった」わが国の事情もそれを助長しているのだろう。

女がちょっと権利を主張しただけで多くの男が被害者意識を覚えるし、「制服アイドル」「南青山の専業主婦」のようなタイプの女たちも経済的理由で女が下のままでよしとするからの男女同権レベルの順位はこれからも下げ止まったままではないか。

キラキラ婚

2019-12-12 16:04:31 | 中産階級ハーレム
親戚の結婚式に招かれまして。22年ぶり。わが国の生涯未婚率上昇に貢献する身分としてもうそれらに呼ばれることはあるまいと思っていた。親戚なのは新婦であるが、新郎新婦とも「陽キャの極み」といった風情。

新郎はテレビ局傘下の番組制作会社。いまは早朝の情報番組でスポーツニュースのディレクターを務め、職場に泊まり込むことも。軟式テニスでインターハイなどに出場したが、大学ではサークル活動にとどめ、この制作会社でずっとアルバイト。就活ではアルバイト経験を活かし最終面接まで残ったものの不採用、ほかの会社にも受かっていたがどうしてもテレビの現場で働きたいと就職浪人を決め、1年後に採用された。同僚女性のスピーチによれば「当社のイケメンは性格が悪いことが多いが彼は誰にも分け隔てなく優しい」。まじめな人柄のようである。

新婦は銀行勤め、新卒で入ったメガバンクを3年ほどでやや格落ちの銀行に転職。披露宴で紹介されるエピソードは、大学のミスコンに出たとか学生時代のことがほとんどで、仕事の話は出ない。新郎の上司から「時間の不規則な仕事なので、奥さんは支えてあげて」的な話も出て、私は結婚式・披露宴というのは女のためにあるものと思っていたが、この場合はまったくそうでない、嫁を迎える「家」と、男尊女卑の家制度と密着したわが国の資本主義のためにあるということが実感できた。

輝くばかりの美貌ながら、一夫多妻の星で女になるのは嫌、男になりたいという『11人いる!』のフロルの気持ちがヒシヒシ伝わった—



OECDによれば、米国の医療総支出がGDPに占める割合は2015年で約17%と加盟国の中で断然多く、2030年にはさらに20%まで高まると予測されている。医療・製薬業界が不当な利益をむさぼっていることは明らかだ。なにしろ世界一医療費が高いにもかかわらずアメリカ人の平均寿命は縮んでいるのだから。

AIの進歩によって、医師や弁護士の仕事は必要なくなるといわれ始めてひさしいが、その兆しもみえない。看護士・介護士はこの先もずっと必要だ。彼らの給料より安いロボットが実用化できるとはとても思えないことは誰でも分る。一方、すべての判例を読み込ませ、囲碁ソフトのように法廷で争えるAIなんてすぐにでもできそうだが、なぜできないのか。「給料と社会的地位が高い仕事」はなくせないのだ。

地方の中小企業が家族親族以外から経営者を招こうとすると、取引銀行が反対するという話を聞く。もちろん経営が傾き、債権を回収するとき、その会社の財産以外の不動産などから取り立てしやすいからだ。世の中全体より自分たちの保身しか考えないのが役人の習性。日本の人口は減る。働く人と働けない高齢者・子どもの割合が1:1に近づく。銀行・税理士・人材派遣・コンビニ本部のような中間搾取的な仕事は人間でなくAIにやらせて合理化し、世の中に必要な仕事にもっとお金を回すようにしないと日本は破滅する。

でも変らない。先の新郎のテレビ番組、新婦の銀行はもう世の中に必要ないけれども、新たに私の遠い親戚になる人たち、招かれた学校や会社の人たちは着飾ってキラキラしてる。直接つながって盤石だ。変るわけがない。若い2人の門出に失礼千万なことは百も承知ですが、わが国は破滅する—

中産階級ハーレム⑬ — 恋愛結婚イデオロギー

2017-10-31 19:59:32 | 中産階級ハーレム
明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター・第3回定例研究会「『主婦の友』にみる日本型恋愛結婚イデオロギーの固有性と変容」(10月27日@明大リバティタワー)
 1917年に創刊された『主婦の友』は、2008年に休刊するまで、長く女性層に親しまれてきた歴史ある雑誌である。雑誌記事中に登場する「恋愛結婚」にかいま見られるロマンティック・ラブイデオロギーから、日本における近代家族の成立、発展、そして特殊性を明らかにしていく。講師:大塚明子・文教大学人間科学部准教授


近代社会の性別役割分業と家族員の情緒的結合を重視する「家庭」が大正期の新中間層で実現されたことから、日本型近代家族の戦前と戦後における連続性を強調した見方が現在では一般的だ。が、戦前は都市の新中間層でも親が主導権を握る「見合結婚」が主流であり、個人の意思・感情は置き去りにされた「家」本位の「不自由婚」というイメージも強い。

さらに近年、「性役割分業」自体も批判の対象となっていることに鑑み、【1】当人の自由意思と【2】相互の愛情に基づく【3】この2点を満たす結婚が最も正統的・理想であるとする近代恋愛結婚イデオロギーと、戦後に見合結婚から徐々に恋愛結婚が多数を占めるに至った日本固有の事情を、『主婦の友』記事の変遷に照らし考察したい。

ロマンティック・ラブイデオロギーが、相手と「この人でなければならない」神秘的な牽引力によって結ばれ、アイデンティティーや個人主義といった命題に基づくのに対し、主婦の友の初期に理想の夫婦として描かれた乃木大将夫妻は、男女の心が一致しているものの、明治天皇崩御に際し夫婦で自刃・殉死したことに象徴されるように「国家・家父長制」を基盤とし、妻が夫に従属して労働力を再生産する「細胞」としての夫婦・家庭像であった。夫婦の「和合」とは夫が妻に満足する(とくに性的に)ことと同義だったのである。

 ↑記事に登場する、ときに執筆もする顔ぶれは、名士(軍人・政治家とその妻)から文化人(作家など)、さらには芸能人と、戦後に家制度が後退し、見合から恋愛結婚主流へと移り変わる世相を反映。


1950年代~高度成長期、国家主義から個人の幸福へと価値観の転換が進む。しかし、女性が働いても腰かけで、結婚して主婦となり、家事育児に専念するかたちが都市中間層の主流であり、家電品の普及や核家族化に伴って主婦の生活が安楽で受動的となるに連れ、性生活への関心が爆発的に膨らむ。夫以外の男に心を寄せる、ときに肉体の浮気に発展する「よろめき」という言葉が大流行。


50年代初期の誌面で、林芙美子と丹羽文雄(ともに作家)が「妻の浮気」をテーマとして対談し、恋愛は刹那の情熱であり、やがて冷める、一時の気の迷いで安定した生活を失うべきでないとして「クールな浮気」が提唱された。


私の父は1998年秋に、母は翌秋に、ともに首吊りで果てたのだったが、私はぶら下がった酷い遺体を目にしていない。父の時は、第一発見者は母で、母の時は私は入院しており、第一発見者は伯父夫妻だった。父は「許してくれい」というメモ書きを残していた。数日前、テレコで録音した私の幼時の声を聞いていたそうで、計画的だったのだろうが、もうちょっと、長く連れ添った母に心遣いをしてやれなかったものかと思う。

母の動揺は激しく、葬儀から一週間ほどで言動がおかしくなり、気が触れてしまった。父に代わって支えになってあげられなかった不甲斐なさを悔やむばかりなのだが、私では代われない部分として、この時代に生きた女性の「恋愛結婚への憧れ」が特筆されよう。父母は見合結婚だった。意味不明な母の言葉の中には、おそらく夫としか経験がないであろう性生活への不満をにじませるものが含まれた。戦後といっても、いかに女の性が抑圧されていたか思わざるをえない。昭和の中産階級の家庭生活には、恋愛やセックスなどより、もっと優先される夢があった。夢というか世間体というか。家や車を買い、休日には旅行など家族サービスをし、子どもを一人前に育て上げる、しあわせな家族。夫は妻を「おかあさん」と呼ぶのが普通で、女は妻であるより(夫に対しても)まず母であらねばならない。

一人息子の私は甘やかされて育ち、とうてい一人前になったとはいえないが、本や音楽など情操面で豊かな家庭環境だったことでいまどうにか楽しく生きているし、人を好きになることもできた。やがてはもちろん老いて死ぬわけだが、母のところへ謝りに行けることが慰めである—


♙冒頭画像:萩尾望都「ユニコーンの夢」1974

中産階級ハーレム⑫ — 婚活殺人

2017-08-06 20:21:23 | 中産階級ハーレム
「女は昏睡強盗をしている。身は安全ですか。もしかすると、殺されていたかもしれない」

2009年9月21日千葉県内の警察署の一室。当時、木嶋佳苗容疑者(当時34、現在は死刑確定)と交際していた同県の男性会社員(当時46)は、同容疑者の別の男性への結婚詐欺疑惑に絡んで事情を聴かれた際、刑事からそう諭された。

男性は、体内から睡眠導入剤が検出されないかを調べるため尿検査を受け詐欺での被害届を出すようにも言われた。だが「彼女を全面的に信用している」。4時間余りの刑事の説得にも動じず、木嶋容疑者と暮らす自宅に帰った。実はこのとき、男性は木嶋容疑者と出会ってまだ6日しかたっていなかった。

「メールありがとう」。インターネットの結婚紹介サイトで同容疑者にメールを送っていた男性に、返事が届いたのは9月15日。「私は真剣にお付き合いしたい」と返信すると、同容疑者は「私も真剣です」。

翌16日には、木嶋容疑者から東京・池袋のマンションに招かれた。男性はせんべいや紅茶、麦茶など3種類の飲み物をごちそうになりながら、同容疑者から支援を懇願された。「料理教室ができなくなり、マンションを出るのに違約金が必要」「家政婦を雇ったと思ってほしい」

「彼女はこまやかな気遣いがあり、一緒に家で安らげたらいいな」。男性は困っている様子の木嶋容疑者を、一人暮らしの自宅で同居するよう誘った。次の日、要望通り250万円を渡すと、同容疑者は2日後、2トントラックにテーブルや食器などを積み、男性宅に引っ越してきた。

ソーセージとキャベツを煮たスープ、炊き込みご飯、パスタ…。木嶋容疑者は食事や洗濯に加え、2時間置きに床に掃除用のローラーをかけた。「すぐに子どもがほしい。家庭を作りたい」と繰り返し、30年以上の返済が残る男性の住宅ローンに「私が稼げば半分で返せるね」。「46歳でもいいのか」と聞くと「私は年上が好き」と笑い飛ばした。 —(東京新聞2010年2月2~6日の連載記事「偽りの婚活・連続不審死」より冒頭を抜粋。↑画像=高校2年の木嶋容疑者がボランティアの部活動でお年寄りと交流する様子)




キャバクラでモテた話など、聞いていられない。気のあるような素振りやLINEでのやり取りも含めて接客である。また、見た目のアンバランスさから、あからさまな同伴出勤であるにもかかわらず、美人を連れて歩いている俺と誇らしげなおじさんは見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。同伴出勤は決してプライベートではなく、キャバクラという空間が街にまで延長している状態なのだ。

(中略)マスコミ報道を通じて援助交際が当たり前になってしまったから、1990年代の中頃には、すでに、女子高生というブランドが陳腐化し、商品としての価値が女子大生やOL、あるいは主婦と同程度にまで下落したとされている(宮台真司『まぼろしの郊外』)。果たして、本当だろうか。

2010年代に入ってからも、JKビジネスと名称を変えて同じことが行われている。JKリフレやJKお散歩といったワードがメディアを賑わせた。女子高生にマッサージをしてもらったり、一緒に街を歩いたりすることが商売として成立している。女子大生やOLであることを売りに同様のサービスを展開しても、女子高生ほど客を集めることはできないだろう。

(中略)女性の価値は若さと美しさである。こうした一つの考え方を盲信し、世に広め、彼女たちにあのベッカム(のファッションセンス)を批評する立場を与えているのは、40男を含めた中高年の男性たちなのだ。キャビンアテンダントも同じである。スチュワーデスと呼ばれていた昔から、おじさんが勝手に彼女たちを特別な存在としてイメージしてきた。

 僕ら40男が若い女の子に振り回されているのではない。女性の魅力を若さや職業、あるいは制服といった要素で計っているのはこちら側である。勝手な基準を押し付けて女性に迷惑をかけているだけではなく、男性は自らが作り出したルールに縛られ、自分を追いつめている。自縄自縛とはまさにこのことである。 —(田中俊之 『40男はなぜ嫌われるか』 イースト新書・2015年)


そもそも、家事や育児というのは男女の分け隔てなく、すべての人間が、生きることの傍らに行うべきものです。

おんぶひもで赤ん坊を背中に背負いながら、家業を手伝う。子守をしながら店番をする。前に述べましたが、結婚した女というのが、ファミリービジネスの「労働力」として認められていた時代では、家事や育児は「労働」として認められておらず、「当たり前にやること」という位置づけでした。

そんな家事・育児を「仕事」としたのが、高度経済成長期の自民党政権でした。

「標準労働者」という言葉を生み、サラリーマン化社会を生み出すことで、女性を「主婦」として労働の現場から隔離して、家庭という「箍(タガ)」をはめて「保護」の対象としました。要するに、女性をうまくいけば遊んで暮らせる「囲われもの」へと変えてしまったのです。

とはいえ、これでは単にサラリーマンに扶養されているだけの存在です。かつての妻のように労働者やビジネスパートナーという役目がなければ、いつポイ捨てされてもおかしくありません。

そこで、主婦たちはかつて仕事と認められなかった家事・育児を「重労働」とふれまわるようになりました。家庭内の大事な労働を担っている存在であれば、夫もなかなか縁を切ろうとは思いません。こうして、日本の長い歴史のなかで初めて「家事・育児を専業として担う女性」が誕生したのです。

そして、このような専業主婦が「タガメ女」として全国に繁殖をしていくわけです。一見すると彼女たちは家事や育児というものを、家庭内の「労働」という位置づけに押し上げたように見えますが、本当のところはカエル男から搾取して、自ら生きながらえるための「手段」に変えたと言っていいかもしれません。 —(深尾葉子 『日本の男を食い尽くすタガメ女の正体』 講談社+α新書・2013年)


社虫太郎‏ @kabutoyama_taro 8月3日
真面目な話、フェミニズムにはシスターフッド(女縁;端的にはレズビアン分離主義)の思想があるのに、弱者男性論には(ホモソーシャルはあっても)そうした相互扶助思想の片鱗すら見えないのは面白い。老後の介護は息子ではなく娘や嫁にやってもらうのを自明視してる爺さんみたいな


新潮文庫の『ヴィヨンの妻』に収められた太宰治の後期の短篇に「いわく、家庭の幸福は諸悪のもと」という、警句のような言葉が。街で太宰が、役人が一般人に対して返答する言葉に「保身」の色濃いことに嫌悪を覚え、いわく~といった文脈で発せられるのだが、タガメ女の本が問題にするような、標準労働者=妻と子ども2人で、家事育児は妻に委ねて会社中心の生活を送り高度成長を支えた=の存在さえ予見するかのよう。

あるいは健康な男のみ従軍する戦争体制が、少し姿を変えて高度成長モデルとなっただけのことなのかも分らない(だから太宰は見通せた)。先日、横浜市長選が行われ、自公推薦で現職の女性市長が三選を果たした。投票率は37%と低く、組織票がものを言い、対立候補の「カジノ反対、中学校に給食を」という訴えは無党派層を投票させるに至らなかった。

公明党=創価学会の組織票の実効性が、選挙直後のツイッターで紹介されており、それによれば創価学会婦人部のおばさんがたが、高齢者=とくに独居の男性を戸別訪問し、車で期日前投票所へ送迎、帰りにはお食事会が用意されているのだという。厳密には選挙違反ではないかと思うが、あらゆる選挙での公明党の勝負強さ、そしていまや盤石の国政与党であることにかんがみ、さもありなんと。

私は小6の途中まで横浜市に住んでいたのだが、恥ずかしながら同市の中学校に給食がないことを初めて知った。「弁当は母の愛」などと称し、女性の社会進出に嫌がらせ。自民党と公明党になすりつけるつもりはない。かつては社会党の市長が長かった。あれほどの大都市で、40年も手つかずの政策。政治経済の男支配はゆるぎない。高市・山谷・稲田・丸川といったコイズミ以降自民党で頭角を現した女の政治家はみな似たような人相の国家主義者になり、一方では、子どもが制服で歌い踊り「握手会」なるものでCDを売るグロテスクなAKB商法がまかり通る。

性差別は再生産され固定化する。北海道出身で、料理やピアノが得意、高校ではボランティア活動の裏で、30~40代の男と交際しているという噂のあった木嶋佳苗は、わが国のいびつな「性役割」の縮図だ。同じ頃に明るみに出た鳥取県の事件は、5人の子どもを抱え、スナックで男をたらし込み、被害者には刑事や全国紙記者もいて、欧米や新興国で起こっても不思議でないように思うが、木嶋の、高額の料理学校へ通いベンツを乗り回しながら、「家政婦を雇ったと思って」と言える媚態。犯行で使う練炭をインターネットで買うずさんさの一方で、冒頭記事の男性宅でも火災報知機をいち早く取り外す、婚活サイトやブログを舞台に次々と男を毒牙にかけながら、自転車操業で破滅へ突っ走る、エゴイズム・承認欲求。実に日本人的である。

高度成長モデルが経済的に機能していれば女の方が「売れ残る」焦りを覚えるが、同モデルが温存されたまま失われた20年を経たいま、コミュニケーション能力が低く、女性経験の乏しい高齢男が結婚を焦って深みにはまる。わが国の行く末を象徴する事件と申せましょう—

中産階級ハーレム⑪ — 東京オリンピック

2017-07-24 20:15:30 | 中産階級ハーレム
1964(昭和39)年10月10日、19年前の原爆投下の日に広島県で生まれた坂井義則さんが聖火台に点火、昭和天皇が開会を宣して15日間の東京オリンピック大会が幕を開けた



陸上男子100m優勝のボブ・ヘイズ(米)、準決勝スタートの様子



マラソンは前回ローマ大会と同じくエチオピアのアベベ選手が独走し、史上初の2連覇。↑千駄ヶ谷の40キロ地点を通過する様子



アベベを追い力走する日本の円谷幸吉。競技場内で惜しくも抜かれ3位となったが、陸上唯一のメダル獲得。10000mでも6位。自衛隊体育学校の所属で、オリンピック後は思うような結果を残せず、68年メキシコ大会を前に自殺



女子バレーボールで優勝し、大松博文監督を胴上げして喜ぶ日本チーム。ほとんどが同監督率いるニチボウ貝塚に所属



重量挙げヘビー級に優勝したソ連のジャボチンスキー選手



個人総合馬術で優勝したイタリアのケッコリ選手



浜田「(吉本がダウンタウンのグッズか何かを売るとかで)俺らにもコレ(指を丸めて、お金を示す)入ってくるのん?」
 松本「!!……ホンマにお前はカネ!カネ!カネ!やなァ」

ガキの使いのトークで、以上のようなくだりを見たことがある。松本人志の「宇宙人のような発想」は、浜田雅功が現実主義というか、汚れ役に徹することで落差が際立つので、確かにお笑いについては松本は天才なのだろうが、それ以外については凡人に過ぎないことが近年露呈されてきた。

一芸に秀でることは、必ずしも全人格的な向上を意味しない。芸能界やスポーツ界で成功し有名になるためには大変な競争をくぐり抜けなければならないが、その他おおぜいの競争参加者、観客、興行やメディアの関係者、学校や病院や交通など公共インフラあってこそだ。

先日も元陸上選手の為末大が心ない発言で炎上していたが、無名なら炎上しないし、そも売名なのかも分らないが、彼の知名度は彼だけの手柄ではない。400mハードルは法大や順大など伝統的に強化されてきたし、国際陸連やテレビ局が盛んに権威づけしてくれる世界陸上が2年毎にやるようになったことも大きい。そして織田裕二の名セリフ、真似する山本くん—



「われわれがスポーツをやるときはスポーツの精神のために真剣になる。それは金では買えない」
「その代わり、あなた方はその他のものを金で買ってる。そのスポーツをやるヒマな時間をもね」と続く、萩尾望都さんの「マリーン」(1977年)にみるプロ/アマチュア論争。ここではテニスだ。ブルジョワの優雅なたしなみが、一般に広まって、人気スポーツとなる。早くからオープン化されプロスポーツとなっているテニスやゴルフをオリンピックでやる意味はあるのか。

53年前の東京大会では過去からのアマチュアリズムが適用される一方で、初採用されたバレーボールではソ連などの社会主義圏と日本が強く、それは国や企業が選手を丸抱えして「スポーツをやるヒマな時間」を保証してくれるから。厳密なアマチュアリズムとは言い難い。競技人口の少ないスポーツを強化し、メダルを獲って国威発揚に利用するのも、まるで戦争みたいだ。が、その後のオリンピックはもっぱらオープン化・肥大化にまい進し、ドーピングなどの勝利至上主義、途方もない資金が必要で大国しか開催できない政治ショー化と、弊害が露わになってきた。

競技場&エンブレムがケチの付き始め、リオ閉会式の間抜けなマリオ&共謀罪(政治利用)、ついには建設の過労自殺も。3年後の東京大会は、前回と対照的に、オリンピックの落日を各国の人びとに印象づけることになるでしょう—


※図版は朝日新聞社『'64東京オリンピック』より

中産階級ハーレム⑩ — ユーミン

2017-02-19 20:24:31 | 中産階級ハーレム
人ごみに流されて 変ってゆくわたしを
あなたはときどき 遠くでしかって
あなたはわたしの 青春そのもの

あの頃の生き方を あなたは忘れないで
 あなたはわたしの 青春そのもの


犬山「女子同士のマウンティングって、『私っていい人でしょ』的な善意にコーティングされたものなんですね」
 瀧波「実際にマウンティングする・しないにかかわらず、相手の立場やスペックを考えつつ、『自分の方が上だと示すには何を言ったらいいか』を瞬時に思いつく才能」 —(瀧波ユカリ・犬山紙子 『マウンティング女子の世界』 ちくま文庫・原著2014年)

マウンティング女子の世界: 女は笑顔で殴りあう (ちくま文庫 た 82-1)
瀧波 ユカリ,犬山 紙子
筑摩書房


亡母は松任谷由実が嫌いだった。ビブラートのないのっぺりしたボーカルのせいだろうか。彼女のボーカルは「ベルベット・イースター」「翳りゆく部屋」といった宗教色のある曲では力強く響くが、それはふてぶてしさとも紙一重で「時をかける少女」「青春のリグレット」といった曲は別の歌手による無垢なバージョンが好ましい。

八王子の老舗の呉服店に生まれた荒井由実は、キリスト教系の学校でパイプオルガンの響きに親しむいっぽう、プロコル・ハルムやジェファーソン・エアプレインといった同時代の英米ロックに影響を受け14歳ころから作曲を始め、後期グループ・サウンズやミュージカル『ヘアー』の関係者がつどう店にも出入りするように。ロンドンブーツを履き、グラムロック風のいでたちで。

当初は作曲家志望だったが、音楽出版社アルファ・ミュージックを設立した作曲家・村井邦彦の勧めでシンガーソングライターとして72年にデビュー。細野晴臣・松任谷正隆ら新進のミュージシャンがバックを固めたアルバムは、それまでの歌謡曲や吉田拓郎・井上陽水らフォーク系ともまったく違った爽快なサウンドと繊細な歌詞により静かなブームを起こす。

75年にはバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」、自身の「あの日にかえりたい」が大ヒットし彼女は時の人となる。松任谷正隆との結婚の際引退も考慮したとされるが活動を継続。派手な演出やリゾート地でのコンサート開催、松田聖子らへの曲提供、「守ってあげたい」のヒット、CMやドラマとのタイアップ、アルバム発売をクリスマス商戦に合せてイベント化することなど80年代の彼女は人口ボーナスによる消費増と軌を一にする成功を収め、カリスマの名をほしいままにする。

亡母は松田聖子も嫌いだった。松任谷のことも独特なボーカルよりも「主張のある女」「男を振り回す女」「贅沢な生活を送る、勝ち誇った女」といったイメージで嫌ったのかもしれない。松任谷由実自身、荒井由実時代の最初の2作は私小説的だったが、以降はファッション性を取り入れたファンタジーであると述懐している。ファンタジーの核には、冒頭に掲げた「卒業写真」の歌詞のような、失われたロマン、過去への追慕がある。

同じ場所に、同じ時間に、うずくまっていたい(最後の春休み)。わたしを忘れないで、憎んでも覚えてて(青春のリグレット)、けれどあなたがずっと好きだわ、時の流れに負けないの(青いエアメイル)、どこかで恋をしてるなら、今度はあきらめないでね(DOWNTOWN BOY)。

「あの頃の生き方を、あなたは忘れないで」とは、しかしわたしは現実=お金や家柄=を選ぶという裏返しでもある。ロンハーのダレノガレ明美によれば、花田美恵子がブログでラグジュアリー・ライフを見せびらかすのを、普通の女たちは「またこいつこんなことやってやがるよ」と蔑んでいるのだという。『マウンティング女子の世界』によれば、女同士のコミュニケーションは、もっと細かにちくちく、表面はオブラートにくるまれている。マウンティングとは、ケモノが交尾のポーズをとって、優位と従属を示すものだというが、男から女へのマウンティングはそのものずばり、強姦や痴漢など性暴力も含む。

千葉大医学部の集団レイプ事件で、犯人のうち2人はラグビー部に所属し、うち1人は法曹界で知られた名家の子息だという。アルバムNO SIDEは、大学ラグビー部員たちを自宅に呼んだりして交流したことから構想されたそうだがレイプ犯のお坊ちゃまもユーミン邸に招かれるとしたら猫を被るに違いない。男にロマンを託し、女は現実を謳歌するというユーミンの歌詞世界に横たわる価値観は、男尊女卑・タテ社会・中央集権・企業優先といった既存の構造を温存・固定化することにつながり、失われた20年を経た今となっては、デフレと少子化の元凶ともみなされよう。

昭和の斬新な荒井由実は、平成の古い松任谷由実に変った。男も女も夢を捨てず現実の矛盾にあらがうべきである—



iTunes Playlist "中産階級ハーレム — ユーミン編" 126 minutes
1) 荒井由実 / COBALT HOUR (1975 - COBALT HOUR)
2) 荒井由実 / 卒業写真 (1975 - COBALT HOUR)


3) 松任谷由実 / 冷たい雨 (1979 - OLIVE)


4) 原田知世 / 時をかける少女 (1983 - 2000 BEST 原田知世)


5) 荒井由実 / ベルベット・イースター (1973 - ひこうき雲)


6) 松任谷由実 / ANNIVERSARY (1989 - LOVE WARS)


7) 松任谷由実 / 守ってあげたい (1981 - 昨晩お会いしましょう)


8) 松任谷由実 / SWEET DREAMS (1987 - ダイアモンドダストが消えぬまに)


9) 荒井由実 / 中央フリーウェイ (1976 - 14番目の月)


10) 荒井由実 / 翳りゆく部屋 (1976 - Yuming Brand)


11) 麗美 / 青春のリグレット (1984 - GOLDEN☆BEST Reimy Brand Complete)
12) 荒井由実 / きっと言える (1973 - ひこうき雲)


13) 松任谷由実 / 埠頭を渡る風 (1978 - 流線形'80)
14) 松任谷由実 / 最後の春休み (1979 - OLIVE)


15) 荒井由実 / 海を見ていた午後 (1974 - MISSLIM)


16) 松任谷由実 / 恋人がサンタクロース (1980 - SURF & SNOW)
17) 荒井由実 / あの日にかえりたい (1975 - Yuming Brand)


18) 松田聖子 / 制服 (1982 - Touch Me, Seiko)


19) 松任谷由実 / 真夏の夜の夢 (1993 - Single)
20) 荒井由実 / ひこうき雲 (1973 - ひこうき雲)
21) 松任谷由実 / カンナ8号線 (1981 - 昨晩お会いしましょう)


22) 松任谷由実 / DESTINY (1979 - 悲しいほどお天気)


23) 松任谷由実 / DOWNTOWN BOY (1984 - NO SIDE)
24) 松任谷由実 / 青いエアメイル (1979 - OLIVE)


25) 松任谷由実 / DANG DANG (1982 - PEARL PIERCE)
26) 荒井由実 / 返事はいらない (1973 - ひこうき雲)


27) バンバン / 「いちご白書」をもう一度 (1975 - 青春歌年鑑 BEST 30: '75)


28) 松任谷由実 / Hello, My Friend (1994 - THE DANCING SUN)
29) 荒井由実 / やさしさに包まれたなら (1974 - Yuming Brand)
30) 荒井由実 / 旅立つ秋 (1974 - MISSLIM)


自民党・電通・日本会議・ネトウヨに流されて 変ってゆく普通の日本人を
 自称リベサヨのマガジンひとりはときどき 遠くでしかって

知らんわえ!!
シロート童貞の俺に云うな。放置です。ドル建て資産に換えます。
東芝問題や森友学園問題は氷山の一角。10年もしないうちに日本発の金融危機が起こり、安倍晋三は亡国宰相として記憶されることでしょう—

中産階級ハーレム⑨ ─ サッカー

2014-09-05 21:27:27 | 中産階級ハーレム
サッカーの日本代表チームは大正6(1917)年に東京高等師範学校が第3回極東選手権大会(日本、中国、フィリピンによって競われた総合大会)に出場したのが最初とされており、この時は惨敗に終わったものの次第に進歩し、昭和11(1936)年のベルリン五輪では1回戦で優勝候補のスウェーデンを3-2で破る番狂わせを演じた。↑試合後、ドイツの観衆がなだれ込んで祝福。


昭和13(1938)年、既に戦時色が強まっており「鬼畜米英」との言葉も聞かれたが、2年後の東京五輪へ向けての強化の一環として英国のイズリントン・コリンシャンを招いて親善試合を行い、大学生で組んだ全関東軍が4-0で勝利。しかしその後、日本はオリンピックを返上、国を挙げて戦争に突入してゆく。


敗戦後昭和23(1948)年に日本代表は再編成され、26年には戦後初の国際大会として第1回アジア大会(ニューデリー)に出場、6チーム中3位となる。しかし29(1954)年3月に東京で行われたスイスW杯予選では韓国に1分1敗と屈し、出場を逃した。↑日本ゴール前に激しく詰める韓国FW。


西ドイツのデットマール・クラーマー氏がたびたび来日して各地でコーチするなど強化に努めた日本代表は東京五輪でアルゼンチンに3-2で逆転勝ちするなどし準々決勝へ進出。↑アルゼンチン戦後半9分、杉山隆一(18)の同点ゴール。


昭和43(1968)年のメキシコ五輪、日本はナイジェリア戦での釜本邦茂のハットトリックなど予選リーグ1勝2分で準々決勝へ進出、フランスと対戦。釜本の先制ゴール(↑)など3-1と勝利、準決勝では優勝したハンガリーに0-5と屈する。


開催国メキシコとの3位決定戦、相手陣内でヘディングに競り勝つ釜本。2-0と勝ち、男子サッカー唯一の銅メダルを獲得した。


右から杉山、長沼健監督、釜本、岡野俊一郎コーチ。


メキシコ五輪以降日本代表は低迷が続いた。↑昭和53(1978)年アルゼンチンW杯予選、日本はテルアビブでのイスラエル戦に0-2と完敗。中央はシュートを放つ、1FCケルンに移籍する以前の奥寺康彦。


昭和61(1986)年メキシコW杯予選、東京での韓国との第1戦、0-2から木村和司のFKで1点差に迫った日本はなお猛攻を仕掛けたが実らず。


戦前戦後を通じわが国のサッカー界は大学生とその若いOBを含めた大学サッカーがリード、社会人も次第に実力を伸ばしたが学生と社会人が覇を競う天皇杯以外の公式戦が非常に少なく、レベルアップを望める状況になかった。そんな折クラーマー氏が「トップクラスのチームが集まって国内リーグ戦を行うべき」と提唱、昭和40年に社会人8チームが集まって「日本サッカー・リーグ」が誕生する。初代王者は東洋(工業)で、以降ヤンマーや三菱や日立が躍進し、昭和50年代に入ると古河、フジタが台頭。大学勢を引き離し昭和最後期(1983~88)の天皇杯では日産と読売クラブが3回ずつ優勝するなどプロ化の機運が高まってゆく。↑木村和、水沼、柱谷など多彩な攻撃陣で第65回天皇杯(1985~86元日)を制した日産。 –(画像はすべて『激動の昭和スポーツ史9・サッカー』より)