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中産階級ハーレム⑧ ─ 野呂佳代

2013-11-17 20:25:31 | 中産階級ハーレム
きのう、「JUNK HEAD 1」という30分ほどのコマ撮りアニメの自主上映を見てきたんですが。遠い未来、機械化して永遠の命を得た人類と、単純労働を担う生殖能力のないクローンが地上と地下に分かれて住んでいるという設定で、今回の30分を序章として大長編SFにしたい構想。見てる間は、ちょっと期待外れな気がしてたのだが、帰ってからジワジワくるというか、印象が鮮明によみがえって。一コマ一コマ手作りの、膨大な手間・労力が凝縮された、貴重な30分だったなと─


11月5日、ロンハーで緊急企画!と銘打ってOAされた「ガチ7・ロンハーだけが推していることになっていないかSP」。ロンハー、アメトーク、タモリ倶楽部、ガキ使以外には疎いというか、単発のドキュメンタリーなどを除きそもそも見ないように遠ざけてる私にとって興味深い企画であり、あらためて同番組の魅力に気付かされることに。

番組は4つのアンケート調査を軸として、男女2000人に聞いた知名度⇒男性1000人に聞いた「好きな顔」⇒女性1000人に聞いた好感度⇒テレ朝の番組制作スタッフに聞いた「実際に出演してもらいたいのは誰か」の順で進む。ガチ7の女性タレント7名のほか、スタジオには呼ばれてないが明白な売れっ子のローラ、トリンドル玲奈、芹那を加えた10名がランク付けされるのだが、ガチ7が自ら順位を予想する様子も隠し撮りされており、ロンハー内の仲間でありライバルでもある彼女たちの本音が赤裸々に。

心憎いのは、女性に聞いた好感度が、男に聞いた「好きな顔」より後に配されていることで、みなアイドル系でありながらむしろ生き残るためには同性受けが必須と考えてか、一気に本気モードに突入。「男に媚びがち・枕営業の噂」をきっかけに尾崎ナナが激しい集中砲火を浴びる。


『ナニワ金融道』の最初のエピソード。
帝国金融への入社初日から電話営業で見込み客をつかんだ灰原の肩を叩き「えらい早いやないか灰原君。君は金融屋に向いとるで」と声を掛ける高山部長。


ただこの時点では彼は本当の仲間として扱われてはいない。その後、高山と金畑社長は社会保険庁の公務員への融資をめぐって灰原が「ガーンと一発かます」ことができず、すんなり回収できなかったら解雇することにしようと、彼には内緒でヒソヒソ。

それらの関門を経て、すっかり帝国の一員となった灰原に対しては「君」が取れて呼び捨てとなり、高山のスキンシップもより馴れ馴れしく(↑画像)


『エースをねらえ!』のアニメ化が再放送で人気を呼んだ時、それによって初めて少女マンガを知った男子も少なくなかった。「同性だけに見せる女の本音」を覗き見できることも、その人気の大きな要因であり、女子テニス部の中で妬まれて叩かれれば叩かれるほど、岡ひろみの求心力は増していったのだ。


話をロンハーに戻すと、叩かれる尾崎ナナがおいしいのはもちろん、叩く女たちも、また小林恵美やKONANのように出演歴が浅くやや弱い存在ですら番組全体の構成を通じて必ず見せ場が用意されており、7人全員のキャラが立って、見る前より好感度アップしているのが凄いなと。


中でも私が注目したのが野呂佳代。小林、手島優、谷澤恵里香による尾崎バッシングが熱を帯びると、毒気にあてられたのか丸高愛美が両手を口の脇でパタパタさせてから隣の野呂をハグする仕草。野呂みたいな鈍重ではない「動けるデブ」って小学校とかでも男女問わずクラスの主導権握ってたし、同性でも抱きつきたくなるような愛されキャラでしたね


最後のランキングでは、中位に置かれて発表を終えた野呂と手島がヒソヒソ話。この2人は以前は「ブス!」って罵り合ってたのに、今では相当仲良しな様子。別の回でも野呂はニッチェ江上に向かって毒づいてたけど、自分が前に出ようとする攻撃というよりは、会話のパスを出してむしろ相手の見せ場を作ってあげてる感じ。

小林や谷澤が尾崎に対し「ナナちゃんわァ~」って、ちゃん付けしながら毒を吐く様子も面白かったのだが、いつの間にか野呂はザキヤマや土田晃之といった男芸人からも「野呂ちゃん」として認知されてる。その場限りの打算でなく、コツコツ積み重ねて女からの好感度でも「3強」の一角を崩すに至った野呂佳代の存在が、豊満な容姿、淳のお泊り企画で見せた家庭的な一面とも相まって、野田前首相が盛んに言ってた「ぶ厚い中間層(を取り戻す)」という言葉を連想させずにおかないのです─

中産階級ハーレム⑦ ─ 野球 #3

2013-10-09 21:21:46 | 中産階級ハーレム
昭和52(1977)年9月3日の対ヤクルト戦、巨人の王貞治は鈴木康二朗投手から通算で756本目となるホームランを放ち、アーロンの持つ大リーグ記録を上回ったとのことで同年当時の福田内閣は国民栄誉賞を創設して表彰した。


昭和53年度ドラフト会議前日の11月21日、巨人は突然「作新学院職員・江川卓」と契約したと発表。鈴木セ・リーグ会長がこれを却下すると巨人はドラフト会議を欠席、江川投手の指名権は阪神が獲得。同投手の処遇をめぐって日本中が大騒動となった。


昭和54年夏の甲子園大会で壮絶なドラマが展開された。3回戦の箕島×星稜の試合である。箕島の石井毅、星稜の堅田外司両投手の好投で1対1のスコアで延長戦に。星稜が12回に1点をあげるとその裏、箕島は二死から嶋田宗彦捕手が同点ホームラン。星稜は16回にも1点を奪ったが、今度もその裏二死後に箕島・森川康弘外野手が同点ホームラン。そして大会規定の引き分けイニングに入った18回、箕島は2走者を置いて上野敬三内野手が左前へサヨナラ打(↑画像)して死闘に決着。


昭和54年、前年初の日本一に輝いたヤクルトの広岡監督は、チームの不振が続いたうえ森、植村コーチの処遇をめぐり球団と対立、シーズン中の8月に退団した。


同年の日本シリーズは広島と近鉄という創設当初は弱小だった球団による対決となり、3勝3敗の第7戦、広島が1点リードで迎えた9回裏、抑え投手の江夏豊が「江夏の21球」として語り継がれる巧投で無死満塁のピンチを切り抜け日本一に。


昭和57年8月、横浜球場での大洋×阪神でとんでもない事件が起きた。7回表、阪神・藤田の三塁前小飛球をファウルと判定されたことに激昂した島野コーチが一塁コーチスボックスから走ってきて鷲谷塁審に暴行、その鷲谷塁審を守ろうとした岡田主審に今度は柴田コーチが暴行、選手たちが止めに入っても暴力をやめず全治2週間の傷を負わせるという前代未聞の醜態。


四国山脈・阿讃山脈に囲まれた池田町。蔦文也監督に率いられ「山の子イレブン」にはじまった池田高は「山びこ打線」と呼ばれる猛打で高校野球に旋風を巻き起こした。水野雄仁(↑画像)は57年夏(2年生)には早実の荒木からバックスクリーン横に大アーチ、58年(3年生)春夏は投打にわたって活躍。


KKコンビこと1年生夏(昭和58年)にエースと四番打者として甲子園を制覇した桑田真澄(左)と清原和博(右)。以降5期連続出場して2年生春・夏とも準優勝、3年生春がベスト4、そして最後の夏に再び優勝。


昭和61年の最優秀選手は両リーグとも2年連続で三冠王を獲得した落合博満(ロッテ)とランディ・バース(阪神)。バースの打率.389は現在までプロ野球記録。


昭和60年こそ阪神に屈したものの、その前後の時期、西武ライオンズが工藤、秋山、清原、石毛らの活躍で黄金時代を築いた。62(1987)年の日本シリーズでは、かつてドラフト会議で指名を確信していた巨人が盟友・桑田を指名したことで屈辱を味わった清原がその巨人を倒し日本一目前というところで男泣き。 ─(画像はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史・プロ野球』『同・高校野球』より)

中産階級ハーレム⑥ ─ ゴルフ

2013-04-30 21:53:09 | 中産階級ハーレム
先ごろ日本レギュラーツアー初の「エージシュート」を達成し話題を呼んだ尾崎将司。プロ野球選手からゴルファーに転身するとめきめき頭角を現し、日本ツアー通算94勝、賞金王12回、日本メジャー大会20勝とそれぞれ歴代1位の記録を刻み「ジャンボ尾崎」の異名で黄金時代を築いた。実弟の健夫、直道もプロゴルファーとして活躍、ほか親しい選手との合同練習など「ジャンボ軍団」とも称される日本ゴルフ界のボス的存在。1970年から現在までと長いキャリアを誇るが海外ツアーにはあまり熱心でなく4大メジャー大会でトップ10入り3度にとどまる。


1922(大正11)年、英国皇太子(↑左)が来日し、当時摂政官だった昭和天皇と駒沢の「東京ゴルフ倶楽部」でコースを回られたのは、まだよく知られていなかったゴルフという競技への関心を高める出来事であった。


日本にゴルフが紹介されたのは1901(明治34)年、英国人の茶商アーサー・グルーム氏が六甲山の別荘に簡易な4ホールを作ったのが最初。やがて増設され「神戸ゴルフ倶楽部」となる、↑画像はその初期のキャディー。
資金を要するスポーツのため当初は政官財の要人に限られたが昭和初期には現役ビジネスマンも楽しむようになりプロ選手も出現、1936(昭和11)年の時点で全国に56のコースがあった(台湾・満洲含む)。


各国持ち回りで開催されていた国際大会カナダ・カップが1957(昭和32)年初めて日本で行われ、中村寅吉(↑左)が個人優勝、小野光一と組んだ団体戦でも優勝を果たす。


1967(昭和42)年秋、アーノルド・パーマー(↑右)、ゲーリー・プレーヤー(中)、ジャック・ニクラウス(左、現在の表記はニクラス)という当時の世界3強が来日して各地で模範競技会を開催、実力と紳士的な振る舞いでゴルフ人気を沸騰させた。ほかツアーでは彼らほど著名でなかったがボブ・トスキも分かりやすいレッスンで親しまれた。


1975(昭和50)年、村上隆は日本プロ・マッチプレー、日本オープン、日本プロゴルフ選手権、日本シリーズの年間グランドスラムを達成。


男子に遅れ1960年代にようやく女子もプロ化が始まったが、現在まで世界のメジャータイトルを獲得したのは先駆者の樋口久子が1977(昭和52)年の全米女子プロを制したのが男子を含め唯一(↑優勝を決めた瞬間、当時の新聞記事から)。


男子プロで海外転戦に熱心だったのが青木功。1978(昭和53)年の世界マッチプレー選手権で初優勝し海外通算7勝。中でも1980年の全米オープンで帝王ニクラスと接戦を繰り広げ2位となったのはセンセーションを巻き起こした。のちシニアでも活躍。


1985(昭和60)年は中島常幸が3度目の日本ツアー賞金王を史上初めて1億円を超す額で達成。48勝は尾崎、青木に次ぎ歴代3位。


1987(昭和62)年、岡本綾子は全米女子プロ・ツアーで4勝を挙げ賞金王に輝き総理大臣表彰を受けた。


冒頭の尾崎将司の画像は1988年、昭和最後となる日本オープンを制した時のものでこの大会では当時「AON」と称された3強=↑左から尾崎、青木、中島が優勝争いを繰り広げた。 ─(画像はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史【14】ゴルフ』より)

中産階級ハーレム⑤ ─ 野球 #2

2013-03-19 21:16:58 | 中産階級ハーレム
人気・実力で先行した六大学野球や社会人野球に対し、後れをとる形となったプロ野球も昭和25(1950)年の2リーグ制・日本シリーズ開催などで徐々に盛り上がり、常に中心であった読売ジャイアンツに大学球界のスター長嶋茂雄(昭和33)、高校球界の王貞治(昭和34)が入団、打撃タイトルを独占したり昭和40年以降9連覇の原動力となって国民的人気を獲得。


天覧試合もプロに先んじる(昭和22年)など都市対抗大会を中心に隆盛を築いた社会人野球。昭和31年の都市対抗では慶大を卒業したばかりの藤田元司投手の快投で横浜・日本石油が優勝。


ONに先立つ昭和30年代初めには巨人の三原脩が突然西に下って西鉄の監督に就任、31年から3年連続で古巣巨人を降して黄金時代を築いた。特に33年の日本シリーズは3連敗から4連勝するという逆転劇で、連投の稲尾和久は「神様、仏様、稲尾様」と讃えられた。


昭和35(1960)年夏、36年春と2季連続で甲子園大会を制し、横浜市内をパレードする法政二・柴田勲。36年夏には三たびの対決となる「怪童」尾崎行雄の浪華商に屈した。


昭和38(1963)年、南海の野村克也は捕手ながら52本塁打を放ち当時のプロ野球記録を更新。後にプレーイング・マネージャーを含め4球団で監督も務め、知将として手腕を発揮。


昭和40年代初めに当時の六大学野球記録である通算22本塁打を放った田淵幸一(法政大)。戦前~戦後にかけ高い人気を誇った六大学野球は次第にプロ野球に押されたが、この時期には法政の田淵や山本浩二、明治の星野仙一や高田繁、早稲田の谷沢健一や荒川尭らが活躍して黄金時代の再来と称された。


昭和40(1965)年秋に始まったドラフト会議の一期生として巨人入団した堀内恒夫投手、42年の対広島戦で投げてはノーヒットノーラン、打っては3ホーマー。


昭和44(1969)年10月、「プロ野球の父」正力松太郎氏の死去と前後して、暴力団と関係し八百長を行う「黒い霧事件」が発覚。多数の選手が永久追放などの処分を受けた。


昭和46(1971)年のオールスター第1戦でセ・リーグの先発・江夏豊(阪神)が9連続奪三振を記録。↑画像はパ・リーグ四番の江藤慎一(ロッテ)をうちとった瞬間。


昭和48(1973)年の高校野球は、前年夏の予選でノーヒットノーランを連発するなど「怪物」の異名をほしいままにした江川卓(作新学院)の剛腕に沸く。準決勝まで進出した選抜大会での奪三振60は今も破られていない。卒業後は法政大⇒巨人で活躍したが、ドラフト指名をめぐるゴタゴタや肩の変調などで悲運のイメージが付きまとった。


昭和49(1974)年10月、長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」の言葉を残し現役引退。 ─(画像はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史・プロ野球』『同・高校野球』『同・社会人野球』『同・大学野球』より)

中産階級ハーレム④ - スキー

2013-01-25 20:06:44 | 中産階級ハーレム
1956(昭和31)年コルチナダンペッツォにて日本の冬季五輪初となる、またアルペン競技で史上唯一でもある銀メダルを回転で獲得した猪谷千春の全盛期の滑り。コルチナ五輪の回転2回目コースの最も難しい、3冠のトニー・ザイラーだけが無難に通過できた6番ゲートを「フラッグダンサー」とも称される転倒ギリギリの体勢で通過、本人にもルールどおり通過できたか確証はなく「片足反則で5秒加算」と判定されるか気を揉ませたが無事2位となった。


1928年サンモリッツ五輪のノルディック競技に日本が初参加した頃、ジャンプの飛距離は20m台でジャンプ台もようやく固定化が始まったばかりという黎明期であったが、猪谷千春選手の父である六合雄(くにお)氏が独力で赤城山シャンツェを整備するなどの努力が実り、32年レークプラシッド五輪では安達五郎が70m級初挑戦ながら美しい前傾姿勢で2本そろえ8位となった。


今でこそワールドカップなどで世界的スキーヤーがしばしば訪日するが、昭和30年代までは非常に珍しいことで、特にコルチナ五輪3冠のザイラーと1958年世界選手権・回転に優勝したヨスル・リーダー(共にオーストリア)が米国からの帰途に日本に立ち寄ったのは人気を呼んだ。


上がスイスから輸入された昭和初期のスキー(材質はヨーロッパ・アッシュ)で下が昭和39年の国産スキー(材質はグラスファイバー)。国内メーカーの技術は長足の進歩を示した。


用具の普及や各地のスキー場に便利なリフトが整備されたことから昭和30年代にスキー人口が急増、全国各地のゲレンデは大盛況となった。


当時のスキー雑誌や用具の広告。


1972(昭和47)年の冬季五輪開催地は「3度目の正直」で札幌に決定。2月3日から11日間にわたって挙行された。↑画像は開会宣言をする昭和天皇。


既にノルディック世界選手権では1966年に藤沢隆が90m級2位、70年にも笠谷幸生が70m級2位と「日の丸飛行隊」は進境を示してきたが、地元開催のオリンピックで70m級ジャンプの1位・笠谷幸生、2位・金野昭次、3位・青地清二と表彰台独占したことは日本中を興奮に包んだ。


宮の森70m台での笠谷の金メダルへのジャンプ。


報道陣、関係者、そして大観衆に囲まれたメダリスト3人。


その後の日本ジャンプ陣は80年代末までやや不振が続いたが、1980(昭和55)年レークプラシッド五輪では70m級で八木弘和が2位(↑)、秋元正博が4位と気を吐いた。


アルペンも猪谷の後は海和俊宏や児玉修がW杯で下位入賞するのにとどまっていたが、1988(昭和63)年3月のW杯・男子回転第7戦(ノルウェー・オプダル)では岡部哲也が前季のサラエボでマークした4位をさらに上回る2位に食い込んだ。 ─(写真はすべてベースボール・マガジン社『激動の昭和スポーツ史17・スキー』より)

中産階級ハーレム③ ─ 水泳

2012-12-03 21:28:31 | 中産階級ハーレム
敗戦に打ちひしがれていた国民に希望を与えたヒーロー「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進。1948年のロンドン五輪に参加を許されなかった日本であったが同じころ古橋は自由形長距離で次々と世界新記録を樹立、49(昭和24)年8月の全米選手権に招待されると橋爪四郎と共に世界記録で1、2位を占めた。しかし52年のヘルシンキ五輪では盛りを過ぎており無冠に終わる。


1928(昭和3)年のアムステルダム五輪、わが国に初の金メダルをもたらした陸上・三段跳の織田幹雄に続いたのは水泳・200m平泳ぎの鶴田義行であった。↑写真は2位のラーデマッヘル(独、↑右)と。鶴田は32年のロサンジェルス五輪でも同種目を連覇、同五輪の水泳で男子6種目中5種目を制した日本は一躍水泳王国となる。


1936(昭和11)年のベルリン五輪でも勢いは止まらず、男子の800mリレーなど3種目に加え女子200m平泳ぎでも前畑秀子がゲネンガー(独、↑左)との激戦を制した。


“水泳のメッカ”神宮プールで行われた日立明三大学対抗戦。古橋や橋爪(共に日大)の快泳を期待する観客で同プールは超満員に沸いた。


1956(昭和31)年のメルボルン五輪、古川勝が潜水泳法で男子200m平泳ぎを制したが、その後潜水は禁止された。


昭和30年代のエース、自由形の山中毅。メルボルン五輪では400m・1500mでローズ(オーストラリア、↑左)に次ぎ2位、1960年のローマ五輪でも400m2位、1500m4位と活躍。


1964(昭和39)年、地元開催で期待を集めた東京五輪、水泳は男子800mリレーの銅メダル1個に終わり、大学が強化の中心となっていた体制を見直そうとアメリカのような民間のスイミングクラブが各地に作られることに。


1966(昭和41)年のバンコク・アジア大会、自由形とリレーで4冠の木原美知子。高校1年で東京五輪代表に選ばれ、競技外でもモデル、タレントとしてや自身の愛称を冠したミミスイミングクラブを創立するなど活躍。


1972(昭和47)年のミュンヘン五輪、男子100m平泳ぎで優勝した田口信教。女子でも100mバタフライを青木まゆみが制した。共に世界新記録。


モスクワ五輪には日本が不参加のため小学生で“幻の代表”となった女子平泳ぎの長崎宏子は1984(昭和59)年のロス五輪でも期待を集めたが200m4位、100m6位にとどまった。この大会では水泳の代表選手数名が選手村で大麻を吸っていた不祥事も発覚。 ─(写真はすべて『激動の昭和スポーツ史18・スイミング』より)

中産階級ハーレム② - テニス

2012-09-17 21:49:56 | 中産階級ハーレム
日本テニス界の伝説的な名選手、佐藤次郎。早大在学中に日本ランキング1位となり、1930年代前半に4大大会のうち全米を除く3つの大会で5度準決勝に進出した。32(昭和7)年のウィンブルドン選手権では準々決勝で前年覇者のウッド(米)を破りベスト4、翌33年にも全仏・ウィンブルドンでベスト4となり、ウィンブルドンではダブルスでも決勝進出。その年に世界3位にランクされたものの、翌34(昭和9)年、遠征からの帰途に船上から謎の投身自殺を遂げた。


オリンピックで全競技を通じて日本に初のメダルをもたらしたのは、1920(大正9)年アントワープ大会で熊谷一弥がシングルス、ダブルスとも2位となったテニスである。
世界最古のウィンブルドン大会が始まって2年目の1878(明治11)には日本に伝わったとされるが、輸入品の用具が高価なため、当初はもっぱらゴムボールで代用した軟式テニスが普及した。のち慶大の熊谷選手らが海外での対戦を通じて軟式で培った技術が硬式でも通用すると証明し、日本庭球協会の設立や全日本選手権大会の開催(共に1922、大正11年)へと発展した。


戦後の昭和期、日本テニス界をリードしたのが加茂公成と宮城淳で、この2人はペアとして1955(昭和30)年の全米選手権ダブルスに優勝した。日本人同士のペアによる4大大会優勝は現在まで唯一。


今上天皇は皇太子時代の1947(昭和22)年頃からテニスをたしなまれ、トーナメント大会にも出場されるほどで、民間人の正田美智子さん(現・皇后)と昭和34年ご成婚にいたったのもテニスコートで知り合ったのがきっかけ。


国別対抗戦デビスカップは予選ゾーンとして当初アメリカンゾーンと欧州ゾーンの2つしかなく、アメリカンゾーンに出場していた日本の提唱で東洋ゾーンが設けられたものの、そこでもフィリピンとインドが大きな壁となり、特にインドのラマナサン・クリシュナンは日本勢に対し13勝1敗と立ちはだかった(手前、向こう側は日本の宮城淳、1963年)。


1968年から4大大会がオープン化され、世界から大きく水をあけられていた日本勢の中にあって、沢松和子は1975(昭和50)年のウィンブルドンでアン清村(米)と組んだダブルスで優勝するなどトッププレーヤーと互角に渡り合った。おそらく『エースをねらえ!』の主人公・岡ひろみの原型でしょうが、自宅にコートを持つテニス一家ってところはお蝶夫人。


沢松和子が岡ひろみとすれば、さしずめこの2人=坂井利郎(左)と神和住純が「藤堂 or 尾崎」といったところか。1972年のデ杯東洋ゾーン決勝で、ペアとしてオーストラリアから唯一の白星をあげた。


萩尾望都さんのマンガ「マリーン」(原作:今里孝子、1977)より。上流階級のたしなみとして厳格なアマチュアリズムを守ってきたテニス界が、やがて実力ではるかにまさるプロに4大大会も門戸を開かざるをえなくなる背景を感じさせ─っていうより、このディデットっていう金持ちの高飛車女がえろいな。


皇太子ご成婚の頃は高額な会員制のテニスクラブが主で、ブームが大きく広まることはなかったが、70年代に入ると全国各地で雨後の筍のようにテニスコートが作られ、やがて大学生の合コン目的サークルの活動の場にもなっていったのである。 ─(マンガ以外の画像は『激動の昭和スポーツ史8・テニス』『写真と記録で見る近代オリンピックと日本』より)

中産階級ハーレム① ─ 野球 #1

2012-08-27 21:46:33 | 中産階級ハーレム
大正4(1915)年に大阪朝日新聞の主催で開催されることになった全国中等学校野球大会は、年々予選参加校が増えて人気を呼び、鳴尾運動場で行われた第9回大会(大正12年)準々決勝では観客がグラウンドにあふれ出して試合続行が困難になる事態となったことなどから、阪神電鉄が所有する西宮市の土地に大正13(1924)年に建設された、約6万人収容の甲子園球場に舞台を移すことになった。こうした野球熱の高まりにつれ、もう1つ全国的な大会の新設を望む声も増し、同年から大阪毎日新聞が主催する全国選抜中等学校野球大会(いわゆるセンバツ)もスタート。


大正3(1914)年に早慶明による三大学リーグ戦が発足、以降順次大学が増え、応援団の問題で早慶だけは対戦なしという変則リーグ戦が組まれるなど曲折の末、大正14(1925)年に東大も加盟して東京六大学リーグが結成された。さらに翌大正15(1926)年秋には六大学関係者が神宮奉讃会にはたらきかけ建設された3万3千人収容の神宮球場に舞台を移すことになった。↑画像はその開場式の模様。


早大の人気選手から東京日日新聞(現毎日新聞)記者となった橋戸頑鉄氏らの奔走で、中学・大学を卒業した野球選手たちが集う各地のクラブ・チーム、実業団チーム、鉄道局チームによる全国大会として都市対抗野球大会が昭和2(1927)年から開催され、第1回は大連満鉄倶楽部が優勝を飾った。


当初「満員になるのに10年はかかる」といわれた甲子園での中等学校野球が大観衆でふくれあがるのに時間はかからず、中京商、松山商、明石中の「3強」が激突した昭和7(1932)年の夏の大会は連日超満員、スタンドの頂上からも観衆がはみ出し、危険な状態に。


日本の野球は近代国家となった明治初年にもたらされ、大正から昭和のはじめにかけ人気スポーツとして異常といっていいほどの発達を遂げたが、中心は当時の中等学校野球と東京六大学リーグで、大正期に日本運動協会というプロチームが生まれたが発展を見ずに終わった。また昭和7年、文部省の「野球統制令」により学生野球も大きな制約を受けることになった。その中にはプロチームとの試合禁止もあり、正力松太郎の読売新聞が昭和6年、9年の2度にわたって米大リーグ・チームを招いた際、相手となる日本チームは9年には学生抜きの社会人選手で構成され、中学生の沢村栄治やスタルヒンは野球部を退部して参加した。ベーブ・ルース(↑画像の先頭から2人目)やルー・ゲーリッグを擁する大リーグ選抜は17戦全勝と強さを示したものの、沢村が9三振を奪いゲーリッグのホームランによる1点に抑えた試合など注目を集め、この時の日本チームを母体として大日本東京野球倶楽部、後の読売ジャイアンツが生まれ、プロ野球は2度目のチャレンジで実ることに。


米中との大戦を遂行する軍部から「野球は敵性スポーツ」との声が日々強まり、昭和18(1943)年春、文部省は東京六大学野球連盟に対しリーグ戦の中止と連盟の解散を通達した。秋には文科系学生の徴兵延期も中止され、10月16日、早稲田の戸塚球場で出陣学徒壮行早慶戦が行われた。試合後、両校の選手・応援団が「海ゆかば」を合唱、12月1日には全国の学徒が兵役に就いた。


■中産階級ハーレム (JAGATARA, 詞・曲:江戸アケミ)
中産階級ってのもお安くないぜ
一度なったらやめられねえ
スコッチ・ウイスキー、
ファミコン・ソフト、週に一度のゴルフ場通い
できた女房にはげまされ カラオケ・パブでは人気者
満員電車にゆりゆられ 行きつく先は老人ホーム
たった一人の箱入り娘は 情報誌片手にロック狂い
アダルト・ビデオに胸ときめかせ 不倫さわぎもおつなもの
夏には夏で有給休暇 家族そろって海外旅行
にっこり笑ってシャッター押せば 楽しい思い出わいてくる
受験戦争と高度成長に乗り遅れた者は使い捨ての百円ライター
管理社会の落し子たちは 今日もディスコで踊りあかす
さしせまるエネルギー危機には 一億火の玉原子力
でも中産階級ってのはおかまいなしだぜ 今の日本を支えてる
中産階級ってのは最高だぜ 一度なったらやめられねえ
中産階級ってのは最高だぜ 努力しだいであんたもなれる
中産階級ってのは最高だぜ アンタもなってみろよ
中産階級ってのは、
中産階級ってのは、
中産階級ってのは ホントにいるのかい、
ホントにいるのかい?
中産階級ハーレム、
中産階級ハーレム、
中産階級ハーレム…………
ヤツは肥えた──!
ヤツは超えた!…………
頭そうじするんだ…………
だいじょうぶマイフレンド



昭和22(1947)年8月2日、昭和天皇と皇后が後楽園球場で行われた都市対抗野球をご観戦になり、グラウンドにもお立ちになった。プロ野球の天覧試合より12年早く、戦争期の天皇の位置づけを思えば驚くべきことといえよう。 ─(写真はすべてベースボール・マガジン社刊『激動の昭和スポーツ史』の「プロ野球・上」「高校野球・上」「社会人野球」「大学野球」より)